あじさい
枯れたあじさいたちの前で、女が一人、しゃがんでいた。丸い背中。カーキ色のシャツや藍色のスカートは、しわだらけで。顔をのぞけば、女の青い手が目についた。やせた十本の指が、花弁を包み込んでいる。
ねっとりとした風が、広場を這って。シャツの襟元でたゆたう黒髪が、陽光で真白に濡れている。女の正面で、朽ちかけたあじさいたちが、さらさら鳴って。紫、水色、白、ピンク。澄んだ色など、一つもなくて。あるのはただ、花の薄茶と、黄ばんだ葉。女の足元は、照り返しでまぶしくて。肌の蒼白だけが、鮮やかにきらついていた。
「なぁな」
眺めていたら、女は花に顔を寄せて。その手のなかで、あじさいがつぶれた。ふふふ。低い笑声が、ちぎれた一枚の飛花にこびりついて。風にまたがりやってくる。スニーカーのすぐわきを、はらはら転がっていった。顔を上げれば、目が合って。その薄い唇の端には、花弁が一枚、張りついていて。こちらをじっと見つめたまま、女は細長い指で、くっついていた花をつまんだ。首の傾いた細面は、赤くって。小さな鼻のてっぺんは、てらてらしている。丸い目はすわっていた。よく見れば、サンダルのそばに、缶が一本。女が腕を垂らせば、銀に当たって、中身がこぼれて。泡立つ黄色。ビールだった。
指から花びらが散る。缶を片手に立ち上がり、背を向けて。ざらついた足音。ふらふらと、右へ左へ。左の手首のヘアゴムが、黒い波線を、揺らめく空気に描いていた。セミが鳴き始める。あじさいの陰から、ぶぅんという羽音がした。
女の姿が見えなくなったあと、あじさいへ。近づいて、しゃがみ、両手で花を覆った。まねして、つぶしてみる。花びらの縁は硬くて、ちくちくして。だけどそれ以外は、やわらかくて、くすぐったくて。力を入れて、開いてみれば、べたつく手のひらを、薄茶が一枚、喰っていた。立って、手を払い、女の後ろ姿が溶けていったほうへと目をやれば、花片の足跡。くすんだ色がひとひら、ふたひら、残っていて。夏風が、拾っていく。
もう一週、あじさい広場をぐるりと巡った。枯れたあじさい一つ一つを、目で撫でた。ときおり、ベンチに腰かけながら。
広場をあとにし、田んぼを眺めながら、農道を進んで、国道へ。横断し、細い通りへと入っていけば、家々や製材所、それに小さな工場が、道に沿って並んでいて。それらを横目にしばらく歩き、途中で曲がって、狭い砂利道へ。携帯を片手に、きょろきょろしながら田畑のあいだを歩いていけば、予約していた民宿が見えてきて。木造だった。瓦屋根が、鈍く光を戻している。玄関のひさしを支えている柱は、ところどころ、欠けていて。腐っている。壁には黒ずみが目立ち、すりガラスの窓も、一部がガムテープで補強されていた。
なかへ入れば、紺色のエプロンを着た、ふくよかな中年の女性が対応してくれて。血色のいいその女性は、女将だった。
「あじさい見にきはったん」
住所と名前と電話番号を書けば、なまりのある声で訊いてきて。うなずけば、微笑した。
「それやったら残念やね。もう枯れとったでしょ」
「すっかりね」
「案外すぐ枯れちゃうんよ。そのくせ、枯れたあとはなかなか散らへん」
「いいんですよ、枯れてるやつが見たかったんで」
女将は小首をかしげ、だけどすぐ、そうですか、と笑った。
チェックインを済ませたあと、階段をぎいぎい、いわせながら、二人で二階へ。上がってすぐ右手にある、六畳の小さな和室。そこが客室だった。瑣末な説明を受けたあと、四角いちゃぶ台の脚元にリュックを置き、扇風機を回して。開いていた窓のうちの一つから、虫の横滑りする太い戯れが聞こえてくる。近づいて、網戸に手を伸ばせば、建てつけが悪いのか、思うように動かなくて。音に耳を舐められて、鳥肌が立った。目を落とせば、窓枠のカビと、小虫の死骸が、目に留まった。
外には田畑が広がっていた。田んぼには、白緑の波が立っていて。トンボもたくさん飛んでいる。稲を囲う水路は、銀波に蝕まれていて。セミの叫びに混じって、山鳩の鳴き声が反響していた。
木の窓台は、日に焼けていて。手を載せれば、熱かった。まぶたを閉じる。浮かんでくるのは、鳩でもトンボでも、茶色いあじさいでもなくて。さっきのあの、酒に酔った女の赤ら顔だった。ふさがった視界をちらちら流れていく、熱っぽい色味。女の紅潮したほおが、眼球にこびりついているようで。目をこする。一時間半くらいだろうか、ワンマン列車に乗っているあいだ、ずっと近くに座っていた女の顔が、ぼうっと漂う。のっぺらぼうだった。瞳を開けば、カラスが一羽、飛んでいって。白雲が、スッと裂かれていく。女のあの、描かれたものではない、本物のまゆの色に、よく似ていた。遠くでなにかがきらりと光れば、先の丸い、小さな鼻の、てかりに見えた。
身を乗り出す。あじさいは、ここからだと見えなくて。垂れた汗が手の甲で弾けたとき、重たい網戸と窓を強引に閉め、冷房をつけて。扇風機の前であぐらをかいた。息を吐いて仰向けば、天井には、たくさんの染みがあって。四隅の一角に、小さな穴が開いていた。ぐるりと部屋を見渡せば、また、ぶぅんという、羽の息。立ち上がって、階段の途中から女将を呼んだ。エプロンで手を拭きながら、とんとんとんと駆けてきて。蚊取り線香を。そういえば、押し入れの下の段にあると教えてくれた。謝意を述べ、戻ろうとしたら、玄関の引き戸が、がらがら唸って。ちらと振り返れば、女がいた。細くて青い指を缶に絡ませた、あの女が。その瞳は、どこか虚ろで。焦点が合っていないように見えた。背中を丸めながらサンダルを脱ぎ、散らかしている。
「入るときは裏口からにせぇって何回いったら」
「忘れてた」
女将は女に近づき、ささやいて。まゆをひそめている。筋の浮かんだ首を、女は揉んでいた。その指頭は汗を吸い、淡く光って。黙って見下ろしていたら、足元が軋んで。女が仰向く。目玉同士がぶつかった。女は首をかしげていた。軽く会釈すれば、目をぱちぱちさせて。そうして、前髪をかき上げた。手の汗が、髪に絡まって。生え際が、強くきらついて。
「あんた、お客さんやったん」
大きな声で訊いてきた。そうしたら、女将が女の肩を叩いて。けれどその口は、動き続けて。
「こんなとこ泊まるとか、貧乏なんやな」
「静恵《しずえ》!」
女将は女の腕を引っ掴んで。こちらに向かってぺこりと頭を下げたあと、奥の部屋へ。怒鳴り声が聞こえてくる。階段を上がって部屋へ戻り、黄ばんだふすまを開いた。机上のライターを使って蚊取り線香に火をつければ、漂う煙。鼻にちょっかいをかけてくる。大きく息を吸い込みながら、座布団に座って。机にひじをつき、窓の向こうをぼんやり眺めた。畳の隙間から、女将の低い声が、這い出て、這い出て。女の声は、しなかった。
しばらくしたら、女将が部屋にやってきて。謝意を伝えてきた。
「さっきの人は」
「娘なんです。おはずかしいかぎりで」
伏せられた瞳。困ったという目顔だった。
「娘さんもここで働いてるんですか」
「ここは畑仕事の合間合間にやってるもんで」
親指と人差し指をこすり合わせている女将の右手は、荒れていた。
「ほんまに申し訳ないです。酔いが覚めたら、本人にもちゃんと頭下げさせますんで」
女将はもう一度、謝ってきて。苦笑しながら、胸の前で手を振った。女将が出ていったあと、畳に大の字で寝た。ささくれが、シャツを貫いてきて。背がちくちくした。寝返りを打てば、畳の上の細かなゴミが、汗で湿った腕毛に絡まって。リュックからペットボトルを取り出して、水を飲む。のどを濡らし、机に載せて。少しずつ、日の色が濃くなっていく。座布団を頭の下に敷き、腕枕をして。眠ったり、うとうとしたり。そうやって体を休めていたら、背後から扉の開く音がして。目をこすり、振り返れば、女がいた。静恵と呼ばれていた、あの女が。そのほおは、さっき見たときよりも、紅潮していて。細い足首の陰から、熱っぽい空気が押し寄せてくる。女はこちらをじっと見下ろしてきて。そうして、ぺたりと座った。スカートの裾も、直さずに。
「あんたのせいで怒られた」
女の顔を、夕日がしゃぶる。その大きな目を、女は細めて。体を起こして、向かい合う。
「また飲んだのか」
「飲んでへん。飲めるわけないやん」
女の声が大きくなった。
「ずっと見張られててんから」
「女将に?」
「酒臭いんがマシになるまで、台所のイスの上で缶詰めやった」
女は畳に手をつき、顔を寄せてきて。そうして、はぁっと、息を吐いてきた。呼気は、アルコールでほんのり湿っていて。
「しかもそのあと、あんたの夜ご飯の下ごしらえ、手伝わされてん」
鼻で笑えば、女は畳を数回叩いた。茂ったまゆが、寄り合って。
「それで、謝りにきたのか」
「ちゃんと頭下げてこいっていわれてん」
女はそうしなかった。畳のささくれをつまみ、引っ張ってはちぎろうとして。
「あんた、こんなとこまでなにしにきたん」
「旅行」
「見るもんないやろ。市内とか東のほうが、よっぽどえぇもんあると思うけど」
「あじさいがあるじゃないか」
「あんなんもう枯れてるやん」
「だからきたんだ」
「枯れてるあじさいなんか見にきたん。どっから」
いえば、低い声で笑った。そんなとこから? あほやなぁって。唾液で濡れた小さな歯が、赤く赤く、燃えている。
「そっちこそ、あんなところでなにしてたんだ」
「あたし?」
首を傾けて。
「今日ので七つ目やねん」
「なにが」
「あじさい」
空気を包むように、女は両手を寄せ、指を広げて。そうして、手のひら同士をぱたんと合わせた。絡みつく十指。くしゃりという音が聞こえたような、そんな気がして。甲や指頭に降り注いでは照り返す太陽の光が、色鮮やかな花びらに見えた。
「枯れたあじさいなんかのどこがえぇん。思い出でもあんの」
ほくそ笑みながら、訊いてくる。
「ただ好きなんだ」
「好き?」
その問いは、語尾が少し、伸びていて。
「じっと見ていたくなるんだ」
「ふぅん」
女はまた、細い首をかしげて。まぶたをぱちぱち、鳴らしていた。
「夜は酒、出るのか」
「ほしいん。お金追加でいるけど」
「いっしょに飲むか」
「きも」
女は立ち上がった。立ち上がり、足の裏をかいて。ちりが落ちていく。
「あたしの分って、おごってくれるん」
「あぁ」
「貧乏やのに」
「借金してきたからな」
「借金?」
「だから特別だ」
「そう」
女は薄く笑った。笑って、部屋を出ていった。扉を閉める音は、荒っぽくて。階段をどたどた、下りていく。女将の声がまた、聞こえてきた。鼻で笑い、寝転んで。女の陽気な言葉に、畳を裏から叩かれた。お酒、お酒、と繰り返しているようだった。味噌のにおいがした。
宿を出て、玄関先で仰向けば、夕暮れを、ひぐらしの鳴き声がたたんでいて。深い青が、黄金を呑んで、秘色を吐いて。流れていく雲はたくさんの光と色を吸い、黒く焦げついていた。暮風からは、粘り気がなくなっていて。視線を落とせば、正面に見える山の木々が、暗色を散らしながら、揺れていて。田んぼがさらさら踊っていた。
「なにしてるん」
振り返れば、女が玄関に下りてきて。裸足だった。ぺたぺたと、音がにじんで。
「開けっ放しにしてたら虫入るやん」
「悪い」
「ムカデにヤスデ、蛾にカメムシ、それにカエル。蚊なんか大量やで」
指を折りながら、女はなめらかに言葉を垂らしていた。
「なに見てたん」
肩を並べてきて。
「めずらしいもんでもあった?」
「空と山だけだな」
「田畑もあるし。鉄塔も」
女は笑った。なかへ戻り、靴を脱げば、風呂へ入るよう勧めてきて。
「お湯、ちょうど沸いてん。ご飯まだやから、先入って」
「気がきくな」
「うっさいのがおるから、しゃあなし」
「それで話しかけてきたのか」
「うん」
二人で苦笑した。部屋から着替えを持って下りてくれば、女が風呂場へと案内してくれて。脱衣所は狭かった。普段は女や女将たちも使っているんだろう。洗面台の棚を開けてみれば、白髪染めやトリートメント、カミソリなどがしまってあって。浴室に入れば、水色のタイルがにんまりとしていた。見渡せば、新品の石けんと目が合って。銀色の浴槽は湯気を嘔吐している。体と頭を洗い、お湯に浸かった。熱が染みていく。目を閉じる。まぶたの裏が燃えていた。腕の力を抜けば、指先が底に触れて。隅のほうは、ぬめっていた。
「なぁなぁ」
ゆっくりと呼吸を感じていたら、脱衣所から女の声がして。影法師が、すりガラスに張りついている。少しのあいだ見つめたあと、お湯を顔にかけ、右手で拭って。
「聞こえてる?」
「なんだ」
「あたしも入るから、早く上がって」
低い笑い声が、口から垂れた。
「先に使えばよかったじゃないか」
「お客さんが最初って決まってんの」
女は扉をこんこん叩いて。
「なんだ。見たいテレビでもあるのか」
「ご飯できるまでに入っとかなお酒飲むの遅なるやん」
「手伝わなくていいのか」
「そんなんどうでもえぇし」
頭を振れば、張られたお湯に波紋が大小、広がって。前髪をかき上げ、首を鳴らした。
「分かったから、出ていけ」
「早くしてな」
女の影が剥がれた跡を眺めていたら、唇の緩んでいるのに気がついた。
湯から上がり、体を拭いて、ドライヤーの電源を入れれば、ぬるい風しか出なかった。タオルで頭を拭きながら、温風を当て続けて。瞳を閉じる。閉じて、うつむきながら手を動かしていたら、背中をぽんぽん叩かれた。ぺたりぺたりと、冷たさが濃く鳴って。思わず振り返れば、女がいた。タオルと衣類を抱えている。隙間から、下着の紐の黄緑が、ちらとこぼれていた。
「なんだ」
「え?」
電源を切ってもう一度訊けば、ドライヤーを奪い取って。触れた指先は、冷っこくて。やわらかかった。
「入るんやから、早く出てって」
「せっかちだな」
「あんたがとろいねん」
呆れながら服をまとめ、脱衣所を出た。部屋に帰れば、月影を、畳が薄く吸っていて。窓枠に浅く腰かけ、タオルで頭を拭きながら、外を眺めた。遠くの国道と近くの通りが、ぼうっと光を放っている。それ以外の細い道には、街灯なんてろくになくて。家々の電気が、白く、あるいは橙に、滴っているだけだった。それでも、流れてくる月光で、外は明るく見えて。山に目を向ければ、ところどころで、光の点が息をしていた。仰向けば、ふっくらとした月がいて。星座の輪郭がよく分かる。空は細かい星で満ちていた。たなびく雲の流れは、速くって。とろいねん、と一人つぶやいた。
エアコンを切って窓を開き、タオルを首にかけたまま、外をじっと見ていたら、背後から、オレンジ色の硬い光に、スッと眼前を裂かれて。後ろを向けば、やっぱり女がいた。グレーの短パンに、黒いTシャツ姿で。頭にタオルを載せている。濡れた髪が、首やほおにまとわりついていて。前髪からは、水滴がぽたぽた、垂れていた。電球の呼気と落ちていくしずくで、裸の足はびしょびしょで。
「なにしてんの」
「そっちこそなにしてるんだ。濡れてるぞ」
「呼びにきてん」
近づいてくる。その足の裏で、水気を含んだ音がした。足首に、筋が浮かんでは、沈んでいって。
「ほら」
右の手首を掴まれた。熱が巻きついてくる。その指頭に刻まれた小さなしわは、ぶにょぶにょしていて。手を握り返せば、女はきゅっと、指を締めて。骨の硬さが噛みついてくる。指をまじまじと見れば、あまりに細く、長かった。缶を握っていたときのように、女のつるが絡みついてくる。深く、きつく。
手を引かれながら、一階へ。白米の炊ける香り。女の足は、絶えずぺたぺた、しゃべっていた。広間に入れば、机と座布団が静かに佇んでいて。テレビはついていなかった。料理も運ばれていない。座布団の上であぐらをかけば、女も横に座って。そうして、タオルで髪を拭き始めた。ごしごしと。抜けた髪が、落ちていく。女は猫背だった。背骨や肩甲骨が、黒いTシャツの上を漂って。女を横目に、首のタオルで同じように、もう一度頭を拭った。
「ちょっと静恵!」
お盆を手にやってきた女将は、目を剥いていた。載せられていた白米は、銀色に息づいていて。
「そんな格好でなにやってんの!」
「別にいつも通りやん」
「お客さんの前やろ!」
女将はお盆を机に置き、謝ってきた。小さい笑みを返せば、女が威張って。
「ほら。この人も気にしてへんって」
「いい加減にしぃ!」
女将は女の二の腕を引っ掴み、無理矢理立たせて。引っ張られていった。はらりと落ちて残されたタオルに手を伸ばせば、びしょびしょで。髪が何本か、へばりついていた。柑橘の香気が、鼻をくすぐってくる。たたんで股の上に載せ、ざらざらとした広間の畳を撫でていたら、女が戻ってきた。白色の長いスカートを穿いて。
「またやん」
「なにが」
「あんたのせいで」
どさりとひざをつき、左肩を押してきて。傾く体。座布団を引っこ抜かれる。その拍子に、タオルが足のあいだへと沈んでいって。女は奪った座布団の上に座った。部屋の隅に積まれてあった座布団の山を指し、文句を垂らせば、女は抑揚のない声でつぶやいて。
「遠いやん」
女が股に腕を伸ばしてくる。そうしてタオルを手にし、頭を荒っぽく拭いて。女の薄赤い手を見つめながらため息をつけば、女将の呼ぶ声がした。気だるそうに立ち上がり、座布団の上へタオルをほっぽり出して。出ていった。座布団を引き寄せ、タオルをひょいと畳に捨てて。あぐらをかく。座布団は女の体温で湿っていて。ひどく熱っぽい。尻を浮かし、手で撫でれば、ごわごわしていた。毛玉だらけだった。
女はお盆を持って帰ってきた。その顔を見上げながら、ほくそ笑む。タオルを見て、まゆをかすかに寄せていた。けれど、なにもいわず、お盆を荒っぽく机上に載せ、鮎の塩焼きや味噌汁などを並べていって。お盆に目をやれば、汁がこぼれて、濡れていた。
「どうぞぉ」
語尾をいたずらに伸ばし、無表情のまま、右目の下を人差し指で伸ばして。鼻で笑えば、女は尻を小さく振りながら出ていった。入れ違うように、女将がきて。ひざをついた。
「ほんまによかったんですか」
「なにがですか」
「あの子、植田《うえだ》さんといっしょにお酒飲むって」
「こちらから誘ったので。瓶ビール、ありますか」
「ありますけど、でも」
「とりあえず二本お願いします」
笑ったら、困ったように微笑して。女将がいなくなったあと、女がまた、お盆を手にやってきた。すぐ横に、米やら魚やらを並べて。そうして、部屋の隅の座布団を引っ掴み、投げ捨てるように机の前へ。
「お酒、とりあえず三本持ってくるわ」
女は腰をかがめ、落ちていたタオルを手にし、頭の上へ。
「二本しか頼んでないぞ」
「そんなん絶対足りひん」
言い捨てて、足音荒く、部屋をあとに。雑に並べられた食器と、歪んだ座布団を見ながら、一人でまた、淡く笑った。
漂う湯気を、ほおづえつきながら眺めていたら、女が瓶ビールとコップを持ってきて。瓶は二本しかなかった。見上げれば、下唇を前歯でいじっていた。
「あかんって、怒られたのか」
「うるさ」
座布団に尻を下ろしてひざを崩し、甘くにらんできた。
「あかんのいい方、きもいで」
「そうか?」
首をかしげれば、女はビールの蓋を軽快に鳴らして。勢いよく注ぎ始めた。注いで、その細いのどをごくごくいわせて。コップはあっという間にからになった。女はコップの底で机を叩き、低い吐息をこぼして。そうしてまた、瓶を傾けて。女に流し目を使いながら箸へと手を伸ばし、味噌汁をすすった。わかめが流れ込んでくる。濃くて、塩からい。緑茶を飲めば、女の口の端に、泡がついていて。破顔していた。口を閉じて、げっぷもしていた。二つのほおが、ぷっくり小さく、ふくらんで。しぼんで。
「飲まへんの」
「注いでくれ」
「自分でしぃや」
もう一本の茶色い瓶を握れば、冷っこくて。手のひらが濡れねずみ。開栓して、コップに流し込み、一口飲めば、冷たさにこめかみを刺された。目をぎゅっとつむっていたら、耳元で女の声がして。まぶたを開いて返事をすれば、女は右手でコップを揺らして。たゆたう透明。水滴は垂れ、泡が鳴く。
「お酒、苦手なん」
「あんまり飲まないな」
「ふぅん」
「静恵さんは好きなのか」
「馴れ馴れし」
眉間にしわを寄せながら、後ろに手をついて。薄い胸が突き出して。
「よく飲むのか」
「飲むけど」
「毎日?」
女は口を半分開けたまま、電気の傘を見つめていた。その濁った白は、死骸で点々としていて。光の周りを、小さな虫が数匹、飛んでいた。
「あんたはなんで飲まへんの」
「なんでって」
「アルコールの代わりに遊びまくってるん」
答えずに、鮎の身を口へと運べば、女はお腹をぽんぽん叩いて。
「ありえへんか。縁なさそうやし」
「そうか?」
「枯れた花見て楽しむようなやつは好かれへんやろ」
女は箸と左手を使いながら、鮎を食べ始めた。背中を曲げ、食器に顔を近づけて。身が、皿の上に散らばっていく。ときおり、太ももにもぽろぽろ落ちて。そのたびに、女はつまみ上げて。指をぺろり。指頭が唾液で、ぬるぬる光る。
「写真撮ったん」
「なんの」
「あじさい」
「いや」
「なんで」
顔をのぞき込んでくる。目を逸らして、米をかき込んで。箸を置き、ビールの入ったコップを握り締めた。
「撮ってどうするんだ。いくら撮っても、プリントしても、画像として保存したって、あるのは写真だけだ。あじさいじゃない。花なんてどこにもないじゃないか」
女はくすりと笑った。アルコールの染みた息に、鼻先を舐められて。
「急に流暢にしゃべられたらおもろいな」
答えずに視線だけ向ければ、女はにやついていて。
「でもさぁ、あんたが見たあじさいなんて、そもそもないやん」
女は顔をあさってのほうへ。
「あんなん、誰も見いひんねんから」
ちらと見えた口の端は、綻んでいた。
「見てたじゃないか」
「あたし?」
女はこちらを見ながら自分を指し、目で笑った。
「あたしには見えんねん」
「俺にも見える」
見つめ返せば、大声で笑った。それがえさとなり、女将が釣れて。女はまた叱られた。下品だと。みっともないと。苦笑しながら女将をなだめ、ビールを二本、追加した。女は髪をくしゃくしゃにしていた。電気で透けた黒髪を。
食事が済んだとき、女は独り言をいいながら、一人で笑っていた。早口で、よく聞き取れない。腕を振り回せば、からになった瓶が、机の脚元でごとりと倒れて。その大きな目玉は充血していた。
「あんた、いつかえるん」
「チェックアウトは明日だ。知らなかったのか」
「おかぁさんがいってたきぃする」
薄い唇から、ふやけた言葉がこぼれていって。
「おさけ、もうないん」
倒れた瓶を撫でながら、焦点の合っていない目をあちこちに転がしていた。
「もらってきてやろうか」
訊けば、吐息をこぼしながら、肩を乱暴に叩いてきて。立ち上がって部屋を出て、廊下を奥へ。台所にいけば、コンロの前で、女将がイスに腰かけていた。ぼんやりとした瞳で、ひざの上の手を見つめている。シンクの端に設置されていた水切りラックでは、まな板や包丁が、鈍い光を撒いていて。水の垂れる音がした。換気扇は、息を吸う。声をかければ、腰を上げて。
「あの子は」
「すっかり」
女将はため息を一つこぼして。
「ビール、まだありますか」
「植田さん、悪いんやけど」
用意してはくれなかった。
「いつもあれくらい飲んでるんですか」
「今日はいつもより多いなぁ」
女将はまた、イスに座って。
「そういえば、ご主人は」
「飲み屋か、スナックか、ガールズバーか」
しわの絡まった指を折りながら、女将は苦笑した。
「ご主人も酒、好きなんですか」
「好きっていうか、ないと生きていかれへんっていうか」
「じゃあ娘さんはご主人に似たんですね」
そういえば、鋭くにらんできた。にらんで、すぐに目を伏せて。そうして、耳たぶを指でいじって。沈黙が響く。換気扇がからから回る。からから回れば、背後で床が軋んで。振り返れば、女がいた。唇の青さとほおの赤みが、やたらと目についた。女はほおの裏側を舐めていた。開いた口から、舌の動きがよく見える。ぬるりぬるりと這っていた。
「おそぉい」
「酒盛りはもう終わりだ」
「なんでぇ!」
女が声を上げれば、女将が怒鳴り返した。いい加減にしぃ! と。女はこめかみを押さえて、つぶやいた。うっさ、と。そうしたら、女将は舌打ちした。
「ちょっと外いって頭冷やしてきぃ!」
女は鼻息で唸っていた。
「じゃあえぇし!」
女はつばを飛ばした。飛ばして、腕を引っ掴んできた。
「買いにいくで!」
「静恵!」
引っ張られながら、女将に向かって軽く手を上げた。そうしたら、女将は足を止めて。かすかにうなずいた。その肩は、だらりと垂れていた。
玄関で、サンダルを乱暴に引っかけて。その横で靴を履こうとすれば、力を入れて急かしてくる。かかとを踏んだまま外に出れば、なめらかな夜風が吹いていた。女の髪が、空気に溺れていく。月明かりが、肌を淡黄に染めていた。
「どこで買うんだ、コンビニか」
訊けば、大きくうなずいて。
「近くにあるのか」
「四十分」
「ここから? 歩いて?」
「四十分!」
女は語尾に力を込めて。かかとに指を入れていたら、仰向いてきて。浮き出たのど仏。白んでいる。蒼白の筋が、血管が、女の息に合わせてぜん動していた。細い指に目をやれば、淡く震えていて。青い血が、指頭に溜まっていた。
砂利道を歩けば、石が鳴く。女はふらついていた。声をかければ、低いうめきをこぼして。右手の親指のつけ根で、こめかみを叩いていた。もう一度言葉を差し出せば、いける、とつぶやいて。女のサンダルの下から、灰色を引きずる音が、絶えずした。
細い通りに出て、国道が見えてきたとき、女が肩に手を載せてきた。丸まった背中。女の横髪に、二の腕を撫でられて。
「帰るか」
「おさけぇ」
舌っ足らずな言の葉を拾い集めながら、女の腰に腕を回した。顔をのぞき込めば、目を細めていて。白や橙色の光が、黒目の上を滑っていく。女の表情は歪んでいた。体はずっしりしていて。芯がアルコールの熱で溶けてしまったのか、腕も足も、腰さえも、ぐにゃぐにゃしていて。
国道に出たとき、女はしゃがんで、弱音を吐いた。もう無理だと。座りたいと。腰かけるところなんて近くにあるだろうか。思案すれば、視界にパッと、ベンチが浮かんだ。ところどころ腐っている、朽ちかけた、木のベンチが。
「ほら」
女の前でしゃがみ、背中に乗るよう促した。そうしたら、女は倒れるように抱きついてきて。首に腕を回してきた。腕は熱いのに、指先は水みたいで。背負い、国道を渡って、農道をまっすぐ進んでいけば、葉ずれの音が聞こえてくる。あじさい広場は静かに眠っていて。一歩踏み出すたびに、女を感じた。吐息の熱と、体温と、重さで編まれた、女の存在を。
ベンチに座らせて息をつけば、ミシミシ鳴って。女が戻した。胸をひざにつけながら。胃液がぼとぼと、散らばって。女の足の指が、甲が、べっとり濡れて。肌は黄色く光っていた。うんと濃く。背中を撫でてやれば、また嘔吐。濁った声が、スカートの裾を汚していく。輪郭を失った固形物が、ちらちら息づいて。汚れた口元を、女は手のひらで拭いていた。汚臭が漂う。その右は、ぬるぬる輝いていて。顔は少し、赤黒い。
ポケットからハンカチを取り出し、手を、唇を、拭ってやった。そうしたら、女はまぶたをぱちぱちいわせて。
「みず」
「え?」
「みずちょうだい」
ふやけた言葉に苦笑しながら、目玉を周囲に転がして。腰を上げ、光のするほうを目指した。自販機には無数の足が絡まっていた。どこから入り込んだんだろうか、一番下の段に目をやれば、透明の内側に、干からびたカエルの死骸があって。数字の真下で両手両足を広げて、黄ばんだお腹を見せている。思わず笑った。変な笑声が、口の端から垂れて、垂れて。子どものこぶしくらいありそうな、蚊に似た虫が一匹、離れて飛んで。一歩下がれば、羽が何枚も踊った。
ペットボトルの水を二本買い、取り出し口におっかなびっくり手を伸ばせば、生きたカエルの緑がちらついて。素早く引っ張り出し、女のところへ。女はハンカチを握り締めながら、仰向きで横になっていた。サンダルは脱ぎ散らかしている。短い髪は、首や額にへばりついていて。その目はぱっちり。蒸発していく周囲のにおいは、ますます濃くなっていた。肌に絡んでくる空気は、粘り気が増していて。鼻腔にべたつきを感じた。鼻をつまんで、こすって。またつまんだ。
おでこにペットボトルを置けば、細い四肢がびくりと震えた。女がゆっくりと体を起こせば、ハンカチが地面に落ちて。女は拾わずに、ペットボトルのキャップを握った。けれど力が入らないのか、ふたは開かない。代わりに開栓してやれば、唇と瞳だけで薄く笑っていた。女がペットボトルに口をつけたとき、水の落ちていく音は、しなかった。
ハンカチを拾い上げ、もう一本のペットボトルの水を含ませる。そうして、口の周りを、手を、きれいにしてやった。しゃがんで、足首を軽く握ったら、硬い肌はぽかぽかしていて。足の指は冷やっこい。白く伸びた爪が当たったとき、手のひらが少し、かゆくなった。
女はこちらをじっと見ていた。見ながら、くすくす笑って。
「すいどぉ、あんのに」
重たそうに腕を上げた。月影で、細い指が青く透けて。その先で、銀がまばたきをしていた。ハンカチをきゅっと握ったら、水がぽたぽた、垂れていって。立ち上がり、首を鳴らした。
「どうだ」
「へぇき」
女は水を足元に撒いた。戻したものは流れ、薄まり、きらついて。足にもかけていた。青い肌は濡れ、淡い光を羽織っていく。転がっていたサンダルにも、水はかかって。色が深まる。
「きもちわる」
ペットボトルをべこべこへこませながら、女は腰を上げた。足がまだぬるぬるするようで。裸足のまま歩こうとして、滑って転びそうになっていた。かすれた笑声が自然とこぼれる。女が振り返って、仰向いて。ペットボトルで腕を叩かれた。その拍子に、女の手から滑って落ちて。軽い音が、跳ね回る。子どもみたいに。
女は無言で水道へ。ベンチに腰かけ、その後ろ姿をじっと眺めた。女はかがんで蛇口をひねり、尻を下ろして、足を伸ばして。背骨の浮き出ているのが、遠くからでもよく見えた。女の周囲で弾ける透明。あるしずくには星が映っていた。別のしずくは月にかじられ、欠けていて。光。夜の輝きに、女が溶けていく。小さな頭が、前後に淡く揺れて。蛇口に唇を寄せれば、水が女のあちこちに噛みついて。両手で顔を覆っていた。透明がぼたぼた、地面を鳴らす。
戻ってきたとき、女のスカートはびっしょりと濡れていて。黄緑の下着が透けていた。水を含んで束になった前髪から、横髪から、水滴がとろとろ、垂れていく。ほおを、口の端を、うっとりと伝っていく。女は薄ら笑っていた。薄青い唇が、月桂の滴る夜に、映えていた。
「びっしょびしょ」
湿ったハンカチを放り投げれば、女は腕を伸ばし、両手を広げて。空気をキャッチ。一瞬、落ちたハンカチを見失っていた。からかえば、女はハンカチを拾い上げ、ふらつきながら思い切り投げてきて。けれど届かず、ぺちゃっと地面へ。声を出さずに顔だけで笑えば、女は水道のほうへと戻っていって。そうしてまた、蛇口に顔を近づけ、戻ってきて。ふくらんだほっぺた。勢いよく水を吹き出してきた。ぬるかった。顔をシャツのそで口でこすり、文句を吐けば、女は大きな舌をべろりと出して。白んでいた。舌打ちして、腕をだらりと下ろしたら、濡れたベンチに手が落ちた。
「あんたがわるいねん」
どさりと隣に座れば、指頭と指頭が触れ合って。肌と肌の隙間から、自分の顔から、首元から、水が淡く蒸発していく。乾いていくにつれ、唾液のにおいがほんのり漂ってくるような、そんな気がした。女の浅い息遣いが、虫の声に重なって。女は背もたれに体を預け、仰向いていた。薄い胸が、開いたままの唇が、不規則に波打って。女の手に手を重ね、指を四本、そっと、そっと握ったら、女はあざ笑うように吐息をこぼして。そのまま指を絡ませて、同じように、夜空を見上げた。たなびく雲が、光を吸いながら流れていく。速かった。星影は明滅して。髪から垂れた水滴が、目に入って。ちぎれた月の輪が潤む。女を見れば、もう片方の手の甲を、額にそっと載せていた。握り締めている指は冷たくて気持ちいいのに、手のひらが少し、汗ばんできて。
「きも」
女の指から、自分の指がほどけていく。女は透けた太ももで、その手をごしごし。そうして、仰向いたまま、視線だけを向けてきて。とろりと流れてくる、溶けた瞳。見返せば、女と黒目が一つになって。透明の光輝で濡れた目玉に、どんどん飲まれていく。見つめ合った。女の目に触れていたはずなのに、女の唇の細かなしわが、右のほおの澄んだうぶ毛が、鼻の頭の開いた毛穴が、はっきり見えて。女の前歯の乳色と、まつ毛とまゆ毛の墨色が、ちかちかした。
羽音がする。蚊を追えば、女の細い首に、赤くてぷっくりとした楕円の噛み跡があって。眼前を、音がたゆたう。両手で叩けば、血がたなごころに飛び散って。少し濁っていた。死骸がぽろりと落ち、山から下りてくる風にあおられて。女の血を月が照らせば、透徹した山吹が、赤の表面をきらりと覆って。両手を凝視していたら、女が頭をもたげて。手元をのぞき込んできた。
「あんたぁ、かまれたん」
首元を指差せば、女のまばたきが止まって。
「噛まれてるぞ」
そのふくらみを、人差し指の腹で押せば、筋と骨のこすれるような、鈍い音。女はあごを上げ、のどを撫でながら、目をしばたたく。ほんまや。女の声が、パッと弾けて。甘ったるく、笑っていた。女は虫刺されをかき、親指の爪を食い込ませて。薄桃色の、十字の痕。女は笑う。笑って、笑って、また吐きそうになっていた。体を丸めながら、げぇげぇいっていた。人の太もものそばで。背中をさすってやれば、ぐっしょりと湿っていて。顔を上げた女の口の端には、薄黄色い糸がぶら下がっていた。
「酒、どうするんだ」
訊けば、首を横に。うなじに張りついていた毛の束が、ずるりと滑って。女の耳元に、あざけりをいくつか並べたら、太ももを強く叩かれて。骨の浮いた背中から手を離し、ベンチにもたれかかった。女はとろみのついた声をこぼした。
「あじさい」
胸先を押さえながら立ち上がって、ふらりふらりと歩を進めた。そうして、近くにあったあじさいの前で足を止め、崩れるように座り込んで。枯れた花を両手で包み、ぎゅっとつぶした。硬い夜を泳ぐ、幾枚かの飛花。両手が離れれば、その細い指に、腕に、スカートからこぼれた足首に、花弁がぽつぽつ、へばりついて。汗を、水を、吸っていた。
「はぁち」
輪郭のぼやけた数字を、女が垂らす。その顔は、うっとりしていて。ほっぺたを緩ませながら、女は別のあじさいに、また腕を差し出した。老いた花唇のうめきが、夜闇に舞い上がって。
「きゅぅう」
ぶつぶつ模様の女の腕が、だらりと垂れて。指が銀色に光った。クモの巣が絡んでいるようで。夜風がそよげば、おぼろげな空気の流れに、銀糸が乗って。紫煙みたく漂っていた。尾を引く瞬きを見つめていたら、女が顔を向けてきて。半開きの口から、ふふふという笑声が、羽を広げて。
「きいてや」
「なんだ」
「きょういちにちでな、みっつもつぶしてん」
昼間耳にした、「なぁな」という数が、耳の奥で淡く響いた。女は破顔していた。
「あんたもする?」
「俺はいい」
「そう? おもろいのに」
「いつからやってるんだ」
「きょうでいっしゅうかぁん」
声の後ろを伸ばしながら、頭の横で腕をぐにゃぐにゃ振って。水気を含んで重たくなった花弁が、ぽとぽとふにゃりと落ちていく。
「どう楽しいんだ」
「そんなん」
訊けば、視線を上に向けて。持ち上がるあごの先。そこを伝っていったのは、答えではなく、笑い声だった。女の肩が、胸が、甘く上下する。髪の息遣いが聞こえた。その毛の色が変わっていく。黒から透明に。透明から、また黒に。移ろう色彩に目玉を浸していたら、女が上唇を舐めて。薄い唇が、唾液できらめく。近づいて、横でしゃがめば、訊いてきて。
「せぇへんの」
「なにを」
女はまばたきもせず、その目玉でキスをしてきて。女のほおに手を添えれば、粘っこい。親指で上唇を押し上げたり、下唇をめくったりすれば、薄赤い舌先が伸びてきて。手を引けば、女は首をかしげた。目を逸らせば、肩にもたれかかってきて。
「やっぱけぇけん、ないん」
「そっちこそ、いつもやってるのか」
訊けば、女は鼻で笑った。
「好きなのか」
「うぅん」
「だったらどうして」
「りゆうなんか、いるん」
女は大きなげっぷを一つこぼした。
「あたしって、どう」
軽い頭をじっと眺めた。女の熱っぽい息で、シャツのそで口が、二の腕が、ほんのり湿って。答えずにいたら、女は離れて。目と目がこつんとぶつかった。女の瞳は潤んでいる。その目玉を、自分の目玉で黙って抱いた。女はしゃくり上げていた。震えている体。なみだに視線が吸われていく。ほおを流れていく、透明の玉。親指ですくい、指頭を舐めたら、ただただ、熱くて。しょっぱくはなかった。女は目をしばたたいていた。
「きっしょ」
歪んだ笑顔。腕を組み、黙って空を見上げれば、鼻をすする音がした。したかと思えば、女の両手が顔に伸びてきて。ほおを包まれた。近づいてくる、とろけた表情。また、目と目で互いに口づけをした。女は指に力を入れて。剃り残しが、ざらざらいって。唇がつぶれていくのが分かる。目を下に向ければ、荒れた唇がとんがっていた。
「じゅう」
女はつやっぽく笑った。息がかかる。アルコールのにおい。それからほんのり、歯垢の臭味。
「あじさいはお前だ」
「なにそれぇ。きっしょ」
そういわれて、背中が少し、カッカした。手から逃れ、立ち上がり、歩きながらシャツの襟を引っ張って。手で扇ぎ、風を注いだ。女は低く笑っている。振り返れば、その髪と、肌と、だらりと垂れた細い腕が、暗い色を垂らしながら、薄く上下していた。視界の端で、朽ちたあじさいから花弁がこぼれて。女を見つめた。じっと、じっと。そうして、女に近づき、手を差し出した。
「帰るか」
女の黒目が、左右に細かく動いた。下唇を、前歯で甘く、噛みながら。
「帰りたくないか」
「うぅん」
女は握ってきた。引っ張れば、その体からは、さらに力が抜けていて。腕が、ぐにゃりと伸びた。足のほうにも、酒がずいぶん、溜まっているようだった。
「よったぁ」
「知ってる」
立たせるのは諦めて、隣であぐらをかいた。女は体を前後に揺らしながら、下の名前を訊いてきて。
「知らないのか」
「しらん」
「名前も住所も電話番号も、ぜんぶ書いたぞ」
「そんなんみたないし」
「なんだそれ」
宗一《そういち》。苦笑しながら名乗ったら、吹き出して。漢字を教えれば、また吹いて。植田宗一。変な名前。猫背のままお腹を抱え、一人でけたけた笑っていた。そうして、名前を呼んでと頼んできた。
「静恵」
呼べば、女の顔から表情が消えて。焦点の合っていない瞳が、地面へと落ちていく。
虫があちこちで鳴いている。蚊もたくさんいた。バッタだろうか。ひざのそばを、濁った音が跳ねていって。寝転べば、浮遊感。星の胃液へと体が沈んでいくような、そんな気がして。背中に浮き出たほねをそっと撫でたら、硬かった。また、女を感じた。感じていたら、太ももに手を置いてきて。二人で触れ合った。言葉はもう、どこにもなかった。
夜を滑っていく星の下で、女の腰を両手で掴み、ゆっくりと立たせた。ペットボトルをゴミ箱に捨てて、歩き出す。女の足取りはのろかった。ときおり、足を止めて。波打つ視線の先にあったのは、あじさいで。女が満足するまで、隣に立ち続けた。女の手は、軽く閉じたり、開いたり。輪郭のふやけた言葉が、女の口から何度も垂れた。名前をいっているようだった。宗一、宗一。そのたびに、呼び返してやった。女の目顔は、とろとろになっていた。
宿に着いたとき、女は半分眠っていた。玄関に上がれば、女将が駆けてきて。胸に手を当てていた。女を預け、部屋へと戻る。冷房は必要なかった。ひんやりとした夜風が、窓からなだれ込んでくる。外を歩いていたときよりも、虫の響きがよく聞こえてくるような、そんな気がした。低音が、絶えず空気を満たしている。高音は、何度も何度も、夜闇のなかで輝いて。
机を窓際に寄せ、扇風機を回し、布団を敷いて横になる。蚊取り線香の煙が、月の光で薄黄色に染まっていた。手には、女の肌の感覚が、薄膜となってこびりついていて。白む天井。窓に背を向ければ、水面のように、壁がきらりと波打っていて。寝返りを打てば、机の上のペットボトルが目に留まった。残った水を、月光が透っていく。体を動かすたび、かけ布団が机の脚に当たった。
女の声も、女将の声も、聞こえてこない。床を踏む音さえも。夜は鳴っている。なのに、静かだった。耳鳴りがした。ほんのかすかに。部屋の鍵を閉めていないことを、ふと思い出す。思い出しながら、まぶたを閉じた。
遠くでなにかが軋み、近くでこすれる音がした。瞳を開けば、部屋は薄青くて。窓に目を向ければ、朝ぼらけ。淡い瑠璃紺を、ぷっくり太った小鳥が駆けて。体を伸ばせば、呼吸が耳に垂れてきた。振り返れば、女がいた。ひざを崩し、背中を丸めて。覆いかぶさるように。青白い顔。くもった目顔でつぶやいた。起きたん、と。眠る前と違って、その言葉ははっきりしていた。
「なに、してるんだ」
痰の絡んだ声が出た。女の滴る前髪が、眼前でちらついて。
「別になんも」
「調子はどうだ」
「最悪」
「頭、痛いか」
「むっちゃ」
答えながら、布団に右手を入れてきた。そうして、腕を触ってきて。腕毛を引っ張ってくる。痛みが何本も、抜けていった。
「あんた、今日帰るん」
「チェックアウトは十時までだったか」
女はうなずいた。きゅっと手首を絞められて。
「朝ご飯食べたら、ちょっと散歩せぇへん」
「寝てなくていいのか」
「いける」
「じゃあいくか」
「ほんま?」
「だから寝てろ。しんどいんだろ」
訊けば、倒れ込んできて。その鎖骨が、布団越しに腹へ食い込んでくる。女の重み。髪に指を通せば、何度も引っかかった。かいた汗のせいか、浴びた水のせいか、その黒は、ばさついていて。手ぐしを続ける。痛がってもやめなかった。ぎしぎしいうのを、聴き続けた。
体を起こし、うつらうつらしている女を、布団に寝かせてやって。座布団を枕に、隣で横になった。ふくらむ寝息は穏やかだった。ときどき聞こえてくる、はっきりとしない寝言に、耳を傾けて。吐息に合わせて、かけ布団が上下する。女は寝返りを打たなかった。目玉で寝顔に触れていたら、まどろみに溺れて。
朝日で窓が濡れていく。まぶたの向こうが、赤く橙に色づいて。女のこぼれた鎖骨が、蜜柑色に輝く。セミの声がした。体を起こし、伸びをして。女は汗をかいていた。髪の生え際の玉を、親指でそっとつぶしたら、ぬるくって。部屋を出て、一階の洗面所で顔を洗う。手に溜めた透明をじっと見つめていたら、階段が鳴った。どしどし駆ける音がして。振り返れば、女がいた。浅く息をしている。顔色は悪い。
「どうした」
女は答えなかった。無言のまま、背を向けて。小声でなにかいっていた。足音が遠のいていく。追わずに水を止め、手を拭いた。
朝食は焼いた鮭だった。味噌汁は、相変わらず塩気が強くて。女も隣でつついていた。しょうゆに浸った、皮と身を。箸先は、ほんの少し、震えていて。そしゃくする音を聴きながら、緑茶をあおった。女もまた、何度も何度も、ぐびぐび飲んで。朝食は残していた。先にいって、待っといて。言葉を置いて、出ていった。
そぞろ歩きをしてくると女将に伝えて、宿を出た。国道へと続く狭い通りで、女を待つ。ときおり、車が走っていった。普通車から、軽トラ。土を積んだ大型のトラック。どの運転手も、こちらを盗み見ていた。吹き抜けていく強い風が、髪や腕毛を持っていく。クマバチもうろついていた。
砂利の硬い音がして振り返ったら、カーキ色のロングスカートが、濃い色彩をした空気のなかで、ひらりとうねって。白いTシャツは、ひどくまぶしい。麦わら帽子をかぶっていた。装飾の白いリボンが、ひらりひらりと揺れている。伏し目がちのその顔は、薄く薄く、化粧がしてあって。唇が、ほんのり赤い。サンダルを履いた足の指の血色は、よくなかった。
二人並んで、国道とは逆のほうへ。反射する日影。濃い夏空。山の緑が、蒼くたゆたう。女はゆっくり歩いていた。その顔は、つばでよく見えない。ただ、手を閉じたり、開いたり。後ろを向けば、地面には、汗の細やかな染み。ときどき、道沿いの家から、ことことことり、音がした。玄関前の植木鉢には、ペットボトルでできた、手作りの風車。羽がゆったりと回っては、からんころん。軒には、空き缶に切り込みを入れて作られた風鈴が吊るされてあって。くるくる回っている。光が鋭く、乱反射。立ち止まって腕を組み、そのふっくらを見上げていたら、女がいった。
「あんたの家にはないん」
「ないな」
「作ったことは」
「ないなぁ」
「そう」
女は屈み、植木鉢の羽を人差し指でつついて、つついて。
「それやったら、いっしょに作ってみる?」
女と並んでハサミを持っているところを想像して。それもいいな、と一人笑えば、女も微笑んだ。女は麦わら帽子を脱いで、胸に抱いた。その後ろ髪が黒いヘアゴムで結んであったことに、そのとき気がついて。黄緑のヘアピンと耳の端が、真っ黒に浮かんでいた。
道に面した空き地のそばを通ったとき、女が口を開いた。子どものころはよくそこで、たんぽぽを摘んでいたと。綿毛を飛ばして走り回っていたと。川が見えてきたとき、遠くで瞬く水面を指差しながら、女はいった。小さいときはあそこでザリガニやカエルなんかを捕まえていたと。上り坂の手前までくれば、建っていた木造の平屋を指して。あそこの窓を割ったことがあると、そうつぶやいた。左手にある川の流れが、耳を冷たくしゃぶってくる。右手にある木々の陰は、目を甘く抱いてきた。
女の過去に、人影はなかった。女の影法師だけが、ただぴたりと張りついていた。
「よく外で遊んでたのか」
「遊んどった」
「じゃあ、遊ぶか」
女の背中を軽く叩いて、坂を駆けた。十歩、二十歩と上っていくうちに、息が切れて。立ち止まり、息をしながら振り返れば、ついてきていなかった。無表情だった。じっと、こちらを見上げていて。その胸元で、麦わら帽子のリボンが、浅く泳いでいた。細い体の線も、揺らめいていて。
「どうしたぁ」
声を張れば、顔を伏せて。汗が、麦わら帽子に垂れていく。やせた腕は、澄んでいた。
「静恵ぇ」
名前を叫べば、上目遣い。大きく右手を振り、手招きして。
「お前が鬼だぞぉ」
大声をぶん投げ、背中を向けて。そうして尻を叩き、あおってみれば、薄い唇がかすかに動いたように見えた。だけど、声は聞こえなくて。ほくそ笑んでみれば、頭を振って。走ってきた。こちらをにらんでいる。風を切った。腕を必死に振りながら、ちらちら背後に目をやれば、どんどん迫ってきて。あごが上がっていく。口から息がこぼれて、こぼれて。女に服を引っ張られた。足がもつれる。平手打ち。Tシャツの張りついた背中に、痛みが染みて。
「あんたが鬼ぃ」
追い抜くとき、女はおでこを引っぱたいてきて。額をさすり、手の甲でほおの汗を拭った。ひざに手をつき、目で追えば、その足取りは軽くって。右にカーブした坂を、きらめくかかとが跳ねていく。背中はあっという間に見えなくなった。走った。うねる坂を。足はすぐ、動かなくなった。地面を見つめながら、つま先を引きずって。
「宗一」
名が響く。顔を上げれば、蚊柱のうんと向こうで、仁王立ち。少しのあいだ見つめていたら、口元に両手を添えて。また声が反響した。
「あんたほんまにおっそいなぁ」
笑い声が、水流と葉ずれにまたがって。滑り下りてくる。いい返そうと口を開けば、出てきたのは呼気だけで。口内は唾液でべたついていた。袖口でいくら拭き取っても、顔からは汗が滴って。ひざに左手を置き、右手を振った。重たい腕を。
「降参するん」
「こうさぁん」
かすれた声といっしょに、つばが垂れそうになって。手の甲で拭った。足音が転がってくる。駆け寄ってきた女は、破顔していた。後ろ手を組んでいる。麦わら帽子のリボンが、ふっくらとした尻の陰から、こちらの様子をうかがっていて。朝風が吹く。女の汗のにおいがした。鼻呼吸をすれば、息苦しくて。
あざけりながら、肩を叩いてくる。その手を払いのけ、その首元にタッチして。そうして、お前が鬼だばか、と捨て台詞を吐き、駆け下りた。舌打ちが聞こえたような、そんな気がして。振り返れば、女の手が伸びてくる。逃れようと歯を食い縛ったとき、足が絡んで。顔から転んだ。音がなくなる。視界がちかちかして、揺れた。舗装された道路は熱かった。ひじを、腕を、手のひらを、焼けるような疼痛に絞め上げられて。あごとひざには、鈍痛がぶら下がっていた。起き上がり、座ったまま視線を落とせば、アスファルトが胴の形に、薄く薄く、湿っていて。色がほんのり、変わっていた。ぎゅっと手を握れば、くっついていた小石が、肌に食い込んできて。皮が剥けて、血がにじんでいる。唇を切ってしまったのか、苦味で舌先が濡れた。口元を右手の薬指でなぞったら、指頭が真っ赤に染まって。指紋がくっきり、浮かび上がる。
「宗一」
横で、女が屈んでいた。麦わら帽子をかぶり、スカートのポケットに腕を突っ込んで。けれど、出てきたその手はからっぽだった。
「ハンカチ持っとる?」
首を横に振れば、あごに痛みが走った。女は立ち上がり、スカートの裾を持ち上げて。下半身が迫ってくる。あごを伝ってくる、生ぬるい血。そっと拭き取られた。そうして女は一歩下がり、顔をのぞき込んできて。大きな目に、体をねっとり、舐められた。
「立てる?」
差し出された手をそっと握れば、女の汗が傷にしみて。こぼれた吐息は、走っていたときよりも熱っぽい。のどが、上あごが、前歯が湿った。立ち上がれば、ジーンズのひざのところがすれていて。色が薄くなっていた。口を閉じたり開いたりしながら、手の、腕の、ひじの傷に、目玉を何度も這わせれば、視界がほのかに潤んで。
「洗わな」
腕を引かれた。坂を下り、きた道を途中で左に曲がって。山に沿って、緩やかな上り坂を歩いていく。頭上を覆うように茂った、竹と杉の影。木漏れ日が、女のうなじに落ちて、伝って。用水路に生えたこけが、木々の根元からにじみ出た水を吸って、濃緑に輝いていた。湿っぽいにおい。火照っている体に、少し冷たい緑の空気が、ぴたりと張りついて。
しばらく進めば、看板が立っていて。農村公園という文字と、左向きの矢印が、かすれた黒字で書かれてあった。坂を上がれば、左手には遊具があって。芝生の黄緑がきらついている。右手には、錆びたフェンスと木のベンチ。町が見下ろせるようになっていた。奥には、木造の平屋と駐車場。黒い軽自動車が一台、駐まっている。人の気配はない。虫の羽音とセミの声で、辺りは沈んでいた。
女といっしょに平屋まで。その奥で、公衆トイレが佇んでいた。コンクリートの外壁は、染みだらけで。脇には水道があった。蛇口をホースがくわえている。女は水色をひっぺがし、勢いよく水を出して。
「はよ」
手のひらを濡らせば、冷たくて。鋭い痛みが歯を立ててくる。腕も、ひじも、きつく噛まれた。口をゆすげば、ズキズキして。吐き出せば、唾液と薄赤の混じった水が、足元できれいな透明に飲まれて、流れていって。舌で口内をまさぐれば、右のほおの裏は皮が剥けていて。ざらついていた。
「ひざは」
女は腰を曲げて、上目遣い。そうして、手を伸ばしてきて。親指を押しつけてくる。鈍い痛み。女の手を押しのけ、ひざをさすっていたら、両手が腰に迫ってきて。ベルトを引っ掴まれた。脱がそうとしてくるその手首を掴んだら、きつくにらまれて。
「洗わなあかん」
「ひざは打っただけだ」
「あかん」
女の指のぶら下がったベルトが、腰に食い込んで。いくら平気だといっても、離そうとはしなくって。ため息をつき、女の手首を自由にさせれば、カチャカチャ鳴って。脱がされる。女はジーンズを抱えたまま、ひざに顔を近づけて。同じように目をやれば、ひざ小僧の顔色は、うんとうんと悪かった。女に尻を向け、靴と靴下を脱ぎ、青紫に冷水をぶっかければ、すね毛が細かい気泡を吐いて、戻して。清澄な足。眼球がひんやりした。
「いける?」
流し終われば、女はスカートの裾に水をぶっかけて。ぎゅっと絞り、腰を曲げ、ひざを拭いてきた。生地はしっとりしていて。やわらかい。手つきも繊細だった。薄いスカートを軽く軽く押し当てながら、何度も見上げてきて。すねも、太ももも、拭いてくれた。足を上げるようにいわれて、骨張った肩に手をつきながら、右足をそっと持ち上げれば、指のあいだまで丹念に拭かれた。汚いからよせといっても、聞く耳を持たなくて。スカートを再び濡らし、また腕に力を入れて。引き締まる筋。血管の青磁色が、皮膚に浮かび上がっていた。
「座って」
手首を引っ張ってくる女を制して、ズボンに足を通した。それから、靴下と靴を履いて。くっついてくる生地を撫でながら尻を下ろせば、地べたはざらざらしていた。臀部が熱い。女もしゃがんだ。スカートが右腕に絡まってくる。ときおり、内ももが見えた。黄緑も見えた。女のすねに、太ももに、濡れたスカートが張りついては剥がれ、剥がれては張りついて。顔を見れば、その唇は固く結ばれていた。濡らしては拭い、拭っては濡らして。身を委ねる。目を閉じれば、女の息と手のやわらかさが、濃く色づいて。
どれくらい、されるがままになっていただろう。十分だろうか。十五分だろうか。それとも三十分だろうか。女が横に座って。その丸い尻の周囲が、濃く湿っていく。礼をいえば、正視してきた。黒目には、白い光があふれんばかりに溜まっていて。眼球が、まつ毛が、鼻先が、口が、迫ってくる。キスをした。目玉と目玉で。いつまでも。
水道の水をすくって飲んだ。女は蛇口に顔を寄せて、直接のどを鳴らしていた。そうして、いっしょにベンチに腰かけて。町を一望した。遠くの山は青々としていて。その手前を、高速道路と大きな川が横切っている。家々の窓や瓦は、ぎらぎらやかましい。女はぼんやりしていた。川を指差し、あそこへいこうと提案すれば、鼻で笑われて。あごで、遊具の辺りを指して。振り返れば、あちこちに痛みが。目を細め、芝に影を落としている時計を見れば、チェックアウトの時間が迫っていた。太くて長い針が、ちょうど動いて。
「帰んで」
女の唇から、小さな歯が少しこぼれて。白かった。足に力を入れれば、ひざがじんじん鳴って。二人並んで、帰路に就く。ゆっくり、ゆっくり。道中、何度も流し目で見られた。視線が絡まってはほどけていく。横顔を、小さな肩を、骨張ったひじを、細長い手を、丸みを帯びた尻を、スカートの張りついた太ももを、こぼれた足首を、色の悪い足の指を、熟視しながら歩き続けた。
宿に戻れば、女は足早に廊下を歩いていって。一人で帰り支度をした。エアコンはつけず、扇風機を強にして。開いた窓。網戸が青空を閉じ込めていて。天色に目玉を浸しながら、ひりひりする腕を動かしていたら、女が上がってきた。ガーゼとテープ、それにハサミと消毒液を机の上に置き、染みになったスカートの裾を直しながら、正座して。こっち、と瞳が手招きしてくる。荷物を放り、女の正面で足を伸ばせば、見せて、とつぶやいて。右の腕を持ち上げれば、傷口にティッシュを添えられた。汚らしい音を羽織りながら滴ってくる、透明の液体。顔が硬くなった。ティッシュの白が、灰色へと変わっていく。
「痛いん」
「痛い」
「我慢しぃ」
「してる」
女はまばたきを繰り返して。そうして、吹き出した。つばが指先に甘く引っかかって。汚いな。そんなふうに文句を垂れても、女は一人、くすくす笑っていた。笑い続けていた。なにがおかしいのか尋ねても、答えない。口から出てくるのは、やわらかい笑声だけで。その破顔を前にしていたら、なんだかおかしくなってきて。気づいたら、同じように一笑していた。傷の手当てが終わるまで、空気は微笑で色づいていた。何枚も何枚も、ガーゼを四角に切っていって。あごに貼られた真白は、邪魔で仕方なかった。しゃべろうとするたびに、違和感に皮膚をもてあそばれて。
女はそばにいた。机の近くで、じっと正座していた。姿勢が悪い。これでもかというくらい、背が丸まっている。扇風機が女のほうを向くたびに、その後ろ髪の先が、ぴょんぴょん跳ねて。女はうつむいたまま、指で遊んでいた。低い声で、なにか口ずさんでいる。セミの鳴き声と、虫の低い響きと、扇風機の風の音で、なんといっているのかは分からない。ただ唇は、確かに動いていて。荷物をまとめたあと、座椅子に背中を預け、その淡い震えを、黙って見続けた。化粧はすっかり、落ちていた。
チェックアウトの際、女将に驚かれた。さっき転んでしまって。右腕のガーゼを撫でながらそう説明すれば、女をにらんで。自分の不注意ですっ転んだだけだと言葉を重ねれば、心配されて。胸先で手を振って笑顔を見せれば、ミシミシと、テープが悲鳴を上げていた。
「帰るときは気ぃつけてくださいね」
うなずけば、女将の顔のしわが、少し濃くなって。
「次は紅葉のときにでもいらしてください」
「紅葉も有名なんですか」
「雑誌にも載ってる山があるんです」
女将はその名を教えてくれた。話をしているあいだ、女はものをいわなかった。どこか違うところを見つめていた。
「お世話になりました」
「こちらこそ、いろいろとすみません。娘がご迷惑をおかけして」
女にあいさつするよう、促して。女はこちらを見ながら、訊いてきた。
「駅までついてってもえぇ?」
「静恵、あんた」
「構わない」
言葉を遮ってそう答えれば、女将が見上げてきて。頭を下げ、二人に背を向けて。荷物を置いた。そうして、靴を履きながら、女に向かって言葉を放った。
「見送り、してくれるんだろ」
女は勢いよく玄関に下りた。そうして、サンダルを引っかけ、リュックを取ってくれて。受け取って、二人で外に出た。出たら、女将が女を呼び止めて。
「なに」
「寄り道せんと帰ってきぃや」
「分かってるし」
女の声には抑揚がなかった。
会話らしい会話もなく、歩き続けた。国道へ出て、しばらくまっすぐ進み、一本奥の道へ。国道と並行に伸びている、茶色いレール。濃い色は溶け、輪郭はぐにゃぐにゃで。無人駅に着いたとき、女は汗だくだった。肌を濡らした女を凝視しながら、肩で汗を拭って。駅舎に入り、券売機で切符を買った。設置されていたベンチに、二人並んで腰掛ける。背中を預ければ、天井を大きな蛾が這い回っていて。茶色い羽のなかで、まだら模様が明滅している。天井の四隅には、クモの巣が。背中がツルツル光っている黒い虫が、巨大な蚊のような虫が、名前の分からないたくさんの小さな虫たちが、銀糸に絡め取られていて。視線を落とせば、券売機と壁の隙間から、ゴキブリが一匹、ヌッと顔を出して。悠然と歩いていく。クモの姿は見当たらない。すぐに立ち上がった。
駅舎の前に設置されていた自販機で、二人分の水を買い、跨線橋を渡って。ホームに立てば、フェンスの向こうに建っている製材所から、木のにおいがした。積み上げられた太い丸太。飛んでいる粉が、舞っている木屑が、光を吸って。鈍く瞬いていた。
ホームのベンチで肩を並べて。しばらくしたら、女がぽとりと声を落とした。
「紅葉、見にくるん」
「興味ないな」
「そう」
横目で見れば、女はまぶたを閉じていて。髪が張りついている首を、汗の玉が滑っていく。
「あんたも」
女はつぶやいた。
「あんたももう、二度とこぉへんのやろぉなぁ」
聞きながら、仰向いて。み空に食い込む屋根の先を、じっと見つめた。
「紅葉狩りより、から坊主を眺めるほうがいいからな」
遠くのほうで、踏切が鳴る。腰を上げれば、女は座ったままで。猫背だった。
「静恵」
女は答えない。もう一度呼べば、薄ら笑い。
「どうせこぉへんくせに」
言葉は無視して、右の親指で、ヘアピンをそっと撫でた。蒸発していく女の体温が、指に巻きついて。銀色の箱が迫ってくる。自分をここまで運んでくれたのと同じ、一両の。乗り込めば、整理券をお取りくださいと、機械に話しかけられて。無視して振り返れば、女は座ったままだった。
「静恵」
声を張れば、顔を上げて。
「次はお前がこい」
扉が閉まる。女は立ち上がった。その見開かれた瞳を残して、景色は左から右へと流れていく。しばらくのあいだ、そこにいた。録音された案内が、やたらと耳についた。
人はほとんどいなかった。からっぽのボックス席を選び、窓に頭を預けて。視界がごとごと揺れる。荒っぽく波打つ。リュックから手帳を取り出し、スピンをつまんで。開き、ぱらぱらめくっていって。一月と二月を、交互に交互に見下ろした。
ほおづえをつこうとしたら、あごに手が当たって。窓外を眺めれば、自分の顔が、ガラスに甘く浮かんでいて。線路に沿って並んでいる、あじさいたちの枯れた暗色と、重なって。
痛みを包む、少しにじんだガーゼが、女の手に見えた。
(了)
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