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「ツッコミどころ」について

ツッコミどころはあった方がいい。

発信するにつけ、完璧に仕上げようとすればするほど新しい粗が見つかる。

それを潰していくのがクオリティを上げる一つの在り方であるが、100%を作ることはできない。

例えば文法的に正しくなおすことや数学の解を導き出すことならまだしも、「伝える」ことに完璧を求めてはいけない。

盲信的なベストを求めているうちはキリがなく一生し終えることは出来ない。

ある程度のベターで良しとした方が良く、過程を重んじるとは完璧主義の離脱の意味で正しい。

完璧な言説があるのならば、古来から続く哲学者の論理が引用され新しく考察される必要がない。

もしそれが、完璧であるならばそこで終わりなはずであるからだ。

真理に向かいながらもまだ改善の余地があると自覚した上で仮の状態で“一旦“良しとする。

ツッコミどころがあるから(見つけるから)新しい意見が生まれる。

人の歴史はツッコミどころのバトン渡しかもしれない。

それに、ツッコミどころがあるからコミュニケーションの余白が生まれる。

弁論もツッコミのしあいであり、日常会話もツッコミのある会話の方が楽しい。

何かにつけて「例外はあると思うけど」とか「みんながみんなそうじゃないけど」的なセリフ回しで隙を埋めすぎては面白くない。

「ああ、そうだね」で終了だ。

日常会話のツッコミどころを無意識に埋めようとする作業は、完璧を意図しないことが多い。

単に反論されたくない保身で埋めようとする。それでは自分も、そして相手も肩身が狭い。

ツッコミどころの余地を分かった上で恐れすぎる必要はない。

ツッコミの余地をポジティブに捉えて、他人が入ってくる隙間にしてみてはどうだろう。

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