車窓と少年僕。
渋沢駅付近を走る列車の窓から見える木々と山々。小田急線渋沢駅付近はスマホの電波が弱く、結局電波が届かなくなって画面からふと目を逸らす。通勤通学のラッシュの時間帯なんかは混んでいるから前なんて見通せないけれど、それ以外の時間帯は前に座っている人も少ないから目の前の景色を窓越しに見ることができる。
思えば電車で外の景色を見なくなったのはいつからだろうか。初めて電車に乗った記憶なんて甚だないけれど、僕は確実に窓越しに移りゆく外の景色を眺めていたと思う。車が電車を追い越したときに喜び、線路沿いに佇む家々をぼーっと眺める。当たり広がる田園風景。大きい川を渡るというときには思わず口を空けてしまう。
どうしてだろう。足を踏み入れたことのない、僕の人生とは全く関係のない、「無縁」とも言えるその場所をぼんやりと眺めてしまうのだ。スマホがスマホとして機能しなくなった今も、僕は子どものときと同じような感覚を思い出す。
線路沿いに暮している人たちが世の中には存在して、田畑を耕している人がいて、犬の散歩をしている人がいて、自転車を漕ぐ学ランを着た高校生がいて…
僕という存在は、電車の外にいる彼らにとって単なる「電車に乗っている人」である。あるいは目も止めない無意識の中にいる存在だ。地球上、人口よりもゴキブリの生息数の方がはるかに多いのにもかかわらず、世の中たくさんの人達がいるんだなと無意識の存在を思わされる。
スマホから目を背くと見える風景に加えイヤホンを外すと聞こえてくる、電車が風を切る音と車輪の音。
よく、登山やキャンプといったアウトドアでは五感をを研ぎ澄ませようなんて言われたりするものだが、電車の中だって五感は十分に研ぎ澄ますことができる。無論、満員電車で五感を研ぎ澄ます行為は色々アウトだからおすすめはできないが。
空いている電車内で単純に五感を研ぎ澄ませることを僕たちは意識することはないし、目の前にあるスマホに夢中になってしまうのが現代の条理というものである。
子どもの時は目的地にたどり着くまでの過程も楽しかった電車内。今は目的地までの過程は消費するだけの時間だ。幼かったあの時みたいに、電車で楽しむことをも目的にできたら僕たちは ー それこそ永遠の ー 無邪気なままの子どもに戻れるのだろうか。
顔はこれからどんどん老けていくだろうし、髭もきっと今よりさらに濃くなる。髭とは裏腹に髪の毛は薄くなっていくだろうけれど、いつまでも子どものときの感覚は無くしたくはないものだ。そんなことをふと思った、今日この頃である。
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