見出し画像

「自分を好きになってくれた相手を好きになれる能力がほしい」

好意の返報性がなさすぎる

自分のことを好きになってくれた相手を好きになれる能力がほしい。

補足も注釈もない。私がこと恋愛において手に入れたい能力はこれだけだ。この能力さえあれば! と強く願った夜は山ほどあった。

恋愛における多種多様なパターンを私にフィットさせた場合、大別すると次の3つに分けられる。

①私→♡→女の子
②女の子→♡→私
③私→♡←女の子

①はかなり頻繁にある。ちょっと話した女の子に対して「いいな」と思ったり、笑ってくれたらすぐきゅんとする。

②も、実はたまにある。私は良くも悪くも性別に関係なく同じ距離感で話す(らしい)ので、私は恋愛感情はないのだけれど、なんだかとても親密に感じてくれて、好意を寄せてくれる女の子がたまにいる。

なのに③がほぼ起きない。私と女の子が両思いになることがほぼまったくない。理由はひとつ。好きになってくれた相手を好きになれる能力が私には存在しないのだ。

多くの人にはこの能力が存在する。「好意の返報性」の一部みたいだし、学生のころ心理学の講義でもそう習った。でもわしにはないんじゃ。

あのときも、このときも

15歳のときに好きになってくれた人がいて人生で初めて付き合ったのだけれど、付き合ってすぐに「あれ、僕は好意を返せていないぞ」と思った。思ったというか、事実としてわかった。相手に対しても良くないし、二度と同じことはしないと誓った。

それから10年経った25歳。人は変わる生き物だし「好意の返報性」が身についているかもと思い、たまたまデートに誘ってくれた女の子と1日お出かけした。その子はとてもかしこく、やさしく、たくましくだったのに、全く気持ちが芽生えなかった。

相手の良いところを見つけましょう。とか、そういう次元じゃなかった。これはもう理屈じゃない。おそらく生まれつき遺伝的に、私に恋愛の好意の返報性の能力が欠損しているのだ。つらい。

だってもし自分にあの能力があったら、あのときも、このときも「私→♡←女の子」になれたはずだ。この世に絶対がないように、誰からも好意を持たれない人はいない。そう考えると、「好意の返報性」が強烈な人は最強なのではないか。

最強のちから「好意の返報性」

そしてこの、自分のことを好きになってくれた相手を好きになれる能力は、恋愛じゃなくても最強なのだ。

自分はあまり好きじゃなくてもやたら飲み会に誘ってくる上司に対してもうれしい気持ちになれるし、仲が悪いわけではないけど遊ぶのが少し億劫になってきた相手に対しても、誘われたら嬉しくなるはずだ。

「好き」「きゅん」「うれしい」「私も」が、恋愛でもそうでない場面でも同時多発的に起こるのだ。「うれしい」は「しあわせ」につながっていく。この能力のメモリを最大にできる人は、きっとこういう事が起こるはずだ。

「ご飯食べに行きませんか」「うれしい、私も行きたくなった」

「会社の忘年会で隣に座りたい」「うれしい、私も隣がいい」

「あなたのことが好きすぎて一緒にボランティアしたい」「うれしい、私もボランティアに人生を捧げたい!」

「君とこの壺と一緒に暮らしたい。そのためには50万必要だ」「うれしい、私もあなたとこの壺と暮らしたい! 50万ね、すぐ降ろしてくる!」

ーーうん、メモリを最大にしてはだめだな。何事も行き過ぎはよくない。月並みだけど、普遍的でとても大切なことだ。でも、ちょっとでいい、その力を分けておくれ。

分けてもいいと思ってくれた人のことを、私は絶対に好きになる。というよりもうすでにあなたのことが好きだ。だから少しわけてくれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?