世界
エンジンを止めて、車から降りて。誰もいない、木造の駅舎に入りました。ついていない電気。ほのかなカビのにおい。時刻表に目をやれば、ほとんど空白で。三十という数字が、数時間おきに並んでいます。
隅にぽつんと設置されてある、黄ばんだ白い券売機。前に立てば、故障中という汚い赤文字が、目について。その斜め下にも、色の変わった、しわしわの張り紙が。人差し指でそっと触れたら、パリパリに乾いていて。
「小銭が不足しています」
つぶやきながら、開かれた窓の前に置かれてある、木製のベンチへ。破れて綿がむき出しの、赤い座布団へと腰を下ろせば、色の濃い木が軋みました。お尻がちょっぴり、冷っこい。
吹き抜けてゆく、冷たくて暖かい風。仰向けば、角に張っているクモの巣が、甘く甘く、波立っていて。ときおり、きらりと瞬いています。動かないのは、絡まっている小さな蛾。薄い茶色が、波面でゆらゆら、揺られています。
背後から入ってくるのは、葉擦れの響きと梅の香気。入り口からは、前の道を通り過ぎてゆく、エンジンの呼気。コンクリートや小石に張りついたタイヤの、剥がれる乾いた音もまた。跨線橋へと続く、開けっ放しのドアへと目をやれば、赤茶のプランターに、枯れた植物が溜まっていて。フェンスでは、黄緑のツルが、淡い光を呑んでいます。寝返りを打つのは、地面の枯れ葉。
背もたれに体を預け、頭を後ろに傾けたら、おでこから前髪がいなくなって。視界の端で、小さな梅の花と、空の薄青がちらつきました。小鳥の声真似をしながら眺めていたら、うなじと背中が、だんだん痛くなってきて。汚れで濁っている窓の、左側の大きなヒビに、そのとき初めて気がつきました。
頭をもたげて座り直し、上着から、ポケットティッシュを取り出して。鼻をかめば、壁のまぁるい時計は止まっていて。なかに、小虫の死骸が積もっています。
見上げていたら、そばの駐車場に、車のやってくる音がして。立ち上がり、くしゃくしゃの白を、ポケットへと突っ込んで。扉から出て階段を上ったら、ぽかぽかと熱っぽくなっていく、ほっぺたと背中。跨線橋から駅舎を見下ろせば、赤い瓦は、どこも黒ずんでいて。壁の染みと汚れとを、日影がくっきり、浮かせています。
強く吹く風。そのにおいは、茶色だったり、緑だったり。駅舎の反対側からは、電動のノコギリの音がして。振り返れば、製材所に積もった空気が、飛び散った木の粉で、淡く淡く、白んでいました。
聴きながら、手すりに腕を乗せて、身を委ねて。撫でてみたら、塗装の剥げとざらつきに、耳を舐められ、鳥肌が立って。目玉を落とせば、手のひらが、指が、うっすらと汚れていて。灰色を甘く、握りました。
そのうち、まっすぐ続く単線の先の、小さな小さな踏切が、のどを鋭く鳴らし始めて。一両の銀が、ゆっくりゆったり、近づいてきます。下をくぐる直前に、老いた運転士の、瞳が戻すきらめきと、目が合いました。
そのまま動かずに、レールの脇の枯れたススキや、田畑や家や、向こうの透けた山々を、じっとじっと見つめていたら、階段を踏み鳴らす足音と、名前が一つ、上がってきて。振り返ったら、長くて茶色い髪と、化粧の濃い縦長の笑顔が、日影できらきら輝いていました。真っ白なキャリーバッグのタイヤの音が、遠のいてゆく列車の重い唸りを、押し返して、押し返して。
「どうしたんどうしたん。会う約束してたん夕方やろ」
「久しぶりやから、顔だけ先に見にきた」
微笑んだら、「あんなとこに誰かおる思ってびっくりしたやん」と笑われて。「そう?」となびく横髪を耳へかけました。そうしたら、指先に日の熱が移って。撚りながら、視線をそっと戻しました。
「見とってん」
「なにを?」
「世界」
返事はなくて。ちらと目をやれば、ふっくらとした首が、横に少し、傾いていました。
(了)
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