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東大寺と伊勢神宮の壮大な神仏習合

奈良にある東大寺の建立(つまり、今から1000年以上むかし)にかかわった全国の市町村が「奈良にある東大寺の建立(つまり、今から1000年以上むかし)にかかわった全国の市町村が「東大寺サミット」なる組織を作っており、令和6年は岡山市でサミットが開催されるとのこと。
私はこの組織を全然知らなかったのですが、「東大寺の造営や再建等で歴史的に関係の深い市町村が集い、郷土の歴史と文化、構成市町村の友好と連帯を深めるとともに遺産を保護または活用した魅力ある個性豊かな地域づくりをすすめること」を目的に、もう長らく活動を続けているそうです。
現在16市町村が加盟しており、奈良市は当然として、採取された砂金が大仏塗金用に献上された宮城県涌谷町、お水取り行事に使う「若狭井」が通じているとされる福井県小浜市など、それぞれにゆかりを持っています。

しかし残念なことに、なぜか三重県伊勢市はメンバーになっていません。
伊勢神宮と東大寺は非常に深いかかわりがありました。特に鎌倉時代の高僧・重源による大仏殿再建は、伊勢神宮と東大寺の神仏習合が頂点に達した、日本の宗教史上も画期ともいえる出来事なのにです。

平安時代末期の治承4年(1181年)、平重衡による南都焼き討ちで東大寺大仏殿は全焼してしまいます。その惨状を嘆いた後白河上皇が、東大寺再建のために大勧進に任命したのが重源でした。
重源は多くの協賛を得るため、精力的に全国を勧進にまわりますが、伊勢神宮にも、文治2年(1186年)、建久4年(1193年)、建久6年(1195年)の3回参詣した記録があります。

重源(奈良国立博物館HPより)

文治2年2月のこと、重源が夜通し大仏再建の成功を祈っていたところ、「私は近年、体が疲れ衰え、大事を行うことができなくなってしまった。お前の力で我が身を肥やしてほしい。」との夢告を得ます。
これが、天照大御神のお告げであり、大御神も大仏再建を強く願っていて、その使命が自分に託されたのだと感得した重源は、4月にあらためて、総勢700名もの衆徒たちと伊勢神宮を参詣しています。

伊勢神宮・内宮

ところで、この当時、伊勢神宮は仏教を禁忌としており、僧尼の参拝や念仏、読経などは固く禁止していました。これは境内に神宮寺が建立されることさえあった一般の神社と伊勢神宮とのたいへん大きな違いで、神仏の隔離が伊勢神宮の正統だったのです。
しかし、大人数の衆徒を受け入れることとなった外宮の禰宜(神官)である度会光忠も、内宮禰宜の荒木田成長も、重源一行を大歓迎します。
たとえば度会光忠は、僧侶による外宮の直接参拝を認めていますし、度会家の氏寺(神官一族が氏寺を持っていることも今では想像しがたいですが)である常明寺を提供して、盛大な法楽(大般若経の転読など、神様にささげる仏事)を認めています。荒木田成長も、氏寺の天覚寺で盛大な法楽を行わせ、衆徒団へ酒食の饗応さえしています。

重源らによる法楽の甲斐あってか、天照大御神、豊受大御神のご加護により建久6年(1195年)に大仏と大仏殿は再建されたのでした。まさに歴史的な偉業です。

ただし、繰り返しになりますが、重源ら東大寺衆徒による公然たる伊勢神宮参詣は、当時としてもかなり異例、異色のことでした。それゆえに詳細な記録が残り、今に至るまで伝えられているのでしょう。
その後は史実として、伊勢神宮での神仏の習合が大きく進みます。内宮と外宮を曼荼羅の胎蔵界と金剛界になぞらえる両部神道の勃興や、神宮周辺への寺院の林立へと、そしてついには、式年遷宮さえ熊野比丘尼(慶光院)の主導で再興される事態になるのですが、それはまた別の話。

歴史家の高野澄氏は、重源らの参詣は大仏のメッキに不可欠な、水銀採掘の利権を伊勢神宮が握っていたため、託宣を使って東大寺にも配分するよう仕向けたものだったと指摘しています。
また、皇學館大学教授の多田實道氏は、衆徒を篤くもてなした伊勢神宮の神官側に、後白河法皇に対して叙爵を強く望む意図があり、それと引き換えの饗応であったろうと推測されています。

ともに興味深い見方で、こうした実利的な意図が双方にあったのかもしれませんし、それは穿ち過ぎで、伊勢神宮は純粋に国家の大事業に協賛する気持ちだったのかもしれません。これらの点は機会があればさらに深掘りしたいと思います。


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