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【文章表現の75%が蛇足という衝撃的な説】俳句的を読んで(1章-7のまとめ)

 引き続き、「思考の整理学」の著者、外山滋比古先生の「俳句的」のまとめである。今回は1章7項「なまけもの」についてのまとめである。

 本項で「文章表現の75%が蛇足」という衝撃的な説が紹介されている。こんなことをいわれると、自分の書いている記事の殆どが不要なものなのではないかと思えてきて、萎える。が、アウトプットのため頑張る。そして、これでようやく1章終了である。まだまだ先は長い。

・文章表現の75%までが蛇足だという説(P44)

 「文章表現の75パーセントまでが蛇足だというのが定説であるが…」と、言語心理学者のジョージ・ミラーは事もなげにこんなことを言ってのける。ここで文章と言うのは英語の文章のことだが、かりにアルファベット百字からなる文章があるとすると、実に七五文字までが何らかの意味でダブった情報だというのであるから、にわかには信じがたいような気がする。七五パーセントではいくらなんでも少し多すぎはしないか。しかし、それが定説だと決めつけられては返す言葉もなくなる。「蛇足」 に当たるもとの語はリダンダンシィ(冗長・余情の意味)。言語学の辞典を見ると、「情報を伝達する際、たとえ切り捨ててしまったとしても、本質的な情報伝達には差し支えのないような『伝達』部分についていう」術語だとしてある。

・西洋の言語が論理的に見える理由(P46)

(安定して物を立てるには、三脚のように、脚が三本あれば事足りる。しかし、多くの椅子は四脚である。この余計な一本は蛇足ではあるが、決して遊んでいるわけではなく、脚が一本壊れても転倒しにくい、いわゆる保険の役割を担っている。このことを例に挙げ)

 日本語に比べるとヨーロッパ語が”論理的”に見えるのも、一つには、この椅子の脚の数に関係があるのだろう。足の数が多い椅子はどんな足場の悪い所へ置いても転んだりはしない。安定のいい言葉というのは、裏から言えば、不安定なところで使われるのを予測しているということである。

 中略

 ことばではこちらの言うことが全部相手に伝わるのではない。メッセージが移動するにあたっては必ず途中で脱落するものがある。それで少しは消えても意味の伝達に支障がないようにする自然の防御体制ができる。それが蛇足である。伝達を取り巻く状況によって蛇足の数も変わってくるのは当然である。互いに気心の知れあった間柄とか、ゆったりした雰囲気では途中の消耗が少なくて済むから、省略の多い言い方、リダンダンシィの低い表現がなされる。逆に、物理的、心理的に伝達を妨げるものが多いことが予測されるような場合には、椅子の脚を多くすることになる。いわゆる論理性は、そういう足の多い椅子のような表現の持つ特性の一つでもある。ある言語社会の表現のリダンダンシィが一律に七五パーセントだというような言い方は、あまり正確ではない。家族同士の会話と法廷の弁論とを比較してみても、余剰性の相違は歴然としている。

・言語活動にも「無駄は省きたいという」経済原則が当てはまる(P47)

 一般の言語活動において、わからせるための老婆心が蛇足になるのだが、大は小を兼ねる式に、蛇足はいくらあってもよい、とはならないのも事実である。リダンダンシィの必然性と表裏をなすように、なるべく無駄を省きたいという言語の経済原則が働くからである。こうして、言語には大変勤勉な一面と同時に、何とかして余計なことは言わずに楽をしたいというなまけものの一面とがあり、二重性格的である。働きものとなまけものが相互に牽制し合って、おのずから実際的な調和を作り出している。

・俳句が「切れ」だ「季語」だ等と、技法にやかましいわけ(P48)

(言語の経済原則に従って、言葉を省略しつくした先に行きつくのが俳句の修辞学である。つまり、俳句は、なまけものの文学である。このことを指摘したうえで)

 なまけものだが、うまくなまけるのは働くよりも難しい。働くにも働きようというものがあるが、そこは美徳である勤勉のことだから、いくら甘くても大目に見てもらえる。ところが下手になまけたら。まるで取り柄がない。うまくなまけるには人知れぬ苦心がいる技法がやかましく言われるのは当たり前である
 なまけもののコミュニケーションは相手に向かってものを言う建前をとらない。聞きたいものは聞いてもよい。野暮な人は相手にしない、という独り言のポーズになる。相手にわかってもらおう、相手を説得しようという表現の努力が、レトリックを生んだが。独り言は相手のない、一人だけのレトリックである。

・ちょこっと解説

①日本語は一般にリダンダンシィが低いように思われるが、俳句では特に低い。その角度から俳句を眺めてみるのも一興である。

②近代文学という働き蜂が、明治になって入ってきてしまったために、なまけものである俳句は慌てた。そのために写生論だ、花鳥諷詠だ、第二芸術だなどと色々と苦労をした。先人が苦労して俳句のために働いてくれたから今日の俳句があることは百も承知だが、それゆえに、俳句の神髄からは少し離れてしまったのかもしれないと思うと、悲しくもある。

③俳句は独り言。相手に価値観を押し付けることもしない。故に俳句に興味を持ってくれた人たちは大変である。自ら俳句の方に歩みよっていかなければ、俳句は振り向いてくれない。俳句の方も建前的には、読者や無学者を相手にしないが、本当は興味を持ってほしくてたまらない。(少なくとも小生は)。要するに俳句はツンデレなのである。

・「俳句的」過去のまとめ記事


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