村上春樹『ノルウェイの森』の不完全性について
『ノルウェイの森』は1987年に講談社から出版された上下二巻の長編小説です。ご存じの方は多いと思います。
どんな内容かはウィキを読めばわかるので割愛します。簡単に言えば、大学生の恋愛小説なんですが、フェミニストからはかなり叩かれてました。もちろん今でも。主人公が消極的なのに、周囲の女性が「ヤラせてくれよ」って寄ってくるのがおかしいらしいです。アマゾンのレビューでも「作者キモイ」的な感想がみられます。あとは「内容が薄い」「人間味がない」といった意見もよく聞きます。言わずもがな「難解である」意見も。
恥ずかしながら、高2になるまで自分も村上春樹なんて読んだことはなくて、初めては現代国語の授業でした。今でも小説の読みかた、というよりも物語の構造をどう解釈するのか、についてはA先生の影響をモロに受けてます。「タイランド」とか「となりのトトロ」とかアレ以外にどう読めばいいのか分からないです。
話を戻すと、村上春樹『ノルウェイの森』への批判は先に挙げたようなものが多いのですが、これは恐らく村上春樹がそのような批判が来ることを意図して書いたものだと思っています。無意識的に書かれた「欠損」と呼んでもいい。なぜなら『ノルウェイの森』は不完全な文章だからです。
それにしても『ノルウェイの森』は非常に複雑で難解で、そして文量が多い。解説本も沢山出版されていますが、様々な観点から読むことができる作品は、読者間での「読み」の共有が難しい。例えば「直子」に注目して読むことは「直子」の注目せずに読むことを無視しているわけです。あるいは15歳の「僕」と33歳の「僕」ではまた違った「読み」が行われます(よね?)。読書は常に、過去と(あるいは「他者」と)同一の経験をもたらすことはありません。読書体験は体験するまさにその時に限界を形成します。あなたが目で追っているテキストは「作者のテキスト」だけでなく「あなたのテキスト」でもあるのです。そのため、読者の作品解釈は(あまりにも文脈を無視していないかぎり)正当性が保証されるのです。
さて、ここまでが、僕の保険ですね。つまり、これから「このように読みましたけど、お前はこれ以上の良さげな解釈できんの?」とつらつら書き連ねる訳なので、一体どんな御身分で偉そうなことを言っているのかという批判を無視するための保険です。
考察は地図作りに似ていて、とても精緻に行おうとすれば、「もう作品読んだ方が早いんじゃね」くらいの分量になりますし、見やすいように小さくし過ぎると、「大きな道路しか書かれてない地図」になります。綺麗な比喩じゃなくてすいません。とにかく、扱う作品の難解さがヤバイwので、このnoteでは「ギリシャ悲劇」、特にエウリピデスとソフォクレスへの作品内の言及から読み解こうと思います。参照及び引用した原本は2004年の講談社文庫版『ノルウェイの森』上下巻(以下NW/1あるいはNW/2とする)に基づきます。また、鍵括弧内は他文章からの引用、二重く括弧内は筆者の強調部であります。
ここから先は「です・ます」が面倒なので、「である・だ」にします。
まず、デウス・エクス・マキナについて語られる部分を参照してみる。
彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身動きがとれなくなってしまうことなんです。(中略)みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないですからね、だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。それでどうなると思います?これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。(中略)そして全てはぴたっと解決します。これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。エウリピデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・マキナが出てきて、そのあたりでエウリピデスの評価がわかれるわけです。(NW/2 pp.90-91)
このワタナベの台詞は病床に伏している緑の父親に対して語られている。緑の父親は脳腫瘍とその手術の影響で四音節以上の言葉を喋ることができない。また、痛み止めによる意識の混濁も読み取れる。しかし、ワタナベがこの話をした後に彼と一緒にキウリを食べると、緑の父親はワタナベに「キップ」「ミドリ」「タノム」「ウエノ」と言う 。
ここで留意しておきたいのは、ワタナベはソフォクレスの方が好きだと言うが、なぜかエウリピデスの話をするのである。確かにワタナベと緑が受講している「演劇史Ⅱ」の講義内容を語っているのだと捉えることはできる。しかし、ソフォクレスに全く言及せず、エウリピデスのデウス・エクス・マキナについて語ったことは、ワタナベがデウス・エクス・マキナのような「都合の良い」存在を否定していると捉えることも可能である。
なぜワタナベはデウス・エクス・マキナを否定するのか。より正確に記述するならば《37歳のワタナベは何故19歳のワタナベにデウス・エクス・マキナを否定させたのか》である。
『ノルウェイの森』は37歳のワタナベが18年前からの数年間を思い出して記述している物語である。そして、37歳のワタナベが「文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。」 (NW/1 p.22)と語っていることから、《作品全体は37歳のワタナベの記憶に依っていること》と《文章型式で記述されたこの物語は不完全である》ことが分かる。
そして37歳のワタナベが何故この物語を書くに至ったかの理由は「直子のことを忘れない」ためである。しかし、直子はワタナベの直子に関する記憶が「いつか薄らいでいく」ことを知っていた。つまり、作品冒頭部で直子とワタナベに交わされる「直子のことを忘れない」という約束は既に破綻していることになる。だが37歳のワタナベは「忘れない約束」を交わした理由を知っている 。すなわち、ワタナベは「直子を忘れないという約束」を守るためにあえて「不完全な文章」を書いているのである。
作品全体を通して、大前提として「不完全である」とされた『ノルウェイの森』は、作品中の様々な部分につじつまの合わないことが書かれている。これはワタナベの「不完全な記憶」に依っているからではなく、あえて村上春樹がワタナベに語らせているからである。
そのように言えるのは何故か。それは、『ノルウェイの森』は「村上春樹が37歳のワタナベに、ワタナベの19歳の頃の話を書かせている」という入れ子構造になっているからである。どうして村上春樹が『ノルウェイの森』を入れ子構造で書いたのかは後に述べる。なぜならば、まずは「不完全な文章」を見つけなければ村上春樹の意図が垣間見えないからである。
筆者は「不完全な文章」の証拠が現れている一部分が、エウリピデスのデウス・エクス・マキナへの言及部であると考えている。つまり、37歳のワタナベは19歳のワタナベにわざと「ソフォクレスが好きだ」と言わせることで端にエウリピデスを否定していない(肯定しているのでもない)ことを語っているのである。これを解説するために、「エレクトラ」におけるソフォクレスとエウリピデスの違い、そしてデウス・エクス・マキナの役割を把握する必要がある。
「エレクトラ」は愛人アイギストスと共謀して、夫であるアガメムノンを暗殺したクリュタイメストラに復習を果たす物語である。クリュタイメストラはエレクトラの実母であり、実母殺しの話で有名である。エウリピデスもソフォクレスも物語の大筋として「実母殺し」であることは共通しているが、エレクトラの復讐の動機やクリュタイメストラの心情描写はかなり異なっている。詳しく見てみる。
ソフォクレスではエレクトラは復讐の動機が専ら「暗殺された父親をないがしろには出来ない」という理由であるが 、エウリピデスでは、確かにソフォクレスでの動機と合致するが、「本来的な地位ではない、貶められたゆえに復讐する」ことが前面に押し出ている 。また、エウリピデスではデウス・エクス・マキナの前にオレステスは胸部をさらした(母性の強調)母を殺害したことによるアポロンへの懐疑を抱いているし 、エレクトラは「罪があるのはわたしのほう」 と罪悪感を抱いている。またエレクトラの「わたしの場合はどのアポロンが、どんな神託が母親を殺すようにと仕向けたのでしょうか。」 という問いにディオスコロイは「共同の運命」としたのみで明確に答えてはいない。丹下はこれらの台詞から「アポロンの神託の命令を受けて、しかも嫌々ながら母親を殺したオレステスと違って、自らの憎悪から母親を殺害したエレクトラにはデウス・エクス・マーキナーによって救われ切れないところが残る」(丹下和彦訳『エウリピデス悲劇全集2』p.483) と評している。
つまり、エウリピデスの「エレクトラ」においては、エレクトラの母殺しの罪はデウス・エクス・マキナによって解決されていないということになる。
最初に挙げたエウリピデスへの言及ではあたかも「すべてを解決する」ような表現がなされているデウス・エクス・マキナであったが、「エレクトラ」においては「エレクトラ」を救いきっていないのである。この部分が「不完全な文章」であって、すなわち37歳のワタナベが(つまり村上春樹が)語りたいことなのである。
一度ここで要約しておくと、37歳のワタナベは19歳のワタナベに《エウリピデスが書く、デウス・エクス・マキナのような都合の良い神を僕は否定します》と表明させることによって、そして冒頭部で《文章が不完全であること》を表明することによって、《エウリピデスはデウス・エクス・マキナで解決させなかったこともある》ことと《『ノルウェイの森』ではデウス・エクス・マキナは全てを解決しない》ことが暗に示される。
では、村上春樹はなぜ『ノルウェイの森』を入れ子構造にし、わざわざ《不完全》にしたのだろうか。
キズキの自殺という事件が起きてからワタナベは死について、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」 と思うようになっている。さらに直子の死後、ワタナベがキズキの自殺から得た死生観は「真理の一部」でしかなく、「どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできない」 と思うに至っている。そして終盤でレイコと再会する時に「かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ」というデジャヴに遭遇する。物語を一貫して「死は生の一部」であることが語られ続けており、不完全性とは、キズキの死によってワタナベが直子と「死者を共有」し、直子の死はレイコとワタナベをつなげたように、近しい人間の死が生者の一部を死(哀しみ)に追いやることにより、他人と死で繋がっている状態を指している。さらに「不完全」の言及は生と死のみならず、冒頭部の「自分がこれまで失ってきた多くのもの(中略)失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い」といった《失われたモノたち》が失われたことによって共有されていることを示している。
『ノルウェイの森』における生と死とは、決して生物学的な生と死ではなく、言い換えるならば意識と無意識、記憶と忘却といった反対の立場に思える構造が、片方がもう片方の一部として存在していることの表象なのである。そして『ノルウェイの森』を入れ子構造にしたのは、文章が「不完全」であることを読者と共有することができるからである。『ノルウェイの森』において、例えばデウス・エクス・マキナがすべてを解決してしまったのならば、物語が完全に解決されるゆえに共有される部分(不完全な部分)は存在しなくなるのである。
「僕はソフォクレスの方が好きです」という台詞は、『ノルウェイの森』の不完全性を保つために、ワタナベひいては村上春樹は「ソフォクレスの方が好きだ」と言いつつ、エウリピデスを語ることにより『ノルウェイの森』におけるデウス・エクス・マキナ(おそらくは村上春樹のことであろう)が解決しなかったことへ読者の意識を誘導する意図があったのである。
さらに、『ノルウェイの森』にはデウス・エクス・マキナは現れないこと、物語が解決されずに《不完全》なままであることで、読者と作者はこの《不完全》を共有することができる構造になっていることが分かるのではないだろうか。
つらつら書いてたら5000文字くらい書いてました。駄文で申し訳ないです。作品内でのデウス・エクス・マキナについては沖積社より出版されている『「ノルウェイの森」の研究』において、酒井英行氏が言及されておりますが、こちらは対談形式で「レイコが作品のデウス・エクス・マキナであると考えている」くらいの言い方でした。確かに最後はレイコと性交に至るし、それによってワタナベの精神が回復するような描写なのですが、レイコは作品を脱する立場にないこと、常に現れる三角の人間関係の一部であることに注意すれば、デウス・エクス・マキナがレイコであるとは言えないはずです。
さて、『ノルウェイの森』が不完全であることは指摘した通りですが、デウス・エクス・マキナへの言及に限らず、いろんな箇所に様々な矛盾や謎が隠されています。キズキの自殺の原因は解明されない(読者に解けないようにするため、永遠の謎としての役割)ですし、緑の家族愛の欠乏とか、あるいは内容ではなく、赤と緑と白のイメージがリフレインされ続ける(ここでも三角の表象です)こととか。
小説をはじめとする、すべての作品は読者と作者を媒介するものです。「雨が降っています。Bさんはどんな気持ちですか」「悲しい気持ちです」だけではなく、「雨を降らせた作者Y氏は、読者にどんな読み方をさせようとしているのか」「一体、Y氏は何を伝えたいのか、一方の読者である私は何を読み取っているのか」という視点も大事だと思います。読書は手鏡と同じです。映っているのは「私」の内面です。読むことは常に恣意的で能動的な行為なのです。もちろん、作者に「読まされている」可能性も捨てきれないのですが。
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