キャリア第二章への移行期間は6年!私が乗り越えた方法とは?
35歳を過ぎた頃から、キャリアの壁にぶち当たり、今41歳の私。
キャリア中期の危機、若年性中年の危機、キャリア迷子、人生の中間期の過渡期…等々、言い方は色々ありますが、最近なんだか、ようやくキャリアの第二章に移行できたかもと思えるようになりました。
そう。私の移行期間は6年間。キャリア第一章から第二章へ移行するまで6年かかったということです。
こう数字にしてみると、自分自身でも「そっか、6年もかかったのか…」と感慨深く思うとともに、これからキャリア中期の危機を迎える方、今まさに真っ只中にいらっしゃる方に、「6年もかかる結構な長期プロジェクトだったよ!」「そもそも、それはすぐに抜け出せないものなのかもよ!?」「結構長くかかるってあらかじめ分っていたら少しは楽になるかも?」とお伝えすることに何か意味があるような気持ちになりました。今回はそんな思いで、記事を書きます。
もちろん、その期間は人それぞれだと思います。私の場合の一例として、世界中のどこかにいる、どなたかの参考になればと願っています。
今だからこそ明るく振り返ることができますが、最中は正直、かなり辛かったです。やりたいことがない感じ、目指すものがない感じ、パッションがない感じ。何かに挑戦する気概はあっても、その何かにピンときていなくてエンジンがかからない感じ。ときめくものがない感じ。いい意味で大人になって、それなりに稼いで、それなりの生活をして。それなのに満たされない。そんなどよーんとした気持ちを抱えた暗黒の心持ちな日々でした。
そんななかでも、自分なりにその”何か”を探すために動き続けたことが良かったと思うので、この6年で何をしたのか振り返ってみます。
35歳ころ:「キャリア中期の危機」のはじまり
「やりたいことがない」「キャリアを変えたくても、何に変えたいのか分からない」「今以上にやりがいがあって、かつ、今のお給料水準を維持できる仕事ってあるのだろうか」「そこそこ幸せだけど、なんとなくこのままじゃいけない気がする」そんな感じで日々悶々とし、どよーんとした気持ちが続くことが増えていました。何がきっかけ、というわけではなかったと思います。気がついたら、同じような悩みをもつ同期や友人とこの答えのない悶々についてばかり話す日々になっていました。
36歳:10年以上勤めた会社を休職→退職
夫が海外駐在になり、家族で離れて暮らす選択肢が私にはなかったのと、そもそも自分のキャリアに悶々としていたので、帯同休職をとることにしました。会社の人からは、「その年でいったん現場から離れたらもう復帰は難しいと思うぞ(今思えば立派なハラスメント!)」とか「もったいない」と言われたのですが、そこに未練や心配はありませんでした。自分がそれまでにやってきたことを考えれば、何かしらの仕事はあると思えていたからです。今思えば、そもそも自分がキャリアの壁にぶち当たっていたので、藁にもすがる思いというか、逃げたいというか、この変化に乗っかれば次の自分も見えてくるかもしれない、という思いがあったようにも感じます。結果的に、この後約1年の帯同休職を経て10年以上勤めた会社を退職しました。
37歳:異業種異業界への転職。資格試験の勉強を始める。茶道と出逢う。
現地の事業会社に転職しました。もちろん、この転職活動は、第二のキャリア選択を意識した、自分探しの一環ではあったのですが、正直、パッションや「これだ!」みたいなときめきがあったというよりは、「ビザが出してもらえる」だったり、「このくらいの年収が確保できる」というよこしまな?現実目線先行のキャリアチェンジでした。結果としても、この仕事は私の第二のキャリアになりませんでしたが、逆に「これも違う」と思えたおかげで、「好きで得意なことで生きていきたい」という想いを強くしました。
自分が好きで得意なことってなんだろうと考え続け、そんななか出逢ったのが、キャリアコンサルタントの国家資格でした。無理やりの紐づけだったかもしれないけれど、自分はキャリアについては今まで相当真剣に考えてきたし、悩んできたので、この資格は私にぴったりなのではないかと直感的に思い、早速勉強を始めました。資格取得さえすればキャリア転機になるとは全く思っていませんでしたが、「とにかく、自分の興味に近しいものを片っ端から取り組んでみよう」「好きで得意なものに当てはまりそうなものは、なんでも挑戦してみよう」というスタンスで、「とりあえずやってみる」を大事にしていました。今思えば、このキャリアコンサルタントの国家資格に挑戦したことが私のキャリア第二章にとってのターニングポイントだったと思います。
また、このころから茶道のお稽古に通い始め、すっかり魅了されました。それまで「趣味は?」と聞かれても、「買い物と旅行です」としか答えられないことにある種の劣等感というか、情けなさを抱いてきた私でしたが、この年にしてようやく自分が楽しく熱中できるものに出逢うことができました。それまでも周りを見渡しても、何か一つでも熱中できるものを持っていて、そこから派生して色々なものに興味を持ったり、自分の世界を拡げていってる方たちが眩しく、羨ましくいたのですが、ようやく自分にもそういう対象ができたことに、今でも本当に嬉しく思っています。
悶々としたり、辛い気持ちはありましたが、少しずつ楽しいと思える時間が増えてきた頃で、暗闇に小さく光が差し始めた頃です。
38歳:大学院に入る
キャリアコンサルタント国家資格の勉強が楽しくて、純粋にもっと勉強したい!と思いました。それを聞いた夫が、こんなのあるよと探してきてくれたのが、INSEADのEMC (Executive Master in Change)プログラムでした。大学院に入ったのは、私のその後の人生を変える非常に大きなイベントになったと思いますし、フルタイムで働きながらパートタイムの大学院で学ぶという形は贅沢な自分探しツールの1つだったと思います。大学院に行ったおかげで「自分の興味のあることを学ぶってこんなに楽しんだ」と心底思いましたし、大人になってから友達ができることの幸せを感じました。
39歳:業務委託でコーチ業をはじめる。初めて自分の名前で稼ぐ経験をする。
夫の転勤に伴い、勤めていた事業会社を退職しました。その頃から、家族の状況や引越しの影響を受けずに、どこからでも働き続けられるキャリア形成をしようと思い始めました。ただ、思いはあっても、それが具体的にどのような仕事で、どうすればよいのか、その時には分かっていませんでした。分からないながらもとりあえず一歩を踏み出そうと、その頃にはキャリアコンサルタントの国家資格や、コーチングの資格を取り終えていたので、たまたま出逢ったコーチングの会社に応募し、選考を経てコーチ登録をさせてもらえることになりました。はじめてコーチとして報酬を得たとき、会社という看板なしで、自分の名前でお金を稼ぐという経験が初めてだったので、額面に関係なく、とても嬉しく自分を誇りに思えたことを思い出します。社会人になってから、ずっと会社に属することでしか、お金を稼ぐという方法を知らなかったので、ここでこの「自分の当たり前」を脱却する一歩を踏み出せたことが、非常に貴重な経験になりました。
とはいえ、実はこの頃は、2年目の大学院生活と、コーチングの仕事をボチボチするくらいで、胸をはって個人事業主ですと言えるマインドセットでもなく、なにげに職業無職、という状態でした。職業を書く欄があれば、無理やり「大学院生」と書いたり、「専業主婦」と書いたり。自分が何者でもないという恐怖と不安があるなか、「自分は大学院生だから」と言えることであったり、コーチ業で少しでも収入があることが心の拠り所で、ずいぶん救われました。ずっと共働きしてきた夫からすれば、私がそのような状態であることに不安もあったと思います。現に就職すれば?と言われたこともありました。それでも、「私はこれからどんな環境でも、世界中どこからでも働けるキャリアを築きたいと思っている。今はその道筋をつけるチャンスだと思っているし、今しか挑戦できないと思うので、今は就職ではなくて、個人事業主として生きる道を模索させてほしい」と言い続けていました。夫は自分に帯同してくれているという負い目もあるのかもしれませんが、渋々納得してくれているような感じでした。こうしたことからも、キャリアの転機に、パートナーの理解は非常に重要だと感じます。
さて、この頃の私のキャリア探しがどういう状態だったかというと、自分にとっての幸せの定義が見えてきた頃ではあったものの、はたしてそれをどうしたら実現することができるのか、その方法はまだ見えていない時期でした。
家族の状況や引越しに引きずられずに、どこからでも働き続けられること(どうしたらそれが叶うのかは分からないけど)
自分でスケジュールのコントロールをしたいから個人事業主になりたい(なれるか分からないけど)
コーチングの仕事はどうやら向いていそう(好きだし、どうやら得意だけど、これだけで食べていくのはまだ難しそう)
大学院で勉強している内容はやっぱり楽しい(勉強し続けたいけど、とりあえず今は修論出して卒業できるようにしないと)
大学院での勉強も、クラスメイトとの付き合いも、茶道のお稽古も、本当に心から楽しい(この楽しみを続けるだけの、時間的・経済的自由は維持せねば)等々。
このような感じで、だんだんと自分の目指したい姿、好きで得意なこと、大事にしていることが見えてきた頃です。
40歳:大学院を卒業。再度別の大学院進学を志すも不合格。
いよいよ修論執筆となり、生みの苦しみはあるものの、修論用のデータ収集として行ったインタビュー過程だけは、とても楽しいものでした。修論のトピックは、自分が心から興味のあるものを題材にしようと決めていました。今までの自分は、なんとなく世間からの評価だったり、周りからすごいと思われるようなことであったり、そういう外部からの承認を意識したような選択をしてきた人間だったのですが、この頃の私は自分の興味のあること、自分の好きなことを貫いてみよう、という意識が強くなっていました。そして、修論提出を経て、無事に卒業することができたのですが、私はこの大学院生活がよっぽど楽しかったのでしょう、卒業して暫くして、引き続き勉強したいという思いを強くしました。そこで興味をもったのが、オックスフォード大学のマインドフルネス認知療法を学ぶ修士プログラムでした。出願書類やエッセイを準備し、推薦状を書いてもらい、面接まで進むことはできたのですが、結果は不合格でした。数カ月かけて準備し、この頃の私は勉強するということに自分の居場所を見出していたので、それが叶わないとなったときには絶望を感じ、大泣きしてしまいました。それほど、その頃の私は勉強する場所が、「自分の居場所」だと思うようになっていたのだと思います。
一方、キャリアについては、この頃には自分が興味のあることが段々と明確になってきていました。ずっと心の中にはあったことを、ようやく言語化できるような状態になっていました。それは大学院のクラスメイトの影響が大きいと思います。平均年齢が44歳というクラスメイト達は、酸いも甘いも経験したビジネスプロフェッショナルたちで、彼ら彼女らも、何かしらのキャリアの転機を踏まえて大学院に学びにきている人たちでした。そんなクラスメイトが私の悩みに寄り添い、話を聴き続けてくれて、「それってこういうことなんじゃない?」「あなたの強みはこういうことなんじゃない?」と、私自身が言葉にできていないものを引っ張り出して、言語化する手伝いをし続けてくれたことが何よりの助けになりました。
41歳:博士課程への挑戦、キャリア第二章へ
修論では、自分がなぜなのか理由を知りたいと思うこと、納得のいく答えが欲しいと思うことを題材にして、自分なりに調べ、一応の形にしました。卒業できるだけの点数はもらえましたが、自分としては未消化感が残っているのと、達成感や、学びきった、理解しきったという納得感を持てていませんでした。そんなこともあり、前述のようにまた違う分野を学ぼうと思ったのですが、それが不合格となったことで、「そうか、無意識に逃げていたけど、違う分野ではなくて、大学院で学んだことと同じ分野で博士課程に挑戦してみるという道があるじゃないか」と思いました。不合格になったからこそ、出逢えた道でした。
そして、今、私は博士課程に挑戦中です。時間が足りないと思うほどに、読みたい本がたくさんあって、勉強したいと思える分野と出逢えて、苦しいと思わない勉強ってあるのかと、これは本当に贅沢な幸せなことだと思っています。パートタイムの博士課程ですので、ここからまた数年かけて楽しく学びを深めていきたいと思っています。
仕事面では、ひょんなことがきっかけで、自分が興味がある分野のお仕事の話を頂きました。そのことがきっかけで、キャリア第二章として自分が取り組みたいことはこれだ!と思える「何か」にようやく出逢えたように思えています。そしてその「何か」には、自分の「好き×得意×大事にしたい価値観」が組み込まれているように今は感じられています。これはほぼご縁のおかげなのですが、自分が興味のあることが明確になり、言語化できるようになったことで、自分自身の見せ方、アピールの仕方の方向性が見えてきたことが大きく寄与していると思っています。
自分のやりたいことが分からないと、自分のどこをハイライトしていいのか、つまり、自分のこれまでのキャリアにおいて何が財産で、何が強みなのか、なかなか分からないものです。これが私たち大人の自己分析をこじらせている要因なのかもしれません。
私たち大人には、積み上げてきたキャリアがあるからこそ、その市場価値を適切に評価する必要があるし、そもそも自分にとっては当たり前過ぎてその価値に気づかない(気づけない)ということがあるのではないでしょうか。
また、この危機をややこしくしているのにはこんな理由もあるのではないかと思っています。私たちのようにキャリア中期組までくると、誰一人同じキャリアを築いている人はいないという状況が生まれてきます。社会人になりたての頃は、同期は皆横並びでよーいドンだったはずなのに、十数年が経ち、私たちのキャリアは見事に十人十色になりました。若かりし頃、キャリア初期であれば、就活マニュアルのようにある程度の”傾向と対策”で対処できたのに、キャリア中期組には、傾向と対策、攻略マニュアルを使った対処法は通用しなくなっているのです。なぜなら、一人一人の状況も価値観もバラバラで、「型」で太刀打ちできるような類のものではなく、何が正解なのかはその人にしか分からない、という状況に変わっているからです。そんな危機の対処法、誰も教えてくれませんでした。学校でも習いませんでした。私たちは無防備のまま、いつのまにか、こんな荒野に放り出されるのです。だからこそ、この危機への対処方法が分からなくて、私たちがパニックに陥るのは当然ともいえるのです。
キャリア中期の危機に関しては、以下のような覚悟が必要です。
誰かのを真似をしても、全く解決しないこと。
他者事例を参考にしても、それはあなた用の答えではないこと。
自分で自分用の答えを導くしかないこと。
ただ、この危機を一人で乗り越える必要はありません。
周りに頼って、
内省する静かなおひとりさま時間を確保して、
時にはプロの力を借りて、
焦らず少しずつ、
自分の変化を楽しめばよいのではないでしょうか。
…これが私の6年間です。小学生だったら、入学して卒業するまでの期間です。小学生の成長スピードには叶わないけれど、自分なりにはこの6年間、よく頑張ったと思っています。キャリア理論の世界では有名なウィリアム・ブリッジス(Bridges,W.)によれば、「転機(トランジション)の始まりは何かが始まるときではなく、何かが終わるとき」とし、その「終わり」と「始まり」の間を「ニュートラルゾーン(中立圏)」と呼んでいます。私の経験を鑑みると、まさにこのニュートラルゾーンこそが、キャリア危機における悶々期だと思うのです。私にとってのキャリアの転機は、キャリア第一章が終わって、キャリア第二章が始まるまでの間の、ニュートラルゾーンが6年間だったということであり、その期間が辛かったということ。そして、その辛い時期をどう過ごしたかこそが、キャリアの転機における肝でした。
冒頭の繰り返しになりますが、この6年という期間はあくまで私の場合の一例です。人によっては、それよりもうんと短い方もいらっしゃるでしょうし、長い方もいらっしゃるでしょう。しかし、期間がどうであれ、楽にぴょいっと一瞬で乗り越えられるものではない気がしています。それに、今後キャリア第三章に差し掛かる時がくるかもしれませんし、キャリアデザインは一生続く道です。自分探しに終わりはありません。私たちはいつだって、ニュートラルゾーンで立ち往生する可能性があるのです。そんな想いで、この6年間で私がやってみたことが何かの参考になるのではないかと思い、この記事を書きました。
1年目:突入。ただ悶々とする日々。
2年目:行動変化① 休職
3年目:行動変化② 転職、資格の勉強
4年目:行動変化③ 大学院
5年目:行動変化④ 業務委託
6年目:行動変化⑤ 大学院卒業
↓ ↓
とにかく、行動あるのみ!の6年間でした。
行動といっても、それまでと同じことをし続けるのではなくて、「今までの自分」がしてこなかったこと、新しいことに挑戦した、という意味で行動変化をしてきました。
私も今だから言えることですが、十分悩んで、悶々とし尽したら、「今自分がいる”ここ”には、自分が求めている答えはない」と気づくことが重要なのではないでしょうか。
”ここ”にないなら、”どこか違うところ”に行くしかないんだと思います。今までと同じことをし続けても、そこに答えはないのだと思うのです。
エラそうなことを言ってしまっているかもしれないけれど、自分が辛かった時、どうしていいか分からなかったので、こんな一例紹介があってもよいかと思い、ここまで書いてきました。それに、自分にとっても、振り返る良い機会になりました。最後に、まとめとして、これが役立ったと思えることを書いて終わります。
キャリア中期の危機を乗り越えるためにやってよかったこと(私の場合)
自分にとっての”幸せの定義”を愚直に考え続けた(これは、え?そんなこと?と思うくらいのことかもしれません。例えば、私は、朝ゆっくり過ごす時間が一日の幸せ度に直結するなと気づけたことも大きいのです。)
好きなことだけでなく、嫌いなこと、在りたくない自分についても考えた
興味をもった資格の勉強を始めた
環境を変えた(駐在に帯同した)
私が思うキャリア中期の危機を乗り越えるために必要なリソース
無職はつらい。居場所の確保を!
自由になるお金がないのはつらい。資金源の確保を!
転職だけが全てじゃない。とりあえず辞めればいいってものじゃない!
それっぽい”におい”がしたらとりあえずやってみる。
いざというときのバックアップを確認すること。
友達って本当に尊く、ありがたい。感謝。
家族の理解。これは自分の反省と振り返り含めですが、長期戦になるかもしれないことを頭出しをしておくといいのかもしれません。また、キャリア中期の危機は、自分だけでなく、お相手にも(既に or いつか)起こるものだということを忘れないことも大事かと思います。お互いの危機に備え、”おたがいさま”の精神でお互いに協力できる体制を日ごろから意識したパートナーシップが大事な気がします。
たとえそれが最終的なゴールでなく回り道になったとしても、「これは自分には合わない、チェック済!」という感じで、これは違うという確認ができるだけで十分な収穫です!私の場合は、事業会社の経営企画部の仕事をやってみたけど、これは違うと思え、”可能性のある仕事リスト”からチェックを外せたことが大きな収穫でした。
仕事以外で熱心になれるものをみつける。私にとっては茶道との出逢いです。人生が変わったといってもいいほど、楽しいってこういうことなんだと。回りまわって、上記の”徹底的な自己分析”に役立ったと感じています。
自分の当たり前とは違う世界にいる人と出逢う。茶道で新しく出逢った方々もそうだし、起業したり、個人事業主を既に始めている友達など、自分の目指したいような道だったり、それっぽい生き方暮らし方を先行してくださっている方々と出逢って、”自分の当たり前の定義”を書き換えることが重要でした。
新しいことに挑戦するには、お金がかかるのも事実です。私の場合、大学院も、資格取得にも、面白そうかもと思う勉強会やウェビナーを片っ端から試したので、それなりにお金をつかいました。現実的なお話でした。
キャリア中期の危機を乗り越えるために役立ったスキル(私の場合)
転職活動に慣れていたこと。レジュメの使われ方、インタビューのされ方を知っていること。社会人2年目で転職をしていたり、採用の仕事に携わっていたことがあるので、転職活動の仕組み、どこがポイントになるかという全体像の理解と、マーケット目線ができていること。(正直、今までは、こういうことは当たり前だと思っていましたが、実は当たり前ではなく立派な自分の強みなのだと最近気づきました。こういうレベルのことで、自分にとっては当たり前だけど、実は強み、というものが皆さんある気がします。自分のことは案外理解できていないものです。)
常に自分の市場価値を意識してきたこと。社会人2年目、24歳で転職したとき思っていたことは、「このままだと、30歳になったときの自分の市場価値がない」ということでした。自分の市場価値、マーケットバリューを常に意識してきたからこそ、いざとなっても何かしらの仕事はあると、何か新しいことに挑戦する土台を築くことができたのだと思います。
契約書が読めること。契約書の怖さを知っていること。契約書の仕組みが解っていること。個人事業主を経験し、業務委託契約や役務提供契約を結ぶことがあって気づいたことですが、契約書というものに慣れていて、どこがポイントになるのか、どこは外してはいけないポイントなのか、どこが肝なのか、ということを瞬時に察知する能力があることは非常に重要なことだと感じました。一歩間違えれば命取りになる契約書ですが、ちゃんと使えば自分を守ってくれる鎧にもなります。企業勤めで下っ端のメンバーだった当時、契約書づくりや契約交渉から徐々に仕事を覚えていったのですが、嫌々やっていた苦手なことが、今は自分を守る立派なスキルになっていたことに気づき、「昔の自分よ、ありがとう!よく頑張って身につけておいてくれた!」と思います。人生何がどこで役立つのか分からない、とはよく言ったもので、本当にそうだと思いますし、契約書や法的な書類周りの勘所のようなものも、立派な強みになるということをお伝えしたいです。
想いが溢れすぎて、それらの想いの丈を綴っていたら、長くなってしまいました。ここまでお読みいただきありがとうございました。
「私もう暗闇から抜けたんでっ!一抜けしますっ!お先に失礼しますっ!」と言いたいわけでは全くなくて、今でも怖い気持ちはあるんです。「もしかしたら、抜けたと思ったのは束の間で、実はこれも数カ月後には違うと思ってるかもしれない」と、怖くなる気持ちもなくはないんです。
でも、40代に入り、これまでの自分の経験が、世界中のどこかにいる、どなたかの参考になれば嬉しいなと願いこのNOTEを始めて、まさに今回の記事はそんな私にとってNOTEを始めた意味の部分でもある気がするので、想いのまま書かせて頂きました。「ちょっとした知識のおすそわけ!」ができていたら嬉しいです。
”最中”の方は、焦らずに。”これからの方”は、今できる準備を。
陰ながらエールをお送りしています。
ありがとうございました。
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