黒い髪

 初めて男の子の髪をきれいだと思ったのは、物心がついたころでした。女子よりもさらさらした髪の子が一人、同学年にいたんです。登校班も同じで、あたしはその子の後ろを歩きながら、いつもうっとりしていました。それこそ、下級生に話しかけられても気が付かないくらい。あたしはその真っ黒い毛先に、目玉を突かれていたんです。串刺しにされていたんです。

 触れてみたい。

 だけどその子は男であたしは女。触りたいからといって思いのまま行動することはできません。ましてや取り立てて仲がいいわけでもなく、たまに二言三言話をするくらいの関係で。それでも、どうにかして触れたかったんです。その髪を見ていると、視界が全部、墨色になっていくんです。墨汁を半紙に垂らしたときのように、髪の黒がじわりじわりと目に染み込んでくるんです。

 触りたい。

 授業中にその子の短い後ろ髪を見ていると、貧乏ゆすりが止まらなくなりました。足の指が妙にそわそわするんです。黒板の字からは白さが消えてノートを取ることができません。教科書を読むように指示されても、どこのページのどの行を読めばいいのか分からなくって。男の子が頭を掻くたびに、髪がこすれ合って。その音に、耳をべろりと舐められました。

 願いが叶ったのは掃除をしていたときでした。

 その子の席を教室の後ろまで運ぼうとしていたら、抜けたであろう髪が一本、机上にあったんです。手が汗で濡れました。つばをごくりと飲まずにはいられなくて。周囲に視線をばらまきながら、あたしはその髪をつまみました。そのまま急いで自分の席へ戻り、適当に引っ張り出したノートのあいだに挟もうとして。だけど髪はべっとりとした手のひらに張り付いていました。初めて触れた髪の感覚はあまり記憶にありません。

 家に帰ってから、自室のベッドに座ってノートを開きました。スカートやシーツで手をゴシゴシしてから、紙の上に乗ったその毛髪を、指の腹でそっとひとなで。太くてしっかりとした髪の触り心地に、口の端から声が垂れました。友達がビーズや花を目にしてはきれいだとつぶやく気持ちと、親や先生が虹を眺めては写真を撮ろうとする気持ちと、あたしが男の子の髪を眼前にして抱く気持ちは似ているんでしょうか。今までアクセサリーや宝石の輝きに惹かれたことはありません。夕焼けの赤や草木の緑、海の青に心踊らされたこともありません。芸能人の顔に興味を持ったことさえないんです。ただ男の子の黒い髪を、あたしはきれいだと思うんです。このきれいは、みんなが言うきれいとイコールでしょうか。

 髪の端と端をつまんで引っ張ったり、蛍光灯にかざしてみたりして、いつまでもいつまでもその黒をいじっていました。その日から掃除の時間が楽しみになりました。その子の髪が手に入れば血湧き肉躍るといった具合で、逆に机の上になにもなければ下唇を噛まずにはいられなくて。そうして手に入れた髪は、透明なガラスの小ビンに入れて大事に保管していました。

 そんなふうに男の子のきれいな髪を少しずつ少しずつ集めては、ほおづえをついてため息をこぼしたり、一人声を漏らしたりしていたんです。髪が美麗な男の子は学校に何人かいて、五年生、六年生になっても、きれいな髪を収集し続けて。彼らの動きに合わせて踊り狂うその頭髪に、直接手を伸ばしてみたいと思いながら。

 初めて違和感を覚えたのは中学生になって少し経ったころです。髪が美しい男の子の一人は同じ中学校に進学していました。ただクラスは別々で、だからその子を校内で見かけるのが密かな楽しみだったんです。その日もろうかですれ違って。だけど一瞬、その子だって分かりませんでした。顔も背格好も髪型も一切変わっていないはずなのに。しかも、その子の頭を熟視しても、髪がきれいだとはこれっぽちも感じなかったんです。

 彼だけではありません。学校にいるどの男の子の頭髪も、あたしの目にはただの黒いかたまりにしか見えなかったんです。キラキラと輝き、光の当たり方で色が変わって、あたしの胸にキュッと絡みついてくるあの髪が、どこを見渡してもないんです。掃除の時間はあくびとたわむれるだけの退屈な一時に変わりました。

 それでも男の子の髪に興味がなくなったわけではありませんでした。いいえ、それどころかむしろより強く関心を抱くようになったんです。それまでに集めたものを眺めているのは確かに楽しかったけれど、それだけじゃ物足りなくなっていって。

 新しいんがほしい。
 もっときれぇなやつを。

 中学生になったあたしにあったのは、かっこいい男子に対する憧れでも、スカートの丈が短い上級生に対する羨望でも、化粧や染髪に対する好奇心でもなく、よだれが出そうになるほど美しい髪への物欲でした。

 あのきれいな髪をもう一度。自分の長いそれでも、周囲の女の子のそれでもなく、見ていると思わずふふふと笑ってしまうような、そんな漆黒を、もう一度。

 その願いは簡単に叶いました。下校中、黒いランドセルを背負った集団の中に、いたんです。不気味なほどきらびやかな黒髪の男の子が、一人。中学校にいる男子との違いが、遠くからでもはっきり分かります。触らなくても手に取るように。みずみずしさ、つややかさ、太さ、しなやかさ。ほかの毛髪とは動きが違います。その子が跳べば、池で見かけるコイのように髪が跳ねるんです。きれいな髪は抜けたあとも確かにきれいだけれど、やっぱりあの、躍動感でいっぱいの髪は別格です。抜け落ちたそれとは比べものになりません。道の真ん中に突っ立ていることも忘れるくらい。自転車にベルを鳴らされても気が付かないくらい。ほかのものは一切目に入ってこないんです。

 眼球に絡みついてくるあの髪がほしい。

「なんなんこの人」

 遠くにいたはずの男の子が眼前にいて、あたしはハッとしました。無意識のうちに男の子に近付いていたようです。眩しい髪がすぐそばにあると思ったら、心臓が早鐘を打ちました。とっさに顔を背ければ、なにこの人、という会話が聞こえてきて。男の子たちのまだ高い声が遠ざかっていきます。あたしはその後ろ姿をじっと見つめました。唇をいじれば、端の辺りが濡れていて。その翌日、帰宅部へ入部することに決めました。

 毎朝早めに家を出て、通学路で人を待つフリをしながら美しく光る黒を探しました。帰るときは道草を食うフリをして、公園で遊んでいる小学生をベンチに座りながら観察しました。だけどオレンジに染まる髪も、群青に隠れる髪も、そのほとんどは、あたしの気を引かなくて。見つけられない日が続けば続くほど、学校の成績が落ちていきました。親とケンカをする回数が増えていきました。些細なことで舌打ちをしたり、頭を掻きむしったり、下唇を噛んだりして。あたしの行動はきっと裏でひそひそ言われていたでしょう。

 男の子の髪をきれいだと思う、それは周りにとって奇妙なことだ。そうはっきり自覚させられたのは、親にコレクションを発見されたときでした。学校でいないあいだに母があたしの部屋を勝手に掃除して、机の引き出しにしまっていたビン詰めの髪を見られたんです。

 学校から帰るとすぐ、リビングで母に問いただされました。これはなに、と。乱れたシーツよりもしわくちゃになった母の眉間。首を傾げずにはいられませんでした。

「髪の毛やけど」

 答えれば、抑揚のなかった母の声が大きくなって。

「翔子(しょうこ)あんた、自分の髪なんか集めてるん」

 母にそう訊かれたとき、ぽかんとしてしまいました。そうして笑ってしまいました。それのどこがあたしの髪なんって。

「なにヘラヘラしてんねん!」

 母は勢いよくテーブルを叩きました。

「いやだって、あたしの髪とは全然ちゃうのにそんなん言うから」

 机上のビンから、一本取り出しました。

「これは小五のとき同じクラスやったタナベ君ので」
「あんた」
「こっちは小六のとき一緒やったタナカ君の」

 それからこれが、と一本ずつ髪を並べていたら、怒声に耳たぶを噛まれました。母の小さな唇が、上下左右あちこちに動いています。あたしには分かりませんでした。いい加減にしろと声を荒げるその気持ちが。あんたって子はと怒られる理由が。

「他人の毛ぇなんか集めて何がしたいねん!」
「そんなん、きれいやから集めとるだけ」
「アホなこと言うな! とにかくもうやめぇ! これ捨てるからな!」

 母が机の上のビンを引っ掴み、並べていた髪を汚いもののように払ったとき、あたしは叫びました。

「なにすんのさ!」

 カーペットの上に落ちた髪を四つん這いになって探しながら、あたしは母を見上げました。にらみつけてやりました。

「お母さんやってきれぇなもん集めたことくらいあるやろ! 指輪とか持っとるやん!」
「人の髪なんか気持ち悪い言うてんねん!」
「あかん捨てたらあかん!」

 ゴミ箱のほうへ歩いていく母からビンを取り返そうと、背後からその太い腰にしがみつきました。あたしの目には太い指に覆われたビンしか見えません。必死に手を伸ばしました。突き飛ばされても突き飛ばされても、あたしは黒い光の束に向かっていったんです。そうして取っ組み合っているうちに互いの足がもつれて転んでしまって。思わず目を閉じれば硬い音がしました。恐る恐るまぶたを上げれば、ビンは細かく割れていて。中の髪は赤く染まっています。母の右手の腹は裂け、小さな破片がいくつも刺さっていて。あたしは髪を掻き集め、台所の蛇口をひねりました。そうして、必死に必死に洗い続けました。

 母が病院で治療を受けたあと、家で父に張り倒されました。お前は頭がおかしいと、病気だと、気色悪いと、何度も何度も言われました。でも、と言い返そうとすればまた叩かれて。あたしはうつむきながら鼻をすすり、両目をこすりながら胸底で反論しました。きれいなものをきれいだと言ってなにが悪いんだって。きれいなものを集めてなにが問題なんだって。誰かを傷付けたわけでもないのに、盗んだわけでもないのに、一体どうしてダメなんだって。そもそも自分たちだって女の髪を見てはきれいきれい言ってるじゃないかって。

 コレクションはすべて処分され、今後二度と髪を集めないことを約束させられ、あたしはこぶしを握り締めました。その日から、腹が立てば歯ぎしりするようになりました。

 学校には休まず行きました。台風などで休校になった日はずっとテレビをにらんでいました。男児を探せなくなると思うと、自分の頭を叩かずにはいられなくなって。だけど晴れの日でも同じこと。きれいな髪の男の子なんてそう簡単には見つからないんです。目の前になければ存在しないのと変わらない。

 だからあたしは、インターネットで画像を検索し、小学生のきれいな髪を画面越しに愛でました。指でなでたり、顔を目一杯寄せてみたり。そのうち眼鏡なしでは生活できなくなっていって。

 学年が上がるにつれて髪に対する思いは一段と強くなりました。インターネットで画像を拾ってくるだけではとても満足できなくて。とにかくなんでもいいから触れたいと、それまで伸ばしていた自分の髪をバッサリと切り、抜くようになりました。自分のものでも髪は髪。パソコンの画面とにらめっこしながら、自分の髪を親指と人差し指の腹でこすりました。本当はコレクションでそうしたかったけれど、もうないんです。触り心地はまるでダメ。それでもあたしは、この手にあるのは目前の男の子の髪なんだと、貧乏ゆすりをしながら自分に言い聞かせて。

 高校に進学したときは、がく然としました。汚ささえ感じる髪が周囲をうろつくようになったんです。近くで見ればそれこそ不気味で、まるで虫の足でした。その人の動きに合わせてうねうねしているんです。けがらわしいと思うような髪があるなんて。あたしの周りには三種類の髪が生えていました。汚いもの、なにも感じないもの、そして、きれいなもの。

 小学生のころみたいに、本物のきれいな髪を集めたい。そんな欲求が、あたしの肩を掴んで揺すってくるんです。湯船に自分の抜けた髪がぷかぷか浮かんでいると、これじゃないって太ももを叩きたくなるんです。

 ほしい、ほしい、ほしい。そんな三文字が、いつもころころ転がっていました。あたしの舌の上で。

 高校に入っても部活動はせず、放課後は近所にある小学校の通学路で子どもたちを眺めていました。相変わらず髪のきれいな子は少なかったけれど、それでもたまに目にすれば、全身がふわふわ浮かんでいるような、そんな気がして。体の不調さえ和らいでいく、そんな感覚でした。

 もっと、もっと、もっと。

 あたしは男の子のあとをつけました。つけるようになったんです。そのきれいな髪に手首を縛られて腕を引かれているようでした。でもそれは不快でもなんでもなく、むしろ心地いいんです。暑くてたまらない夏の日に浮き輪へお尻をはめ込んだときのような気持ちよさ。水の揺らめきに身をまかせながらまぶたを閉じたときに覚える、あの浮遊感。

 小さな背中を追って家の場所を把握し、朝、門口から出てきたその子を眺める。寝癖のある髪をなるべく近くで味わおうと、あたしはその子にあいさつをするようになりました。おはようって。最初はあまり反応がよくなかったけれど、笑顔を差し出し続ければ向こうも手を振ってくれるようになって。だけどそれが限界でした。可能な限りそばで見る。それ以外のことはできなかったんです。ぴょんぴょん跳ねる髪に直接触れることも、抜けた髪を手にすることも。

 その子に近付くことができなくなるまで、そう時間はかかりませんでした。口にしてしまったから。きれぇって。ほしいって。違う子を見つけて同じようにあとをつけても結果は同じでした。不審者が出るらしいとうわさが流れたこともありました。

 気持ち悪い。

 みんなそう訴えてくるんです。その異様なほど細くなった瞳で。


 地元の大学に進学してすぐ、門のところで、一枚のチラシを受け取りました。目を通してみれば、家庭教師募集中の太い文字。教える対象は小学生から高校生までと書かれていました。

「家庭教師やって。翔子ちゃんはバイトするん」

 入学式で知り合ったみゆきちゃんにそう訊かれ、うなずきました。

「みゆきちゃんさ、これ一緒にやらへん」
「時給よさそうやね」

 焦げ茶色の長い髪をなびかせながら、みゆきちゃんは小さな歯を見せました。あたしもきっと、満面の笑みを浮かべていたことでしょう。だって、小学生の男の子と関わるきっかけを得ることができるんです。人から不審に思われることなしに。もうコソコソあとをつけたりする必要もないし、子どもが集まりそうな場所にいってスマートフォンで写真を撮る必要もありません。インターネットの海で泳ぐ理由もなくなります。そのうえ髪を手に入れることだって。下手をすれば直接触ることも。唾液でベタベタになって初めて、みゆきちゃんと話しながら唇を舐めていたことに気付きました。

 男児の家に上がりたい。そう思いながら履歴書を送りました。だけど最初に教えることになったのは小六の女の子。ぬいぐるみや女の子向けの安価なアクセサリーでいっぱいの部屋。そこであたしは算数を教えたんです。間違った箇所を説明するとき、その結ばれた黒髪に目玉を何度も落としてみたけれど、やっぱりなにも感じなくて。解き方を解説する気にもなりませんでした。長い髪を一本持って帰ってきてみても、ただの黒い糸となんら変わりません。ゴミ箱にポイと捨てたくなるだけなんです。

 その子の母親からの要望で、あたしがその家に行くことはなくなりました。その次も、そのまた次も、先生を変えてほしいという希望があって。そんなことが続くうちに大学三年の春を迎えました。桜の散るひらひらという音と一緒に、家庭教師をお願いしますという連絡が届きました。

 小学校六年生の男の子。

 動悸がしました。スマートフォンを持つ手が震えたんです。血が沸騰するとはこのことでしょうか。望んでいた男児をようやく受け持つことができると思ったら、自分でも分かるほど鼻息が荒くなりました。

 これで髪がきれぇやったら。

 その子のお宅へお邪魔するまでの数日間、あたしは眠れなくなりました。目が冴えてしまっていけません。カーテンの隙間から差し込んでくる街灯の明かりが天井に一筋の傷をつけていて、あたしはそれをぼんやりと見続けていました。この細い光の筋が男の子のきれいな髪だったらと、右手を伸ばしては下ろしてを繰り返して。枕元にあった自分の抜け毛が指先に触れれば、なんで自分の髪はこうも違うんだろうかと歯噛みして。大学に行けば、みゆきちゃんに目の隈と赤さを指摘されました。

 土曜日の午後、汗ばむ手で切符を買い、背に肌着を張り付けながら、教えられた住所へと向かいました。そこは住宅街にある一軒家。すぐそばの公園に咲いていた桜の花びらが、黒い門を彩っていました。

 チャイムを前にしたら、心臓のどくりという鼓動が指先にまで伝わってきて。生唾を飲んで、飲んで、カーディガンの袖口で額の汗を拭いました。スカートの裾も直し、何度も何度も深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いて、呼び鈴を鳴らしました。

 出迎えてくれたのは、白と紺の縞模様のエプロンを着た、背の高い母親でした。子どもがいるにしては若い容貌です。少し老けた二十代、という感じでしょうか。すらりとしていました。パーマのかけられた薄茶色の髪が、大人っぽくて似合っています。話してみれば、柔らかい物腰の人でした。

 リビングに案内されれば、ソファーの端っこにぽつんと一人、男の子が座っていました。その子と目が合ったとき、思わず息を呑みました。女性の髪を形容する言葉に烏の濡羽色というものがあるけれど、それはこの子にこそぴったりなんじゃないか、そう感じるほど美しい髪をしていたんです。

「先生?」

 母親に数度呼びかけられるまで、改めて名前を名乗ることさえ忘れていました。眼鏡をいじり、頭を下げて自己紹介をすれば、男の子は顔を背けたまま、流し目であたしを見てきました。ビー玉みたいに丸っこい瞳があたしの瞳とこつんこつん。とたんに男の子はうつむいてしまって。少し長い前髪が柳の木みたいに垂れていて、ときおりふわりふわりと揺れました。

「圭太(けいた)っていいます。ほら、あいさつして」
「こんにちは」

 母親に促されて初めて、その赤みを帯びた唇が動きました。小さくて聞き取りにくい、高い声。

「ごめんなさいねぇ、この子人見知りやから」

 謝意を示してくる母親に、大丈夫ですと胸の前で手を振りました。

 どういった具合で勉強を進めていくかという話を済ませたあと、三人で二階へ。物心ついてから初めて入った男の子の部屋。おもちゃや遊び道具でいっぱいなんだろうと思っていたけれど、案外整頓されていました。本棚にはマンガだけでなく、文庫や図鑑に辞書などがきれいに並べられていて。敷かれた灰色のカーペットの上には特になにも転がっておらず、勉強机には消しカス一つありません。きれい好きなんでしょうか。それとも母親が毎日掃除しているんでしょうか。ベッドの上ではバナナの形をした抱き枕がぐうぐう眠っていました。

 よろしくお願いします、と母親は出ていきました。だけどそのときはもう母親がいるとかいないとか、そんなことはどうでもよくなっていたんです。だって、白くて大きな枕に髪が一本、くっついていたから。窓外の日光を浴びて輝いている黒があったんです。

「先生」

 恐る恐るといった具合で話しかけてきた圭太君を改めて熟視すれば、色白い肌のせいでしょうか、その髪の黒さが際立って見えました。墨汁の黒よりも深みがあって、凝視していると溺れてしまいそうになる、濡れ色の髪。いいえ、きっともう、あたしの肺の中はその頭髪でいっぱいなんでしょう。息がしにくくてしかたがないんです。

「じゃあ、始めよか」

 何度も何度も枕にくっついている髪に目をやりながら、できるところとできないところを区別するため、算数の計算問題と文章問題を解いてみるよう指示しました。

 あの髪は様子を見て取ればいい。大丈夫、チャンスはある。なくなったりなんてしないし、そもそも圭太君はすぐそばにいる。仮に今日手に入らなくても、この先機会は何度もある。とにかく落ち着いて、この子に嫌われないようにすればいい。そうすればいくらでもあのきれいな宝物を自分のものにできるし、もしかしたら直接触れることだって。あたしは座布団の上でひざを崩し、思案しました。母親が用意してくれた緑茶をごくりごくりと飲みながら。

「あの」
「できたん」

 立ち上がって圭太君の手元を覗き込んでみれば、基本的な問題はできていました。ただ少しひねったものや応用になると苦手みたいで。

「基礎は大丈夫やね」

 圭太君のほうに目線を向けると、力強く生えている髪が目と鼻の先にあって、言葉が出てこなくなりました。圭太君が不思議そうに首を傾げれば、髪もその場でひらりと舞って。一本一本があたしに手を差し伸べてきているようでした。その手を握り返したい。そっと指を絡ませたい。だって。

「ほんまきれぇ」

 言ってすぐ悔いました。しまったって。くりくりした目をぱちぱちさせている圭太君。少し距離を取り、鼻を掻きながらどうしようどうしようと歯噛みしました。せっかく会えたのに、せっかく近くで墨色を感じられるのに。今不審に思われたら、気持ち悪いって思われたら。上手い言い訳を頭の中でぐるぐるぐるぐる考えました。だけどちっとも思い浮かびません。だからあたしは軽い調子で話しておどけることにしました。必死でした。

「髪、きれいやなぁって」
「かみの毛?」
「あたしの髪、傷んどるやろ」

 まゆの辺りにある自分の前髪をつまみ、引っ張りながら言いました。

「それに比べたら、やっぱきれぇやなぁって」

 どうやろう。まやかすこと、できたかな。おっかなびっくり圭太君の小さな顔を覗き込んでみれば、ぷいと目線を逸らされて。あぁやっぱりやらかしてしまったとこぶしを作れば、圭太君がなにやら小声で言いました。聞き取れなくて訊き返してみれば、圭太君は指先で消しゴムをいじりながら、伏し目がちにつぶやきました。

「ありがと」

 照れているんでしょうか。それともやっぱり引かれたんでしょうか。判断しかねました。言葉数が少なく、あまり目を合わせてくれない圭太君。恥ずかしがり屋には違いないんでしょうけれど、変だと思われてそれが母親に伝わったら。

 圭太君がトイレへ行っているあいだに布団の上の髪をそっと回収しました。

 そのあいだ、強い春風が窓を叩いていました。目をやれば、桜の梢が揺れていました。



 持って帰ってきた髪の優美さを素直に味わうことができませんでした。つまみ上げて天井にかざしてみても、匂いを嗅ごうとしてみても、自分のほっぺたにあてがってみても、どこかから葉擦れの音がするんです。スマートフォンが気になってたまらないんです。担当を外れてもらいますという電話があったらどうしようって。黒光りする髪を目指してふふふと笑い声が這い出ていっても、それにハッとして、無性に怖くなるんです。イスの上で片ひざを抱えながら、周りをきょろきょろせずにはいられなくなるんです。

 気持ち悪い。
 母の声が、扉をなでては引っ掻いていました。

 なんなんこの人。
 パソコンのコードが、歪んだまゆ毛の連なりみたいに見えました。

 お風呂上がりに姿鏡の前でぺたんと座り、髪を乾かしました。クシでとけば、何本も何本も絡まって。黒い糸くずとなんら変わらないそれに対して、あたしは舌打ちしました。もし、もし自分の髪が圭太君みたいだったら。手触りも、色合いも、髪質も、なにもかも。そうしたら鏡を手に笑顔になれるし、触りたいときに触ることができます。集めたくなってもよりどりみどり。しかめっ面に迫られることもなければ、不快だと言われることもなくなって。なのにどうして、どうしてあたしの髪はこんなにも醜いんでしょうか。あのつやも張りも柔らかさも、なんであたしのものじゃないんでしょうか。

 ほしい。

 自分の髪を引きちぎりながら圭太君に会える日を待ち続けて。一週間経っても電話がかかってくることはありませんでした。あたしはまた圭太君の家に足を運ぶことができたんです。公園の桃色はちょうど緑に食べられているところでした。

 モスグリーンのロングスカートの裾を伸ばしてからチャイムを鳴らせば、この前と同じように母親が出迎えてくれました。最近は暑いですねとか、お花見には行きましたかとか、そんな世間話をいくつか振られて。だけど耳には入ってきませんでした。圭太君が頭から離れないんです。圭太君のあの髪が。

 適当に返事をすれば母親はにっこりしていました。あたしも破顔していたのかもしれません。作った以上に。

「こんにちは」

 圭太君はベッドの上に座って少年誌を読んでいました。思ったよりも大きな声だったんでしょうか、目が合っていたにも関わらず、その肩が小さく跳ねました。圭太君は頭をちょこんと下げて勉強机へ。

「復習、した?」
「少し」
「いい子やね」

 嫌われたくありませんでした。とにかく好かれたかったんです。圭太君はもちろん、この子のお母さんにも。あの先生は嫌だという話にだけはなってほしくなかった。だからとにかく圭太君をほめ、うざったくない程度に明るく接し、母親にはまじめで明るい大学生だと印象付けようとしました。圭太君が問題を解くことができたら、あるいはできていなくても歯を見せて、母親がお茶を運んでくれば礼を述べ、おいしいですと謝意を示しました。

「じゃあこの文章問題、一回一人でやってみよか」

 圭太君が集中しやすいよう、離れた場所に座布団を敷いてお尻を下ろし、解き終わるのを待ちました。勉強机に向かって鉛筆を走らせる圭太君。悩んでいるんでしょうか、左手で頭を掻いています。はらりと毛髪が落ちました。後ろから見ても変わらない美しさ。凝視しているとなんだかぼんやりしてくるんです。このままいつまでも、いつまでも眺めていたい。それにいつだって眺めていたい。起きたとき、食事のとき、トイレに入ったとき、移動の際や空き時間、それから入浴前、寝る直前だって。それこそスマートフォンのストラップが圭太君の髪の束だったらどれだけいいでしょう。

 できひんのやったら、せめて。

 スマートフォンの無音カメラを起動し、圭太君の様子をうかがいながら、その後ろ髪を撮りました。何枚も、何枚も連続で。今まで公園で撮ろうとしたこともあったけれど、子どもはじっとはしてくれません。いつもブレたり見切れたり。だけど今は違います。好きなだけおさめることができるんです。シャッターを切って、切って、切って。そのたびに保存して、保存して、保存して。アルバムを開き、きれいさが特に際立っているものを一枚選択して待ち受けにしました。試しに一度画面を真っ暗にし、改めて電源ボタンに触れてロックを解除してみれば、圭太君の髪の毛にくすぐられました。たまらない心地よさに、両腕を抱きました。

 帰り際、圭太君は目を合わしてはくれなかったけれど、ばいばいと手を振ってくれました。小さく、小さく。



 週に一度、圭太君の髪に足首を縛られ、家まで引きずられていく。それが楽しみでなりませんでした。会えば会うほど、あの子は少しずつなついてくれて。嫌われる心配も減っていき、あたしはその美しさを思う存分味わうことができるようになりました。それでも、ふとしたことで不快感を与える可能性がある。そう自分にしつこく言い聞かせ、抜けた髪を持って帰ることと、撮ること以外は自制して。

 八月に入れば互いに夏休みとなり、訪ねる回数が週一回から二回に増えました。その知らせを家で受けたとき、あたしは布団の上で転げ回って。もっと、もっともっとあの髪を間近で見られる。自分の鼻息がうるさく感じるくらい興奮しました。大学にいても、周囲が話すインターンシップのことなんて、右から左。

「翔子先生は算数好きやった?」
「国語とか社会よりは好きやったかな」
「ぼく今まで嫌いやったけど、最近ちょっと好きなった」

 小さな歯をこぼした圭太君は、あたしのことを名前で呼んでくれるようになりました。目もちょくちょく合うようになりました。たまに話かけてくれるようになりました。圭太君がときおりちらと見せてくれる好意に、顔の筋肉が溶けていって。この子の好きという気持ちはチケットです。すぐそばで髪を見てもいいという、許可証です。

「この前解けへんかったやつ、できとるやん」

 えらいなぁ。頑張ったなぁ。そう言えば、圭太君ははにかんで。

 このときふと思いました。ほめながらだったら、自然な感じで髪に触れるかもしれないって。勉強の話だけでなく、好きなマンガやアニメの話なんかもしてくれるようになった圭太君。今の関係性なら、違和感なくあの髪に手を伸ばすことができるかもしれない。

 そんなふうに思量しながらも、なかなか行動に移すことができませんでした。怖かったんです。万が一、万が一頭をぽんぽんすることで圭太君に嫌悪感を示されたら。現状を維持したい。触れてヒビが入るくらいなら、最初から手を後ろに組んで眺めているだけのほうがよっぽどいい。不安があたしの肩を掴みながらその長い長い首を横に振っていました。いけないよって。

 だけど、欲求。この手のひら全部であの髪を味わってみたいという欲が、あたしから不安を引き剥がそうとするんです。大丈夫、もう十分なほど好かれている。ちょっと体に触ったぐらいで嫌われるわけがない。それに相手は小学生の男の子。白くて柔らかな女の手を嫌に思うはずがない。むしろうれしいに決まっている。根拠のない自信という上着を羽織った欲望が、あたしの手をきつく握り、こっちへ来いよ来いよと引っ張ってきて。不安と欲に挟まれたまま、時間だけが過ぎていきました。だけど触れたいという欲念は大きくなっていく一方で、いくら前歯で舌を噛んでみても、奥歯でほっぺたの内側を噛んでみても、我慢できなくなっていって。

 窓の外でセミがぼとりと落ちたとき、圭太君がぽつりとつぶやきました。

「夏休み終わったら、土曜だけ」

 その言葉に耳たぶをトントンされた瞬間、不安はなくなりました。圭太君はあたしと会うことを楽しみにしているに違いないと確信したんです。右手が自分のものじゃないような気がしました。勝手に動くんです。手だけじゃありません。唇も、顔の筋肉さえ。

「できとるできとる」

 圭太君の下手な字を見ながら言いました。

「いい子やね」

 もう頭しか見えませんでした。爪を切っておけばよかったという後悔も、いつの間にかどこかへ消えていて。指が髪に飲み込まれていきます。頭皮の熱と汗の湿り気に指先をしゃぶられて。親指の付け根を真っ黒に甘噛みされたとき、変な声が出そうになりました。生唾を飲んで、飲んで、飲んで。へへっという圭太君の笑声がしたとき、あたしは思わず手を引きました。

「ちょっとお手洗い借ります」

 ごめんねと言い残し、あたしは圭太君の部屋を飛び出てトイレまで。こんなにも体がカッカするのは空気がこもっているからでしょうか。背中を少し丸めれば、手に残っていた感覚に溺れました。匂いを嗅げば、鼻がこそばゆくて。

 この白い手首も、腕も、あのつややかな黒に染めてほしい。

 手の腹に舌を這わせながら思いました。

 あの髪を食べてみたいって。



 秋風が駆け、雪景を背負ったクリスマスが歩いていきました。今年最後の授業の日、あたしは圭太君の襟足にそっと触れながら言いました。

「髪、結構伸びたね」
「今度切ろう思ってる」

 圭太君はまゆよりも少し長い前髪をいじっていました。

「切ったらすっきりするなぁ」

 口ではそう言いながらも、内心、穏やかではありませんでした。圭太君が散髪に行けば、切られた髪は捨てられてしまうんです。床で一まとめにされ、無造作に処分されてしまうんです。想像しただけで歯ぎしりしたくなりました。これほどの髪はそうそうないんです。駅でもショッピングモールでも見かけたことはめったになくて。切ったなら全部保存しておくべきなんです。袋に入れて、ビンにしまって、大切に大切に。ゴミ箱行きなんて。

「でもあんま行きたない」
「なんで?」
「話しかけられるから」
「それやったらあたしが切ってあげよか?」

 冗談っぽく笑ってみせれば、圭太君の表情が明るくなりました。

「ほんま? えぇん?」

 食いついてくるとは思っていなくて、一瞬言葉に詰まりました。だけどあたしからしてみれば願ったり叶ったり。どんなものよりも魅力的なこの髪がゴミとして扱われずに済む。そのうえ持って帰ることだって。今までは一本ずつこっそり集めてきたけれど、そんなの目じゃないくらい大量に。両手ですくい上げられるくらいに。

 もう圭太君の髪を切ることしか考えられませんでした。

「じゃあ休憩がてらちょっと切ろか」
「でも変にはせんといてほしい」
「任せとき」

 いらないプリントを適当に敷き詰め、その上にイスを運んで圭太君に座ってもらって。自分のペンケースからハサミを取り出して、刃をちょきちょき。

「服につくとあれやから、頭、前に出してくれん」
「こう?」

 圭太君は足を広げ、ひざに手をつきながら前かがみに。あたしは前髪をそっとつまみ、刃を近付けて。髪の切れる音と落ちる音に耳を甘噛みされ、背中の産毛が逆立っていくのが分かりました。

 あたしのもん。全部全部あたしのもん。

 前髪はまゆの上、横は耳の真ん中辺りで襟足は数センチ。全体的に伸びた分を少し短く切ったあと、圭太君に手鏡を貸してあげました。多少いがんでいたり長さが不揃いになってしまったところはあったけれど、圭太君はありがとうって言ってくれて。ところどころ触りながら気にしている圭太君を立たせ、頭を優しく払い、ズボンとトレーナーをぽんぽんと叩いてあげました。

 そのあとすぐさまエチケット袋を片手にひざまずき、落ちていた髪を掻き集めました。汗のせいでへばりつきます。スカートで何度も手をふきながら、一本たりとも残すまいと体を動かして。触り心地を味わっている余裕はありませんでした。

「ほな、これ捨てとくね」

 拾い残しがないか幾度となく確認したあと、透明の袋を見せました。そのあとまた圭太君に勉強を教え、また来年と適当に手を振ってから部屋を飛び出しました。一階にいた母親へのあいさつなんてどうでもよくて。白い息を一つ二つと転がしながら、駅まで走り続けました。電車を待っているあいだ、太ももを指でトントンして。吊革につかまりながら早く早くと独り言。家についたとき、外気はひんやりしているはずなのに汗で濡れねずみになっていました。床に座れば、肩が自然と上下して。

 カバンに手を突っ込み、膨らんだエチケット袋を取り出して、ほおずりしました。

 こんなたくさん。

 笑い声が、ぼとぼと落ちていきました。

 袋を逆さまにすれば、スカートの上に髪がどさりと落ちてきて。両手ですくい上げ、そっと顔をうずめます。目を閉じればみかんの匂いがほんのりと。毛先が肌に食い込んでくれば、鼻から息が飛び出ていって。まぶたを上げれば麗しい黒に目が飲み込まれました。

 ふわりと真上に放れば、美しさが全身に降ってきました。この黒を浴びれば自分の髪さえ美麗になる。そんな気がして、あたしは何度も何度も手でおわんを作りました。ふと鏡を見れば、口が半開きになっていて。恍惚とした表情というのは、これくらい緩んだ顔のことを言うんでしょうか。そんなことをぼんやり考えながら、床に落ちた髪を、いくらか拾い上げました。

「キーホルダーにできひんかなぁ」

 髪を玉にしようと、手を動かしました。

 その日の夜、圭太君の母親から電話がかかってきました。語気の荒さから、怒り心頭に発していると分かって。呼び出しに応じれば、無言のままリビングに通されました。

 つばをたくさんかけられました。母親だけでなく肥えた父親からも。圭太君は終始ソファーの端でうつむいていて。あたしに視線を向けてくることもあったけれど、ひどい涙目でした。怒られたんでしょうか。

 警察に行くことさえ考えたと、母親は机を叩きました。他人の髪を勝手に切るのは暴行罪だって早口に言うんです。これまでの優しい印象がうそみたいです。こぶしがひざで震えました。圭太君の髪にはもう近付けないかもしれない。そんな現実に、ばちんと顔をぶたれたんです。

 圭太君は両親にありのままを話したようでした。そろそろ散髪へ行きたいと思っていたこと、だけど足を運ぶ気になれなかったこと、切ってあげるというあたしの言葉に同意したこと。全部本当かと父親に詰問され、あたしは目を合わせることなくうなずきました。ちらと視線を向ければ、厚ぼったい唇はため息で濡れていて。

「もう二度と来んといてください」

 母親がそう吐き捨てたとき、圭太君は口を半開きにさせたまま自分の親を見つめていました。

「嫌や」
「はぁ?」

 叫びました。

「嫌です! あたしまたここ来たい!」

 圭太君のそばへ行こうとしたら、父親に肩を掴まれました。

「反省してへんのか!」
「だって、だってあたし!」
「出て行け!」
「あたしは圭太君の!」

 手を伸ばしても伸ばしても、指に触れるのは空気だけでした。

 父親に玄関まで引きずられ、突き飛ばされて。尻もちをついたあたしを見下ろす父親の陰から、抑揚のない女の声がしました。

「えぇ加減にせなほんまに警察呼ぶぞ!」

 冬空の下に閉め出された体から、ぶるりという音がしました。星は見えませんでした。

 翌日、会社の人から呼び出しをくらい、家庭教師をやめさせられました。同時にうわさが流れ、年が明けると、同じく家庭教師をしていたみゆきちゃんが、あたしを避けるようになりました。みゆきちゃんだけではありません。大学であたしを知っている人たちはみんな、あたしを奇妙な目で見るようになったんです。

 気持ち悪い。気色悪い。気味が悪い。三つの悪いが、ケケケとあたしをあざ笑ってきて。好奇の色を帯びた目玉がころころとあたしの周りを転がっていました。

 スマートフォンに保存した圭太君の髪の写真を、寝る前に布団の上でスライドさせました。あれも、これも、どれもきれいでした。きれいなんです。スマートフォンを枕元に放り投げ、押し入れから段ボール箱を引っ張り出しました。その中にしまってある、三重にしたビニール袋。圭太君の髪のかたまりをそっと掴んで、あたしは胸に抱きました。

 こんなにも美しいもんやのに、なんで。

 あたしには分かりませんでした。他人の感覚が自分のそれとはまるで違うこと。それは別にいいんです。ある人は宝石に目を奪われ、ある人は明媚な風景に言葉を失う。またある人は他人の容姿に心を惹かれ、別の人は人工物に足を止める。あたしの心を掻き乱すのは男児の髪。ただ対象が違うだけ。にも関わらず、草花を愛でるのは許されて、黒髪を愛でるのが許されない。なぜ。水族館でクラゲをきれいだと言う人の気持ちは、あたしには得心いきません。だけどその言葉を否定する気なんて、特に起こりません。ガラスに手をつく人にとってのクラゲは、あたしにとっての髪なんだろう。そう思えば、理解もできるんです。だけど、みんなは違います。きれいだと言ってあたしが髪を集めれば、嫌悪感という刃物を片手に切りかかってくるんです。あたしが男の子の髪を切れば、ひそひそ声という石を投げつけてくるんです。

 気持ち悪い。

 カーテンと窓を、思い切り開けました。

「これが、これが……」

 魅せられなければ、きれいだと思わなければ。これは本当は汚いもの。集めるものでも、写真におさめるものでも、保存しておくものでもない。

 ゴミと一緒。捨てて当たり前やから。やから!

 冷たい空気に、手がかじかんでいきます。

 投げることはできませんでした。どうしてもできなかったんです。



 スマートフォンの写真をコンビニで印刷したり、髪のかたまりを転がして遊んだりしているうちに、チョコレートの甘さが近付いてきました。だけどあたしの胸底は、圭太君の髪でいっぱいでした。定期試験も、新しいアルバイトの求人も、就職活動も、どうでもいい事柄で。

 また直接、頭に触れたい。

 手元にある髪が指に絡まれば絡まるほど、机にひじをつきながらプリントアウトした写真を眺めれば眺めるほど、圭太君に会いたくなりました。

 もう一度、この手のひらで。

 焦がれました。コレクションをいじっても落ち着かないんです。見とれていてもすぐ我に返ってしまうんです。持ち帰った髪を手にしているだけでは、目にしているだけでは、十分な満足感を得ることができなくて。髪を口に含めば、歯と歯のあいだに挟まりました。

 ふと気付けば、圭太君の家のそばにある公園にいました。そこにあるのは朝霜だけで。ベンチからは圭太君の家の門が見えました。冷たい木にお尻をなでられながら、あたしはじっとしていました。白い息が左のほうへと流れていきます。コートのポケットに手を突っ込めば、持ってきていた圭太君の髪をビニール越しに感じました。

 しばらくのあいだ体を小さくしていたら、はしゃぎ声が聞こえてきました。ほどなくして、服をたくさん着込んで丸くなった圭太君がランドセルを背負って敷地から出てきました。淡い朝日が黒に染みていきます。立ち上がって、砂をけりました。声をかけようとしたんです。だけどその前に、圭太君はゴミ捨て場の前で集団登校に合流してしまって。足を止め、圭太君の視界に入らないよう気を付けながら、輝く髪に目を向け続けました。

 一度家に帰り、夕方、再び公園までやってきました。きゃあきゃあ言いながら公園の脇を駆けていく子どもたち。その中に圭太君がいないかと目を凝らします。朝とは違ってマスクをかけているせいか、眼鏡がくもって。何度も何度もかけ直していると、水色のゴムボールを持った幼い男の子が二人やってきました。全身でボールを投げているその姿を流し目で見ながら、思いました。自分が男の子だったらと。

 通学路に指定されている道のほうから、ばいばいという高い声が聞こえてきました。顔を向ければ、誰かに手を振っている男の子。その姿に自然と腰が浮きました。

「圭太君!」
「翔子、先生?」

 一人になった小さい肩を勢いよく掴めば、圭太君は目を見開いて。顔をあさっての方向に向けて体をひねっています。あたしの手から逃れようとしているみたいでした。何度名前を呼んでも答えてくれません。あたしは電柱の陰まで引っ張っていき、暴れている髪をなでました。なでずにはいられなくて。

「あたしのこと、嫌いになった?」

 訊けば、一瞬動きが止まりました。

「なって、へんよ」

 か細い声が耳たぶにぶら下がってきました。あたしは手を離しました。圭太君は逃げようとはしませんでした。

「ごめん、なさい」
「なんで謝るん」
「ぼくのせいで先生やめさせられたから」

 いっぱい怒られたから。圭太君はまばたきを繰り返しながらそう言って。あたしはマスクの下で笑いました。あたしの体を縛っていたこのきれいな髪は、まだ圭太君と繋がっている。心に絡みついているこの真っ黒い髪は、まだ切れていない。マスクを取って腰をかがめ、目線の高さを合わせました。

「悪かったんはあたし」

 圭太君はかぶりを振りました。その体をそっと引き寄せ、耳元でささやきました。ごめんねって。圭太君はあたしのコートを控えめに掴んできて。あたしはその横髪に鼻をうずめました。ここが道端であることなんてもうどうでもいいことで。汗っぽい髪の匂いに鳥肌が立ちました。

「また会いに来てもえぇかな?」

 圭太君はこくりと首肯しました。

 月、水、土の夕方に公園で待ち合わせよう。そんな約束を二人で交わしました。毎日会うことを控えたのは、周囲に気付かれる恐れがあったから。このきれいな髪から隔離されること。それだけはなんとしても避けたくて。週三回、週三回だけ話をする。その中であたしは、圭太君の髪を。

 集合するのは公園だったけれど、一緒に過ごしたのは別の場所でした。ファストフード店、ショッピングモール、河原に人気のない神社。電車で隣町にも行きました。家庭教師をしていたときのアルバイト代は、圭太君との遊びに消えていって。通帳の数字が減っていっても心は穏やかでした。あの髪に触れられるならそれだけでよかったんです。

 梅の木の白いつぼみが膨らんでいくにつれて、髪のつやや色はいっそう美しいものとなっていきました。深みが増した黒に、あたしの目玉は溶かされて。より柔らかくなった髪が風でなびけば、腕が言うことを聞かなくなるんです。あたしはことあるごとに圭太君をほめました。なにかにつけてちょっかいをかけました。

 そうしているうちに、春が冬を押し退けていきました。圭太君は中学校へ進学し、あたしは就職活動に本腰を入れなくてはならなくなって。志望する業界なんてなかったけれど、説明会へ行くのは思ったよりも苦じゃありませんでした。これが終われば圭太君の髪に癒してもらえる。心臓に絡みついた髪は、まるで水を吸い取る根っこのように、あたしから苦痛を取り除いてくれたんです。

 ずうっとこの髪、触ってたい。

 そんな願いを真っ二つに割ったのは、梅雨とともに訪れた違和感でした。急に背が伸び始めた圭太君と待ち合わせたときです。湿気を含んだその髪の色が、妙にくすんで見えたんです。しおれた朝顔、黄ばんだもやし。あれほど鮮やかだったのに、あれほどらんらんとしていたのに。あたしは目をこすりました。こすってこすって、我が目を疑いました。適当に話をしながらその髪に触れてみます。張りや柔らかさなんて感じませんでした。肝をつぶしました。言葉を失いました。ぷつりぷつりと胸底からなにかの切れる音がして。伸ばしていた腕がだらりと垂れました。

 約束していた日とは別の夕方に、学校帰りの圭太君を公園で待ち伏せました。圭太君が体操着姿でそばの道を通っていったとき、あたしは一瞬見過ごして。その後ろ髪は、もはや他人でした。

 その日を境に、あたしは圭太君との約束をすっぽかすようになりました。スマートフォンを持つようになった圭太君から何度か電話がかかってきたけれど、構わず無視して。震えるスマートフォンを横目に、袋にしまっていた昔の圭太君の髪を、指の腹で、一本ずつなぞりました。あるいは束をくわえてみたり、ハンドクリームを塗るみたいに、髪を手の甲へこすりつけたりして。この一年で収集した毛髪とたわむれながら、窓の外に広がっている梅雨空を、ぼんやりと眺めました。

 もう一度、もう一度、もう一度。

 ハッとしたとき、あたしは小学校の校門の近くに立っていました。下校時間は過ぎており、くもり空ということもあってか、出てくる児童はまばらで。しばらくのあいだそこに立っていたけれど、あたしを満足させてくれる子はいませんでした。

 きれいな髪の子に会いたい。男児と話す機会がほしい。

 スカートのポケットからスマートフォンを取り出して、登録していた就職サイトにアクセスしました。指を動かし、企業を探して。学習塾の説明会にエントリーしました。

 大きな雨粒が、肌を叩いてきます。

 きれいな髪は、濡れたらどんな触り心地でしょうか。

 うつむいて、水に溶けた自分の影を見つめながら、人差し指で下唇をなぞったら、端がねっとりしていました。

                               (了)

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