「虎に翼」に没頭するワーママが、セーヌ川でのパリオリンピック開会式を見ながら人生について考えた。
若い頃は、自分の人生は、木のようだと思っていた。
芽を出して成長して、やがて花を咲かせ実をつけて、枯れて行く。そんな、大地に根をつけ空を仰ぐ存在だと思っていた。
しかし、最近は、まるで大河の上に舞い降りた小さな葉っぱのように思える。
ひらりと舞い降りて、別の葉っぱとともに流されて川を下って行く。やがてどこかで朽ちる。
逆らえない川の流れは時の流れだ。
そして、向かう方向も、共に流される仲間も、皆、自分で選ぶことはできない。
なんだか極端な例えな気もするけれど、大きな歴史の流れの中ではそんなもんだろうと思うと気が楽である。
朝の連ドラ「虎に翼」で主人公を導く師が「雨垂れ石を穿つ」と度々言う。
法の保護が男女対等に与えられるまでには途方もない月日を要していて、その数代に渡る闘いにおいて個人は雨粒に過ぎないことの象徴のように語られる。
初の女性弁護士の一人であり初の女性判事となる主人公にとっては、いますぐにでもその手で穿ちたい石があるのに、雨垂れで挑まなければならないとくれば絶望である。どんだけ、歩みが遅いのよ、と。
そう考えていくと、100年、いやそれ以上かかって作られた流れの先に、今議論されている選択的夫婦別姓だって実現するかもしれない。
弁護士も、検察官も裁判官も、今は女性が活躍しているはずである。かつて男性ばかりであった他の職業も同様にそうなっているのではないだろうか。
社会で女性が活躍する時代と言われて久しいけれど、男性に比べたとき、女性、特に子を持つ女性は不利な立場に立たされる人は多いと思わざるを得ない。
職場での偏見、パワハラセクハラ、ワンオペ育児や介護、小1の壁、様々な重荷を背負い、本人の納得できない仕事や職場環境や離職などの選択肢を受け入れて行く女性はいる。
何も知らない人が言う。
本人の実力ややる気や能力の不足では?と。
それはそう考えた方が都合の良い人の言い分だ。
偏見のある人がたまたま職場に多いとか、職場に女性の立場をよくする人がたまたまいないとか、夫が育児参加できないとか、育児を頼れる人が近くにいないとか、ほんとうに「たまたま」そのような状況に置かれたからそうなったんじゃないか、と当の本人の視点に立つと言いたくなる。
そして、当の本人は、そんなことを言うのは泣き声だとか甘えだと蓋をしていることがある。
自分にはどうしようもないことは規模の違いがあれど多々ある。
大きな時代の流れでそうなってるんだ、物事よくなって行く途中なんだと思って、自分のせいではないと思うことは間違っていないと思う。
頑張りたければ頑張ってもいい。
そして、雨垂れでいいやと思ってもいい。
そんなふうに思う。
川の水面をゆらゆら漂う人生を想像すると、今とても恵まれているように思えてくる。
日本という、戦争のない国に住んでいること。
東京という、先祖代々のなんたらに縛られない土地に暮らすこと。
毎日働ける体があること。
電気ガス水道や食べるものがあること。
そして、一風変わった夫に、独特なセンスのある長男と、かわいさと熱さを兼ね備えた次男との日々は狂気を覚えることもあれど、喜怒哀楽に満ちている(楽は少なめ)。
魂の好物は、心を動かされることだとしたら、今頃私の魂は喜んでいるはず。
セーヌ川で行われたパリオリンピックの開会式をテレビで見ながら、そんなことを考えていた。
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