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伊勢神宮の寺 常明寺(廃寺を行く2)

前回、日蓮宗の開祖である日蓮が伊勢神宮を参拝して三大発願のために参篭し、神からの啓示を得たことを書きました。

しかし、古来から伊勢神宮は「神仏隔離」を貫いており、直接その神前で僧尼が参拝したり読経したりすることは認められていませんでした、このことは、神仏習合が進んでいた京都や奈良を始めとする全国の神社と伊勢神宮との大きな違いの一つと言われています。

ただ、仏教思想は伊勢神宮にも急速に浸透し、末法思想が時代思潮となった平安時代になると、伊勢神宮の上層部、すなわち、天皇の名代として伊勢神宮の重要祭事を主宰した「祭主」(大中臣家の世襲職)や、内宮の禰宜(内宮の祭事を執り行う高級神官で、荒木田家の世襲)、外宮の禰宜(同じく、度会家の世襲)たちが、引退後に出家して僧になったり、一族の氏寺を建立したりすることが盛んに行われていたことも、また事実でした。

日蓮が参籠した場所も、伊勢神宮内ははばかられるため、外宮の禰宜一族である度会氏の氏寺であった「常明寺」という真言宗のお寺でした。(江戸時代の寛永年間に天台宗に改宗)

この常明寺は、神様に捧げる仏事である「法楽」を行う寺院としてしばしば歴史上に現れます。源平合戦で焼失した奈良の東大寺大仏と大仏殿の大勧進となった重源と東大寺宗徒たちが、天照大御神に大仏再建を祈願して盛大な法楽を行ったお寺としても有名です。

その後、日蓮が活躍した鎌倉時代へ、さらに室町時代へと常明寺の繁栄は続き、周囲には多くの人家が立ち並んで「常明寺門前町」という集落が形成されたほどでした。

大正時代に刊行された「宇治山田市史」(下巻 第九寺院編)によれば、
常明寺は継体天皇の時代に創設され、聖徳太子により中興されたなどの自伝があるが信じるに足りない。
外宮の禰宜であった檜垣(度会)常明が再建したとの説もあるが、確たるものではない。
度会神主家とは関係が深く毎年正月8日、外宮神官が参向して境内にある神落萱
(かみおちがや)社において祭を行い、寺僧も本堂で誦経し、行事が終わって男女陰陽形の餅を撒いたものである。
子の無い者がこれを戴くと子が授かると宣伝せられていた。この男形を「しし餅」、女形を「貝餅」といった。

とあり、民間の信仰を多く集めていたようです。
しかし、男女陰陽などとあるのは、それぞれの性のシンボルをかたどったようなものだったのでしょうか?

外宮と内宮の中ほどにあり、参宮街道(古市街道)にも近かった常明寺は、伊勢参宮の際には必ず立ち寄ってお参りすべき名所として知られており、江戸中期の観光案内本である「伊勢参宮名所図会」にも常明院として大きく掲載されています。吉田兼好による落書があった、と書かれています。

このように寺勢を誇った常明寺ですが、明治初期に明治政府による廃仏毀釈で廃寺が命じられ、伽藍はすべて破却されました。
常明寺門前町という地名も、現在の「倭(やまと)町」に改名されました。これは境内に岩窟があって、ここが倭姫命の埋葬地(古墳)であったという伝説によるものです。現在の「倭姫命御陵」がそれです。

現在の境内跡地はこのような感じになっており、完全に「神社」です。
本堂の場所は道路敷となり、伊勢参宮名所図会では左下に描かれている神落萱社と、左上に描かれている金毘羅宮は現存するものの、近隣の都市化も進んで往時とは全く異なった地形になっています。

参宮名所図会と同じように参道が右にカーブしています

唯一残るのは、手水石に刻まれた「常明寺門前」の文字のみです。

なお、今、伊勢市一之木町に常明寺というお寺がありますが、これは後になって日蓮宗のお寺として再建されたものだそうです。

せっかく伊勢に来られたら、ぜひこうしたあまり有名ではないけど歴史のある場所にも訪れていただければと思います。

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