人の気持ちを考えろ

 誰もが教え、諭し、叱り続けてきました。人の気持ちを考えろと。相手の立場に立って物事を考えろと。

 ですから、私は考えたんです。仮に私が出産を望んだとして、子どもを産んだとして、その子がいったい、どんな気持ちになるか。その子が、どういった人生を送ることになるのかを。

 その子はきっと、病気になるでしょう。人間ですから。常に健康なんてことは、およそありえない。そのとき、きっと苦しい思いをするはずです。

 その子はきっと、人間関係で泣くでしょう。どこへ行こうとも、どこにいようとも、他者からは決して、逃れられませんから。

 その子はきっと、人間の不平等さに震えるでしょう。能力、容姿、出自、運。人間は平等なんて、あれは真っ赤な嘘なんですから。私たちは、等しく不平等です。平等とは、ただの理念に過ぎません。

 その子はきっと、働くことを強いられるでしょう。労働をやりたい人間など少数でしょうから、あるいはその子は、焼かれるような痛みと引き換えに、お金を得ることになるでしょう。それも、何十年にもわたって。

 その子はきっと、その子の想いに関係なく、私の介護をすることになるでしょう。それは、子という概念に課せられた重荷であり、とても苦しいことなんでしょう。誰も人前では言わないだけで、きっと、介護というものは。私も、近いうちに味わうんでしょうね。

 こんなふうにして、その子の立場になって、その子の気持ちを考え続けた私は、産まないことを決意しました。私たちが生きているこの世界では、相手が傷つくかもしれないことは、するべきではないんですから。相手のことを想って、行動するべきなんですから。そうでしょう? 子は、親を憎むかもしれないんです。その子は、私に向かってこう叫ぶかもしれないんです。どうして産んだのって。産まないでほしかったって。それに絶対、苦しむことになるんです。人間ですから、人間としての痛みに、必ず抱かれる。

 そうしたら、人は私に言いました。そんなのはおかしいと。なぜそんなふうに考えるんだと。それでも女かと。人間として、生物として、生命としてどうなんだと。それじゃあ子どもがかわいそうだろうと。幸せになる権利を奪うのかと。

 分かりますか。人の気持ちを考えろと言いながら、相手の立場に立って物事を考えろと言いながら、たどり着くべき解は、最初から設定されている。人の気持ちを考えろって、そうこぶしを握り締めている人たちが認めるような、そんな結論でなければ許されないんです。ここは、そういった場所なんです。生を肯定しなければ病気だと言われるような。本当は誰も、人の気持ちなんて考えてはいないんです。いかなる事柄であろうと、最初から、ふさわしい答えは決まっているんですから。どれだけ相手のことを考えたとしても、正答以外を示した瞬間、もはや人間ですらなくなるんですから。

 生きることは楽しいこと、すばらしいこと。人生とは幸せなもの。訪れる不幸は必ず、必ずその人が乗り越えられるものだから、乗り越えられる痛みしか人には与えられないから、だからきっとその苦しみも、あってよかったって、そう思えるようになる。たとえば出産に関する正しい答えとは、こういった考え方によって支えられています。だけどそんなものは、ただの希望です。願望に過ぎないんです。

 生まれてきてよかったと誰もが思うだろうという決めつけによって、産声は、すっかり色づけされています。なぜ私を産んだんだという悲鳴として聞く者なんて、いやしません。この世界は、生という暴力によって、幸せという名の虐げによって窒息しています。生まれる前から、各人の幸福は、勝手に決めつけられているんです。学歴、恋愛、就職、結婚、出産。首でも足首でも触ってみれば、私たちの身を縛っているものの冷たさが、確かに感じられるでしょう。平凡とか普通とかやりたいこととか、今はそういった名をしているでしょうか。

 親や目上の人が、大人が、世間が言う通りに、私は人の気持ちを考えました。吐くほど、眠れなくなるほど、涙するほど。何日も何ヶ月も何年もかけて。人の、私の子としての、命の心を想像して、結論を出し、決めたんです。絶対に産まないと。なのに人は言うんです。お前はどうかしていると。人間じゃないと。逃げるなと。頭がおかしいと。狂っていると。気持ち悪いと。考え直せと。かわいそうにと。

 すべてが欺瞞だと学びました。そして私は、私の出した結論が、私をにらみ、指差し、平気でつばを吐きかけてくる、あるいは陰でささやく人たちによって補強されていく音を聞きました。トントントンっていう、鈍く鋭く、やかましい響きを。それは、この世がいかに暴力やまやかしで満ちているかを教えてくれる、空気の震えです。

 人の気持ち。それは、過半数を取った者たちの気持ちです。普通の人なんていう、ふざけた存在の気持ちです。私のような異常者を屈服させるために、圧殺するために使う、道具としての気持ちなんです。自分たちの安寧を、守るためだけの。

                               (了)

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