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わたしよりもたくさんの


月に二度、精神科病院に行く。今年の夏で通い始めて十年になるけれど、病院にいると、世の中にはじつにいろいろな人がいるものだと深く考え込んでしまうことがある。

たとえば、いつも同じ時間に同じ場所で目を瞑ってぴょんぴょんと飛び跳ねているおじいさんがいる。きっとおじいさんにとってそれは一種の大切な儀式なんだろうな。一生に一度の願いをこめるみたいにぎゅっと目を閉じて、それはもう一心に飛び跳ねている。そのおじいさんは受付などの人が多い場所では、なぜかこそこそと、とても申し訳なさそうに物陰に隠れている。


ある男性は、いつ見てもかならず500mlのコカコーラを飲んでいる(ある時期からコカコーラゼロに変わった)。俳優顔というか、端正なお顔立ちの方で、なんともいえない寂しそうな表情を浮かべながら、ものすごく遠くの景色を見るような目でいつもごくごくとコーラを飲んでいる。コーラを持っていないところを見たことがない。もしかしてこの人は周りにいる人たちの姿がまったく見えていないんじゃないだろうかと本気で思ってしまうくらい、まったく周囲に関心なさそうに、べつの世界が見えているような眼差しでコーラを片手にただぼんやりしている。


ほかにも三人で来院してしょっちゅう怒鳴り合いの喧嘩になっている高齢のご家族や、診察室でパニックを起こしてストレッチャーで運ばれていく人や、泣いているらしい電話相手を優しい声で一所懸命になだめているお姉さんや、廊下で息も絶え絶えにうずくまって背中をさすられている男の子などと出会うことがある。

何年か前、いつも受付で居合わせるおじさんのひとりごとを聞いた。

「首吊って死ぬのは悪いことじゃない。首吊って死ぬのは悪いことじゃないから…」

おじさんは自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。それを聞いた瞬間、わたしはなんだか大声をあげて泣きたくなった。朝の光の中で、その男性の人知れないつらさを思いがけず垣間見てしまったような気がして、世界が突然朝から夜に変わったような、そんな切なくて悲しい気持ちになった。


そんなふうにいろいろな人に囲まれて静かに座っているとき、いつもわたしの頭のなかには中島みゆきさんの「時刻表」が流れる。

その歌には「人の流れの中でそっと時刻表を見上げる」というフレーズがあるのだけれど、わたしも病院にいると、その歌の主人公のように雑踏のなかでぽつんと時刻表を見上げているような、そんな気分になる。そして強く孤独を感じる。みんなして長い長い群像劇の舞台の上にいるみたいだと思う。



また、作家の五木寛之さんは「人間の覚悟」の中でこんなことを書いていた。


「一本のライ麦が砂の中から水だけ吸い上げ、六十日間を生きつづけるために、シベリヤ鉄道をはるかにこえるくらいの長さの根を張りめぐらせ、その命を支えていた。そう考えたら、その麦は色がさえないとか、穂が付いていないとか文句を言う気にはなれません。そこには生きつづけるというだけで、ものすごい努力があった」


本の感想を共有するサイトで、この一節に対して「植物の成長と人間になんの関連がある」というような感想が書かれているのを見かけたけれど、わたしにとっては大切に胸に刻んでいる言葉のひとつでもある。



病院に限らず、日常の中で、他人の何気ない仕草や言葉が自分の心をふっとかすめていくことがある。そういうとき、当たり前だけどこうしてすれ違うひとりひとりに何年、何十年という過去があって、他人であるわたしはその過去を束ねた姿にほんの少し手を伸ばして触れる程度にしか相手を知ることはできないんだろうなあと思う。すると生きることや人と人が理解し合うことの途方のなさを感じる。そして五木寛之さんの言葉を思い出す。みんなみんな生きつづけるというだけでものすごい努力があったんだ。それを考えると、とてもじゃないけどわかり合えそうにないと思うような相手と出会ったとしても、たしかに他人の人生や生き方に対して簡単にどうこう言おうなんて思えなくなってくる。


どうこう言い合うことの大切さはわかっているつもりだし、意見しあってこそ発展していくものもたくさんあるけど、やっぱりみんな事情があると思う。いろいろな性格の人がいて、いろいろな生き方があって、そうなったのには理由がある。

他人がどんなに幸せで満ち足りた生き方をしているように見えたとしても、あるいはどんなに普通から逸れているように見えたとしても、自分はきっと彼らのことをなんにもわかっていなくて、同時になんにもわかられていないんだろうなと、ひとりで納得している自分がいたりする。 人混みに囲われてぽつんと時刻表を見上げているような気分って、そんな感じのものなのかも。



大勢の人に囲まれて花のように愛されているように見える人でも、もしかしたらその人はどれだけ多くの人から愛されているかということとはまったく関係のないところで孤独なのかもしれないし、逆に周りからはとことんみじめな毎日を送っているように見られている人でも、その人から見える世界はほかの誰が見るよりも豊かで美しいものなのかもしれないし、今は人が羨むような人生を送っている人でも、そこにたどり着くまでには他人の想像を軽く超えてしまうくらいのつらく虐げられ続けた日々があったのかもしれない。優しそうに見える人だけが優しいわけでもない。いつもドライな人だって休日は家にこもって一日中泣いているということも有り得る。

そういうことが人の数だけある。完全に理解されることって、ないんだろうな。

それは人間の宿命的な孤独であると思う。それでも互いに歩み寄ろうとか、わかり合えるかもしれないとか、そういう希望を抱き合って生きる人々の姿には、そんな深い孤独と引き換えにしても十分ありあまるほどの輝きがあるような気がしてる。



人と人が心の底から理解し合うことなんてできないのかもしれないっていうあるがままの現実を、わたしは最近やっと、まあべつにそれでもいいかと思えるようになってきた。


いつかの詩にも書いたけど、たとえばわたしが右に曲がったら、一緒に右に曲がってくれることだけが愛情や優しさではないということを、最近やっと体感することができた。わたしは右に行くけど、あなたは左に行くんだね。それでも好き。ううん、だからこそ好き!って、この頃ごく自然に思ったりする。

それはわたしが、今更ではあるけれども人間そのものの孤独やわたし自身の孤独を少しずつでも受け入れることができるようになってきたってことなんだと思う。

わかり合えるかもしれないという希望を持ったって不安になることはわかってる。人がみんなそれぞれに死ぬまでそんな孤独に耐えて生きていくことを思うととてもつらくなるしどうしようもない悲しみを覚える。だけど「それでも大丈夫」と自分に言えるようにもなってくるんだなあ。しょっちゅう心は折れるけど…。

そして、そうやって耐えながらでも人は幸せに生きていけるんだと思わせてくれたのは、やっぱりいろいろな人がそれぞれのやり方で生きていく姿だったような気がする。


だからいろいろな人がいてよかったなあって最近は思う。なにせこの世界にはわたし以外の人間がわたしよりもたくさんいる。それ故に複雑怪奇な世の中だけど、でもつらいことばっかりじゃないなって、なんとなくこの頃は感じる。

他人は死ぬほど怖いし、それ以上に自分が怖いし、この世は混沌としていて戦々恐々の毎日だけど、怖い!無理!死んでしまう!!って思いながらの毎日でも、まあ生きていけなくはないのかも。

目の前にいる人はみんな、ものすごい努力の果てに今日まで生き続けてきたすごい人たちなんだよね。そんなこと考えてたらまた気が遠くなっちゃいそうだけど、人の生きる姿には、愛さずにはいられない何かが、やっぱり、あるんだよなあ。


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