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ままならないワーママの考え事「気持ちは言葉にしてもらうのを待っている」

悩み、葛藤、恨み、妬み…
ネガティブな言葉は口にすると自分が黒くなるようで言葉に出しにくい。

言っても変わらないことだから、と、ポジティブな気持ちに変えて前に進んでいく人も多いと思う。

「気にしない」鈍感力が最強のソリューションと本で読んだ覚えもある。感情を手放す、という言葉も聞いたことがある。

そんな遠ざけられるネガティブな言葉の陰に隠れた「助けて」を消し去って蓋をしていないだろうか。

例えば、ずっと「私なんていない方がいいんだ」と思って生きてきた人がいるとする。

「私だって大切にされたい」と密かに、それも本人が気づきにくいくらいの心の奥底で思っていたとしても、繰り返し繰り返しその気持ちをなかったことにしてきたら?

殊更、結婚して、子どもいるとなると、自分より他の人を優先させる人も多い。睡眠が取れない、仕事で肩身が狭い、まともな食事が取れない、お風呂のあと髪を乾かせない、仕事で理不尽な扱いを受ける、夫にモラハラを受けた、など、耐え続けることになる。

結婚したのは私、仕事を続けることを選んだのも私、子どもを産んだのも私、だから私が踏ん張らないと、とずっと「大切にされたい」と思う気持ちを底に沈めて生きていく。

世間も「ないものねだり」と言うから…と。

最も身近な味方である自分を失ってしまうと、自分で自分を大切にする最終手段も断たれてしまう。

この例の場合、どこかの時点で「私は、私の思う道を行こう!」と心の奥底の声を聞きつけてくれることを願うばかり。

ところで私のことに話を戻すと、幼い頃の経験から根本的な自己評価が低く、「人を頼っちゃいけない」と言う意識が根付いていることに最近気づいた。

どうしてそうなったかは横に置いて、この「人を頼っちゃいけない」という思い込みは、あらゆる思考回路に派生していく。

人に何かを頼むとき、頼み方が丁寧か、内容が妥当かやけに気になったり、自分でできることややるべきことではないかを入念にチェックしたくなる。

何かを借りることに躊躇したり、物を残して死ぬことが怖かったり、人との距離がつまるのが不安だったり。

悪いことが起こると「自分のせいではないか」「自分にできることがあったのでは」といちいち考えたり。

人に便乗したり頼ったりするのが上手な人や、一般的に未熟とも取れる言動を厭うことなく他人に見せる大人なんかを見ると、もやっと自分の気持ちに黒い雲がかかる気持ちになったものだ。

でも実は「私も頼りたい」と言う気持ちもどこかにあったはずなのだと最近気づいた。

頼りたいけど頼れない、そんな凝り固まったちっちゃな頃の自分の気持ちが変な頑固な自分を作り出していたのかれしれない。頼ると楽になる、自分を預けると心地よい、そんな人が人生に現れるありがたさを味わいたかった。

うまくいかないとき、なんでそうなるのだろう?なぜなぜ?と解きほぐしていって気づいたことだ。

「頼りたいけど、頼れなかったんだね」
そう心の奥底にある自分の気持ちに声をかけてあげた。それもことあるごとに。

(実はちゃんと、頼らせてくれようとした人はいたんだろうな)

そしたら不思議なことに、長年の氷が溶けていくような気がした。ずっと、この気持ちは、いろんな場面でサインを出して「助けて」と言っていたかも知れない。でもその正体にずっと気づけなかった。

気持ちというものは、わかりづらいときがある。それらを絵に描いたり音楽で表現する人もいるかもしれないけど、私はやはり言葉で表現するのがいちばんしっくりくる。

言葉にならない気持ち、という表現があるくらいだから簡単に言語化できない気持ちと言うのもある。足が早く捕まらない、泡のように消えていく、そんな気持ちもある。わかりづらい場所にずっと隠れている気持ちもある。

でも、気持ちは、きっと、どこかでいつか、誰かに、言葉にしてもらうのを待っているんじゃないか?と思う。

日常にある喜怒哀楽その他もろもろ、気持ちを見つけることが上手になりたい(自分はもちろん、もしできたら他の人のも)。そしてそれを言語化するのも上手になれたらなぁ、と思う。

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