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【句作のコツは、まとめず、散らすこと】俳句的を読んで(2章-10のまとめ)

 ずいぶん間が開いてしまったが、「思考の整理学」の著者、外山滋比古先生の「俳句的」のまとめである。今回は2章10項「放つ」についてのまとめである。そしてこれで2章のまとめ終了。ようやく半分。これだけ一冊に向き合ったのは初めてかもしれない。外山先生には直接お話を伺ってみたかった。

 毎度おなじみの映画監督エイゼンシュタインのモンタージュ論が紹介されている。俳句と映画は近いものがある。今後はそのことを意識しながら映画鑑賞をしてみようと思う。

・日本語非論理説(10項P95)

 明治このかた、日本の知識人は、いつも心のどこかで、ものごとを論理的に考えなくてはいけない、考えたことは論理的に表現したいと願ってきた。それが、なかなか思うにまかせない。腹立ちまぎれに日本語が論理的でないからこんなことになるのだと言った人もあるらしい。同じ思いをしている人たちの間でたちまち広まって、日本語は非論理的なり、が常識のようになった。

・日本の長歌が西洋の長歌に比べ短い訳(10項P96~97)

 ヨーロッパに何千行という長編詩が存在しうるゆえんは煉瓦のようなことばを用いるからである。われわれの文学が、たとえば”長歌”と称しているものでさえもたかが知れている。豆腐の言語によっているためである。散文の古典にしても、優れた作品、書物が、いまの文庫本にすると、百ページそこそこの分量しかないのも同じ理由による。言葉の働きが我彼で違っているのを納得せざるを得まい。

中略

 煉瓦は積み上げるためにある。どうすればしっかりした組み方が出来るか。それを示すのが論理である。要素の連結の仕方ということに論理の眼目がある。それに引きかえ、豆腐は切る。どういう風に切るかが問題で、煉瓦のような論理とは無縁である。言葉を重ねてしっかりした大きな表現をすることではなく、むしろ切って小さなものにして彫刻を加えることに美を見出す。だらだらと言葉が続くことを嫌う。

・『切る』文章法によって成り立つ俳句(10項P97~P98)

 切れ字は言葉の惰性を捨てて、なるべく効率の高い小さな部分を区切る方法である。豆腐を切るのと同じだ。いわゆる切れ字が用いられていなくても、名詞の体言止めなどでも切断の機能が生じる。俳句は”切る”文章法によっている。だから、短い形で大きな世界を表現できる。文章法である以上、”切る”文章法といえども、構成、連結を忘れているわけではない。切り離されているようでも、見えない縁で繋がっている。不即不離、これが豆腐の味である。

・『まとめる』ことではなく『散らす』ことが俳句の要点(10項P99)

 エイゼンシュタインのモンタージュ論が連句からヒントを得たことは周知の事実である。モンタージュ論とはそれまでの「まとめる」ことに重点が置かれた近代文化特有の統合の理論から抜けだした、『散らす』編集法である。そのことを前提に。

 豆腐は積み重ねがきかないが、小さく切って、汁の中などへ「放っ」てやることができる。その散り方に美しさを感じるのは、われわれにそういう感覚が備わっているからであろう。心の中に表現したいモチーフが生まれたとき、これを集中的に言葉で攻め固めていくのではなくて、花鳥風月といった客観の中へ放ってやる。主観を客観に散らす方法である

・ちょこっと解説

①日本語の文章の構造で、著しい特色の一つはパラグラフの続き具合が千差万別であるということである。気分で改行したり、句読点を振ったりと、西洋言語では考えられない使い方をするが、これは結局、豆腐を切って水に放っているのに似ている。

②座談会の形式は、日本独特の表現文化らしい。菊池寛が創始したと指摘されていたので驚いた。確かに座談会では、突然話が脱線したり戻ったりと、論理が散らされている。いうなればその場のノリで参加者は話している。これは豆腐の理論であり、俳諧の美学である。そして、座談会が多くの日本人に好まれているということは、日本人に俳諧の心がある証左でもある。

・「俳句的」前回のまとめ記事


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