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名探偵の卵の私たち
「はじめまして」
彼は丁重に挨拶し、思わぬ強さで私の手を握りしめた。
「アフガニスタンにいらしたんでしょう?」
「なぜそれがおわかりになったんです?」
私は驚いて尋ねた。
「いや、お気になさらず」
彼は嬉しげに微笑った。
(訳・ほたかえりな)
特にミステリーや探偵ものがお好きでなくとも、この一連のやり取りに、思い当たるところのある方もいらっしゃるのでは?
コナン・ドイル作『緋色の習作』のワンシーン。
ロンドン・セント・バーソロミュー病院の一室でのこの出会いから、今なお世界中で愛される名コンビの物語は幕を開けます。
科学実験の最中だったシャーロック・ホームズは、友人に連れられて入室したジョン・ワトソンを一目見るなり、彼がアフガニスタンから帰国した軍医であることを見抜きました。
ホームズの卓越した推理力が披露されるこの場面で、ワトソン同様、読者も心を掴まれますが、ホームズは超能力者ではないため、その断言には論理的な裏付けがあります。
まずワトソンの外見がいかにも医者的、しかも軍人風であることから軍医であると気づき、顔に比べて手首が日焼けしていないことから熱帯地方にいたと判断、憔悴した顔と身体の怪我からイギリス軍が戦闘中のアフガニスタンに違いない、と推察したのです。
お見事というほかない洞察力で、しかもこれだけの推理に〈一秒もかからなかった〉というのですから、常人離れにもほどがあります。
けれど、これはいかにも物語的な作りごとでなく、作者のドイルがエディンバラ病院の医師ジョーゼフ・ベル博士をホームズのモデルにしたことは有名ですし、記号論学者トマス・シービオクは、ホームズを“アメリカが産んだ最も独創的で唯一無比の知性”チャールズ・パース(哲学・記号学・論理学・天文学・化学・経済学・文献学その他の分野における万能の天才)と同一視しました。
それはホームズが、パースの唱えた〈アブダクション〉という思考法を駆使しているためです。
ごく大雑把に言ってしまえば、アブダクションは〈連想を含んだ当て推量〉です。
ホームズがワトソンのアフガニスタン帰りを見ぬいた推理のような。
これがこうなら、どうなるか。
もしこうならば、こうのはず。
そんな風に、何かを絶え間なく問いつつ次の問い、また次の問いへと進み、時に大胆にジャンプする。
大きな過ちを犯す危険性を孕みながらも、広い視点で発展的な問いを連続させて仮説を立て、真相の看破へとつなげていく。
この仮説形成による思考法を、パースは人間の知的思考において、最も重要な思考方法だと考えました。
もっと他の例もあげるとすれば、私は家の近くの歴史公園ですれ違うアジア系の人たちが、果たしてどこの国の人であるか、ほぼ完璧に言い当てられます。
たとえその人たちが、全く同じメイクと髪型をし、洋服やバッグまでお揃いであったとしても。
もちろん、あらかじめ話し言葉を聞く、などというずるは無しです。
あまりもったいぶることでもないため種を明かすと、私が着目するのはその人たちの歩き方です。
そこには、本人たちが思ってもみないほど、民族的な特徴や文化的な差異がはっきりと現れています。
たとえば足元だけで日本人女性だとわかるのは、つま先が内にねじれて内股がちで、靴底を擦って歩いているから。
これは男性も同じであり、靴の踵で地面を蹴って歩く人はごく稀で、たいていの人が歩幅は狭め、膝下だけを動かして身体を前へ進めます。
もっと専門的に見れば、大腿四頭筋という前ももの筋肉、下腿三頭筋というふくらはぎの筋肉が過剰に働き、骨盤も後傾しているため、ほとんどの人が猫背です。
韓国の人はつま先は前へ向いているものの、やはり膝から下で歩いています。
歩幅は日本人よりも大きいために、進むペースも速めですが、上半身と下半身の連携は感じられません。
こちらは骨盤ニュートラルか、やや後傾気味の人が半々で、猫背の人と背の伸びた人が混じっています。
中国の人はつま先が外を向き、膝も外向き、いわゆるガニ股の人が大多数です。
腿裏のハムストリングスという筋肉群を使って脚を動かすために、勢いがよく、力強い歩き方。
骨盤はニュートラルか前傾気味で、背はすっきりと伸びているかやや反り腰の人が目立ちます。
他にもフィリピンの人の重心の高さとリズミカルさ、インドネシアの人のしなやかさなど、色々と着目点はあるのですが、ひとまずはこれくらいにして。
これは私が人の身体や動き方を観察するのが好きなためと、幼い頃から外国の人と行き合うことの多かった環境が合わさって身についた、あまり役に立たない一種の特技です。
外したことがほぼ無いと言い切れるのは、これはこの国の人のはず、と自分の中で確信したら、必ず近くへ行って会話を聞くか、可能なら挨拶をするなど軽く言葉を交わすという検証をセットにしているためです。
そうして、やっぱり間違いなかった、とひそかに喜んでいるのですが、これを「高度な遊びだ」と笑ってほめてくれるのは、私のボディーワークの先生くらいでしょう。
こんなちょっとした趣味を自分の推理と一緒にするなんて、とホームズさんは気を悪くするかもしれませんが、これも立派に〈アブダクション〉の一種です。
“人類の最も重要な思考法”はこんな風に意外と誰の身近にもあり、皆が使っているものでもあります。
もしかして、あなたも名探偵の卵かもしれませんよ?
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