そのうちふらっと死ぬんだろうなって、そう思いながら
そのうちふらっと死ぬんだろうなって、そう思っていた。
言葉の湖に、仰向けになってたゆたい続けてきた日々のなかで、何度も何度も肌に張りついてきた、励ましの言葉。いつかきっといいことがあるから。楽しいことが待っているから。人生はこれからだから。幸せになれるから。
そんな、およそなにひとつ響かず、ただぞわぞわするばかりの言の葉を、皮膚からスッと引き剥がすたび、私は、いつかふらりと舞台から飛び降りるんだろうなって、そう感じていた。きっとってなにって、未来がなにって、幸せってなにって、そう思うばかりだったから。
もっと不幸な人がいるという叫びも、生きたくても生きられなかった人がいるんだぞという怒りも、私の胸底では、少しも反響しなかった。下がいるんだから、という慰めの醜さ。勝手に下なるものを、痛みの階層を拵えることの気持ちの悪さ。よりつらいだろうと勝手に認定した相手や、生きたくても生きられなかった人には想いを馳せるくせに、死にたいと感じる私の心は、死にたくても死ねない人たちの震えは、決して問題としない。それどころか、悪しきもののようにつばを飛ばす。安らかな死を自ら選び取ることは、誰もできない。誰にもさせないように、人はしている。人は、安楽死という五つの音を聞いた瞬間、私をその目で、声でぶつ。ぶって、絶叫して、私から言葉を奪ってゆく。そうして生を、ふたたび太陽の位置へと戻そうとする。
死というものの色彩のなさと、痛みへの恐ろしさ、それから、ただなんとなくという感覚だけが柵となって、私を、生という崖に立たせたままでいる。そのうち、スッと越えて落ちるんだろうなと思いつつ、私は、その腐った木に手を重ねて、立ちすくんだまま。そんな私を見て、人は言う。なんで生きてるんだって。さっさと死ねよって。背後から飛んできた石が、足や背に当たるたび、髪や耳をかすめていくたび、向こうへと消えていくたびに、私は、唇を噛んでこぶしを握り、うつむいたり、仰向いたり。生と死の天秤が、傾きの軋みが、灰色を握り締め凄んでいる人たちには、見えていない、聞こえていない。人生という観念を丸ごと肯定し、生きること全般を賛美する瞳には、耳には。
私はいずれ死ぬんだろう。自ら死を選ぶんだろう。これという、明確な理由もなしに。死にゆくことに理由など、本当は貼れるはずがないんだから。だけど人は、私が飛んだわけを、私の死骸から漁ろうとする。そうして決めつけられて、私は、死してなお穢される。私は同情される。私は馬鹿にされる。私は見下される。私は呆れられる。私は親不孝者となり、私を知る者すべてを傷つけ苦しめた、ひどい存在へと朽ち果てる。決して理解されぬまま、私は心ごと、燃やされる。
生きること。それはそんなにも美しいだろうか。清いだろうか。死を願うことは、そんなにもおかしなことだろうか。歪んでいるだろうか。私は、笑顔で生を歌うより、泣き顔で、真顔で死を、らららと口ずさむほうが、よっぽど。
いつか選び取るであろう終わりを、ぼうっと見つめている私。いずれ踏み出すであろう一歩を、おぼろげながら思い描いている私。それは、これまで何度も目にしてきた前向きな言葉や、諭そうとしてくる台詞や、強くて荒い共感よりも、ずっとずっと穏やかで、優しい。だから。
そのうちふらっと死ぬんだろうなって、そう思いながら、私は生きている。
(了)
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