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『ささやかだけれど、役に立つこと』 レイモンド・カーヴァー

カーヴァーの作品は端正だ。
真昼の陽光が全ての像をくっきりと照らし出すように、彼の乾いた筆致は、名もなき人々の人生のそこはかとないおかしみや哀しみ、また悪夢をも描き出す。
その端正さゆえに、それが悪夢である時、彼の作品は衝撃的に残酷なものになる。
突然運命に牙をむかれ、なすすべもなく打ち砕かれる主人公たちは、同じくなすすべもなくそれを目撃するしかない読者の心に、衝撃的に焼き付くのである。

それぞれに印象的なカーヴァーの短編から、一編を紹介する。

アン・ワイスは33歳の一児の母。
その日は息子の誕生日であり、彼女はパン屋で誕生日ケーキを注文する。パン屋のつっけんどんな態度に彼女は不快感を抱く。
ごく普通の主婦のごく普通の日常の一コマ。
しかし彼女の日常の平穏は、その日息子が車にはねられ昏睡状態におちいることで、永遠に失われてしまう。
医者や夫との会話から、不安に押しつぶされそうな彼女の心が痛々しく伝わってくる。
不幸と苦しみの中、彼女は誕生日ケーキのことなど全く忘れているのだが、ふと突然思い出す。
夜中のパン屋での場面は涙を誘う美しさだ。

この作品、まずプロットが完璧である。
てらいのない時系列の語りの中に見事に配置された物語の起伏と、ビビッドな心理描写で、読みはじめからラストまで、読者の心を掴み続ける。
そして心理描写も素晴らしい。
会話情景からアンや夫の心の状態が生々しく伝わり、胸が苦しくなるほどだ。
また、挿入されるパン屋からの電話のエピソードはシニカルなユーモアを、病院でアンが出会う別の家族の情景は深い彩りを添え、作品の輪郭を完成させている。

上記のように、素晴らしいポイントはいくつもあるが、何よりもこの作品を美しく忘れがたいものにしているのは、アンを見つめる作者の眼差しの優しさである。
彼らの悲劇は読んだ者の胸に鋭いトゲを残す。
しかしまた胸に残るのは、その美しく慈愛に満ちたラストだ。

「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べてください。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」

カーヴァーは残酷な出来事をジャッジしないし救いもしない。
ひたすら見届けるという立場に徹する。
しかしその眼差しは限りなく暖かい。

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