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茶道はビジネスプロフェッショナルにとって最強のセルフメンテナンス・ツールであり、本当の自分を見出す場です!

私は3年前に茶道のお稽古を始めました。それから、すっっかり魅了され続けています。茶道に出逢うことができて本当に良かったと思っています。

長年、THE忙しいサラリーマン代表職であるインベストメントバンカー(IBバンカー)としてキャリアを積んできた経験から、茶道は、日々厳しい環境に身をおき、血反吐を吐きまくりのビジネスプロフェッショナルにこそおすすめしたいと感じています。私自身、茶道によって”救われた”という感覚がとても強いからです。

”花嫁修業としての茶道”と思われがちですが、茶道は”人間修行の場”です。教養やマナー云々ではなく、より良い自分になるため、自分の成長に喜びを感じることができるから、そして何より楽しいから、私は茶道の稽古を続けています。

今回は私が思う、茶道の楽しさについてお伝えしたいと思います。私がお友達に「茶道が本当に楽しいのよ~!」と言うと、「茶道の何がそんなにいいの?」とよく聞かれるのですが、今まではそれを聞かれるたびに、その時思うことをランダムに答えていました。しかし、自分でもなぜここまで自分は茶道にはまっているのか、よくよく整理しきれていないので、これを機にまとめてみたいと思います。

茶道に興味はあるけれど、なかなか一歩を踏み出せない方、
趣味がなくて困っている方、
周りで茶道を始める人が増えてきた方、
そもそも何がそんなに良いのか分からない方、等々、
ビジネスプロフェッショナル目線で茶道の魅力を語った情報はあまりないと思うので、この記事が、世界中のどこからにいらっしゃるどなたかにとって、何かしらの参考になれば幸いです。

① 自分を偽らなくてよいところ
茶道のお稽古がある日は、香水をしません。
指輪もネックレスもピアスも身に付けません。
ネイルもしません。

これが私にとっては、自分を偽らなくていい気がしてすごく好きなところです。長年サラリーマンとして、もしくは、IBバンカーとして、身なりにはすごく気を遣ってきました。どんなに忙しくても、爪の先まで抜かりなく手をかけている自分が好きでした。しかし、茶道を始めたことで、それらをしない理由を手に入れたとき、「なんてスッキリして、潔くて、楽なんだろう!」と、自分の中に大きな衝撃が走りました。
好きでやっていたことが、いつの間にか、「自分をよく見せようとしている」というか、「頑張って自分をつくっていた」というか、「自分をFakeしている」ような感覚を心のどこか創り出していたことに気づきました。茶道の稽古に通うようになって、自分を着飾らなくて良いという感覚の気持ち良さに目覚めました。アクセサリーもそうです。TPOに合わせてああしよう、こうしようと思うのではなく、潔くつけない理由を手に入れたことが心地よかったのです。結婚指輪でさえも茶道のお稽古ではつけません(もしくは、バンドエイドで覆います)。それも気持ち良かった。香水も同じです。私は香水が好きなので、つけるときは、今日はどんな気分かなぁ、とか、今日はこんな予定だからこの香りにしよう、とか、色々想いを巡らせてつけるのですが、それもつけない理由を得たことで、それも心地よかったのです。きっと私は、「自分を飾ること」や、TPOに合わせることに多少の「考え疲れ」を起こしていたのだと思います。茶道のお稽古の日は、そういう自分をお休みする日、として、私にとっては癒しになっています。癒されると、また元気になって明るい気持ちになります。「自分を着飾ったり、偽らなくてよいところ。」それが、私が茶道の稽古に通うようになって気づいた、茶道の好きなところです。

自分を偽らないことの気持ち良さに気づくと、自分のキャリアや人生への考え方が変わってきました。自分を偽らないことが気持ち良い。自分をFakeしなくていい。本当の自分は求めてないのに、社会的にはこうだから、周りからこう見られるから・見られたくないから。Authentic selfではない自分を頑張っていたことに気づき始めました。私がIBバンカーから漁師になったのも、実は、茶道のお稽古に通い始めて、自分を偽らない清々しさに気づくことができたおかげなのではないかと思っています。

② 知的好奇心を刺激されるところ
茶道を始めてから、行きたいところが増えました。
茶道を始めてから、歴史に興味が湧きました。
茶道を始めてから、字が上手くなりたいと思いました。

茶道を始める前の自分を振り返ると、社会人になってそれなりの時間が経って、色々なことに飽き始めていたように思います。それなりに旅行にも行き、その時点での行きたいところリストは制覇しつつあったのでしょう、特段行きたいところもなく、思考もマンネリ化していました。ところが、茶道と出逢って、行きたいところがわんさか出てきました。「あそこに行ってみたい、あれを経験してみたい、あれを実物で見てみたい!」と、やりたいことリストが一気に増えました。
茶道を始める前には、京都にもそれなりに行っていて、京都をそこそこ知った気になっていたのですが、とんでもない!今では、行きたいところが山ほどあって、あと何年かかるか分かりません。例えば、普通の旅行ガイドブックでは主役級として載ってないようなお寺が、お茶の世界だと超主役ということも多々ありますし、あのお寺にあるあのお茶室が見て見たいとか、お茶の歴史に出てきたことがきっかけで訪れたお寺が想定外にすごく良くてお気に入りスポットになったりもしました。お茶の大本山、大徳寺だけではなく、色々なお寺で毎月お茶会が開かれていると聞きますし、とにかく、お茶のおかげでワクワクが止まらないし、お茶のおかげで出逢えた素晴らしい世界がすごく楽しいんです。
やりたいことがあるというエネルギーは、私を動かす相当大きな原動力になっています。美術館、お寺、茶室、お茶会、お茶道具屋さん、和菓子屋さん、料理屋さん、焼き物巡り…。茶道を始めて良かったことは、「あれを見て見たい!」「あれをやってみたい!」と、新たな”欲”を得たことです。

また、茶道を始めてから、歴史に興味が湧きました。それまで中学・高校と歴史を学んだものの、そこまで興味はなかったのですが、それが、茶道を始めた途端、それまで全く考えもしなかった歴史上の人物、千利休に急にスポットライトが当たりました!笑 それまで、利休を意識したことなんて本当にありませんでしたから。…不思議なものです。今でも歴史の勉強は初心者レベルですが、それでも利休という人を軸に、その周辺の人物、周辺の歴史の知識がじわじわと少しずつ広がっていく様子が自分では嬉しいです。
加えて、茶道を始めてから、字が上手に書けるようになりたいと思いました。茶道を通して、掛軸を見るという機会を得て、色々な人の筆跡を見ていると、字はその人を映すような気がしてきました。キレイだなぁと思う字には、その人そのものが表れているように思うのです。これも人間修行ということだと思うのですが、キレイな字を書けるようになること自体ではなく、人間ができた結果、それが字ににじみ出て、キレイな字を書けるようになっていたいなと思います。とはいえ、先に形だけでもキレイな字を書けるように、ペン習字や、習字のレッスンにも行き始めました。このように、茶道を軸として、新しくなりたい自分像が生まれ、それに向かって励んでいくということ自体が楽しいです。私はずっと、一つの軸を持っていて、そこから自分の世界を広げている人に憧れていたので、自分もその軸とやっと出逢うことができて本当に嬉しいです。


③ 茶道を介さなければ会うことのなかった人と出逢えるところ
家族に、友達に、仕事仲間。人生の半分近くも生きていると、だんだんと、自分と似た人ばかりが周りに集まってきます。もちろん、それが居心地よくもあるし、長く私と仲良くしてくれる友人にはもちろん感謝なのですが、茶道を始めてから、それまでの人生の延長だけでは決してご一緒することがなかった方々と出逢うことができました。茶道のおかげで、新たなワクワクするご縁をいただいたことに最大限の喜びを感じています。大人になると新しくお友達をつくる機会も、新しい人間関係を構築する機会も、なかなかないんですよね。不思議なことに、茶道にはある種のスクリーニングのかかった、面白い素敵な方々が集まっています。仕事とも関係ない、同郷でも同窓でもない、それまでの自分とは全く関係のなかった方々が突如として、自分の人生に大きな影響を与え始めます。例えば、茶道のお仲間から「これ良かったよ」「あれ美味しかったよ」「あそこ行くべき!」というおすすめ情報をもらうことで、私のやりたいことリストが増え続けていますし、「へーそんな世界もあったのか!」と知らない世界を紹介してもらっています。茶道という共通言語があることによって、初めてお会いする方とも、話が弾むのです。例えば、「このお菓子とても美味しいのですが、どちらのでしょうか?」私は食いしん坊なので、こういうところから美味しい情報を頂いていますし、こうやって今まで知らなかった新しい世界を知るのがとても楽しいのです。知的好奇心を刺激し続けてくれる人間関係をこの年で得ることは本当に幸せだなと思います。新しい人間関係は、確実に自分の視野を広げてくれるものです。同じような人間関係にだけ安住していると、新しい世界を垣間見るチャンスはなかなか訪れません。茶道をはじめて、ますますこれからの人生が楽しみになりました。これこそ、「環境を変えると運命は変わる」という話の良い例なのではないかと思います。

環境が変わるとお付き合いする人が変わります。
お付き合いする人が変わると、自分の価値観に変化が訪れます。
価値観が変わると、行動が変わります。
行動が変わると、人生が変わります。
人生が変わると、運命が変わります。
宿命は変えることができないけれど、運命は変えることができる。

まさに、茶道を習い始めることによって、自分の環境が変わり、お付き合いする人が変わり、価値観が変わり、行動が変わり、人生が変わり、運命が変わる、ということが起きるのではないかなと感じています。

私の周りのお茶の方々はどんなところが素敵かというと、知的で教養があって、人間的にできていて、好奇心が旺盛で、人間としての器が大きくて、余裕があって、センスがよくて、自信に満ち溢れていて、面倒見がよくて、グルメで美味しいものが大好きで、とにかく素敵な方々なのです。

④ 簡単に“ゾーン”に入ることができるところ
“デキる”ビジネスプロフェッショナルほど、セルフメンテナンスには余念がないですよね。ジムやランニングを日課にしていたり、毎朝ヨガをしてから出勤するというキラキラしたデキるビジネスプロフェッショナルのイメージに憧れて、私もずいぶん色々と試しました。そんなセルフメンテナンスの一環で、瞑想や座禅に興味がある、または既にお試し済み、という方は多いのではないでしょうか。そして、試して挫折された方も多いと推察します。なぜなら、かく言う私がそうだったからです。瞑想が良いと聞いて早速試したのですが、全く集中もできないし、雑念ばかりが気になるし、全くスッキリもしませんでした。座禅を組みにお寺に行ったこともあるのですが、これもあまりピンときませんでした。もちろん、これらは自分のやり方が悪かったのだと思うのですが、要は難しいのです。もちろん長い目線で、精神修行としての瞑想や座禅をすることも大事だと思いますが、取り急ぎ、私たちビジネスプロフェッショナルが求めるものは、「日々働きまくって疲れた頭を癒したい!」「とにかくリフレッシュしてすっきりしたい!」というものではないでしょうか。
最初はこんな効果があるとは思ってもみずに茶道のお稽古に通い始めたのですが、茶道のお稽古には、Moving meditation(動く瞑想)という側面があります。手や頭を動かしながら、瞑想しているような感覚になるのです。厳密に言えば、「瞑想」と「ゾーンに入る」は同じ意味ではありませんが、私は、茶道のお稽古で、特に、お点前の練習中はゾーンに入る感覚になります。これは茶道のお稽古を始めた直後から感じたことなのですが、お点前が上手くできても、できなくても、極度の集中の中にいると、そのことしか心の中にはなく、あとの一切のことを瞬間的に忘れている感覚になるのです。このゾーンに入る感覚を味わうことによって、私はすごくスッキリしたと感じますし、お稽古場を後にするときには、とても清々しい気持ちで、完全にリフレッシュしています。茶道を始めたばかりの時、少しでも疲れていたり、嫌なことがあると、「あぁ、今日はお稽古行くの休みたいな、休んじゃおっかな」と思うときがあったのですが、それでも行くと「あーやっぱりお稽古に行って良かった。すっきりして、元気になったー!」と思って帰路についていました。「これがあるからやめられない。」まさに、この茶道の持つ究極のリフレッシュ効果が、私にはとても気持ちよかったのです。美味しいお茶に癒され、美しい芸術に癒され、美味しいお菓子に癒され、生身の人間との温かなコミュニケーションの癒され、そして稽古のたびに新しい知識を得て、自分の成長をダイレクトに感じて帰ってくる。食欲も、人の温もりも、自尊心も同時に満たされるのが茶道のお稽古であり、“動く瞑想”のおかげで一瞬にして頭の霧を晴らすことができる、私にとっては最大のリフレッシュの場なのです。

私は茶道のお点前に、ビジネスプロフェッショナルを癒してくれる最高のツールとしての側面を感じています。これは、私がギターを習っていたときに感じたことでもあるのですが、右手も左手も違う動きをして目では楽譜を追って、頭で処理して指が動いて…と、超初心者の私にとっては、それはそれは集中を超えて、他のことなんぞ考えてる余裕はなく、自ずと、「今その瞬間を生きる」「その時に集中する」ということができているのでした。茶道のお稽古でも同じような感覚があり、茶道はとにかく覚えることが膨大なので、頭は瞬時にフル回転、その時に集中せざるを得ないので、雑念もそれまで悶々と考えていたことも一瞬で消え、「今、ここ」を生きることができます。極度の集中状態に入ることで、脳の霧が晴れるというか、頭の中の無駄なゴミを一掃してくれるような感覚なのです。頭の中の断捨離をすることができてスッキリするのです。ルールや決まり事や作法という言葉が苦手な方もいらっしゃるかもしれませんが、私が思うに、作法というある意味でのルールがあるからこそ、集中が生まれると感じています。そして作法のおかげで、簡単にゾーンに入る感覚を味わうことができると思っています。
茶道のお稽古はビジネスプロフェッショナルにとって、最高のリフレッシュ方法だと思います。


⑤ ”人が出る”ところ
これは真剣勝負事の世界ならどれも同じかもしれませんが、茶道のお稽古をしていると、その方の個性というかキャラクターを垣間見ることになります。お点前は、同じルールに則って、同じ流れで同じことを誰もがするはずなのに、その人によって、その点前や世界観が全く違うように見えるのです。大袈裟かもしれませんが、その人の生き様を垣間見るというか。キレイだなぁと思ったり、優雅だなぁと思ったり、細部にまでこだわりを忘れないなぁと思ったり、歩くのが早いなぁ、歩くのがキレイだなぁ、等々。お客さんとして点前を見ていると、点前をする方にググっと引き込まれる、その人の世界に陶酔していくような感覚を味わいます。そこで、点前が綺麗だと、その綺麗な世界に自分も入っていけるのです。前に、点前でミスをするたびに、「チっ」と舌打ちする方とお稽古をご一緒したことがあります。きっとその方は、そんな自分に気づいていないと思いますが、無意識のうちに舌打ちが出てしまうのでしょう。逆もしかりです。綺麗なお点前をしながらも、周りへの気遣いを忘れず、会話もして楽しませることができる。たとえミスをしたとしても、それをサラッと流す器の大きさ。そんな人間模様、人間観察をすることができるのも私が思う茶道の楽しさです。逆にいうと、自分もそう見られているということなのですが。(!)
先生や、長年茶道の稽古に励まれている方々のお点前は、本当に美しいです。美しい点前を見ているだけで、自分も美しい世界の一員になれる気がします。その鍛練の上に磨き上げられた美しさは、その人だけのもの。その方が積み上げてきた歴史が、そのままそこにあるのです。
自分色のお点前ってどんな感じなのかなぁ、自分の成長とともにどんな風に変わっていくんだろう。そんな、自分の人間としての成長を楽しみに思うことができるのが、茶道の楽しさです。

⑥ ごまかしが効かないところ
大人になると色々な知恵がついて、「仕事ができる風」に見せたり、「一生懸命やっている風」に見せたりする技を段々と身につけるものです。しかし、茶道のような芸術ごとというか、お稽古ごとというものは、自分がコミットした分だけ、自分が努力した分だけしか、結果になりません。ごまかしが効かないのです。例えば、社会人生活も長年になって慣れてくると、ミーティングの準備を多少怠ったとしても、それなりのことを繕って、それなりのことが言えるようになってしまったりします。そしてこれは、社会人という役割を長年一生懸命勤めたからこその産物であり、決して卑下するものではありません。ただ、同時に、新鮮さがないというか、フレッシュさがないというか、いつのまにか、自分の成長を実感するという機会が少なくなるのだと思います。社会人になりたての頃は、何もかもが新鮮で、名刺の渡し方一つとっても、スムーズにできると自分の成長をダイレクトに感じて、自分に嬉しくなりましたよね。経験が増えて、大人になって、仕事や環境に慣れ過ぎると、自分の成長に喜ぶということが少なくなってくるのです。そこで、何かの習い事を始めて、その何かに熱心に取り組んで、一から覚え、少しずつ自分の成長を感じることができるということは、自尊心をまた一から育んでくれる気がしています。そして、自分の成長をとても嬉しく感じるのです。茶道に限ったことではないのかもしれませんが、茶道は「”その人”が出てしまう」類のものなので、コミットした分だけ、その人のコミット具合も分かる。そしてそれは自分にとって成長の喜びをダイレクトに感じることができるということでもあると思います。


⑦ 好きなだけ「ちゃんとした私」になることができる
私は祖父母に育てられたので、礼儀作法を口うるさく言われて育った人間です。敬語や言葉使いにもずいぶんうるさく言われて育ちました。そのようにしっかり育ててもらったことをとても感謝しているのですが、現代社会は、礼儀作法を「Too much、めんどくさい、丁寧すぎるのも考えもの」と捉える風潮があり、逆にやりすぎないように自分を抑えるという場面も多々あったなということを感じていました。しかし、茶道の世界に入ると、私が抑えていたものが、まだ常識として健在していました。むしろ、それがデフォルトとして普通に存在していました。例えば、お稽古のなかでも、亭主とお客の問答のなかで、美しい日本語の挨拶言葉が交わされるのですが、それも、「あたりまえの世界」です。加えて、季節のご挨拶の場があり、お中元やお歳暮をお渡しする習慣も(先生によるとは思いますが)残っています。そしてそれをお渡しする際にも、時候の挨拶をお伝えし、日頃の感謝を述べます。現代社会では嫌煙されがちな、礼儀作法を思う存分行い、それが称えられるという世界が、まだここには残っていました。私はそういうところにも茶道のお稽古に行く魅力を感じています。綺麗なマナーをしっかりして、それがしっかり評価され感謝される世界があるというのは、現代社会の中ではとても貴重だと思うので、それを楽しむのも一つの考え方だと思います。
ちなみにですが、茶道をされている方の中にも、お中元やお歳暮をめんどくさいと思っている方もいでしょうし、最近では、それらの煩わしいご挨拶ものは受け取らない方針の先生もいらっしゃると聞きます。ただ、私個人的には、そのようなことをしっかりされている先生は、「しっかりしてもらうに値する先生」だと思っているので、そのような先生につくことができて、幸せだな思っています。


⑧ 普遍的な終わりなき旅であるところ
茶道のお稽古をしていると、茶道歴30年以上という方にも普通にお会いします。私は40歳少し手前から茶道のお稽古に通い始めたので、このまま続ければ70歳、80歳になる頃には30年選手です。そして、きっとその頃の私も、楽しく茶道のお稽古に励んでいる姿が想像できます。年齢を重ねて、茶道のお稽古経験も重ねて、そこで見ることのできる世界はきっと違うのだろうなと思います。
私にとって、柔道、剣道、華道、書道のように「道」がつくものを習ったのは、茶道が初めてです。子供の頃は一般的な習い事をしていましたが、大人になると習い事は一気に遠い存在になる気はするのはなぜなのでしょうね。大人にとって、「道」がつくような習い事、お稽古事をするというのは、「機が熟した」という気もします。その道に踏み入れる人間的準備ができたからこそ始めることができるという気がするのです。時間的な余裕も、経済的な余裕も。贅沢なことだなと思うのです。茶道とは「終わりなき旅」で、勉強しても勉強しても、経験しても経験しても、終わりがありません。そして、私が30年やそこら習ったところで、揺るぐことのない不動の世界が茶道にはあります。その普遍性に私たちは魅了されているのではないでしょうか。

⑨ ゴルフと茶道が似ていることに気づいたところ
よく、ビジネスプロフェッショナルには「ゴルフは生涯スポーツだから」という方がいらっしゃいます。私は茶道とゴルフは非常に似ていると思っています。私はゴルフも好きで、昔は会社のコンペなどにも出ていましたので、その経験から茶道とゴルフの類似点に気づいたのですが、まず、身体の故障がない限り生涯続けることができるというのは同じです(ご高齢の方も、正座ができなくならないように、足腰を鍛え続けていると聞きます)。そして、ゴルフでは、飛ばしたい距離や、どのような攻め方をしたいかという目的によってクラブの番手を変えるのと同じように、茶道では、見てもらいたい道具や、作りたい雰囲気によって、点前を変えます。この「自分の目的によって、手段を変える」という点が、戦略的で目的志向で、ゴルフと茶道は非常に似ていると思います。加えて、ゴルフも茶道も人間性が垣間見えるというところも同じです。今時分のビジネス界の接待はゴルフが主流ですが、一昔前までは、茶道が同じ役割を経済界で担っていました。それが、いつのまにか、ゴルフに代わったということなのかなと思っています。もちろん、ゴルフにも当てる、飛ばす等の技術の磨き上げは必要ですが、それでも教養の積み上げや、歴史の勉強などは要らないという意味で、ゴルフの方が簡単だとも言えるのではないかと思います。ゴルフは一日がかりです。”接待”やビジネス目的で初めてご一緒する方であれば、一日かけてようやくその人と打ち解け、大事な話をし、その人が信用できる人物たるかを見極めます。そのようなゴルフの「人となりを知る効果」もビジネスプロフェッショナルたちに評価されているのだと思いますが、もしそれが目的なら、茶道のお稽古にも同じ効果がありますよ、ということをお伝えしたいです。お稽古を一回ご一緒するだけで、きっとゴルフの一日と同じ成果が得られると思います。
そんなことに気づいたのも、とても楽しいアハ体験でした。

⑩ 自然界の姿に敏感になる
茶道のお稽古に励む各々の方は、各々のきっかけ、理由で茶道に足を踏み入れられています。茶道の受け皿は広く、深いのです。懐石料理から入る方、着物から入る方、和菓子から入る方、伝統文化に憧れて始める方、偉人茶人に憧れて始める方…本当に様々です。私は、教養として身につけたいというミーハーな気持ちもあって最初は興味を抱いたのですが、結果的には着物も好きですし、和菓子も大好きだったので、複合的な理由で茶道に惹かれました。お稽古に通い始めて上乗せされたのが、お点前への興味です。湧いた釜のお湯に、水をいれると途端に音が変わるところ。その一瞬の静寂がとてつもなく心地よいです。そして、柄杓から最後一滴の水が落ちるのを待つところが好きです。待って、待って、一滴のお水がキレイに落ちる時、自分の心の垢までが落ちるようで、非常に清々しいのです。そのような、美しい音や、清々しい動きが溢れているところに、私は茶道のお稽古の良さを感じています。そして、それはきっと、自然界における、自然の姿なのだろうなと。普段のせわしない、時間に追われた日々のなかで、その自然の姿に触れる時間にどれだけ癒されるか、茶道のお稽古を通じての楽しみです。


さて、ここまで、私が思うビジネスプロフェッショナルに茶道のお稽古がお薦めの理由をお伝えしてきました。私が敢えて、「茶道の”お稽古”」という言葉を使っていることに気づいていただけたでしょうか。茶道というと、お茶会や、茶事などのかしこまったイベント事を想定されてしまうかもしれませんが、私が強調したいのは、あくまでも茶道のお稽古です。特別なイベントごとでなく、茶道の醍醐味は、日々のお稽古にあると私は感じています。もっと、「稽古」に焦点を当ててよいと思っています。


茶道のお稽古は、マズローの基本的欲求を一度に満たすことのできる場なのだと気づきました。生理的欲求(美味しいお茶、美味しいお菓子を食べてホッとする。単純に温かい飲み物に人は癒されます。)、安全欲求(仕事とも家庭とも一切関係ない人間関係は、心理的安全性あふれる環境です)、社会的欲求(教室コミュニティへの帰属意識、先生、お茶仲間との心温まる交流)、承認欲求(「今日はこれができるようになった!これもできた!」と日々自分の成長を感じることができ、自尊心が高まる)、そして自己実現がなされるのです。

自己実現に関しては、私は今IBバンカーを卒業して漁師生活をエンジョイしているのですが、それができるようになったのは、茶道のおかげなのではないかと思っています。

それは、茶道のお稽古に通うなかで、自分を偽らないで生きる気持ちよさに気づいたからです。本当の自分、Authentic selfへの憧れが生まれたというか、「この気持ち良さを知ってしまったら、もう昔には戻れない」というようなイメージです。それを感じてから、それまでは自分を偽って生きてきたことにだんだんと、気づきました。

茶道のお稽古は、自分に嘘はつけない、周りにも自分の素の部分がだだ洩れてしまう。その中での温かい人間関係が育まれる。そのような環境にいると、「こっちの世界にいる自分の方が良いな」と思うようになったんです。

私は茶道のお稽古に行き始めたことで、世の中には、お金では買えないものがあることに気づきました。それはただ教養という言葉に収束されるかもしれないし、努力と成果という青臭いものかもしれないし、精神的なものなのかもしれないのですが。IBバンカーだった頃、私は物質的な豊かさを求めるという意味での、マテリアリストでした。物質的な所有物や成功に価値を置いていました。ブランドもののバッグにアクセサリー、そして靴や時計。今思えば、かなりジャラジャラしていました。しかし、茶道と出逢って、お金で買えない世界があることに気づきました。そしてその喜びは、ずっと持続しているのです。買い物で自分の欠けを補おうと躍起になっていた頃、救われたり、良い気になるのはその時の一瞬だけなのです。買い物袋を提げて家に着いたときには、また何かが欠けている状態に戻っていました。そしてまたその欠けを補おうと、買いに走る。お金では買えない人生の喜びがあることに、茶道のお稽古に出逢って気づかせてもらいました。何よりこの3年間、ずっとワクワクしています。

世の中には、茶道の良さは、季節を感じられるとか、伝統文化だからとか、色々なお薦めのされ方をしていますが、私にはいまいちピンときておらず、いつか自分の言葉で、この楽しい気持ちをシェアしたいなと思ってきました。長くなりましたが、今回は敢えて分割せずに、1本の記事で出させて頂きます。

私は本当に、茶道に出逢えて幸せです。
皆様のようなビジネスプロフェッショナルには、茶道がセルフメンテナンスの一つのツールになる、そして、本当の自分を見出すということに非常に役立つかもしれない、ということをお伝えしたいです。

今回の記事が、茶道に興味のあるビジネスプロフェッショナルの方にとって、少しでも参考になれば幸いです。

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最後に。茶道を長年続けていられる方へ。
私のような初心者が、茶道に対する想いを述べるのは、もしかしたら耳障りだったり、失礼に聞こえる話だったかもしれません。ただ、”茶道に興味はあるけれど、イマイチ何が良いのか想像できない方たち”にとっては、きっと私のような初心者が感じる良さというのが当面の参考になるのではと思い、今回の記事を書かせて頂きました。失礼いたしました。
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