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Cadd9 #33 「世界より、ほんの少し優しいばかりに」


手つかずのままだった制服の採寸や教材の購入を終え、高校に入学して一週間のうちに、樹はアルバイト先を見つけた。

まず、学校の付近にある新聞の販売所で朝刊の配達が決まり、数日後には、運送会社での降ろし作業と積込みの仕事も手に入れた。これは夜間だ。面接の際、かなり体力を使う仕事だと何度も念を押して言われたうえに、学生ということもあって渋い顔をされていたが、その場で採用してもらえることになった。家から職場まで徒歩で三十分ほどかかる。夕食後の運動を兼ねて、走っていくことにした。


朝刊の配達は週に二日、積み降ろしの仕事は三日だった。土日は予定がない限り、丸一日勉強に費やすことにした。好きにさせてもらうぶん、成績のことで多川夫妻に迷惑をかけることだけは避けたかった。


シフトが重なる日は、忙しい。午前二時に新聞社に出社して、四時すぎに配達を終えて帰宅し、七時半まで眠る。八時半までに登校し、学校ではなるべく目立たないよう、大人しく過ごすよう努めた。入学してすぐのころ、運動部の勧誘につかまって何日もにこにこした顔でつきまとわれたり、四方八方から色々な理由で絡まれて、面倒くさかったからだ。


高校の生徒たちは、みな朗らかで陽気で、人当たりがよく親切だった。樹はその学校で数日過ごすうちに、やがて彼らが全員、男子は宏一に、女子は百合美に見えて仕方がなくなってきた。中学にいたような不良はひとりもいない。いたとしても、周囲に気づかせないはずだ。勝部兄弟やその取り巻きと比べるわけじゃないが、わざと鞄や靴を潰したり、制服を変形させたり、そんなことは決してしない。


とはいえ、やはり変わった人間もいる。樹の隣の席に座る男子生徒はその代表だ。彼は休み時間のあいだ、いつも無言のまま彫刻刀で鉛筆を削っている。彼は深い恨みのこもった目で鉛筆と彫刻刀を見つめ、一本、また一本と削っては、机に並べていく。


「なにやってるんだ?」


と、樹は試しに声をかけてみたことがある。しかし反応がなかったので、

「そんなに尖ってたら紙に穴が空かないか?」


と冗談で言ってみた。しかし彼は見事なまでに無視を決め込んだ。樹はなぜか無性に腹が立って、こいつにはもう二度と話しかけまいと思った。


授業が終わると、真っ直ぐに帰宅する。三時間勉強したあと、夕食を食べたら、すぐに走って運送会社のアルバイトへ向かった。十時半に帰宅して風呂に入り、翌朝にバイトがある日は、数時間眠ったあと、また朝刊を配る。配達には百合美の水色のママチャリを借りた。


トラックへの積み降ろしの仕事はたしかに体力を消耗したし、忙しかった。朝刊の配達も、雨の日は早朝からずぶ濡れになることもあった。


やめたほうがいいよ、そりゃいてくれると本当に助かるけどね、体壊しちゃ元も子もないよ。せめて配達か積み込みか、どっちかにしたら。と、どちらの会社からも言われた。たしかに覚悟していた以上に疲労感はあった。でも、樹は苦痛を感じなかった。毎日疲れ果てるおかげで、あまり夢も見なくなっていた。


三日に一度、樹はミナミと電話で話をする。シフトが重ならない日の夜は時間に少し余裕がある。最初に電話をしたときは彼女の父親が出て、名前を名乗るとすぐに切られてしまった。無音の受話器を持ったまま、俺は父親という立場の人間に嫌われやすいのかもしれないな、と樹は思い、仕方なくその日は諦めたのだった。



「いつ帰ってくるの?」


ある日、電話でミナミにそう聞かれた。週に一度はナスノさんの見舞いに行くつもりでいたが、学校とアルバイトも、多川家での暮らしも、この新しい生活でうまくやっていこうと懸命になっているうちに、越してきてからもう三週間が経っていた。


「今度の日曜日に必ず病院に行くから、そのあとで会おう」

「日曜日ね。午後ならいいわ」


ミナミは週に何度かナスノさんの見舞いに行っていて、その都度電話で様子を伝えてくれていた。ミナミは新しい学校にあまり馴染めていないようだったが、彼女はいつも、ナスノさんの体調や樹の暮らしぶりを会話の中心に置き、あまり自分の話はしなかった。


女子同士の絶えない悶着話や愚痴なら、今まで散々聞かされてきた。そのミナミが、口を開きたがらない。樹は心配になって、何度もうまく話を聞き出そうとしてみたが、そのたびに話題を逸らされた。早く直接会って話をしなければと思っていた樹は、会う日取りが決まって少しほっとした。


「ところで、直は最近どうしてるんだ?」


樹は聞いた。直の家に何度も電話をかけたが、一向につながらないのだ。


「相場君? たまに会うけど元気よ。最近は、あまり家に帰ってないみたいだけど」

「家に帰らずにどこに行ってるんだ」

「なんだか、友達の家を転々としてるらしいわよ」

「あいつが?」


直が他人の家を渡り歩いているところを、樹はうまく想像することができなかった。そんな友達がいることさえ知らなかった。大丈夫なのか、と樹は心の中でつぶやいた。


「彼、ツキモリがいなくなってから変わったみたい」

「変わったって、どんなふうに」

「それは、うまく言えないんだけど。ただ、なんていうのかな、前ほど真剣じゃなくなったっていうか。いろんなことにね。それに、口数が増えたわ。ツキモリに口調が似てきたみたい。わざと似せてるのかもね。でも、明るくなったっていうのでもないの。彼は彼なの」

「大丈夫なのか。それは」

「大丈夫なんじゃないかな、たぶん。たしかに前とはどこかちがうけど、無理してるような感じもしないのよ。むしろ、ちょっと楽になった感じ」


樹は、最後に直と会ったときのことを思い返した。そういえば、あのときも直はどことなくいつもとちがっていた。初めて出会ったときから、直はいつも存在自体が揺らいでいる感じがした。でもあの夜は、その揺らぎがなかった。もう、自分の進むべき道を見つけたような……。


「ねえ、前から気になってたんだけど、どうしてそんなに相場君のことを気にかけるの? あんまり年下とは関わらないじゃない。ツキモリって」


ミナミは、はきはきとした声でそう言った。考え事に耽っていた樹は、ミナミの質問に少し戸惑った。


「だって、友達だし」

「それだけじゃない気がするわ」

「それだけだよ」


そう言ったとき、樹はふと、誰とも口を聞かず、いつも机に座って鉛筆を削っているあの男子生徒のことを思い出した。思い出したらまた腹が立ってきた。なぜ彼のことが頭に浮かんだのだろう。あいつと直はちがう。でも、なにがちがうんだ?


「どうにしかしてあげたいと思うんでしょ? 彼を見てると」


ミナミはそう言った。一瞬、樹はあの鉛筆削りと混同してべつにそんなことはないと思ったが、ミナミは直のことを言っているのだと気づいて、笑った。


「そんなふうには思ってないよ、全然」

「そう?」

「どうにかしてあげたいとか、そんなんじゃない」

「じゃあ何よ?」


なんだろう、と樹は考えた。

直の声や、瞳や、ただぼんやりと突っ立っているときの、あのつかみどころのない茫洋とした佇まいを思い出す。俺じゃない。俺に理由はない。あいつの中にある何かが、俺にこんな気持ちを抱かせるんだ。


「なんだろうな。直が生きている姿を見てると、なんだかそれだけで救われるんだ。優しい気持ちになれるんだよ。それは、直が本当にいい人間だからだ。あいつはたぶん、これからもずっと傷つきながら生きていくだろうな。この世界よりも、ほんのちょっと優しいばっかりに」


そのあと、ミナミはずいぶん長いあいだ黙り込んでいた。電話が切れたのではないかと思ったくらいだった。しかしよく耳を澄ましてみると、コツコツと何かを叩く小さな音が聞こえていた。


「あなたと相場君は、最初から傷つけあわずに済むってわかってる関係でいいわね」

「どういう意味だよ、それ」

「なんでもないわ」

「馴れ合いじゃないぞ」

「わかってる。友達なのね」


もう遅いから寝るわ、とミナミは言い、勢いよく扉を閉めるような音をたてて、電話は切れた。



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眠れない夜に

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