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伊勢神宮と熊野古道(その2)

今年で指定20周年となるユネスコ世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」に関しては、熊野三山と伊勢神宮がセットで語られる場面を多く見ます。しかし両者の関係は良好だったわけではありません。

今回はその続きで、まず伊勢神宮(宇治山田)と熊野衆の武力衝突事例です。治承5年(養和元年、1181年)、熊野三山の社僧・湛増が率いる僧兵団が志摩国菜切島(三重県志摩市波切)を襲撃しました。これは、全国的な戦乱となっていた平氏と源氏の争いの一環であり、伊勢国を本拠地としていた平氏と、源氏方であった熊野との紛争であったと考えられています。
この時、熊野衆は伊勢神宮の別宮であった伊雑宮を襲って神殿を破壊し、神宝を奪うなどの行為を働きました。さらに宇治山田に侵攻しましたが、最終的には平氏方に反撃され、退却しました。(船江合戦)
この戦は、伊勢神宮側に大きな脅威として記憶されたことでしょう。

その後、鎌倉時代に入って、天皇を中心とした勢力が完全に衰えると、朝廷によって安堵されていた伊勢神宮の収入も安泰ではなくなります。自前で荘園を開墾したり、鎌倉幕府などの有力者から荘園の寄進を受けたりせねばならなくなり、全国の神社仏閣との、いわば寄進獲得競争に入ります。
伊勢周辺はともかく、関東や九州などには伊勢神宮になじみがない地域も多くあり、そこの有力者から寄進を受けるには、伊勢神宮が尊貴の神であることと共に、武運長久や家内安全などの現世利益ももたらすありがたい神であることを伝え、納得してもらわなくてはならなくなります。私幣禁断の祖法が緩み、今のように庶民の参詣を受け入れるようになったのもこの時代からのことです。これらのことは伊勢神宮の大きな転換点となりました。

なぜなら、寄進を集めて全国を廻る、さらにはその土地に土着して寄進された荘園の管理人となる、といった勧進活動は、仏教のほうがはるかに発達しており、特に山伏や修験といった人々がその中心にいたからです。いうまでもなく、修験の聖地は紀伊半島最深部の吉野、熊野であり、そこから多くの熊野聖、熊野比丘尼が全国を勧進に回っていました。船江合戦の記憶が薄れ行くころ、いつしか伊勢神宮の神職と熊野の僧尼や修験者は接近していくようになります。

その実例は多くありますが、もっとも有名なのが、慶光院上人による伊勢神宮の式年遷宮の復活でしょう。戦国の世のため100年以上も中断し、朽ち果てるに任せていた宇治橋や、内宮、外宮の正宮は、熊野とゆかりが深い尼寺であった慶光院の歴代住職の献身によって、無事斎行することができたのです。慶光院はこの貢献により、明治に至るまで伊勢神宮における特権的な立場のお寺となって君臨します。

慶光院清順上人(熊野市鉱山資料館)

このように、中世においては、実態としては伊勢神宮と熊野三山とは一定の関係性が保たれていました。
一般の庶民にとって、日々の生活で伊勢信仰も熊野信仰も大きな区別はなかったでしょうし、実際に江戸時代に西国三十三か所の巡礼が盛んになると、伊勢神宮を参った後に一番札所の青岸渡寺へと向かう巡礼ルートが確立します。まさに熊野古道の「伊勢路」といわれるものがそれで、熊野参りの人は山田の北西にあたる田丸(紀州藩領)で装束を着替え、ご詠歌を口にしながら熊野道を南下しました。田丸の街には、巡礼者のために笈摺(おいずる)や菅笠などを売る店もあったそうで、当時のガイドブックである「西国三十三所名所図会」にもそうした様子が描かれています。
しかし実際にはこうして伊勢神宮から熊野詣に行く人は、参宮客の1割以下だったと推定されています。熊野古道は巡礼自体が修行になるような険しい道のりだったからです。

西国三十三所名所図会(早稲田大学 古典籍総合データベースより)

このころ、伊勢神宮側では「こうした熊野との関係は、乱世の時代にあって仕方なく行われたことである。徳川将軍の治世となり世の中も安定してきたのだから、伊勢神宮本来の姿、すなわち神仏の隔離に戻るべきだ。」という復古的な大義名分論も強く起こってきていました。
江戸時代には庶民の旅行ブームがあり、伊勢神宮には全国から参詣者が訪れていました。当然ながら反対に、宇治山田の領民も富士講や豊川稲荷、秋葉山、金毘羅宮などに多く出かけていましたが、伊勢神宮はたびたびこうした神社仏閣巡りを禁止しています。
例えば宝暦3年(1753年)には「冨士山、大峰、金毘羅詣、西国巡礼など講を相催し参詣候こと、神地には不相応の事に候。」という趣旨の禁令を出しています。つまり、宇治山田の神領民は、公然と吉野大峰山や、熊野三山などの西国巡礼に出ることは表向きは禁止されていたわけです。

青岸渡寺

三重大学の塚本明先生によると、中世の伊勢神宮では慶光院をはじめとして熊野の勧進聖が多く活動しており、信者の獲得面で神宮の神官と激しく競合していた過去も踏まえて、
「(伊勢)神宮は、宇治・山田の住民たちが「巡る」ことへの警戒を怠らなかった。観音信仰や個別の寺院が問題なのではない。山伏たちの活動と重なる、諸国を「巡る」ことへの警戒が、近世伊勢神宮の神仏忌避の重要な要素であったのではなかろうか。」という興味深い指摘をしています。(近世伊勢神宮領における神仏関係について)

このように、伊勢と熊野は決して単純な関係だったのではありませんでした。神仏習合や神仏隔離の考え方がせめぎあい、さらには宗教とは別次元とも思える信者の獲得競争ではライバルでもありました。

観光振興キャンペーンとして伊勢と熊野とをワンセットで喧伝するのがいかに薄っぺらい話か、お判りいただけたでしょうか。






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