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いいひと。PART2 ~大牟田市・4歳男児殺害事件~

その父親は、誰が見ても「いいひと」だった。
幼いころから正義感あふれ、仲間外れにされた子を率先して仲間に引き入れた。
姉とは姉弟喧嘩などしたこともないし、周囲に配慮し、いつも笑顔を絶やさない、そんな人物だったという。
友人を大切にし、大学に進んだ後も専門学校へ通いなおし、家族の意見にも耳を傾けた。
社会人になってからも、同僚からは仏様みたいに穏やかな人だと絶賛された。
真面目で温厚、結婚し子供が生まれてからもその息子をかわいがった。

しかし。

父親はその息子を殺害した。たった4歳の、プラレールに夢中だった男の子を。

父親には精神鑑定が行われた。そのうえで、平成25年10月31日、福岡地裁はこの父親に懲役6年の実刑判決を言い渡した。

夕闇の遺体

平成24年10月11日、いつものように祖母は孫が通う保育園へ迎えに出向いた。この頃、あの子は九九も言えるようになって保育士さんから驚かれた。本当に賢い子。いい子に育ってくれている……

「あれ?今日、賢浩ちゃん保育園に来てないですよ。お父さんからも連絡がなかったんです」
驚いた祖母は、とにかく息子の携帯に連絡してみた。が、出ない。
何かあったんだろうか。不安はあったが、一旦自宅に戻って家族の食事を用意した後、息子と孫が暮らす家へ向かった。

大牟田市中心部から少し北に位置する息子が暮らす家に到着すると、駐車場に車があった。
なんだ、家にいるんじゃないか。風邪でも引いてダウンしてるのかな、そんな風に考えながらドアを開けて祖母は固まった。

家の鍵は預かっていた。鍵を開け、ドアを開けたのにドアは何かに引っかかってあかない。隙間から見ると、ドアノブに紐が結び付けられていて、開けられなかったのだ。

室内に呼び掛けても、返事はなかった。なんだろう、この恐ろしいほどの静けさは。人の気配がするようで、しない。

なんとか紐を外し室内へ足を踏み入れた祖母の目にまず飛び込んだのは、暗くなり始めた廊下に、転々と続く血痕だった。

祖母は孫と息子の名を呼びながら、奥へと進む。何かがおかしい。
そして、最後に風呂場を確認した時、そこには認めたくない現実があった。
孫がうずくまっていた。その顔は、水に浸かっていた。祖母は必死に名を呼び、体を叩き、孫を起こそうとしたが、孫が反応することはなかった。
その傍らにいた息子を揺り起こした。息子は手首から血を流していたが、酒臭かった。お願い目を覚まして何があったの!
すると息子が目を開けた。

「お母さん、ごめん」
続けて息子はこうつぶやいた。
「殺してごめん」
水に顔をつけたままの孫は、そのまま息を吹き返すことはなかった。

負傷していた息子は傷の回復を待って、殺人の容疑で逮捕された。供述によれば、仕事や家庭環境に悩んでいといい、自分が死ねば子供がどうなるかわからず、殺してしまったと話していて、警察では無理心中を図ったとみた。

息子には重症のうつ病があったことが認められたものの、弁護側が主張した心神喪失は認められなかった。

それまで

父親は、石橋達浩(仮名/当時32歳)といい、息子で保育園児の賢浩ちゃん(当時4歳)と父子で生活していた。
賢浩ちゃんの母親とは事件の約2年ほど前に協議離婚していて、達浩が親権者となっていた。別れた妻は、以降賢浩ちゃんと会うことはないまま、事件が起きてしまった。

冒頭でも触れたように、達浩の人間性を悪く言う人はいなかった。幼いころから朗らかで、おそらく両親らにとっては自慢できる息子だった。
賢浩ちゃんとふたりで暮らすようになっても、出来る限り父子の時間をとっていたし、しつけも非常にきちんとしていた。そのおかげで、まだ4歳だった賢浩ちゃんは保育園でも驚かれるほど、利発な子供に成長していた。

それなのに、事件が起きてしまった。

事件の詳細を見ていくと、その原因は父子の関係性というよりも、もっと前からのこの達浩の申し分のない人間性と、それとは別の性格が深くかかわっていたことに気づく。
人に好かれ、争いごとを嫌い、自身の感情をコントロール出来ていたはずの達浩は、本当はどんな人物だったのか。

小、中、高と、特に問題もなく過ごした達浩は、大学へと進学する。そこで、同じ同好会に所属する後輩にあたる女性と交際をし始め、25歳の時に同棲、そして結婚し、二人の間に賢浩ちゃんが生まれた。
大学で何を専攻していたのかは不明だが、達浩はその大学を2年留年したうえで中退している。専攻していた学科に興味が持てなかった、というのがその理由だった。
が、大学在学中に始めた飲食店のアルバイトで調理の仕事に興味がわき、大学を中退したあとで改めて調理の専門学校へ通い始めた。こちらは卒業し、資格もとった。

しかし卒業後に進んだのは、飲食の世界ではなかった。
親戚(父親の兄弟)が経営していた建設関連の会社が後継者がいなかったことで、達浩に白羽の矢が立ったのだ。
当時はまだ現役だった伯父は、10年ほど修行させて見込みがあるかどうかの判断をし、最終的な決断をするつもりだったというが、なんでもそつなくこなし、周囲の評判もいい達浩をもっと早い段階で次期社長にさせることもできると考えるほど、達浩のその会社での姿勢は良かったという。

学生時代の交際相手と結婚し、結婚四年目には男の子にも恵まれ、次期社長としての道を歩み始めた達浩だったが、その絵にかいたような幸せな生活は、賢浩ちゃんが2歳のころに終わりを告げる。

離婚

きっかけは、妻の妊娠だった。
本来ならば喜ぶべきことであり、達浩は賢浩ちゃんに弟妹が出来ることを大変喜んだ。
が、妻は浮かない顔だった。

そして、ある日突然、「産まないから。堕ろすことにしたから」と告げられたのだ。

当然達浩は話し合いを持った。しかし妻の決心は固く、結局中絶することになった。
離婚したのはその翌年のことだった。
中絶して以降、夫婦間にはしこりが残った。それが嫌だったからか、仕事を持っていた妻の帰りは遅くなったという。帰りが遅くなった妻は、朝も起きられず、賢浩ちゃんのことは達浩がしていた。
もう一度やり直そう、そう妻に話したという達浩だったが、妻は「もういい」としか言わず、結局達浩が折れる形で離婚となった。

ただ、賢浩ちゃんの親権については、揉めることはなかった。
達浩からしてみれば、母親である妻はずいぶん前から賢浩ちゃんの世話をしておらず、そんな妻に子供を渡せば子供が死んでしまうと思ったという。
妻もそれを争うことはなく、結果、達浩が近くに住む両親の助けを得ながら父子で生活することとなった。

達浩の両親、特に母親(ここでは祖母、と表記)は孫可愛さもあって協力的だった。
保育園に達浩が送り、迎えは祖母が担った。そして、達浩の家に賢浩ちゃんと共に帰り、そこで食事の用意をし、家事などをして息子である達浩の帰りを待つという生活だった。
祖母の目から見ても、達浩は非常に子育てをしっかりとしていたという。一緒の時間を少しでも取ろうと、風呂は達浩がいれていた。
このように、母がいなくなってからも賢浩ちゃんは健全な環境で健やかに成長しており、また、他のケースではありがちな経済的なトラブルも達浩にはなかった。

そして、達浩は実家の両親に対して一緒に住もうと提案。両親も承諾し、環境の良い場所に土地を買い、そこに家を新築することにした。
工事も着工となり、達浩と賢浩ちゃん父子の生活はこれから一層充実していく、そんな状態に見えたが、達浩の様子に少しずつ変化がみられるようになっていた。

異変

達浩によればそれは事件の一か月ほど前だったという。
頭の、後頭部の辺りをぎゅっとつかまれているような、それは痛みといっていい感触だった。
理由も分からず、達浩はその症状に悩まされるようになる。寝酒の習慣があったために夜寝られない、とはならないものの、それでもうとうとすると頭の中で単語が浮かぶようになり、寝ている気がしない、そんな状態だったという。

この状況は、周囲の人、特に会社の同僚らは気づいていた。
それまでは職場でも溌溂としていたのに、気づくと達浩は一人でいることが増えていたという。同僚らが声をかけてもどこか上の空というか、聞いているのかいないのかよくわからない感じだった。
事件直前の10月9日、一緒に資材を運んでいた同僚が、達浩に「これで最後なんで、もういいですよ」と声をかけた。
ところが達浩はその後も延々と資材を運んでいたという。不審に思った同僚が再度、「もういいですよ」と声をかけたが、達浩は全然聞いていない感じだった。
そこで、何か考え事ですか、と聞いてみたが、達浩は「いや?別に何もないけど」と、どうしてそんなことを聞くのかと不思議そうな顔をしたという。

保育園の父兄らも、達浩の異変を感じていた。
もともと、人前で話すことを苦にしないタイプだった達浩は、それまでも保護者会の会長などをしており、挨拶などは慣れていた。
が、10月7日に行われた保育園の父兄会で、達浩は明らかにおかしかった。
言葉が出ない、詰まる、あげく、話の内容も聞いているほうが不審に思うほどまとまってなかったというのだ。いつもと違って、緊張しているように見えたといい、知人が声をかけた。
すると、達浩は泣きそうな顔で
「もうどうしていいかわからん」
と頭を抱えたという。

そんな達浩を見たことがなかった知人は、「とりあえず家も建つんだし、子どものこともおばあちゃんがおるんやから大丈夫。」そう声をかけたところ、徐々に落ち着きを取り戻した。

他人に弱音を吐いたのはこの時だけだったようだ。
達浩はそんな中でも仕事へは出勤していたが、事件前日の10月10日は出社したものの、いつもの他愛もない同僚らの笑い話が冗談に思えず、汗が止まらなくなったために午前10時には早退した。

とにかく何も考えずに眠りたかった。睡眠薬を飲んで、起きると夕方になっていた。
そろそろ賢浩ちゃんが帰ってくる……

その時の達浩の精神状態がどうだったのかは明らかになっていないが、その後賢浩ちゃんを連れて帰宅した祖母によれば、その時には達浩に特段変わった様子は見られなかったという。
ただ、家についた時点で達浩はすでに酒を飲んでいたようだ。が、特にそれもおかしなことではないというのは、達浩に普段から早い時間であっても帰宅後は飲酒する習慣があったためと思われる。

その後、食事を済ませまた酒を飲み始めたため、祖母は家事を終えて達浩の家を後にした。

「被告人は、何かに悩んでいたと思いますか?」
検察官の問いに、祖母は「わかりません」と答えた。

達浩は酒を飲んで寝てしまい、起きると午後10時を過ぎていた。賢浩ちゃんはすでに自分のベッドで眠っているようだったため、達浩もそのまま寝た。

そして、10月11日の朝が来る。

絶望の朝

目覚めた達浩は6時頃だった。いつもと変わらない朝だ。
しかし達浩は激しい虚脱感に包まれていて、あの後頭部を鷲掴みにされているような感覚はいつもよりも酷かった。
「完全におかしくなった」
そう思った逹浩は、会社や仕事のことは考えられなくなっていた。

これ以上おかしくなってしまうのか、そういう不安の一方で、周囲から「死ねよ」と言われているようなそんな感覚があったという。
どのくらい考えたかはわからないが、逹浩は死ぬことに決めた。

しかしどうやって死ぬのか、子供はどうするのか、そんなことまでは頭が回らなかったという。とにかく、自分は死ぬのだとそれは確実に思っていた。
ふと、賢浩ちゃんのことが浮かんだ。自分がいなくなるならば、息子は生きていけない。ならば連れていかないといけない。
逹浩は前日に購入していた焼酎をストレートで1リットルほど流し込んだという。そして、睡眠薬も飲み込んだ。残っていた量を全部。
そして、午前10時。
賢浩ちゃんの首を絞めた。

お風呂が好きだった賢浩ちゃんと、最期も一緒にお風呂に入ろうと考え、賢浩ちゃんを抱いて風呂場へ移動した。その際、自分の自殺用に包丁も持ち込んでいた。
お湯を張りながら、手首を切った。ここで不意に、母親を第一発見者にしたくない、と思ったという。
血を流しながら玄関へ行き、鍵をかけてドアノブを紐で固定した。
思いつくままに短い遺書もしたためた。準備はできた。
そして風呂場へ戻ると、賢浩ちゃんのそばでもう一度手首を切った。
逹浩の記憶は、ここで途切れた。

その後の調べで、賢浩ちゃんの死因は首を絞められたことではなく、その後、風呂場で溺れたのが原因と分かった。

根本

逮捕された後、達浩は合計9回、10時間以上の精神鑑定を受けた。
達浩のケースではほかのケースであるような、夫婦間、家族間のトラブル、経済的な事情といった、生きていくことが困難に思えるようなこれ、といった出来事はなかった。
先にも述べたとおり、むしろすべて順調だったはずだ。ただひとつ、達浩の内面を除けば。
理由は定かではないが、このような子を道連れにした無理心中の場合、母親が加害者であるときには多くが精神鑑定となるという。が、父親が加害者のケースでは、なぜか精神鑑定がなされないことの方が多いという。

そんな中で、達浩は精神鑑定が行われたレアケースだったが、それほどまでに、達浩は病んでいた。
周りにそれは見えなかったが、達浩の中には希死念慮があった。それはいったい何からくるものだったか。

裁判において、達浩が重症のうつになった要因として、仕事での人間関係が挙げられた。これについては、決定的なエピソードというものは出ていないが、10月に入ってから職場での同僚らの会話の内容が達浩には「悪口」として聞こえていた。
保育園でのあいさつがしっちゃかめっちゃかだったあの日、心配した知人に達浩はこう話していた。
「部下は俺をけなすけど、あいつら俺がどれだけ苦労して頭下げて回っとるか、わかっとらん」
会社の同僚や部下は、達浩のことを馬鹿になどしていなかった。ただ、口が悪いというか、次期社長の達浩に対しても気を遣ったような話し方をしない風潮の会社だったようだ。

事件前日、達浩が早退した日、朝から仕事が手につかなかった達浩を見て、職人らが「最近、石橋さんの頭、おかしくなってないか?ハハハ」
と笑ったのだという。
断言してもいいが、こういう類のことは、本心ではそう思っていないからこそ言えるものである。いいか悪いかは別にしても、心配しているけれどもあえて笑い話にすることで「気を遣っている」ケースもある。

ところが達浩はこの言葉に衝撃を受けてしまった。

そしてこれをきっかけに、脂汗とも冷や汗ともつかない汗が止まらなくなり、手もしびれ、まるで自分の体ではないような状態に陥ってしまった。

その後犯行に及んだあとで書いた遺書にも、「人を馬鹿にしてはいけません。馬鹿にされてしまった人は死に至ります」という文言があった。
達浩にとって、他人からたとえ冗談であってもネタにされたりいじられたりするのは「悪口を言われる」「バカにされた」になるようだった。
もちろん、悪意のあるなしに関係なく、他人を不愉快にしたり傷つける言動は許されるべきではない。が、達浩は何歳だ。社会人であり、父親であり、次期社長を期待される立場の人間である。あまりに極端で繊細過ぎないか。

幼いころから正義感にあふれ、争いを好まない性格だった。
だからこそ、他人の悪意のない言動も、許せなかったのか。

もしもそうだというなら、この達浩という人間は非常に自己中心的な人間だと言わざるを得ない。
それを知っていたのは、元妻だった。

中絶からの強制カラオケ(友人付き)

話は大学(あるいは専門学校)時代に遡る。
当時から、後に妻となる女性と交際していた達浩だったが、実は学生時代にこの女性が妊娠している。
ややこしいので妻と呼ぶが、その先、達浩からは「中絶してほしい」と言われている。
たしかに若く、達浩は学生だったために養育する能力もなかった。中絶してほしい、という気持ちはわからなくはないし、現実的な判断である。

が、妻にしてみれば中絶には納得したとしても、その痛みを負うのは女性側であり、行きずりの男でもなく達浩とは交際しているわけだ。現に後に結婚もしているのだから。
ならばせめて、その心の傷、体の痛みに寄り添ってほしいと願うのは当然の心情と言える。
達浩は幼いころから他人を思いやる人間だと親も言っていた。

しかし、この妻の中絶に達浩が寄り添うことはなかった。少なくとも、妻の認識としてそのような思いやりは感じておらず、むしろその後延々と引きずるほどのわだかまりとなっていた。

達浩は病院へ付き添うことをしないばかりか、いたわりの言葉もなく、術後の妻をなんとカラオケに連れ出したという。しかも、そこには達浩の友人の姿もあった。
一緒に泣いてくれとは言わない、しかし、この日くらいは妻のそばで静かに過ごす、そういう選択肢はあっていいはず、いや普通そうやろ。
食事に行くことはあったとしてもカラオケ……何の歌唄えばええの?Coccoでも絶唱すればええの?カウントダウンとか?けもの道とか?極悪マーチとか?ベビーベッドとか?

達浩は何を思ってこんなことをしたのか。
おそらく達浩は怯えていたのだろう、妻と二人きりになることを。妻に何を言われるか、いや、言わせないためにカラオケに連れ出した。もしもそれを咎められたら、「元気づけようとした」とでもいうつもりだったと私は決めつける。そしてその場に友人がいたのは、達浩が呼んだかどうかはどうでも良くて、何も知らない友人の前でそんな話をするはずがない、できるはずがないと踏んで、いてもらったのだ。

結局妻はとは結婚したが、この時のことを二人の間で解決できなかったようだ。

妻はこの裁判に、賢浩ちゃんの遺影と共に臨んでいた。
そして裁判には妻の供述も提出されているが、それをみれば、思いやりにあふれ他人を気遣い、争いごとを好まないという達浩の「本当の姿」が見えてくる。

離婚の理由についても、達浩は「3度目の中絶と、その後の妻の態度」だと話している。たしかにそれはそうである。
が、よくみれば、そうなった理由というものがあって、達浩は意識的にか無意識かは別として「隠している、あえて言わないようにしている」ように思える。
3度目の中絶のことは、「自分が1度目の妊娠の際に中絶を頼んでいる」ことは認めるものの、実際妻がわだかまっていたのはそれではなくて「その後の対応」である。
一つを認めることで、核心部というか、自分が触れられたくない、不利になるような部分は言わずに濁す、そういう印象を受ける。

もうひとつ面白い話として、達浩の母親の証言もある。
なぜ賢浩ちゃんが保育園に行くようになったのか、について、
「母親が仕事を始めたから」
と答えている。これも確かにそうだ。母親は酒屋でパートを始めた。しかし、そこにはどこか母親を非難するような含みが感じられる。
一方、母親の供述で見ていくと、「仕事をし始めたのは事実。仕事を始めた理由としては、達浩の給与だけではやっていかれなかったから」だった。
そしてこれを裏付けるエピソードもあった。
達浩は、金銭感覚がまぁまぁおかしかった。

「夫は計画的にお金を使うことが出来ませんでした。100万円もするベッドやテレビを勝手に購入してきて、月のローンは8万円になっていました。私はこんな高額なものを借金してまで購入することには反対でしたが、いつも押し切られました。」

達浩がどれほどの給与をもらっていたかはわかっていないが、たとえ次期社長といえども当時は一介の社員でしかなく(役員という肩書すらない)、年齢から考えてもせいぜい20万円~多くて30万円程度ではなかったか。
その中で、家賃もあればおそらく車も所有していたろうし、なにより賢浩ちゃんが大きくなるにつれて出費もかさむわけで、それを見越した貯蓄なども必要だったろう。
にもかかわらず、100万円のベッドとは。

これについての達浩の反論はこうだ。

「借金の件は事実です。ベッドについては、私が肉体労働なので睡眠の質をあげるためだった」

……ここでもベッドの話はしても、ただの娯楽品でしかないテレビについては言わないあたり、先ほど述べたように「触れられたくない部分に話が及ばないよう、別の話を出して回避する」という話法というか、そういのが身についていることが分かる。
こういうのは男性にありがちなのだろうか、長野で妻に妹を殺されたあの夫も、こんな感じだった。

認めるということ

離婚についても、妻の態度が頑なだった、自分としてはやり直そうと歩み寄ったというが、妻の話によれば「離婚を切り出されたので受けた」ということだ。
この点については、妻は自ら「呆れ、心が覚めていった」と話している。その要因に、結婚前の中絶後のカラオケ話が根深くあったのだ。そしてそれが、賢浩ちゃん誕生の時には抑えられていたものが、その後の金銭感覚なども絡んで、3人目が出来たときに「これまで何も問題がないかのようにはしゃぐ」達浩を見て、妻の気持ちは完全に冷え切ったのだった。

妻はこうも話す。

「子どもは可愛がっていたのは確か。しかし、私のことは大事にしているとは思えなかった。」

達浩は、要するに「外面のいい人間」でしかなかった。幼いころから他人の顔色を見ながら、好かれるように、いや、「いい子」だと言われることが達浩にとって喜びだったのではないか。
子どもの頃は誤魔化せても、大人になればそれを見抜く人も出てくる。いい人というメッキもはがれてくる。

そして思わぬ妊娠で本当の意味での思いやりのある人間性を持ち合わせていなかったがために、達浩は狼狽え、全力で妻以外に対する体裁を保つことを選択した。

妻の気持ちなどどうでもよく、とにかく中絶したことが「たいしたことではない」と思い込みたかった。そして一刻も早く日常に、何事もなかった日常に戻るためには、友達とのカラオケに妻を同行させ、妻にも「中絶した後カラオケに行った」という既成事実を作りたかった。
極端な言い方をすれば、レイプした後に笑顔の写真を無理やり撮って、合意の上だと言い張る、アレだ。

当然、中絶について妻の気持ち寄り添うことは、ましてや深く妻と話し合うことは、その事実を重く考えていることになってしまうから、するつもりはなかったししてはいけないことだったのだ。

大学進学も、志があったわけではなかった。だから興味がわかずに2年で辞める。その後入った調理の専門学校で資格まで取ったのに、結局行きついた先は「親戚に請われて後継者」の道だった。資格も経験もない後継者など、職人に下に見られても文句は言えない。
にもかかわらず、等身大の自分を受け入れられない達浩は、自分への「悪口」「バカにされた」としか、受け止められなかった。

どの段階においても、現実をありのままに受け止め、相手を尊重することをしてこなかった達浩は、たったこれだけで崩壊してしまった。

裁判では鑑定に当たった医師が「日常や仕事に支障をきたすレベルの重症の鬱状態」と話はしたが、裁判所から具体的な例を聞かれると、答えられなかった。
たしかに資材を延々運んだり、保育園で挨拶がうまくいかなかったり、という話はあったが、実はこのどちらも、裁判において達浩は真逆の答えを述べている。
保育園の挨拶は「うまくいった」と話しているし、資材運びの件も、「別に?」という受け止め方だった。
この乖離が物語っているという気もするが、裁判所としてはもっと具体例が欲しかったとみえ、結局、心神喪失無罪を訴えた弁護側の主張は退けられ、一定のうつの影響はあったとしながらも責任能力はあったとして、達浩は懲役6年を言い渡された。

自分をうまく見せることだけを考えて生きてきたのかもしれない。そしてそれがいつしか自分の中でもバランスがとれなくなり、隠しきれなかった部分を周囲に指摘されればされるほど、自分が追い付かなくなっていったのか。

達浩は自分自身をどういう風に見ていたのだろうか。

自分が死ぬ以上、賢浩ちゃんも生きていけない。だから……
離婚の際、妻に渡せば子供が死んでしまうと思った、と達浩は言ったが、そう思った自分が実際は殺しているわけで、自分をちゃんとわかっていれば、すでに結果が出ている裁判の場においてこんなことは口が裂けても言えないはずだ。ここにも、なんとしてでも自分に非はない、妻に問題があったのだと言いたいのだろうというのがよくわかる。

そして、自分の体裁を保つためには、そのためにはドン引きされるような行動も、とってしまう人間なのだということも。

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参考文献

読売新聞社 平成24年10月15日西部朝刊
朝日新聞社 平成24年10月15日西部夕刊、平成25年11月1日西部地方版/福岡

虐待「親子心中」―事例から考える子ども虐待死 川崎 二三彦【編著】福村出版

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