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「インドのマキャヴェリ」が説くマンダラ外交(『第三の大国 インドの思考』より①)

 文春新書の新刊『第三の大国 インドの思考 激突する「一帯一路」と「インド太平洋」』(税込・1,100円)は、在インド、中国、パキスタンの日本大使館に外務省専門調査員として赴任したアジア情勢研究の第一人者である笠井亮平さんが、現在のインド、さらには中国も徹底的に分析、解説した充実の一冊。世界の政治経済の動向や、今後の日本の進む道を構想し、ビジネスを優位に進めていくにあたっての情報や分析が満載です。
今回は、発売を機に、本書に掲載されたコラム「『インドのマキャヴェリ』が説くマンダラ外交」を公開します。
ロシアのウクライナ侵攻に際して、親ロ政策をとりながらも日米とも良好な関係を築くという、極めて巧妙な外交を展開するインド。その戦略には、古代インド発祥の深遠なる智慧が影響しているようでーー。

マックス・ウェーバーが一目置いた、カウティリヤの「実利論」

カウティリヤという、古代インドの人物をご存じだろうか。紀元前4世紀末にチャンドラグプタ王がナンダ朝を倒し、インド史上初の統一王朝となったマウリヤ朝を興した際に、宰相として活躍した政治家だ。「チャーナキャ」や「ヴィシュヌグプタ」の名でも知られている。

そのカウティリヤが著したとされるのが、『実利論(アルタシャーストラ)』という国家統治の要諦を論じた書だ(異説もある)。そこではリアリズムにもとづいた冷徹な主張が展開されており、マックス・ウェーバーは『職業としての政治』の中で、「カウティリヤの『実利論』に比べれば、マキャヴェリの『君主論』は無害なものだ」と評しているほどだ。カウティリヤは「インドのマキャヴェリ」としばしば呼ばれるが、このウェーバーの指摘や時代的にもカウティリヤが先であることを考えると、マキャヴェリを「イタリアのカウティリヤ」と呼んだほうが相応しいかもしれない。

『実利論』では、興味深い外交論が展開されている。自国にとって直接境界を接する隣国は基本的に「敵対者」であるが、その隣国の隣国は友邦になり得る国、その隣国は敵対者……という具合に同心円状に広がっていく、というものだ。これが輪円のようであることから、「マンダラ外交論」と呼ばれる。

マンダラの中で展開される「六計」とは?

つまるところ、これは「敵の敵は味方」と言っているにすぎないのではないか、と見る向きもあるかもしれない。だが、マンダラ外交論を興味深くしているのは、「中間国」と「中立国」の存在だ。前者は自国と敵対的な隣国の双方に接する国、後者は自国にも隣国にも接しない国である。自国が隣国と敵対する状況下では、この中間国と中立国との関係を効果的に活用することが重要であるとして、さまざまなケースに分けて対処策が示されている。

そしてこのマンダラの中で、「和平」、「戦争」、「静止」、「進軍」、「依投」、「二重政策」という「六計」を状況に応じて繰り出していくとしている。補足すると、「静止」とは「自国から動かずに静観すること」、「依投」とは「他に寄る辺を求めること」、「二重政策」とは「和平と戦争を臨機応変に採用すること」であると説明されている。また、諜報活動についても論じられており、インテリジェンスの重要性が説かれている。

インドでは、『実利論』のこうした戦略論を現代の外交分析に活かそうとする取り組みが盛んになっている。インドの国防省系シンクタンク「インド防衛問題研究所」(IDSA)は2013年10月に「インド外交とアルタシャーストラ」をテーマにしたセミナーを開催した。このときマンモーハン・シン政権で国家安全保障担当補佐官をしていた外交官出身のシヴシャンカール・メノンは基調講演で、「『実利論』はインドの戦略文化や一般のインド人が戦略問題を考える際に中核をなすものだ」と指摘していた。メノンは翌年に開催された第二回セミナーでも「『実利論』は不安定で予測困難な環境の中でいかにして政治的、経済的発展を達成するかについてのテキストだ」と語っている。

敵か味方かの単純な「二分法」を超えて

実際、マンダラ外交論を通してインドをめぐる地域環境を見ると、腑に落ちるところが少なくない。インドと国境を接するパキスタンや中国を「敵対者」と位置づければ、東方の日本や韓国との関係改善を推進したり、パキスタンの隣国であるアフガニスタンにタリバーン政権が復活するまでは支援を行ったりしたのも、納得がいく。1971年の第三次印パ戦争で東パキスタンをバングラデシュとして独立させたことも、敵対者の力を削いだという点でインドにとっては戦略的に大きな意味を持っていた。「中間国」として位置づけられるのはASEANになるだろう。インドがインド太平洋構想について語る際、ASEANの中心性を重視し、自陣営に取り込もうとすることもこの捉え方から説明できるのではないだろうか。「中立国」は湾岸諸国やアフリカ、南太平洋諸国が当てはまりそうだ。

S・ジャイシャンカル外相が著書『インド外交の流儀』で、「フレンド(友好国)」でもあり「エネミー(敵国)」でもある「フレネミー」に対処していく必要性に言及しているように、現代世界では「敵か味方か」という単純な二分法が通用するわけではない。とはいえ、『実利論』がきわめて多くの示唆を与えてくれることは間違いない。インドは『実利論』の内容をベースにして、いままさに「マンダラ外交論2.0」を構築しようとしているのかもしれない。

『第三の大国 インドの思考 激突する「一帯一路」と「インド太平洋」』
笠井亮平 著

◎目次

まえがき 3
序章 ウクライナ侵攻でインドが与えた衝撃 15

第一章 複雑な隣人 インドと中国 25
蜜月から対立へ/転機となったチベット問題/印中国境紛争への道/対ソ接近に活路を見出したインド/パキスタンという「ワイルドカード」/米中和解がもたらした「事実上の印ソ同盟」/「米中パキスタン」対「ソ印バングラデシュ」/遅れて来た経済自由化/核保有をめぐるインドのロジック/印米急接近と実質的な核容認/「BRICS」発足とモディの登場/印中新時代にもくすぶる国境問題/「政冷経熱」の印中/人口インパクトで台頭するインド/二〇四七年までの先進国入り
【コラム①】「インドのマキャヴェリ」が説くマンダラ外交←本稿

第二章 増殖する「一帯一路」ーー中国のユーラシア戦略 67
それは習近平のアルマトイ演説からはじまった/ベールを脱いだ「一帯一路」/中国の強国化と「一帯一路」の登場/ヨーロッパとのコネクティビティ強化/「アジアインフラ投資銀行」と「シルクロード基金」/「一帯一路」をめぐる懸念/反発を強めるアメリカ/ヨーロッパでは「港湾」と「中東欧」に進出/日本でも提唱されていたシルクロード開発構想/日本はどう向き合ってきたか
【コラム②】『三国志』と現代中国の指導者、そしてユーラシアの勢力図

第三章 「自由で開かれたインド太平洋」をめぐる日米印の合従連衡 107
二〇〇七年の安倍総理「二つの海の交わり」演説/「インド太平洋」を作り出したのはどの国か?/「自由で開かれたインド太平洋」とインドの思惑/「お蔵入り」になった二〇一三年の「インド太平洋戦略」演説/日本外務省のイニシアチブ/どうしても必要だったインドの支持/インドから見たインド太平洋/「クアッド」に向けた胎動︱日米豪印の連携/コロナ禍で実現したクアッド首脳会合と四か国海軍演習/英仏独が「インド太平洋」に関心を強める理由/バイデンが進める「インド太平洋経済枠組み」/「インド太平洋」は禁句︱中国の拒絶
【コラム③】インド北東部と日本ーーインパール作戦の舞台から開発の焦点に

第四章 南アジアでしのぎを削るインドと中国 153
グワーダルーーベールに包まれたパキスタンの港湾都市/中国の支援で進むグワーダル港開発/交通、水、テローー発展の制約要因/「一帯一路」の要としての中国・パキスタン経済回廊/中パ経済回廊の実態は/ハンバントタ港開発で「債務の罠」に陥ったスリランカ/空港やコロンボ港も︱ハンバントタだけではないスリランカの中国依存/デフォルトまで追い詰められたスリランカ経済/ヒマラヤ山脈を中国の鉄道が縦貫する日/インドが「一帯一路」から距離を置く最大の理由/「一帯一路」と相容れないインドの「核心的利益」/チャーバハール港開発計画︱アフガニスタン、中央アジアへのアクセスも狙う/国際政治に翻弄されるチャーバハール港
【コラム④】中華料理を通して見えてくるインド、パキスタン、ネパール

第五章 海洋、ワクチン開発、そして半導体ーー日米豪印の対抗策 203
インド洋をめぐるインド独自のイニシアチブ/インド洋開発の切り札か?ーーアンダマン・ニコバル諸島開発/南太平洋での米中勢力争い/インドの新型コロナワクチン開発/次のパンデミックを見据えたワクチン開発協力体制/ペロシ訪台で際立った台湾の重要性/半導体のサプライチェーンにインドは加われるか
【コラム⑤】宇宙大国・インド

第六章 ロシアをめぐる駆け引きーー接近するインド、反発する米欧、静かに動く中国 231
「実利」優先のインド外交/「特別で特権的な戦略的パートナーシップ」の構築/インドのロシア産原油「爆買い」/インドの原発建設もロシアが支援/「いまは戦争の時代ではない」ーーモディが苦言を呈した背景は/ロシア・ウクライナ双方と関係が深い中国/インドとロシアの間にくさびを打ち込めーー中東版クアッド「I2U2」
【コラム⑥】インドのスターリン︱いまも残る「ソ連」、「社会主義」、「共産党」

あとがき インドと中国が争う新時代の国際秩序形成 256
主要参考文献 261


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