伊勢神宮と熊野古道(その1)
平成16年(2004年)7月、ユネスコが「紀伊山地の霊場と参詣道」を世界遺産に登録しました。紀伊山地には、熊野三山、高野山、吉野・大峯という、神道、仏教と、この2つが習合した修験道の霊場があって、日本独特の信仰が根付いています。これらの霊場と、道者(修行者や参拝者)が歩く参詣道が世界的に価値のある文化資産と認められたのです。
これは誇るべきことですし、今年は指定から20周年にあたることから、地元や関係者の間では、熊野古道の価値を再発信するチャンスとして期待が高まっているようです。
しかし、伊勢神宮の史実から見ると、伊勢神宮と熊野三山の信仰はセットになっているものではまったくありません。実態として様々な結びつきは強かったものの、伊勢と熊野は時として激しく対立し、特に伊勢神宮側からは熊野信仰は厳しく忌避されていた事実があります。
こうした歴史を知らずに単なる観光コースとしていっしょくたにPRされることは残念ですし、学びを得ることにもつながらないでしょう。
伊勢と熊野は記紀神話に基づく祭祀であることは同じです。しかし決定的に違うのは、熊野は神仏習合の修験道のメッカであるのに対し、伊勢神宮は仏教や修験道を強く忌避していたことです。(神仏隔離、と言います。)
伊勢神宮による仏教の忌避は、お経のことを「染紙」と言い換えたり、僧尼のことを「髪長」と言い換える、忌み言葉が有名です。実際に僧尼の参詣は伊勢神宮では禁止されていましたが、このようなことは熊野三山ではありえませんでした。神々は仏と同体であり、インドから遠く離れた日本に仏陀の教えを広めるために、わざわざ特別に神々が示現した場所が、熊野であり日本国であるという理解(神仏習合)だったからです。つまり、伊勢と熊野は同じ神社であっても、よって立つ根本的な思想が全く別だったのです。さらに、熊野では山野で肉体的にも厳しい修行を行う修験道が発達しました。これは、空海が真言密教の本拠地とした高野山の大きな影響があります。
時代が下ると、天照大神の子孫であるはずの天皇本人さえ仏教に深く帰依してお経を唱え、仏像を拝み、進んで寺院や大仏を作るようになりました。伊勢神宮の神仏隔離は次第に揺らぎ始めます。伊勢神宮の神官の中からも仏教に帰依して出家する者が相次ぎ、神官一族が氏寺を建立することさえ起こりました。
明確で体系だった教義がない神道は、理論的に仏教に後れを取ったために、神官たちが貪欲に仏教教理を学ぶようになったことも影響しています。
こうして実態として、伊勢神宮にも徐々に仏教が浸透するようになります。さらに平安時代末期、天皇中心の政治勢力が衰えて、全国の有力な寺院や神社でさえ朝廷の庇護がなくなり、自らが荘園を開墾したり、武家など新興勢力の後ろ盾を得なければ存続できなくなった経済情勢も加わりました。伊勢神宮も自分たちで財政基盤を確立する必要に迫られるようになったのです。それまでは天皇家の宗廟として、いわば皇室のプライベートな祭祀施設だった伊勢神宮が、その神威や神徳を広く武家や民衆にまで訴えて全国から信者を獲得していくように大きく変化し始めました。
こうした流れの中で、大きなライバルでもあり、協業相手でもあったのは、やはり仏教です。伊勢神宮は建前上は仏教を忌避しつつも、仏教に強く影響された神学を考案して仏教と思想的に接近し、民衆にも分かりやすい現世利益で伊勢信仰を全国に広めていきました。
僧侶の参拝は禁止していながら、実際には便宜を図った事例が散見されるようになるのは鎌倉時代ごろです。
このあたり、本音と建前という、特に日本社会に根強いといわれる考え方が、宗教にも垣間見えるのは大変興味深く思われます。
一方で同様に、熊野比丘尼や修験も全国を巡って、熊野の霊験を貴賤に伝え広めましたから、伊勢とはお互い競争関係にあったわけです。次回は、伊勢と熊野が対立し、実際に武力衝突した事例を紹介します。(つづく)
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