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ずるいヤツら~新生児殺しを誘発する人々~

まえがき

妊娠は、本来誰からも祝福されるものだ。新しい命が宿り、十月十日を一緒に過ごし、ともに親子へと成長するその過程は、母親となる女性にとっても素晴らしいことである「はず」。

しかしその妊娠が、自分の人生をより困難に、時にはぶち壊す存在にしか思えなかったとしたら。
その存在が、自分や今いる家族のなかでまったくの「不要」なのだとしたら。

虐待とは少し違う、最初から要らなかった、生まれてもらっては困る命をその手で葬る母親がいる。当然彼女らは責められ、社会的、法的に責任を取らされ、世間からは鬼母、異常者、馬鹿者と罵られる羽目になる。
ただそれまでの過程を見てみれば、母親が一貫して「いらない」と思っていたというわけでもないケースが多々見受けられる。むしろ、そう思えなかったが故の、というものもある。それはひとえに、新生児殺しが母親「以外」の要因があってこそ、起こるものであるからだ。

自身の命を懸けて出産したわが子を手にかけざるを得なかった母親たちの陰で、神妙な表情をしながら目を泳がせている人々の存在に焦点を当ててみたい。

特徴

わが子を殺害するという事件は、悲しいことに毎月のように日本のどこかで起きている。発覚しているだけでも少なくないのに、事件性がないと判断されてしまったり、そもそも発覚していないケースも含めると相当な数にのぼる。

その虐待、子殺しには多岐にわたる原因がみられ、被害者像も加害者像もさまざまであるが、その中で、多くの共通項や、事件が起こる要因に道筋のようなものが見受けられる、そういったものがある。
それが、新生児殺しである。

たとえば虐待の挙句、死なせてしまうといったよくあるパターンにおいて、その虐待が発生する時期というのは一概に言えない。
生後2~3か月ころからということもあれば、4~5歳になったころ、というケースもあるし、当初は何の問題もなかったものが、養育者の環境の変化などで一変してしまうといったケースもあり、虐待への道筋がついていたわけではない。
最初から虐待されると決まっていたわけでもないし、家族全員に疎まれたり、その存在すら知られていないといったケースは稀である。
多くの虐待を行った親でも、誕生したときは家族で祝い、愛らしいわが子の写真を撮るなどしている。最初からではなく、生まれてからのどこかで変わったのだ。
虐待を加える人物も、実父母、実祖父母、養父母などさまざまである。

しかし、新生児殺しをみてみると、その発生時期は出産直後に集中する。新生児は生後約1か月までの赤ん坊を指すが、そのほぼすべてにおいて出産直後に行われている。
また、その赤ちゃんの存在はほとんど母親以外には知られておらず、よって、母親が産気づいたことも出産したことも誰も知らないわけで、結果として新生児殺しを行うのは母親であることがほとんどだ。

そして、一番の特徴は妊娠中から「不要」とされていることがほとんどであるということだ。

それは、当の母親が「不要」としているケースよりも、むしろ周囲の人間があからさまか否かにかかわらずそういった感情を抱いているということが多い。
ようは、周囲から歓迎されない妊娠である。
それを母親自身はそう思っていなくとも、周囲の様子や、周囲に歓迎されないということで相談もできず、一人抱え込んでしまったが故の新生児殺しに発展してしまうのだ。
もちろん、母親の思い込みもあろうが、それについても母親にそう思い込ませるだけの理由というものがやはり見受けられる。

以下、子どもの虹情報研修センター(川崎二三彦センター長)が発表した新生児殺しについての二つの研修資料(平成22年度、平成29年度)をもとに、新生児殺しについて考察してみたい。

時代別に考える新生児殺しのかたち
江戸時代から昭和初期にかけて

遡れば昔から、貧しい農村を中心にいわゆる「間引き」という新生児殺しが行われてきた。因習、宗教的な観点から「子返し」などとよばれることもあった。
安全な中絶手術が確立されていなかった時代、春を鬻(ひさ)ぐ女性たちの間では、妊娠したら客が取れないことから「鬼灯の芯(根っこ)」を差し込んで流産を引き起こすといった荒い手段が用いられたり、生まれたばかりの赤ん坊を母親が強く乳房に押し付けて窒息死させるといった悲しい方法も用いられた。
五社英雄監督の「吉原炎上」でも、名取裕子扮する花魁・若汐(紫太夫)が鬼灯の芯を差し込むシーンがある。
(実際には鬼灯に含まれる成分ヒストニンが流産を引き起こす性質を持っており、煎じて飲んだりしていたといわれる。)

また、明治にはいってからも出産は自宅で行われることが多かったため、産婆による間引きも相変わらず行われていた。
産婆が無言で赤子の首をひねる、なんていうのは嘘ではない。そういった時代はあったのだ。そうしなければ、一家が食べて行かれなくなるという厳しい背景があった。
また、圧倒的に女児が葬り去られることのほうが多かったという。これも、一般人レベルでの家督存続など今では価値もないようなことが、この時代は重く考えられていたことによるものだろう。

歴史において、こういった間引きは禁止されていたとしても罰則がなかったことから、新生児殺しは間引きとして他の子殺しとは一線を画していた。生後間もなければ間もないほど、その命を奪うということは重く考えられていなかった面もある。
明治41年になってようやく、堕胎罪が設けられ(厳密には明治13年の旧刑法でも定められた)、それが現行法となっている。

大正昭和初期までを見てみると間引きが主流だったのに対し、昭和に入ると、新生児殺しに変化がみられる。
雇い主と女中、奉公人、または出征した夫の父親(舅)との不適切な関係(ほとんどは立場を利用した男性側の無理強い)などでの妊娠も増え、結果として新生児殺しに至ってしまうというケースが増えてくる。
興味深いこととして、この時代の「身分の違いにおける死産率」の統計があるのだが、非嫡出子は、嫡出子、庶子(婚外ではあるが父親が認知している子)の倍の確率で死産となっているのだ。怖い。完全に誰かなんかやったやろこれ。(出典:鈴木由利子 「間引きと嬰児殺し―明治以降の事例をてがかりに」)
この時代では、いくらその程度が軽かろうとも、見た目に障害を持って生まれた子(たとえば手指の欠損、口唇裂など)をとっさに殺害してしまうといったことも少なくなかった。


戦後、子供の数は増え、ベビーブームなどもあったことで一見すると新生児殺しはなりを潜めたかにも思えた。
しかし、実際には1950年代から1970年代初頭にかけても、新生児殺しは延々と続いていた。

コインロッカーベイビーズ

高度成長期を経て、時代は皆少しずつ豊かになっていた。と同時に、それまでのような間引きという意味での新生児殺しではなく、生死にかかわらず「遺棄する」というものが増えた。
また、それまでの新生児遺棄というのは、少なくとも産院や寺、お金持ちの家の軒先や人目に付きやすい場所に、それこそ親の精いっぱいの愛情である毛布やおくるみ、粉ミルクなどとともに「命を救う」前提でなされるものが多かった。が、同時にそれは親の存在が明るみに出る、特定されることも多かった。

しかし1970年代頃には、様々なサービスの無人化が進み、女性も自由に振舞い、若い人々の意識も大きく変わったころである。男女の出会いも親の紹介や職場以外に、ナンパや時にはレイプまがいの行きずりの行為も増えた。
しかし、日本人特有の「恥」という概念は根強く残っており、家族に妊娠を知られたくない未婚女性や、たとえ医者にであっても望まぬ妊娠をしたことを知られたくない、未婚で妊娠、ましてや出産など、死にも値するほど恥ずかしいこと、そういった考えを持つ人も少なくなかった。
中絶を行う医院はどことなく陰惨なイメージがつきまとい、そこで勤務する医師や看護師からも、冷たい視線を向けられるなどとにかく中絶という行為は犯罪に等しかった。
核家族化が急速に進み、父親不在、前時代の凝り固まった母親、そういった家庭で悩みも打ち明けられず、結果遺棄するしかないといったときに、駅に登場したコインロッカーはもってこいの存在だった。

1970年代には、71年に初めて渋谷のコインロッカーで乳児の遺体が見つかって以降、年に数件の頻度で起きていた。それが、1973年には50件近いコインロッカーへの新生児、乳児の遺棄が行われている。
この時代、子供の事件にとどまらず、社会的な問題はすべて母親に由来する、そういった偏見がまかり通っていたこともあり、戦後の自己中心的な考えで育った母親の身勝手な行為だと受け止められていた。

ただ、この年代がそれまでに比べて新生児殺しが多かったのかというと全くそうではない。しかし、社会情勢や経済の向上など、もはや過去の間引きに見られるような新生児殺しの必要性がない時代において、新生児殺し、新生児遺棄というのは母性喪失、そういった視点で語られるようになったのだ。

家庭内、校内暴力から10代の母へ

社会的な問題、病理として問題視された1970年代の新生児殺し、遺棄は、1980年代に入るといったん世間の注目から離れる。
というのも、校内、家庭内における荒れる10代の事件が続発し、そちらに注目が移ったのだ。
ただ、10代の妊娠や未婚での出産などがある一定の層で「認知」され始め、それまでは恥だった10代の妊娠出産がいわば「もてはやされる」「憧れとなる」ケースが出てきた。
時代はヤンキー全盛、若い世代においてヤンキーと呼ばれる昭和の不良はカーストの上位に君臨する。裕福な家庭で育っても不良はいたし、ちゃんと学校(高校)に行く不良というのが多かった。1980年代の少女漫画「ホットロード」は、ある意味10代の少女の教科書であり、あこがれだった。
そこには不良少年少女同士の恋愛ではなく、必ずまじめな優等生と不良少年の組み合わせが出てきた。およそ不良とは呼べないような少女たちも、どこかそういった世界にあこがれを抱いていたのだ。

そんな彼らの中で、若くして妊娠する、というのはある種のステータスでもあった。

大正から昭和にかけての「15でねえやは嫁に行き」的なことではなく、法律で認められる16歳~18歳、とにかくこの10代での妊娠はこの時代多かったし、1970年代と違ってそれを望み、若くして母になることに喜びを見出す人も少なくなかった。
若い母親は同世代の少女たちには格段に大人に見えたし、なにより、愛する人の子を産む、ある種ロマンチックでさえあったのだ。
もちろん、産むことができない少女もいたが、その場合は友人らによる「中絶カンパ」が回ってくるのだ。このころは皆がわがことのように思っていたのか、今の時代よりも友達には話せる、そんな空気感があった。

このころ、10代の若い母親よりも、むしろこの時代でいう「中年層」、30代から40代にかけての主婦たちが新生児殺しを行っていた。
しかも、すでに上に兄姉がいて子育てをしている立場の「母親」による第2子以降の新生児殺しである。
さらに特筆すべきは、それを一度ならず2度3度、なかには5人以上の新生児を殺しているケースもいくつも見られるのだ。
時代はバブル真っただ中、日本中が中流と呼ばれ、程度の差はあれども夫を持つ主婦がまるで明治時代の貧しい農村のような生活をしているとも思えないが、彼女らが行ったそれはまさしく「間引き」であった。

相対的貧困という概念

現代においても、この相対的貧困という言葉は子供の福祉をめぐってしばしば取り上げられるが、1980年代からすでに犯罪心理学などで有名な内山絢子氏らによって重要視されていたものだ。
この相対的貧困、というのは、ある程度の生活水準を満たしたうえでの「余裕のなさ」をいい、時代によって変化する。明治~昭和初期の寒村に比べれば夢のような裕福な時代である1980年代においても、当然相対的貧困感を抱く家庭は少なくなかった。
むしろ、多くの家庭がものにあふれ、子供たちは労働力ではなく未来を担う人材として教育や娯楽などが湯水のように与えられる状況下において、そこにあと少し手が届かない、たったそれだけでも絶望的な貧困感となってその人々を打ちのめしたかもしれない。

事実、より貧困にあえいでいたはずの戦後、新生児殺しのおよそ9割は非嫡出子である。しかし、1979~80年代においては、約半数が嫡出子であり、新生児殺しにおいては絶対的な貧困の水準ではなく、時代によって変化する相対的な貧困感が関係しているといえよう。
心の豊かさよりも、物質的な豊かさが求められ、家庭にあってしかるべきもの(電化製品、車、楽器、ゲーム類)が一目でわかり、それがない家は「貧乏」とされた。
1974年生まれの私が育った田舎を思い出しても、小学校のころ、女の子のいる家にはどの家も、ほぼピアノがあった。うまい下手は別として、たいていの子はピアノが弾けた。ない家は、お母さんが働いていないか、あるいは専業農家、畜産農家であった。

田舎あるあるだが、家族で買い物に行く際、「乗用車」があるかどうかも重要だった。田舎だから軽トラや箱バンはあった。が、それでは家族でお出かけはできない。
乗用車のない家の子供は、必然的に家族でのお出かけはなく、あっても近くのスーパーだった。
私はその時代でいえば裕福なほうだったのと、弟が生まれるまで8年間ひとりっ子だったので、月に1~2度は100キロ離れた松山のいよてつそごう(現伊予鉄高島屋)へ買い物に出るのが楽しみだったし、その翌日の登校日には、真新しい、田舎の文房具屋では絶対売っていないサンリオの文房具をランドセルに入れるのがなによりのマウントだった。

兄弟が多い家はよほどの裕福な家庭でなければそうはいかなかった。子供でさえその辺のなんとなくがわかるのだから、当の親たちはひしひしと感じていただろう。
ちょっとの余裕のなさが、とてつもなく大きな差に思えた時代。そんな中で、間引きはひっそりと行われ、発覚するまでそれは繰り返された。
ただこの1980年代における新生児殺しもまた、母親だけの秘密であることがほぼすべてで、ゆえに何度もそれが繰り返される要因ともなっていた。当然、夫や同居の家族(舅、姑)の無理解がそこにあるのは言うまでもない。
これを母親の無知、無教養と断罪してしまえば話は終わりだが、ここへきてようやく、専門家や有識者の間でも「父親の無理解、無責任」という視点が出てくるようになっている。

平成の時代には、さらにその周囲の無理解、無責任が際立つ事例が目立つことになる。

生物学上の父親という存在

1990年代以降、それまでと同じように子育て中の母親による間引き、未婚の女性による新生児殺しはあったが、特筆してそれまでと変わったことの一つとして、新生児殺しに至った理由の変化がある。

それまでにおいては経済的な問題が理由として多かったのに対し、1990年から2000年代にかけては、生物学上の子の父親との関係性をあげるものが経済的な問題を上回った。
割合にすれば経済的理由が6割であるのに対し、父親との関係は8割超である。
また、被害者となった新生児は、その時点で非嫡出子の立場であるケースがほとんどで、加害者となった母親は既婚であっても夫との間の子ではないケースが増えていた。

また、2003年から2008年までの5年間に、新生児殺しを犯した女子少年(15歳から19歳)18名についての調査もあるが、保護者に相談した女子はおらず、逆にこの父親に当たる交際相手に相談したのは11人だった。
ただ残りの7人はそもそも相手と連絡が取れない(一晩の関係だったり、妊娠判明時には交際していなかったり、相手がわからない)状態であったことから、父親が判明している女子は全員が相手に相談している。
しかしその全員が、相手から優柔不断な態度を取られたり、無関心を貫かれたり、挙句、自分が父親という証拠があるのかなど冷たい態度をとられたことで一人思い悩む羽目になっていた。

中絶しなかった理由については、「産むつもりだった」り、「交際相手に先延ばしにされて時期を逃した」り、そもそも中絶の費用を捻出できない、そういった理由だった。ただこの、時期を逃したというものの中には、女子の思い込みや勘違いも含まれる。
また、交際相手に嫌われまいとする中で、強い態度に出られなかったものや、交際男性の無責任かつ無知な、たとえば「妊娠は気のせいかもしれないから様子を見たら?」などといった発言を鵜呑みにしてしまったもの、あるいは女子本人もその「希望」にすがってしまって気付いたらどうにもできないところに来ていた、そういった事例が見られた。
1970年代に見られたような、誰にも言わずにいわば母親の独断でやってしまうというものより、交際相手との関係を重視した結果のものがほとんどである。
ここでひとつ確認しておきたいのが、この生物学上の父親たちは、自分と性的関係にあった女子の妊娠を知りながら誰もが積極的にかかわることをせず、なにか知らんふりをして耳をふさいでいればすべてが消えてなくなるとでも思っていたのか、全員が全員アホである。
新生児殺しにおいて、この生物学上の父親という存在については、後半で思う存分罵りたいと思う。

このような結果について、調査を行った現・佛教大学教授で犯罪心理学が専門の近藤日出夫教授は、
「加害女子少年らが避妊や出産に関して驚くほど無知であること、親や友人に対しても本心で援助を求めることができないほど人間関係において孤立していた」
「彼女らには社会的な資源や援助の場を知り、利用するという力が欠けており、性教育や妊娠女性への支援の充実だけではすべては解決できない。本研究が示したように、嬰児殺にまで至りかねないリスクを多かれ少なかれそれぞれの女子少年が背負っていることについて、親を始めとした身近な大人たち一人ひとりが理解を深め、彼女たちに対する気遣い、配慮をきめ細かく行っていくことが最も重要である」
(以上、「女子少年による嬰児殺の研究」 犯罪社会学研究,33,157-176.)
とまとめている。

間引き型と、アノミー型

今年4月に逝去された日本保健医療大学総長の作田勉氏によると、新生児殺しにはいわゆる古来から行われてきた「間引き」型と、無法律、無規範による「アノミー」型にわけられるという。

間引き型の特徴としては、
①母親には夫がおり、圧倒的に主婦が多い
②新生児は嫡出子
③すでに子供がおり、被害にあうのは第3子以降が多い
④経済的、または家族の反対でこれ以上の養育は困難
⑤避妊に対する無知、非協力
が挙げられる。
一方のアノミー型では、
①多くは未婚、既婚者であっても不倫その他夫以外による妊娠
②非嫡出子である
③多くは初産
とされる。

また、双方を比較した場合、アノミー型では多くが有職女性で、ホステス、風俗嬢、昔でいえばウェイトレスなど、異性との出会いの多い職業が多く、年齢的にも間引き型の母親に比べるとさらに若い。
経済状況は両者とも裕福とは言えず、間引き型はさらに貧困度合いが高い。妊娠の経過については、間引き型は家族がいるため妊娠が分かってしまうケースも多いが、それらも「中絶した」「流産した」などとごまかすケースがあったが、アノミー型はほぼ、周囲に知られることはなかった。
アノミー型の場合は男性と出会って早期に妊娠しているケースが9割で、そのほとんどが出産時には男性とは別れている。

この作田氏の調査は1980年代のもので古いが、分類としては現在でも十分活用できるものと思える。
たとえば、このサイトでも取り上げた長崎の新生児遺棄事件(結果助かった)は、典型的な間引き型であるし、寝屋川市で2017年も母親の自首で発覚した6人の新生児遺体発見なども、内縁状態とはいえすべてが同じ男性の子であることから、間引き型に分類されるといえる。
一方で、公衆トイレやコインロッカーに生み捨てられたケースなどは、ほぼほぼアノミー型であろう。実際に逮捕された母親の年齢や職業を見ても、長崎、寝屋川の事件ではどちらも主婦(パート、アルバイト)で、年齢も30代から40代前半での事件であるのに対し、生み捨て型の母親は10代~20代前半だ。

もちろん、個々のケースを見れば当てはまらないものもあるし、間引きなのかアノミーなのか分類しがたい混在型もある。
混在型としては、愛媛県八幡浜市で発覚した、嬰児5遺体発見事件がそれであろう。

家族にこだわった母親

平成27年7月、愛媛県八幡浜市の古いアパートで、この家に住む無職の34歳の女が、それまでに5人の子を産んだ直後に殺害(一人は死産の可能性)し、そのまま自宅の物置に遺棄していたことが判明した。

実際に彼女が妊娠したのは存命の長男を除いて7回に上り、うち2回は流産している。
母親の名は若林映美。映美はその後裁判を経て、懲役7年の実刑判決を受けた。

映美は高校生の頃、それまで一緒に暮らしていた自分の母親が死亡したため、離れて暮らしていた父親と弟と一緒に暮らすことになった。しかし、父親との会話はほとんどなく、またいじめを受けた経験から他人を信用することができなくなっていた。
高校卒業後、妊娠を機に交際していた男性と結婚、しかし夫の家族との同居が嫌で映美は子供が生まれたころ実家へと戻り、そのまま嫁ぎ先には戻らなかった。
しばらくすると、映美の父親の勤務先が倒産し、無職となってしまう。同居していた映美の弟は、事情があってなかなか職に就けなかった。そこで、映美の夫が同居し、その夫の収入で一家の暮らしを支えることとなった。
しかし、夫が収入の全てを管理していることを快く思わなかった映美の父親が、金銭管理のことで夫と揉め、嫌気がさした夫は映美の実家を出てしまう。

普通、夫が家を出るならばそもそも居心地がいいとは言えなかったこの家を出、夫と家族3人での暮らしをと思わないものかと思うが、映美は父と弟との暮らしを選んだ。
離婚し、当初の取り決めだった月5万円の養育費は、夫の失職によって止まった。
生活保護の申請に出向いた映美だったが、市役所の応対は厳しかったという。弟の事情も深く知らないまま、この弟に働いてもらえと言われ、挙句預金通帳を見せろと言われてしまう。
それ以降、映美は他人に頼るのをやめた。

相変わらず父と弟の職は決まらぬまま、映美は大洲市内のデリヘルで勤務を始めた。
新人扱いの頃こそ、月に30万円ほどは稼げていたという映美だったが、月を追うごとに収入は減り、月収は10万円を割り込むまでになってしまう。
そこで映美がとった行動は、出会い系サイトを利用した個人的な売春だった。
八幡浜のエミ、といえば有名だったという。実は高校生の頃にも何度か、出会い系で売春した経験があった。

売春で最初に妊娠した子供は、映美なりにまっとうな手段を考え、産婦人科に中絶の予約を入れていた。しかし、思った以上に高額だったことで予約をキャンセル、そのまま妊娠は継続された。
が、のちに早産となり、あわてて自宅の階段下の物置の中で出産したが、映美によれば「明らかに生きていない状態」だったという。そのまま、赤ん坊は物置に遺棄された。
その後も売春客の子を次々に妊娠し、そのたびに映美は自宅の物置の中で出産し、そのまま遺棄し続けていた。

最終的に、映美の犯行が発覚したのは狭い街での噂だった。
映美のおなかが大きくなったり小さくなったりを繰り返しているのを見た知人や近所の人らが、もしや、と思い民生委員に通告していたのだ。
出産している風だけれど子供がいない、そんな噂が八幡浜の狭い街を駆け巡っていた。
民生委員に対し、映美は病気をしたとか、太っただけ、などとはぐらかしていたが、結局発覚した。

このケースでは、売春して妊娠した子を次々と殺して遺棄するという点ではアノミー型に思えるものの、その理由を考えてみると一概にそうも言えない面がある。
映美は夫と離婚したが、その理由は自身が幼い頃から家庭に恵まれなかったこと、母親との死別を経験したことから、「血縁」の家族という形にこだわっていた。

そして、人に頼れない、信用もできない、父と弟が働けない以上、自分が稼ぐしか、家族4人が暮らせる道はないと考え、風俗そして売春へと突き進んでいくのだ。
二人目を妊娠した際、上の子の妊娠を父に告げた時のことがよみがえった。
「父は、私の妊娠を知ると、悲しそうというか、つらそうな感じに見えました」
このことから、妊娠の事実を父に伝えることはできなかったという。

そりゃまぁどこの親でも娘が結婚もしてないのに妊娠したとか言い出したら、悲しそうな顔もするだろうよと思わなくはないが、ここで映美が言う「辛そうな父」というのは、子供の存在を喜んでいない、喜べない状況という背景を踏まえてのことなのだろう。
そして、デリヘルで客をとれなくなった映美が売春を始め、その売春でも次第にタガが外れていく。
一部の情報によれば、映美の金額は決して高くなかった。1万円以下のこともあったようだ。そこで映美は、避妊を相手の客に求めない、という「サービス」でチップをはずんでもらうようになる。
とはいっても、せいぜい数千円の上乗せでしかなかったはずで、その代償はあまりに大きすぎた。

二人目の早産は想定外だったのだろう、初めから殺して遺棄するつもりだったとは思えない。
しかし、3人目以降は「いらない子」だった。中絶するか、生むかの葛藤もなく、「前と同じようにしよう」と決めた。
裁判で弁護人が、一度妊娠してしまったのだから、もうそういうことはやめようとかは考えなかった?と聞いた際、映美はきっぱり言った。
「自分しか働いてない中で、給料がその日のうちにもらえるこの仕事をやめるわけにはいかなかった。やめれば、家族4人が一緒に暮らせない」

子供を産んで、たとえば施設に預けるとか殺す以外の手段は考えなかったか、という問いにも、
「(そういう施設があるのは)テレビとかで知ってはいたが、どこにあるのかどうすればいいのかわからなかったし、病院の前に置いてきても見つかってしまう、そうなったら家族で一緒に暮らせなくなる」
とにかく映美の行動はすべてが、「父と弟と自分と長男の4人が一緒に暮らすこと」を維持するためのことであり、そのためには避妊なしの売春は不可欠であり、その結果、妊娠した子供たちは家族にとって「いらない子」であるから、そういうことだった。

まさに間引きである。と同時に、ここまで命を危険にさらしてでも守りたかった父と弟が、映美の命懸けの「尽力」にまったく報いてないのが気にかかる。

父は裁判で、映美の仕事については「水商売か何かだと思った」と話し、映美の体の変化についても全く言及しておらず、気付かなかった、などという言葉に終始した。
父は62歳から年金受給者となっているが、それでも映美と連れ立って市内のパチンコ店にいるのを目撃されている。
この父親に、映美の献身はどう映っていたのだろうか。

映美は最後の子供を産んだ時、それまでとは違い浴室で出産している。
そしてその時のことをこう話している。

「電気がついていたので赤ちゃんの顔を見た。長男が生まれた時のように、かわいいなって思いました。」

映美はこの時、一瞬、育てることも考えたようだった。
しかしそれも、
「みんなに話さなくちゃいけないし、お金もかかるし、働けないと家族が生活できなくなるので無理だなと思いました。」

そして映美は、そのわが子の口と鼻をそっと塞いだのだった。

見て見ぬふりの夫

平成27年3月7日、那須塩原市の墓地で裸の新生児と思われる遺体が発見された。
遺体には泥が付着し、近くに掘り返したような穴があったことから、警察では誰かがここに埋めたのち、動物が掘り返したとみた。
事件から2か月後、警察は同市内に暮らす坂本美紀(仮名/当時30歳)を死体遺棄容疑で逮捕、美紀は夫とその両親、そして3人の子供と暮らす主婦だった。
遺体は美紀と夫の間にできた4番目の子供で、夫も家族も、美紀の妊娠出産には気づかなかったという。

美紀が家族に妊娠を隠していたのには理由があった。
美紀は夫の両親との同居だったが、その家計は逼迫していたという。
第一子、第二子と生まれたころまでは良かったが、第三子を妊娠したころは、ちょうど義父が退職した時期と重なり、美紀と夫は3番目の子を産むか産まないかを義両親に相談していた。
その際は、産む方向で話はまとまり、無事第三子は生まれている。
しかし、もともと体調がすぐれない義母への遠慮もあって、美紀は3人の子育てを一身に引き受け、さらには家事もほとんどを担っていた。夫は家庭内のことには無頓着だったという。

第三子が1歳を過ぎたころ、美紀は悪化する家計を少しでも助けようと、求人広告を見るなどして職探しを始めたが、その状況下で4人目の妊娠が発覚。
通常ならば、第三子の時のようにまた夫婦、家族で話し合えればよかったのだが、この時美紀にはそれができなかった。
義母は孫たちのことをかわいがってはくれていたが、孫の面倒をみるというのは「疲れる」とこぼしていた。
どうしても預ける必要があった際、義母は引き受けてはくれたが、翌日は寝込んでしまったという。食べるものも食べられないほどに疲れた様子をみせる義母に、美紀は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
さらに、近所の人が3人目を出産したときには、「あそこの家は子供ばかり産んで・・・」と、義母が話しているのを聞いていた美紀は、本当は3人目も産まないほうが良かったのかと悩み始める。
実家はもともとこの結婚には反対だったため、ハナから頼れないと思い込んでいたし、この時点で美紀は夫にすら妊娠を打ち明けていなかった。
そして、気が付けば中絶可能な時期は過ぎ去っていた。

夫は警察の当初の取り調べでは、妊娠に気付かなかったし、出産も知らなかったと話していたが、実際そんなことはなかった。
裁判では一転、妻の妊娠にはうすうす気づいていたと話した。しかし、それを妻に確認することは「あえて」しなかった。なぜなら、「妻は3回も妊娠出産の経験があるから、何かあれば自分から言うだろうと。言わないということは、問題がないと思っていた」からだという。しかも、「なんで妊娠の事実を自分に言わないのだ」と、自分だって聞きもしないくせに勝手に苛立ちまで感じていた。
さらに、夫は部屋にミルクの入った哺乳瓶を見つけ、出産したことに気が付いてもいた。
美紀は、その日ひとりで風呂場で出産していた。赤ちゃんを産湯につからせ、その愛らしい顔を写真に収めた。
裁判官から、赤ちゃんが生まれた時の気持ちを聞かれた美紀は、
「うれしかったです、ちゃんと出てきてくれたから…産声がかすれたような声だったのは気になったけれど、でもうれしかった」
と答えている。

その後、美紀は母乳やミルクを与えようとしたが、うまく飲まなかった。産後の疲労から、赤ちゃんの横で寝入ってしまった美紀が気付いた時、赤ちゃんは冷たくなっていた。
原因はわからないが、もしかしたら出産した際に口や鼻に呼吸を妨げるものが残存し、それでうまく呼吸ができなかったのかもしれない。
動転した美紀は、タオルに赤ちゃんをくるむと、自分の車で走り出した。向かった先は、婚家の墓がある寺だった。
「赤ちゃんをせめて供養したかった」

美紀は穴を掘り、墓のそばに埋めた。
その翌日、美紀はようやくその事実を夫に打ち明けた。夫は、警察に届けることも考えたというが、結局、今いる子供たちを育てなければならないと思い、また、そこら辺に埋めたのではなく墓地に埋めたということで、ある意味供養したことになるんじゃないかと思ったと話した。
生まれた子供を見た美紀は、家族に「元気な赤ちゃんが生まれました」と伝えたいと思ったという。けれど、亡くなってしまったことで、隠し続けた結果がこんな悲しい事実だということを伝えることはできなかった。

判決は、美紀のしたことは許されないとしながらも、それに至る過程には汲むべき事情があったとして、執行猶予となった。

誰にも言えない

平成26年12月、岡山市南区の文具店のゴミ箱から、女の赤ちゃんの遺体が発見された。
翌日、南区内の病院から、「赤ちゃんを産み落としたという女性が来ている」と通報があり、南区在住の保育士、島田香奈(仮名/当時25歳)が死体遺棄の疑いで逮捕された。
その後、赤ちゃんの殺害も認めたため、殺人でも再逮捕された。

香奈は、短大を卒業後、保育士として働いていた。短大の頃から、SNSや合コンなどで男性と接する機会もあったが、家庭ではそのような婚前前に男性と関係を持つということはある種「忌み嫌われて」いたことから、そういった自身の行動はひた隠しにしていた。
平成24年頃、A氏と出会う。A氏は香奈に対して「かわいいね」と優しく接し、香奈もそれまで出会った男性からそのようなことを言われたことがなかったことで舞い上がり、A氏と肉体関係を持った。
ただ、A氏はフルネームをなかなか教えてくれなかった。また、かわいいね、などとは言うものの、正式に交際してほしいとか、彼女になって、などといった具体的なことは口にせず、それを香奈のほうから聞いてもはぐらかされたという。
お察しの通り、A氏は既婚者だった。

10回ほどの肉体関係の中で、A氏が避妊をしてくれたことはなかった。当然、香奈にも最低限の知識はあったので、コンドームをつけてほしいと頼んだこともあった。
しかし、A氏がそれを受け入れることはなく、時にはそういうと不機嫌になったという。香奈は、A氏に嫌われることを恐れて、避妊してほしいと言えなくなってしまった。

ある時、生理が遅れた。その時はただ遅れただけだったが、平成25年4月を最後に、香奈に生理は来なくなった。

そのころすでにA氏との関係も以前のようなものではなくなりつつあった。香奈がA氏に連絡を取って会おうとしても、A氏は仕事や飲み会を理由にことごとく会うのを避けるようになっていた。
そんな中で、GWの初日、香奈はA氏に生理が来ないことを告げる。
それを聞いたA氏は、なんとそれ以降の香奈との連絡を絶った。香奈がどれだけ連絡をしても、A氏が応じることはなかったという。それでも香奈は、A氏と連絡さえとれれば、もしかしたら「結婚しよう」と言ってくれるかもしれないと思っていた。裁判では検察官に執拗にそのことを問われているが、たとえ本名を知らない相手でも、妊娠が分かったとたん逃げるような男でも、連絡さえつけば責任を取ってくれるかもという期待は最後まで持っていたようだった。

そんな香奈の淡い期待とは裏腹に、A氏は弁護士に対し、
「とにかく香奈ちゃんから逃げまくった。今までもめんどくさいことを女が言い出したら徹底的に逃げまくってきたし、生理が来ないというメッセージを見て、めんどくさい奴だと思って無視しました」
と答えている。どうだ、こんな男が実在するのだすごいだろう。

香奈は出産のその日まで、一度も妊娠検査薬を試したことはなかった。現実逃避をするために、合コンにも行ったというから、おそらく妊娠していないと思い込みたかったのだろう。
いつからか始まった胎動を感じるたびに、おなかを叩き、ジャンプしたり重いものを持ったり、いわゆる胎児虐待を繰り返した。生まれてほしくなかった。

その日、陣痛が始まった香奈は、風呂場に駆け込み必死の思いで声を殺して出産した。死んで生まれればいいと思っていたが、わが子は産声をあげた。
その時、実は家の中に実母が在宅であった。このまま赤ちゃんが泣いてしまうと、母親に気付かれてしまう、焦った香奈はそのままわが子の顔にシャワーを浴びせかけ、水を張った洗面器の中に顔をつけた。

母親は裁判で、「娘とは性的な話や男性との交際などの話は一度もしたことがなく、だからこそ、そんな相手がいるなどとは思わなかったし、肉体関係を持っていたとも思わなかった。」と話した。
妊娠して、香奈の体つきに変化がみえても、太ったという娘の言葉を信じて疑わなかった。この時代、そんな親がまだいることにも驚いたが、あまりに性的な話をタブー視したがゆえに、娘は25歳になってもどう対処すべきかの知恵がついていなかった。
香奈は香奈で、母親に相談したら、これまでの母親との関係が崩れ去るのではという不安から、相談することができなかった。


香奈は殺したわが子をビニール袋に入れると、母親に気付かれないように自分の寝室へ運び、翌日普通通りに保育所へ仕事に出かけた。
その際、トートバッグの中にそのビニール袋も忍ばせていた。
通勤途中にあるコンビニのゴミ箱に捨てようと思ったが、人が大勢いて無理だった。ふと、同じ敷地内の別の店舗の前に置いてあったごみ箱が目に入った。
香奈は、そのビニール袋をゴミ箱に捨てた。

交際相手の男の名前と男の素性は、裁判で初めて知った。

新生児殺しの理由

いくつかの例を取り上げたが、中絶ではなく生んでから殺害する、遺棄するというのはどういった心理なのか。
作田氏は、出産直後というのは女性も母性愛というものが希薄な時期であるため、と述べている。
特に、アノミー型の場合はそもそも初産である場合が多く、それまでの出産や子育てで経験として得る子供への愛情などは持ち合わせていなくても不思議ではない。
一方で間引き型によるものの中には、不幸にして死亡してしまったものを遺棄したケース、結果として殺害遺棄に至ったものの、写真を撮ったり、母乳を与えるなどかすかな愛情が垣間見えるものが多い。
また、「今しかない」と考えてしまうというのもあるだろう。これ以上そばに置いてしまうと決心が鈍る、そういう思いもあるのではないか。

ではなぜ、中絶しない、出来なかったのか。
これについては、単に中絶費用を捻出できなかった、中絶の意思はあったが時期を逸していた、といったもののほかに、保育士のケースに見られるような、男性側の甚だしい逃げ、無責任、または那須塩原市の遺棄事件のような夫の見て見ぬふり、疑心暗鬼、そういった態度に女性が悩み、希望にすがるうちに日数が経過してしまう、そういったものもある。

さらに、八幡浜市のケースでは、最初こそ費用と思いがけない早産からの問題であったものが、それ以降は中絶をしようと思ってすらいない節がある。
もっというと、二度と同じことをしないように、ではなく、そうなったらまた同じことをすればいい、といった開き直りというか、本人なりの解決策が見て取れる。

ただ、それらの事件に共通するのは、周囲の人間(主に家族、交際相手)の明らかな見て見ぬふりである。

よく、妊娠に気付かなかった、という家族の証言があるが、絶対嘘だ。いや、正確に言うと、妊娠を疑い、またはうすうす感づいていながら、それを本人に「あえて」確認していないのだ。
事実、那須塩原のケースでは、夫は妻の妊娠にも出産にも気付いていた。にもかかわらず、「問題があれば言ってくるだろう」と、すべてを女性側に丸投げしていたのだ。
八幡浜のケースはどうだろう。ほとんどが売春の相手であることから、そもそも妊娠の事実を生物学上の父親が知るすべはなかったわけだが、それ以前に妊娠させる可能性が高い行為をわかっていてやっているのは事実であり、ここにも女性を人間としてみていないのがありありと見て取れる。
実際、映美は公判で、「男性たちはお金を出しているのだからと、ひどいことを言ってきたり私をモノのように扱った」と話した。
もちろん、これは映美にも大きな問題がある。日銭を稼ぐためとはいえ、数千円の上乗せのために妊娠というリスクをとるのはあまりに無謀だ。
たった数千円、などというつもりはない。その数千円のために体を張る女性は他にもいるし、私は彼女たちを浅はかだ、愚かだと馬鹿にはしない。明日払う数千円が捻出できなかった経験があるからだ。幸い、私には頼れる実家があったからよかったが、そうでなかったらその日のうちに風俗の面接を受けていたかもしれない。

せめてピルを飲む、などの予防策はとるべきだったろうが、そもそもその金も映美には惜しかったのだ。もっというと、きちんと病院に行けば処方してもらえるものだという知識も、なかったのかもしれない。
そんな映美のおなかが膨らんだりしぼんだりしているのを、他人が気付くのに同居の父と弟が気付かない、そんなことがあるわけがない。

この父親と弟も、家の中の見たくないものには目をつむり、耳をふさいで生活してきたのだ。何も聞かなければ、知ることもない。気付いていても、それを口外さえしなければ、本人に確認さえしなければ、自分は何も知らなかったのと同じ、彼らは勝手にそう思い込むことで、保身を図ったのだ。
妻や娘に、なにからなにまでを背負わせて。

情報と選択肢の提供

今、緊急避妊薬(アフターピル)を薬局で自由に買えるように、との動きが起きている。
現在では、医師の処方箋のもとでないと服用が原則できない状態(アプリでの診察をうたうものもあるが、原則対面診察(オンライン、医院での診察など)が必要)で、オンライン診療可能な場合でも身分証の登録が必要なことがある。

個人輸入や通販サイトで購入する手もあるが、そもそも本物かどうかの判断は難しく、手元に届くまでには時間もかかる。緊急避妊薬は72時間以内の服用となるため、通販やオンライン診療での配達は場合によっては意味をなさない可能性も高い。

だからこそ、誰もが迅速に緊急避妊薬を薬剤師がいる薬局で購入できるようにしてほしいという声が高まっているのだ。
副作用等は現在ほとんどないとされ、医師の処方箋が必ずしも必要なものでもない。
この利用が今よりもスムーズになれば、中絶手術を受ける際の精神的、肉体的負担は軽減され、費用の面でも格段に経済的だ。
もちろん、これによる弊害もあるにはあるだろう、アホな奴はこれ幸いと避妊をしなくなるかもしれないし、性病の問題もあるかもしれない。
しかし、避妊をしてほしいのに聞き入れない相手はあなたのことを愛してなどいないということをわかるべきだし、この際そういうことも教えればいいのだ。
それよりなにより、緊急避妊薬が普及し、誰もが今よりうんと手軽に使えるようになれば、女性の意思で後からコントロールすることが可能になる。それの何が悪いのか。

岡山の保育士のケースでも、もし、緊急避妊薬が手に入る状況で、かつ、それにたどり着くための手段などを周知できていれば、彼女はこんな悲しい事件を起こさずに済んだかもしれない。
妊娠検査薬を試すにも、それは次の整理が来るか来ないかをはらはらしながら待たなければならず、しかも陽性だったらば中絶手術を受けるか産むかしかないのだ。それがどれほど精神的、肉体的にきついか、わからない人は何も難しくない、簡単なことだうだうだ言わずに黙っていればいいのだ。

他にもある。里親制度、特別養子縁組制度など、法務局でしか見かけないポスターを町中いろんなところでもっと貼ればいいのだ。
学校でもしっかりと教育として取り入れ、子供のころからそういう仕組みがあるということを教えるのだ。
避妊をしなければ1回だけでも妊娠する可能性があるということ、望まないならばSEXには慎重にならなければならないということ、もしも心配な場合は相談できる場所があるということ、緊急避妊薬というものがあるということ、そして、誰も怒ったり白い目で見たりしないよ、むしろ、話してくれてありがとう、えらかったねということも。

その時機を逸しても、中絶は悪ではないということ、育てる気で産んだけれども難しくなったらその子を待っている人に託してもいいんだということ、一人で抱え込む必要はないんだということ、たとえ手放してしまっても、あなたは手放すことでその子の命をつないだんだということ、そういったことをもっともっと情報として出していってほしい。

特別なことではなく、それもありなんだと教え、受け入れることを私たち全員がしていかなければならない。
簡単にはいかないかもしれないが、情報を出し、周知していくことは難しくないはずだ。
どんなデメリットがあろうとも、命懸けで産んだわが子をその手で殺す、そんな結末よりも全然マシなはずだ。

特に、若い女性による新生児殺しは、たとえ社会的に援助の仕組みが整っていたとしても、彼女ら自身にそれを知り、利用する力が欠けているケースが多く、支援を充実させることが解決ではない。
先の女子少年による新生児殺しの場合、18例中16例は、病院にすら行っていない。
パチンコ店のトイレに行くと、DV被害相談支援センターのステッカーが貼られていることがある。これは、誰にも相談できない女性が一人きりでそれに向き合える瞬間を提供している。
そのように、母子支援に取り組む行政や団体にはぜひ、情報や受け皿の周知に励んでもらいたい。ファストフード店、ショッピングセンターのトイレ、ゲームセンターやカラオケ店、図書館やスポーツ施設のトイレなど、いくらでも場所はある。
昔のような、一部の非行少女にだけ起こり得ることではないのだ。むしろ、そうでない少女のほうが、経験している友達がいないことからも途方に暮れることは多いし、親になど口が裂けても言えないだろう。

新生児殺しは、「殺すのではなく生かさない選択」といえる、と、宮城学院女子大学の鈴木由利子非常勤講師は述べている。これは、時代を超えて共通する意識、とも述べている。
もちろん、どんな事情があっても殺人や死体遺棄は許されるものではないが、妊娠を一身に背負わされ、産む産まないの選択すら自由にならず、女であるというだけですべての判断と責任を押し付けられた挙句に、命を削って産んだ我が子を生かさないと決めざるを得なかった彼女たちの涙の陰には、彼女らの苦しみを知っていたくせに黙って知らん顔をし続けた者たちの存在があるということを忘れてはいけない。
それが悪意であろうとなかろうと、彼らはとてつもなく無責任で、ズルかった。

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参考文献
嬰児殺が起きた「家族」に関する実質的研究
発行者 社会福祉法人横浜博萌会 子どもの虹情報研修センター 平成31年3月20日発行

平成22年度 児童の虐待死に関する文献研究
発行者 同上

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