滅ぶ美、その永遠性


昨日、用事があって市役所に行ったとき、駐車場のアスファルトの上に散らばる鮮やかな桜の花びらにふと意識が向きました。
それと同時に、作家の渡辺淳一さんがエッセイ集「退屈な午後」のなかで、桜の美しさと憂鬱さについて綴っていたことを思い出し、帰宅して読み直してみると少しだけ思うところがあったので、本の引用を交えてここに書き残しておきます。


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渡辺さんは、桜があまり好きではないそうです。それは嫌いというわけではなくて、見ていて辛いから、という理由があってのことだそう。満開の桜を見ていると息が詰まって、「お前、どうしてそんなに一生懸命咲くの」とききたくなる、と、渡辺さんは切実に語っておられます。


「あれだけ真剣に咲けば、長く花をもちこたえられるわけがない。桜の散り方を、潔いと讃える人が多いが、僕はそんな気にはなれない。潔いというより、むしろ痛ましい」


そしてそんな桜の咲き方に、渡辺さんは中年の猛烈サラリーマンを連想します。


「もう少し肩の力を抜いて気楽にやればいいのに、どうしてあんなに頑張るのか。真摯で誠実で一途で、どこも非難するところはないが、見ていて辛い」


「退屈な午後」は昭和五十七年に刊行された本で、読んでいると今とは違う当時の価値観にひええと思ってしまう箇所が多いのですが(個人的に)、桜に対する感傷的なこのくだりは、渡辺さんの父性的・男性的な繊細さと優しさを感じました。

桜が精一杯に咲く姿に多くの人が心を打たれるのは、その「跡形もなく滅ぶ美」に、無意識にというより、意識的に生と死を結び付けているからなのかもしれません。切り離すことのできない生死と美、その儚さを、桜は語りかけてくれています。



生死と美といえば、わたしは美しいものにふれたとき、なぜかいつも死にたくなります。自殺したいというのとは少し違うのです。でも、その場で言葉にならない叫び声をあげてうずくまって、そのまま消えてしまいたくなります。べつの言い方をすれば、美の世界へ帰りたくなるというか、この世界そのものと一体化して、すっかり溶け込んでしまいたくなるのです。それはなぜでしょうか? 同じような感覚を抱く方は多いと思うのですが、わたしにはその理由がわかりません。


医者でもあった渡辺さんは、いくつかの本の中で繰り返し死についてふれています。「ふたりの余白」というエッセイ集は、「ある死の背景」というタイトルから始まり、「死からの出発」というタイトルで終わります。こちらもおすすめです。一か所引用させていただきます。


「激しく愛したあと、人はふと死のことを考える。愛の歓喜のまっただなかでさえ、死のイメージがつきまとう。生の最たる愛の瞬間に、死が横切るとはどういうことか。もしかすると創造主は、私達に愛と死は、引き換えであることを暗示しているのかもしれない」


引き換え、という言葉がわたしは少し苦手です。単純な言葉のはずなのに、頭がこんがらがってしまって、どういう意味かわからなくなってしまう…。愛と死が引き換え? うーん、難しい。もうちょっとお勉強が必要です。


でもたとえばわたしだったら、人を愛しんで大切にしたいと思う気持ちを知らなければ、花の美しさやそこに含まれる悲しさを知ることもなかっただろうし、いつかは必ず訪れる別れの予感や愛することの痛みというある種の死の要素がその瞬間を横切らなければ、その歓びを知ることは決してなかったと思います。永遠ではないからこその一瞬の尊さを花の命に見出すこともなかった。
当たり前のことかもしれませんが、わたしはこういうことを改めて考えてみてやっと深く実感することができました。愛と死が引き換えって、そういうことなのかな。


皆さんは、桜を見てふと心に思い出す人はいますか。わたしは昨日、地面に散った桜の花びらを見て、ある人のことが思い浮かびました。ひとりではなく、数人です。その人たちと心の中で一緒にお花見をしました。彼らもわたしにとっては桜と同じ、生きることの歓びを教えてくれる人なのです。

生きることに真剣じゃない人なんていない。永遠に生きる人なんていない。わたしたちはみな同じ世界に暮らす友人であって、いつか必ず滅びてゆく形あるもののすべては、わたしたちにとって、かけがえのない宝物であると思います。


そして、いつか跡形もなく滅ぶとしても、永遠はあるとわたしは信じています。

永遠とは時間が止まっていることじゃない。巡る桜の命のなかにも、優しく吹く風のなかにも、流れ続ける川のなかにも、わたしたちの何気ない日常のなかにも、永遠性はある。目に見える形を失うときが来ても、そこに永遠はあるのだと、わたしは信じています。


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