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【何故俳句に句読点がないのか】俳句的を読んで(2章-4のまとめ)

 引き続き、「思考の整理学」の著者、外山滋比古先生の「俳句的」のまとめである。今回は4項「点と丸」について、まとめる。

 当たり前の話だが、俳句には句読点を使わない。何故かと言われると困る。皆そういうものだと思っている。多分疑問にすら思わない。小生もろくに考えずここまで来た。

 しかし俳句をより理解するためには、こういった当たり前を疑って自分なりに考えてみることは必要だろう。外山先生からは学んでばかりである。

・句読点には相手への不信がひそむ(2項P68)

 日本人は句読点などというこちきたないものをもっていなかった。われわれがいま使っているのは舶来の句読点である。板につかないのは是非もない。いろいろ外来の思想にかぶれてきた俳句だが、さすがに不様な点や丸をぶらさげるところまでは行かなかった。これは案外大きな意味を持っている。もともと、ヨーロッパにおいても、句読点が大昔からあったわけではない。耳のことばが中心の社会では、文章を書いても、点や丸をつけるには及ばない。そういう聴覚の裏付けがすくなくなって、文章が分かりにくくなる。はっきりさせるために句読法が考えられる。耳のことばの時代から目のことば、印刷文化の時代を移って、句読法は表現に不可欠なものと考えられるようになった。印刷が普及すると、表現が広い読者をもつようになる。中には当然、あまり読むことに慣れていない人も含まれる。そういう読者がまごつくことが少ないように句読点がつけられる。ということは、句読点には相手への不信がひそんでいる。どこで区切るか、はっきりさせておかないとわからなくなるおそれがある。親切で句読点をつける。親切はしばしば失礼になる。

・印刷芸術の俳句に句読点がない理由の考察
(2項P69)

 (俳句は印刷芸術であるが、 句読点を必要としていない。著者は以下の三点に理由を求める)

 ひとつは、まだまだ、俳句が充分、聴覚的だということが、句読点の助けをかりなくてすんでいる事情だと考えられる。明治以降の俳句が目のことばによりすぎているというのがわが持論だが、他方ではなお、 充分に耳のことば的であると認めて良い。

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 それから、相手を立てる気持ちがある。受け手が野暮で、意味をとり違えるおそれがあると思えば、体裁などかまっていられるか、ということになる。丸でもチョンでもつけなくてはならない。そこまで相手を見下ろすことをしないのが短詩型文学の礼節である。通人ならば、よけいなものをつけなくても、おわかりいただけるでしょう。それで丸腰で坐る。

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 そして、最後に、しかし、最小ではない理由に、保守主義がある。昔からつけなかったのだから、いまさらつけてはおかしい。有季定型を裏から支えているのが、没句読点である。さすがに俳句は伝統芸術だけのことはある。前衛すらこれは手をつけることをしなかった聖域だとすれば、その意味は決して小さくない。

・分かち書きとは句読法(2項P70)

 だからといって俳句に点も丸もついていないことを忘れていいことにはならない。句読点なしで行くには、曖昧さを尊重しながらも、同時に分かりやすさも必要である。あまり勝手なことをされては、読む方が迷惑する。どうしても勝手なことがしたいと考えるなら、あるいは、うんと晦渋な表現がしたいのなら、何らかの句読法を工夫しなくてはなるまい。三行に分かち書きするなどは、最も穏やかな新句読法である。

・ちょこっと解説

①句読点は散文の技法である。散文で句読点をとると意味が曖昧になる。散文の目的は、孔子の言う「辞は達するのみ」に集約される。そもそも詩と目的を別にする。

②分かち書きも俳句における句読点になるのであろうが、視覚によりすぎる感はある。聴覚的にも句読点があることがはっきりするものがいい。などと考えていたら、「要するにそれって「切れ」じゃないか」と、思い至った。

③俳句を勉強したことがある人ならなんてことはないだろうが、切れとは17音の中に意図的に断絶や空白を作る俳句のテクニックの一つである。切れについてはしっかり勉強をしたい。

・「俳句的」前回のまとめ記事


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