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精神の病と闘った1年間② 向き合わなければならない辛さ

はじめに


 高校の卒業式以降、大学までの春休みが始まった。何にも囚われず、自由な時期だ。そして、「人生の夏休み」として、自分は何でもできる、もっとも楽しい時期を生きようとしていた。

 そんな中、体が言うことを聞かず、布団から出れず、涙ばかりを流す自分がいたのだった。

病院へ

 高校の卒業式まで何とか身体の異常やその辛さを隠し通すことに成功したものの、やはり症状は変わらなかった。ふとんから体を起こすことができないまま1日の半分以上を寝て過ごし、時折苦しい(作られた)ことを思い出しては奇声をあげ、いつも自分は死ぬべき人間だと思い苦しむ毎日だった。

 毎日、自分の心がどろどろした感じがした。寝ても、炭酸を飲んでも、胃薬を出してもらっても、このどろどろは取れなかった。

 親も助けてあげたい思いはありながらも、だんだん私のこんな姿を見ると少し嫌気がさしたようだ。そこで親は、心の病を見てもらえる病院をいくつかピックアップして私に勧めた。

 病院の話を聞いた私は、

「18歳になったいい歳のやつが、これっぽっちのことで、こんなたいそうな病院へ行くなんて恥ずかしい」

「多分、自分でなんとかできる」

と思い、初めは断っていた。しかし、日が経っても心身の不調は消えず、むしろこの症状はエスカレートしていった。こうして藁にも縋る思いで、紹介された病院へ行くことになった。

 主治医に看てもらう前、カウンセラーさんが私の話を聞いてくれた。私は、少し恥ずかしかったが、心がどろどろした感じがすることや涙が出てしまうことや「○○に殺されかけた」みたいな記憶を思い出してしまうこと、それをかき消すために叫んでしまうことなど、すべてを話した。

 しょうもない話でも、私がうつむきながら話をしても、私に目を合わせようとしながら、そして相槌を打ちながら聞いてくれた。そのおかげで、自分のことを笑わないで、心から聞こうとしてくれている存在に気付き、心も少しだけすっきりした。

 その後、主治医と対面した。落ち着かせようとするためか、「『○○に殺されかけた』みたいな話し、あるわけないよ(笑)」と話しながら私の状況を整理した。

 今となっては、その主治医にも意図があってのことだと思うことだろうし、カウンセラーの聞き方との違いが明確に表れたということもあるが、当時の私はこの先生に対して、「自分の苦しみを、笑って簡単にあしらわれた」と悲しい思いをした。

 それでも、自分のこの症状を心配し、改善に向かってほしいと思っている人の存在を実感できたのは、とても大きかった。

逃げない

 その後、主治医は私に2つのことを求めた。それは、

①思い出したことを叫んで終わりにしない。他者に話したり、ノートに書いたりして整理し、しっかり向き合うこと。
②他者との関わり(家族、友達、彼女など)を絶対に断たないこと。


 だった。

 ①に関しては、高校卒業後だったこともあり、友達同士で集まる機会が多くあった。私は、主治医との約束を守るため、高校の友達との飯はもちろん、付き合いがあまりなく楽しめそうになかった中学時代のクラス会や塾の送別会など、グループを選ばずすべてに参加した。

 これらはすべて、行くのが嫌だった。当時の私は「ここに行って嫌われたらどうしよう・怒らせて楽しい雰囲気を壊してしまったらどうしよう」
「途中に変な奇声を発してしまったらどうしよう」
等と考え込んでしまい、行くことにとてつもないエネルギーを要した。

 一方、②の考えたことや行動を記録として残すことは好きだった。だから、集まりの後は今日の出来事に加えて、変に妄想してしまったことなどを書いて気持ちを落ち着かせることができることを励みに、頑張って人との関わりを断たないように参加していた。

 当時の私の写真を見ると、おもしろいくらいに、卒業式から自分の顔が死んでいる。瞼が重そうで、目が笑っておらず、顔や首がげっそりしている。それだけ無理をしていたのだろう。

 その集まりの場に行っても、やはり「最近元気ないな?どうしたん?」「高校の時はもっと笑ってなかったっけ?」などと言われることもあった。周囲の人々は私の異変に気付いていたのだろう。私の症状が悟られないように、頑張ってごまかしていた。

回復へ…?

 こうして高校卒業から大学入学の時期まで、きちんと2つの約束を守りながら生活を続けていた。

 当時の心身の状態で人と会うことは、とても苦痛だった。それでも自分に「幾分か心が軽くなった気がする」「回復のために必要なことだ」と自分に言い聞かせながら過ごした。

 結果、多少心が軽くなったものの、やはり完治しない。今思えば、無理をして人と会い続けることがまた別のストレスになっていたと思う。

 他人と過ごした後はすぐに家の自分の部屋に直行し日記を書き、処方されていた薬を飲んだ。この行為が唯一の心のよりどころであり、気分的に楽になる方法であった。

 それでも、まだ私の心のどろどろは取れず、叫ぶ・泣くを繰り返していたのだった…。

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