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キャリア概要1/5(〜2008年)

今回から全5回に渡り、私のキャリアについて紹介していきたいと思います。

キャリア概要1/5(〜2008年)◀︎イマココ
キャリア概要2/5(2008〜2011年)
キャリア概要3/5(2011〜2015年)
キャリア概要4/5(2015〜2017年)
キャリア概要5/5(2017年〜現在)

最初にお伝えしておくと、他人のキャリアや成功哲学というのは全くあてにならないと考える一方、1つのケーススタディとして読んでもらえれば何かの気づきになるのではないかと思います。

学生時代の超概略

高等専門学校(高専)を卒業後、音楽専門学校に行き、作曲やDTMを勉強しました。サウンドクリエイターになって生活できればいいなぁと思ってた程度で、大した志ではなかったと今更ながらに思います。
専門学校卒業後は親元を離れ、フリーターをしながら作曲活動をやってたりやってなかったり、ブラブラしていました。

IT畑に転職

サウンドクリエイター系の就活もやっていましたが地元福岡では求人そのものがめっきり少なく、もっとまぶちを広げる方法はないかと考えた結果、「プログラマー兼サウンドクリエイター」になろうと考え、まずは下積みとしてITの会社に入ろうと思ったのが私のキャリアの最初の一歩でした。その時私は25歳…ずいぶんと身の程知らずの安易な転向だったようにも感じますが、あまり先行き考えずに転職サイトに申し込みました。

しばらくすると熱心なメールでお誘いいただいた会社がありました。「創業から赤字なし、週末には社員旅行や芋掘り(?)など和気あいあいとした会社」…今となっては完全に地雷だったと思いますが、いただいたメールがテンプレでなかったので私に関心を示してくれているのは確かなようです。それ以上の深読みはせず面接を受けることにしました。

面接や試験は可もなく不可もなく…という感じでしたが、最終の社長面談が酷かった。「まずは勉強しにこい、その後雇ってやる」。相当悩みましたが、地元福岡では未経験の私を受け入れてくれるようなところは限られているので、最終的にはokを出してお世話になることになりました。

事務所に通いだすと全然教育してくれる様子はありません。かといって何か成果を問われるようなこともなく、とにかくダラダラと、ウトウトと時間を潰していました。4月になると正社員になって給料が支払われるようになりますが、それでもやはりダラダラと電話番の日々です。そもそも私に回せる業務はなかったんだと思います。

出向の提案①

そんな中とあるベンチャーに人員を2名で送るという話があり、東京へ面談に行きました。虎ノ門だったと思います。マイクロソフトのパートナーで、Excelをつかった業務管理ツールを作って売ってる会社…当時も何が凄いのか全然わかりませんでしたが、これがとんでもない案件で1名分の金額で2名出向してくれ、という地雷案件でした。
結果会社は出向を辞退しました。英断だったと思います。私の上に立つ予定だった人は以前の出向先を辞めてオフィスに戻ってきていましたし、私は会社にとってお荷物そのものでしたので、その2人の負債を続けることをとったというのは正しい判断力を会社が持っていたと言えます。結局その先輩はその後会社を辞めてしまい、私も振り出しに戻りました。

出向の提案②

それからしばらくして新たな提案の機会がありました。場所は東京品川。お付き合いのある会社の親会社が、何やら米国のメーカーや代理店になるとのことで、そこに人を出しノウハウ(というか仕事)を持って帰ってくるための人員が欲しい…ただし費用を激安にしたかったらしく、新卒のやっすい人員を出して欲しい、という無茶な要求でした。
私は新卒ではないものの人件費は新卒と変わらなかったので、候補者の一人とされていました。新卒も一人いたのですが、残念ながら喘息持ちだったり親の過保護が理由で遠方での一人暮らしを拒否してしまいました。彼はその後会社を辞めることとなりますが、私の方はオフィスにダラダラといたくなかったので猛アピールをして私を提案してもらうように働きかけました。

面談は二回あり、まずはお得意先の本部長(私はこの会社の看板を背負って東京に出向することになります)…「新卒って話だったのに」と浮かない顔でしたが、提案をしてくれることとなりました。そして出向先の面談…全く経験がない中で何とか面接を進めていましたが、最後の質問で「ネットワークについてどういうイメージを持っているか?」と聞かれ、質問の意図もわからず無言になってしまいました。結果としては出向が決まったのですが、未だにあの時の適切な回答がわかりません。

最後に出向先の調達部門から私の会社に電話があり、私の月額が通達されました。その時営業部長が不在で、私が電話に出たのですが、言伝として私の単価を聞かされました。確か42万円/人月でした。私の月給が額面で19万だったので、まぁそこまで会社に痛みはなかったんだと思います。

出向にあたって会社に同意書を書かされたような記憶がありますが、出向手当に東京加算なるものがありが出ることになり、月給は額面で21万くらいになったと思いますが、その際営業部長が「6年上の先輩よりも金額多くなるぞ」と言われ、少しショックだったことを記憶しています。

こうしていろんなブラック臭を漂わせながら私のキャリアはスタートしていくわけでした。ただ仕事は「プログラマーでもないIT職…しかも製品を輸入してってなんだか面白そうだぞ」と感じていたと記憶しています。その頃はもうすでにサウンドクリエイターになることを考えていなかったようにも思われます。

この一歩が後々大きく人生を転換させる事となります。まさか今のような生活があるとは、夢にも思っていませんでした。(つづく)

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