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3分名句紹介エッセー 俳句スポーツ説という説

 正岡子規は野球をこよなく愛していたというが、野球と俳句はよく似ていると思う。

 つまりこういうことだ。俳人はバッターで、ピッチャーは小生たちが生きている世界そのもの。ピッチャーは季節やシーンに応じて、実に多種多様なボール(季語)を投げこんでくる。打者たる我々はそれらに対応をして、逐次バットを振ってボールをはじき返そうとする。はじき返せることもあれば、空振りすることもある。

 ピッチャーはいつだって、打者にむかってボールを投げている。しかし、市井の人々は、日々の生活の忙しさのせいで、それらに気が付けない。ボールを見逃し続けている。この見逃し続ける人のことをきっと鈍感というのだろう。逆に俳句に限らず、感性が鋭いと呼ばれる人たちは、この投げ込まれくる球に気が付き、自分なりの方法で適宜打ち返している人ともいえそうだ。







鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波






 この句の季語は鳥の巣で春。句自体の説明は不要だろう。鳥が鳥の巣に入っていく、その瞬間を捉えたものだ。それだけしか言っていない。そこに観察者たる人間の意志は何一つ混在しない。ありのままの世界を素直に打ち返した作品である。

 この句の作者、波多野爽波(はたのそうは)は、高浜虚子の最晩年の直弟子の一人であり、俳句スポーツ説を提唱した人物だ。

 そう。俳句は野球と同じスポーツなのである。上の句のように、瞬間瞬間で立ち替わる世界の位相を、言葉のみで的確に捉えて打ち返そうとするスポーツ。試合時間は死ぬまで。というより、正確には人類が滅びるまで。何世代にもわたって選手交代をし続け、たった17音のみでこの世界を端的に捉えようと挑戦し続ける、かなり変わったロックなスポーツだ。

 人はいつか必ず死ぬ。だから自分のDNAを残そうとして子供を作る。しかし、リチャード・ドーキンス博士が「利己的な遺伝子」の中で喝破したように、残るものは生物だけではない。衣服、食物、建築、工芸などの文化や文明と言ったものも残る。そしてそれらは人間のDNAの生存競争と同じように、優れた概念は世に広がり、世界に残っていく。詩人や芸術家の行っていることはまさしくこれで、自分のDNAを、文化の中に残そうという行いに他ならないのである。

 これは理屈ではない。本能である。だからすぐれた作品を生み出し、人に認められたとき、作者は形容しがたい高揚感や幸福感に包まれる。そして俳句はそんな文化・文明の中でも、とりわけ短く簡単であるがため、最もお手軽に参加しやすいスポーツなのである。

 死ぬまでこんなエキサイティングなスポーツが、秘密裏に人生で行われていることに気が付けない人もいる。人生の大半を鈍感人として過ごしてきたが、幸いにも小生は気が付けた。この文章を読んでくれた人も気が付けただろう。そして俳句は、どんな人でも、その気になりさえすれば、お金も場所も選ばず参加できる、最もお手軽なスポーツなのだ。是非皆さんも俳句を楽しんでほしい。







静かなる巣箱の中のおそろしき 亀山こうき






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