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『舞踏会へ向かう三人の農夫』 リチャード・パワーズ

ぬかるんだ田舎道に佇む三人の男。
二人は明らかに若く、一人は年齢不詳。
揃いのスーツと帽子姿の三人は、めかし込んでどこかへ向かう途中のようだ。

表紙の写真は、写真家アウグスト・ザンダーによるもの。
本書は、この一枚の写真を巡って想像力を羽ばたかせた、歴史の流れの物語である。

3つの物語が並行して交互に語られながら進行する。「めぐりあう時間たち」の構造だ。
簡単にキャプションをつけるならば、

A:デトロイト美術館で目にした三人の農夫の写真が忘れられず、写真についての手掛かりを追い求める男の話

B:職場から見下ろしたパレードで見つけた赤毛の女性が忘れられず、その謎の女性を追い求める雑誌編集者の話

C:写真の中の三人の農夫(アドルフ、ペーター、フーベルト)の、第一次大戦へと突入していくドイツでの物語

といったところ。

この、それぞれ無関係に見える3つの世界が、徐々に、少しずつ、繋がっていく。
現代の主人公たちの、写真への執着と謎の女性探しに、女優サラ・ベルナール、自動車王フォードが絡まり、第一次大戦中の大胆な身代わり劇へと、大きなうねりでつながっていく展開は、洒落た手腕の家族史ミステリーである。

だが本書の魅力はそのストーリーに留まらない。
二段組400ページ超にずっしりと詰め込まれた思索こそが、本書の核であり読みどころではないだろうか。

それぞれ独自のリズムと世界観を持つ3つの物語パートのうち、パレードの女性を追う男の物語は、最も読みやすく、軽妙なブラックユーモアに満ちた世界だ。
「挑発的な、オレンジジュース的表情」
「八月のトウモロコシにも似た従順な諦念」
「飛行機ってのは昔からどうもさ、何て言うかな、仮説っぽい気がして。」
というようなわくわくする言い回しも満載である。
スノッブな教養とアメリカ的ウィットに満ち満ちたこのパートが魅力的に訳し切られているのは、アメリカ文学の翻訳では右に出る者がない、翻訳者の柴田氏の力量あってこそであろう。
史実や、原文の英語表現に関する訳注解説も豊富で、勉強にもなる。
“I won’t make any passes”の英語的なセリフの妙など、訳注が文章を味わう楽しさを増してくれて嬉しい。

農夫三人の物語は、20世紀のヨーロッパ史無名市民フォーカス版である。
ふざけ好きのいたずらっ子ペーター、素直な田舎者アドルフ、社会主義かぶれフーベルト。素朴で世間知らずな若者たちが、歴史の流れに翻弄されていく様子を通して、人間の歴史の不条理や個人の無力さが、俯瞰性を持ったからりとした口調で語られる。
若く素朴な魂が巨大な歴史の波の中でいかに無力に翻弄されるか。語り口の軽妙さにもかかわらず、彼らの運命にはびっくりするほど心を揺さぶられる。
このパートは、本当に何度も、表紙の写真を眺めながら読んだ。

写真を追う男のパートは、この本の柱となる骨子部分であろう。
物語進行そのものよりも、著者自信の思想と思われる歴史考、人間考的論説が占める割合が大きく、社会、歴史、写真に関する研究と緻密な思考がこれでもかと展開される。
じっくり読み込んでしまうと主軸のストーリーを忘れてしまうほどだ。

どのパートでも、読む人それぞれに、はっと気付かされる一文や脳に沁みる格言を見つけることだろう。
また、それこそ心を捉える力を持つ写真のように、隅々まで美しく心に響く場面がいくつかある。
それらの場面に立ち会うことを求めて、私はまたいつかこの分厚い本を開くだろうと思う。

言及される実際の出来事や人物などについて詳しく知りたくなり、派生的にネット検索などしてしまう事態も多発である。
そんなこんなでスラスラと進む読書にはならない。一人時間にじっくり腰を据えて読み進めるべき一冊だ。

3つの小説を章ごとに切って、A、B、C、A、B、C・・・と順番に繋げ直したような体裁だが、2回目に読むならば目次でA、B、Cそれぞれをマークで分けて、各小説をまとめて読んでもまた違った見え方になって面白いかもしれないと思った。
(このような本が嫌いでなければ、西崎憲の「世界の果ての庭」も、とても独特でおすすめだ。)