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オン・ザ・ロード

 一 

 たった今『アンボイ』に到着! 

 ここまでの道のりはマジで長かったよ。なんかスゲェ感激だよ。前の町からここまでの道のりは距離でいうと大したことはないけど。たかだか数十㎞ってとこだからね。

 でもね、この暑さの中を徒歩でやってるでしょ? 身体も精神も疲れきってるぼくにとって、この数十㎞はホント過酷だったんだな。あ~あ、やっと椅子に座って食事が摂れると思うと、なんだか身体の芯からウキウキしてくるね、マジで。

 実はね、ぼくは昨日の昼過ぎに一度ここを通ってるんだ。今日の朝から昼過ぎまで、ぼくは砂漠に浅く掘った穴の上にタープ張って、その下で地図と睨めっこしてたの。そしたら「アレ? アンボイってもう過ぎたの?」って事に気づいて、わざわざ半日かけてぼくはここに戻ってきたんだ。独り言をブツブツ言いながらね。

 ぼくの中の常識では、アンボイと平家の落ち武者の集落を比べたら、平家の集落の方がまだ百万都市っていえるくらい立派なモンなんだよね。

 ルート66を紹介しているガイドブックだとかによく載ってる『ロイズ・モーテル&カフェ』があるのもアンボイなんだけど、ぼくが昨日この〝町〟を通り過ぎた時に思ったことは〝砂漠に捨てられたモニュメント〟だったのね。だって町でも村でもないの、アンボイってところはさ。一言で言えば、荒野の中に落書きされた、ただの余白なんだな、ここは。

 今からカフェに入って食事をしようと思うよ。出来れば食料と水も補給したいね。しっかし、人がいないねここは。ガソリンスタンドだってやってんのか廃墟なのか分かんねぇもん、マジで。

 確か昨日ぼくがここの前を通った時には、シボレーのピックアップトラックが一台停まってたから、営業はしてんのかもしんないけど。それか、あの車の人は廃墟マニアか。ま、いずれにしても、徒歩でマニアじゃないぼくには関係ないけどね。ではでは、ただいまよりカフェに突撃を開始します。

 二

 あぁ~、あぁ~、タダイマ独り言のテスト中、独り事のテスト中。

 よし、OK。約7日ぶりの独り言だからなんだか緊張するよ。

 ふぅ~、なんだか濃度の濃い日が続いたんだ、マジで。

 なんで約7日ぶりの独り言かっていうとさ、実は数日前までぼくは、旅で知り合った人と一緒に、大都会シカゴに行ってたんだ。

 シカゴから戻ってきてからまたルート66を歩き始めたぼくだけど、ホントこの数日間は夢心地で、地に足がついてない感じだったんだよね。正直独り言どころじゃなかったのよ、あまりに突然人生が動いたからさ。歩調よし! 掛声よし! ってところで、経緯は今から追々話していくことにするよ。

 先ず始めにアンボイのことから話そうかな。マジで人口2、3人なんだぜ、アンボイって町は・・・・・・。

 一応電気は来てるし、カフェの中には椅子もカウンターも、冷えたルートビアも置いてあったから、別に文句はないけど、しかしサビレてたね。こんなんだったらまだ、本当のゴーストタウンの方が活気があるような気がしたよ。

 次にアンボイに1軒だけあるカフェについて話すね。

 突然だけどぼくはここに宣言する。アソコで出されたもんを3日も食い続けたのなら、体臭が変わると。

 マジであんなもんでよく金をとるね。旅人をナメテルとしかいえないよ、まったく。

 モハベ砂漠には美味いモンを出すカフェは存在しないんだ。アンボイの前に立ち寄った『バクダッド・カフェ』も酷い味がしたもんな。バクダッド・カフェなんて映画の舞台になったカフェなんだぜ? なのにあの味はないよ、マジで。

 ぼくがフロリダ辺りをうろついていた時は、入る店入る店全部美味かったんだ。サンタモニカをうろついてる時に入ったレストランも、カフェも、チーズバーガーが最高に美味かったんだ。なのに、モハベのカフェはなにやってんの!。

 ぼくが食べたモハベの定番料理っていうのは、グチャグチャって掻き回されたオムレツになりかけの玉子料理の上に、焦げ焦げのベーコンがのせてあって、無駄に大きい皿の隅には、ケチャップが山盛りになってたの。ああ、そうそう、黒っ焦げのソーセージが一本だけのってたっけ。

 はぁ~、もういいや。思い出したくもない。とにかく皿の隅に盛ってあったケチャップが、一番喰える代物だったんだ。

 そう、それでね、さっきぼくが言っていた空白の7日間について今から話すよ。

 7日前、ぼくの他にカフェにはもう1人客がいたのね。スーパーマリオのような口髭を生やした中年オヤジのその人は、今にも「う~ん、マンダム」って言いそうなくらい、ダンディなおっさんだったんだ。

 そのオッさんはぼくよりあとに店に入ってきたんだけど、さっさと食事を済ませて席を立ったの。

 カウンターの上に食事代を置いた〝ダンディズム〟はさ、帰り際にブーツの踵をカツカツ鳴らしてぼくに近づいてきて、ぼくのバックパックの前で立ち止まり、しばらくカバンを凝視してたと思ってたら突然、

「君はナショナル・トレイルズ・ハイウェイを歩いてきたのかい?」って聞いてきたんだ。

 ぼくは、なにを聞かれてるのかが分からなくて、適当に「イエス! ルート66!」ってこたえたんだ。オッさんのヤツ、やれやれって感じで、両手を広げながら首を振ってたね。

 ぼくはこのオッさんと片言の英語でしばらく会話したんだ。だんだんどこかで見たことがある人だなって思ってきてさ、試しにぼくは「以前どこかでお会いしたことはありませんか?」って聞いたの。

 ダンディズムのヤツ「絶対に今日が始めてだ!」って感じで首をブンブン横に振ってたね。納得いかないぼくは、誰だったっけなって必死に思い出してたの。

 3杯目の不味いコーヒーをおかわりした時、ピン! ときたんだ。『稲中卓球部』っていう漫画本の中に出てきた、カツラを被った校長にそっくりだったんだな、この人。

 途端にダンディズムの頭に、ぼくの視線はいきだして、見ちゃいかん見ちゃいかんと思うたんびに、「これが最後だかんな!」って自分に言い聞かせては、コーヒーカップを口元に持っていき、チラリと頭を見てやったの。きっと自前なんだろうけれど、それでもだんだん精巧にできたヅラに見えてくるのは不思議だったね。 

 ぼくがあまりにジロジロ見てたからかな。ダンディズムのヤツ「私の顔になにか?」って聞いてきたんだ。

 ぼくはハッキリした日本語で「稲中に出てなかったですよね?」ってフザケタことを聞いたの。もちろん相手にはぼくがなにを言ってるか伝わってないモンだから、ダンディズムのヤツ「イナチュ?」って聞き直してきたよ。ぼくは急いで「いいんです。いいんです。ぼくの独り言ですから」って言って、誤魔化したんだ。

 なんやかんやですっかりダンディズムとの会話にリズムがでてきて、ぼくは彼に「休暇中ですか?」って聞いたの。途端に彼ドンヨリしだしてさ、深い溜息を吐いたあと、ぼくが聞き取れるようにゆっくりな口調で話しだしたんだ。

 彼が話してることの全部が理解できたわけじゃなかったけど、言ってることはだいたい理解できたね。どうもダンディズムのヤツ、離婚調停中だったみたいなんだな。聞いたことのない単語がダラダラ聞こえてきたんだけど、たぶん財産分与やら慰謝料だとかのお金のことはもう片付いてたみたいで、今はもっぱら子供の親権についての話し合いをしてたらしいのよ。

 彼は普段カリフォルニアで、中古車販売の会社だとか、不動産開発の会社だとか、投資業だとかを手広くやっていて、今回は別居中の奥さんと子供達と直接話し合うために、彼女達がカリフォルニアから移り住んだ、シカゴまで行ってきたんだって。

 相手との話し合いは思ったより早く片付いたもんだから、ドライブがてら旧道であるこのルート66を走ることにしたって、ニヤリとしながら彼は言ってたよ。 

 ぼくは彼を気づかうつもりで、「問題が早く片付いてよかったですね―」てなことを言ったの。ぼくの言葉が彼の耳に届くなり、この日一番の溜息が店内を支配しちゃったんだ。どうも円満解決したというよりは、解決せざる終えなかったって感じの溜息だったよ、それは。

「あの尻軽女め! もう男を作ってやがった!」彼は、今までの一見紳士風の喋り方から一転し、話しを始めたんだ。とにかくぼくは真剣に聞かないといけないと思い、背筋を伸し、彼の横顔を見たんだ。

「AMGのメルセデスの運転席から降りてきやがったアノ女! ツインターボチャージャー搭載の12気筒のヤツだぞ? あり得るか? そんなの? 一緒に生活をしていた時に、私はベントレーのGTをアノ女に贈ろうとしたことがあった。アノ女、ビュイックのステーションワゴンで十分だと抜かしたんだぜ? それがいまやAMGの運転席こそが彼女のご指定席なんだってよ、クソッタレめ! アノ女の新しいクソ男が、私の息子達を新型の任天堂で買収しやがったんだ。私だって任天堂の一万個や二万個くらい買えるご身分なんだぜ? えっ? そう思うだろう君だって? 私だって人が羨むほどの会社を経営しているんだ。そこら辺の人様達に負けない暮らしを彼等に提供してやれるし、現にしてきたんだ。なのに任天堂を手に持って、『ぼくらはこの人とママについていくことに決めたよ。パパが2人になるってなんて素敵なことなんだろう!』って上の息子が言いやがって、その横で下の娘が『人生にはスリルがなくっちゃ!』だとさ。あんな言葉、私と暮らしている時には絶対に言わなかったし、意地でも使わせはしなかった。息子達からそんなことを言われたら『一緒に暮らそう』なんてもう言えたもんじゃない。それでもう勝手にしてくれと、私はシカゴを飛び出してきて、今ここにいるってわけさ―」

 ぼくはこんなゴタゴタ話しをされ、正直どうしていいか分かんなくて、ただ小さい声で何かを呟こうとだけ考え、思いついた言葉が「A・M・G―」だったのね。ダンディズムのヤツ、この言葉に意外と強く反応したの。

「まだ結婚もしていない女に、20万ドル(2007年当時、約2300万円)以上もするAMGを贈る内科医なんて信用できるか? 開業医様なんだと! アノ女の新しい彼は! ただタンに穴埋めに使われているだけだぜ、あの馬鹿女! クソッ! 君もそう思うだろう? どこの世にコブ付きの三十路女を心から愛する金持ちがいるんだ! クソッタレ! 畜生め! 君もそう思うだろ?」

 ぼくは視線を彼から外し、カウンターの上のマグカップを見つめ、小刻みに、早く、何度も、うなづいたんだ。しばらく店内は沈黙したままで、ダンディズムがぼくの隣でフカしている煙草の煙が、一番の音を立てているように感じるくらいの静けさだったんだ。

 聞きたくもない汚らしい電子音が、カフェ内に響いたと思ったら、ダンディズムは咥え煙草のままポケットから携帯電話を取りだし、画面で相手を確認することなく、電話にでたんだ。

「心配ない。全部終わったよ。ああ、大丈夫。もう少し旅を楽しんでから帰るよ。ああ、愛してる。じゃあ切るよ。あ、チョット待って! 今年のクリスマス休暇中に2人で過ごす家かアパートメントについては、君が探してくれて構わない。フフフそうかそうか。じゃあ2人で探そうか。とにかく私が戻るまで良い子にしとくんだよ。世の中には悪い悪い内科医様がいるからね、フフフ―」

 どっちもどっちだったね、マジで。親身になったぼくに謝ってもらいたかったよ。この会話を聞いてピン! ときたね。幸せの家庭をぶち壊したきっかけを作ったのは、きっとダンディズムの方だって。

 別居中に彼女を作ったってよりは、その前からいたって感じだったしね。ま、人生エンジョイしてるってとこかな、これはこれで。

 ぼくは軽い嫌味のつもりで、

「彼女がいたら息子さん達がいなくても寂しくないですね」って言ってやったんだ。ダンディズムのヤツさ、なんかしんないけど一気にテンションが上がって、突然ぼくの肩に手をまわしてきて、耳元で「イエス―」って囁きやがって、おもむろに財布から一枚の写真を取り出したんだ。

 あ、なんかこういうシーンて映画で観たことあるってぼくが思ってるうちに、彼はぼくの前ににっこり笑った若い女性の写真を置いたんだ。

 ぼくは、開口一番日本語で、

「見れたモンじゃねぇ」って吐き捨ててやろうと思って、写真の中の彼女をまじまじと見たの。たくっ、マジでスンゲェ可愛いわけ。美人というよりはキュート。しかも知的なんだな、どこか。

 小中高と学年に1人はいたでしょ? 全ての男子にとってとんでもない娘って? つまりアレよ、アレ。

 ぼくは肘でダンディズムを2、3突いてやったんだ。ダンディズムのヤツ、無言のままニヤついてやがったね。しばらくぼくが写真を食い入るように眺めてるとさ、「さあ、おしまいだ!」って写真を財布ん中にしまっちゃったんだ。

 こんな可愛い子なら、ぼくも写真が欲しくなっちゃってさ、冗談で「旅のお守りにその写真をくれよ」って言ったの。最初ダンディズムのヤツは「ノ~、ノ~、ノ~」ってニヤつきながら首を振ってたくせに、結局ぼくにその写真をくれたの。

「この子はスンゴいラッキーガールなんだぜ」とか言いながらね。

「この子の名前は? 『ミラクルガール』って呼んでもいいかい?」ぼくは手に入れた写真を見ながら聞いたの。

「やめてくれ、そんなダサイ名前。『コートニー』って呼んでくれよ」ダンディズムのヤツ、なんかスンゴクご機嫌だったよ。

「彼女はぼくの全てなんだ。カリフォルニアの太陽級の笑顔なんだぜ」正直いつもだったらノロケ話なんて聞きたくなかったけど、こん時はなんだかスゴク楽しかったね、マジで。

 よくぼくの死んだジイちゃんがさ、姉とぼくの喧嘩を見て、微笑んでいたんだ。ぼくが姉のストレートヘアーをギュンて引っ張ってると、必ず横から母さんの「アンタ達やめなさい!」っていう怒鳴り声が聞こえてきたんだけど、その声が家中に響き渡ると同時に、ジイちゃんの顔はしわくちゃになってて、めちゃくちゃ幸せそうな顔をしてたね。

 ぼくはそんなジイちゃんに「人の喧嘩を見て何がそんなに楽しいの?」って聞いたことがあるんだけど、ジイちゃん「元気がもらえるんだよ、フミ君」て言ってたっけ。あん時は最強に意味が分かんなかったけど、今確かにぼくは分かるよ、あん時のジイちゃんの気持ちがね。

 ぼくがウンウンうなづいて聞いてたからだろうね、ダンディズムのヤツ、段々調子に乗ってきてさ、「これが息子達だ!」って財布から写真を取り出したんだ。そこには幸せそうな家族が写っていたよ。まさか今はバラバラだなんて、誰も思わないだろうね、この素晴らしき笑顔で満たされた家族の写真を見て。

 しかしダンディズムの息子と娘の可愛さったらなかったよ。キュート丸出しなんだもん、写真の中のこの子達はさ。奥さんにしてもコートニーのような弾ける感じはなかったけど、内科医が夢中になるくらいの魅力は十分にある、ホント綺麗で理知的な雰囲気漂う女性だったよ。

「綺麗な奥さんじゃないですか―」ぼくは言わずにはいられなかったんだ。

「ああ、そうだよ。自慢の妻〝だった〟んだ。子供ができるまでの数年間は、1人で買い物にだって行かせたことがなかったんだぜ」彼はフィリップモリスの箱から煙草を一本だしながら言ったんだ。

 彼は煙草に火を点けながら、ぼくにも煙草の箱を差し出し勧めてきたの。ぼくは箱から一本もらい、彼のカルティエのライターで火を点けてもらったよ。全体がシルバーでシンプルなヤツだったけど、格好いいライターだったね、それは。

「いいライターですね」ぼくは言ったんだ。

「彼女からのプレゼントだよ―」彼はこたえたよ。

「どっちの?」ぼくは聞いたの。

「〝もうすぐ法的にも〟、妻じゃなくなる方のだよ―」彼はフッて笑いながら言ったよ。

 しばらく2人とも自分の口から吐き出される煙を黙って眺めていたんだ。ぼくは煙草の味は好きじゃなかったけど、煙草に火を点けるのは好きなんだ。あの小さな炎を見てると、なんだかホッとするからね。

 考えてみたら1年ぶりくらいの煙草だったよ。別に禁煙してたわけじゃないけど、煙草に火を点けることを忘れるくらい、ぼくはここ1年考え事ばかりしてたんだ。あらためて思ったね、まあホントいっぱい悩んだなってさ。

 ぼくが煙草を吸い終わると同時に、彼がぼくに「そういえば君は、仕事は何をしているんだい? というより何をしていたんだいって聞いた方がいいのかな?」って言ってきたんだ。

 ぼくは〝バックパッカー〟ってこたえようと思ったんだけど、こん時は「フォトグラファー」と言ったんだ。

 ダンディズムのヤツが「ホウ!」って驚いてたから、ぼくは、「まだ写真で一円も稼いだことはないですけど―」って付け加えたよ。

「そういうもんだ。自分で仕事を始めるときは―」彼は、すごく力強く、ぼくの肩を叩きながら言ったよ。

 ダンディズムは、視線をぼくの足下にドカリと置かれたバックパックに向けて、「その中にカメラだとかの機材が?」って聞いてきたんだ。

 ぼくは正直に「カメラに関係あるものは何一つ入っていない」とこたえたよ。

 ダンディズムのヤツ、変な顔をすると思ってたらさ、なんか嬉しそうにニカリって笑ってから「自分で何かを始める時っていうのはそういうことだ!」って力強く言ったよ。

 ぼくらは、何杯コーヒーを飲んだか分かんないくらいカフェにいたんだ。夢中で話をしてたんだ。ぼくの家族のことや、彼の家族のこと。どんだけ苦しい思いをしながらモハベ砂漠の中を、ここまで歩いてきたこととか、頭によぎったモンを片っ端から話題にあげていったの。 

 そうそう、今までも、今からもそうだけど、ぼくと外国人との会話は、だいだいのニュアンスであって、本職の通訳にはどうやってもかなわないってことを理解してこの独り言を聞いてね。ま、もともとこの独り言はぼく自身を元気づけるための行為なんだから、アル程度の脚色等は許されてるってこと。でもね、コレはホント不思議なことなんだけど、英語なんてほとんど話せないはずのぼくが、相手の言ってることをなんとなく理解できてることに、ホントビックリしたよ。彼もぼくに分かるようにゆっくりと喋ってくれてはいたけどね。信頼っていうものは、言葉の壁を越えるモンだね。 

 気づいたら外は暗くなっていて、別れる前にもう一つなにか喋りたいなってぼくは思ったの。何気にカウンターの上に視線を置いたら、彼がさっき見せてくれた家族の写真が置かれたままになっていたんだ。

 写真の中のダンディズムは、奥さんの肩に手を回し、息子さんは奥さんのジーンズにしがみついていて、よちよち歩きの娘さんは、ダンディズムの大きな手と結ばれていてさ、これぞベストオブ家族っていう写真だったよ。

「本当に良い家族だ」ぼくはそう言わずにはいられなかったんだ。

「この写真はやれないぞ」彼は微笑みながら言ったよ。「君はアメリカのちょっとリッチなヤツの、夏の休暇の、午後のプールサイドのことは知っているかい?」

 ぼくは首を横に振ったよ。

「あんな幸せは世界中のどこを探してもないだろうな。妻と私はプールサイドのパラソルの下で何をするでもなく、プールの中や、その横にある芝生の上を駆け回る子供達を見ているだけなんだ。ただそれだけなんだ。もちろん携帯電話なんてもんは鳴らない。あれが本当の幸せってもんだ。仕事の不安も、過去のクソッタレの自分のことも、全部、忘れさせてくれるんだアレは―」彼は目を細めながら言ったよ。

 しばらく思案に耽っていたダンディズムは、ゆっくりぼくのほうに身体ごと向けて「なあ、〝写真家〟さん、仕事をしてみないか?」って言ってきたんだ。

 彼は「とりあえず前払いで3000ドルの小切手を切る。仕事の終了時にもう3000ドル。できによっては7000ドル払う。計1万ドルになるかもしれない大仕事だ。どうかね?」って優しさに満たされた顔でぼくに言ってきたの。

 ぼくは何がなんだか分かんなくて、まだカメラを持ってないだとか、そんだけの金額を受け取るだけの〝腕〟じゃないだとかの言い訳をしたんだ。

「機材なら前払いの金で揃えればいい。仕事だって簡単なものだ。私の家族の〝最後の〟集合写真を撮ってくれればいいんだ。ただ4人が並んでいるところを撮ってくれればそれでいい」彼は静かに、微笑みながらぼくに言ったんだ。

「写真を撮るのはいいけど、機材を買いにいかないと。この辺に売ってる場所はなさそうだし」ぼくはこたえたよ。

「それなら大丈夫。かの大都市シカゴにいくんだぜ、今から私達は―」彼は言ったよ。 

 ぼくが彼の背中ついてカフェから出ると、やっぱりそこはモハベ砂漠だったんだけど、いつもとはなんだか様子が違うの。いつものあのクダラナイ乾いた匂いが、こん時はウキウキする夜遊びの香りに変わっていたんだな。なんていえばいいかな、日本で言えばゴールデンウィーク明けの初夏の香りって説明すればいいかな。

 ほら、少し残業して夜外に出た時に「ああ、季節が変わった」って時があるでしょ? アレよ、アレ。とにかくウキウキするアノ香りが、ぼくの体中を包み込んでいたんだな。

 ぼくが30キロのバックパックを担いでいった先には、彼の真っ白なスポーツカーが停まっていたんだ。フロントで馬が飛び跳ねてるかの有名なイタリア車だったよ、それは。

 ぼくが砂漠に入るだいぶ前に2週間ほど滞在していたサンタモニカのメインストリートでもたまに見かけた、『フェラーリF430スパイダー』それが彼の車だったよ。きっと数千万はするこの超高級車に、ぼくのバックパックはもちろん、ぼくの存在自体が場違いな感じだったよ。 

 きっとこの時のぼくは、高級車の前で立ちすくんでいたんだろうね。ダンディズムのヤツ、そんなぼくを見てニカリって笑い、「自分で何かを始めるっていうことは、こういうことなんだぜ!」って言ったんだ。

 車のトランクにぼくのバックパックを詰め込んでいざ出発といきたかったんだけど、予想通りトランクは半開きの状態で、しっかり閉まることはなかったんだ。これにはダンディズムも「この車にウィングをつけた覚えはないなぁ~」って笑っていたね。

 どう見てもぼくのバックパックの方が、彼の車よりも分厚かったもんだから、ぼくは荷物を車内に持ち込もうと思ったの。さすがはフェラーリだよ。大人の男が座れそうな席が、2つしかなかったんだな。つまり運転席と助手席だけってこと。

 無理矢理トランクに押し込んだバックパックを取り出す時、ダンディズムのヤツも一緒に引っ張り上げてくれたんだ。そしたら彼、「君はこんな重たいモノを担いでここまで? 嘘だろ? 正気か?」って目を真ん丸くしてビックリしてたよ。

 結局ぼくは、荷物を持っていくことを諦め、カフェに戻ると、カウンターの向こうに立っていたオバサンに「必ず戻ってくるから、荷物を預かってもらえませんか?」って聞いたんだ。

 彼女は「もちろんいいわよ。ただし条件があるわ。あなたが戻ってきたら、この〝大都市〟の写真も撮ってくださいませんか? 写真家の先生」って言ったんだ。オレ、スゲエ嬉しくなっちゃってさ、「絶対に撮ります、いっぱい撮ります!」ってこたえたよ。

 ぼくが荷物を預けて外に出ると、カフェの入り口のとこで、真っ白なオープンカーがぼくの登場を待っていたんだ。ぼくは恐る恐る助手席に乗りこんだよ。途端にダンディズムのヤツ、ウィ~ン! ウィ~ン! ってアクセルを吹かしたと思ったら、その場でタイヤをホイルスピンなんかさせてさ、ゴムの焼けるイヤな匂いがぼくらの鼻に届く前に、キチガイスタートをブチかまし、一路シカゴにぶっ飛んで行ったんだ。

 とんでもない加速力に、しばらくのあいだ、ぼくの身体はシートに押しつけられたまんまだったね。

 彼が運転席で「Hi-yo Silver!」って叫ぶたびに、車はますます加速していったよ。

 ハンドルを握る彼は上機嫌そのもので、この世の不安なんてもんは全部スピードの向こう側にホッポリ出してる感じだったよ。

 しばらくルート66を進んだ後、ぼくらは片側が何車線もある巨大なハイウェイを進んだの。さすがに現役の道は深夜だっていうのに交通量が多かったよ。2人とも妙に興奮してたんだろうね。ずっとハイテンションのままだったんだ。10代の時に、連れ達とクダラナイことを朝までシャべくってたことってあるでしょ? あれよ、あれ。クダラナイことをずっとぼくらは喋っていたんだ。

 気づいたら夜が明けて、ぼくらが向かう先からは太陽が昇ってきたんだ。ぼくはハイテンションにまかせるがまま「ありがたや! ありがたや!」って手を合わせて叫んだの。運転席のダンディズムのヤツも、ハンドルから手を離して「アリガタヤ! アリガタヤ!」ってぼくと同じことをやっていたね。

 ぼくらは昼前に小綺麗なモーテルに入って短い仮眠をとったんだ。3、4時間寝ただけで、その日の夕方にはもう出発していたよ。

 2日目の2人は、1日目よりもかなり冷静になっていて、会話だって今まで何人の女性と付き合ったとか、どんな悪さをしたことがあるとかのいい加減なモンじゃなくなってきてたんだな。

「シカゴへは?」ダンディズムは言ったよ。

「数ヶ月前にシカゴから列車に乗った」とこたえたよ。

「シカゴといって思いつくモノは?」彼は続けて聞いてきたんだ。

「大都会。それにブルズの『マイケル・ジョーダン』。あとは、治安が悪そうってとこかな―」

「何故そう思う?」彼は優しく聞いてきたの。

「アルカポネが住んでたとこでしょ?」ぼくは自信なくこたえたんだ。

「ずいぶんと前にね―」彼は言ったよ。「今はずいぶんと良い街だ、あそこは。住んだことはないし住みたいとも思わないけれど、そんなに悪いところじゃない―」

「『ボブ・グリーン(コラムニスト)』もシカゴだよね? 高校生の時に彼の『1964』だとか『チーズバーガーズ』を読んだことがあるんだ」ぼくはたった今思い出したことを、口に出したんだ。

「新聞屋のボブね―」彼は鼻で笑ってるようだったよ。「アリスクーパーやモハメド・アリのコラムを書いてたヤツだろ?」

 ぼくは「その通り」とだけこたえて黙ってしまったよ。明らかに彼は、ボブ・グリーンに対して嫌悪を露わにしてたからね。 

「与えれたアメリカン人だよ、彼は。それに対して掻き集める側のアメリカ人だったんだ、私は。いや、今でもそうだ。仕事は自分で探している、いつも。会社に行けば自分がやるべき分野の仕事が決まっていて、それを無難にこなせば週末には小切手がもらえる生活なんて、今まで一度もしたことはない」

 ぼくはどうしていいか分からず、ただ黙って、彼の言葉に耳を傾けたんだ。どうしても聞き取れない単語は、手で「もう一回頼む」とジェスチャーしたら、彼はゆっくり丁寧にぼくが分かるまで、何度でも同じことを話してくれたよ。そして何故かたまに、下手くそな日本語もそこには混じったんだ。

「20代の時の私は、本物の殺し屋より酷い顔をしていた。とにかく成功に飢えていたんだ。どんな些細なチャンスでも、モノにしてやるとね。貧乏人の白人の末っ子に生まれた私の気持ちなど、若くして成功したコラムニスト様に分かるモンなんだろうか? 1980年代の中頃、その時にはもう中古車関係の仕事をしていた私は、古い車の資料を探しに本屋に立ち寄ったことがある。本屋に入ってすぐの場所。つまり店内で一番目立つ場所に、君がさっき言っていた新聞屋が暇潰しに書いた小説が山と積まれていてね、私は何気にその本を手に持ち、適当なページを開き数行読んでみたんだ。

 私の10代の時との違いに本当に驚いた。気づいたら2時間くらいその場で立ち読みをしていたんだ。店員の苛立ちも無視して読み進んで行くうちに、私はあることに気づいた。なんだと思う?」

 ぼくは無言で頭を横に振ったよ。

「彼と私の兄が同じ歳だってことに気づいたのさ。彼がハイスクールに通い、放課後はいつも親の高級車を乗り回していた頃、私の兄は、私を養うために働いていた。汗まみれ、油まみれ、爪の間に染み込んでとれない黒い油。10代とは思えないゴワゴワした分厚い手。世の中の16、7歳の少年とは、みなこうなんだと幼い私は思っていた。兄はガールフレンドも作らず、毎日毎日早朝から夜中まで働いた。多い時には3コも4コも仕事を掛け持ちしていたこともある。

 毎朝私が起きると、私の枕元には茶色の紙袋が置いてあった。中にはパンとハムとバター、それにパックに入った牛乳が入っていた。たまに紙の端が黄色くなった、そこらに捨てられていたのを拾ってきたようなペーパーバックも入っていて、私はそれを読むのが何よりの楽しみだった。

 私達が暮らしていた路地裏には、この世とは違う時間が流れていた。平日の昼間なのにヘラヘラ笑って酒を飲む大人達。いかに早くナイフを相手の喉もとに持っていくかを競い合っている悪ガキ連中。ムチャクチャで、自由で、クソッタレで、たまに人情が転がっている環境。私はそんな中で育った。

 私の父は誰もが認める筋金入りのアル中だった。酒を飲んで暴れるとか、大声をあげるとかはせず、ただ遠くを眺めているだけだった。父の心はいつも視線の先にあった。狭い家の壁の先に一体何が見えるというのだろうか? 気になった私は、そっと父の背後に回り、何回父の視線の先を凝視したことか。私には、黒と黄色と隅のほうに辛うじて残る白色の壁が見えるだけだった。

 家に母はいなかった。私は写真でさえ母を見たことがない。父が言うには私を産み落としたと同時に死んだとのことだったが、兄が真実を私に教えてくれた。母は私がまだ1歳になる前に、忽然と姿を消したと。そしてその時もやはり父は酒を飲んでいたと。

 1968年の春、新兵の訓練を終えた兄は、遠いベトナムへと運ばれていった。兄は21歳で、私は10歳だった。兄は海兵隊に志願したんだ。1年の従軍を無事に終え、帰還したらハイスクールに通い直し、政府の援助を受け大学にいくためだった。

 ベトナムからは毎月手紙が届いた。それは花柄や鮮やかな黄色で縁取られた綺麗な便箋だった。まるでガールフレンドに送るような、そんな便箋だった。手紙の内容はいたってシンプルで、『そっちはどう? オレは元気だ。オマエもうまくやれ』といったとても短い文章だった」 

 ダンディズムはいったん話しをやめ、ハンドルから右手を離し、煙草に火を点けると、また話を始めたよ。

「帰還した兄の軍服の胸には3個もの勲章がついていた。どれがどんな意味があるのかを、聞くことすら忘れるくらい、兄の軍服姿は凛々しく、誇らしかった。

 帰還兵の無事を祝うパレードがメインストリートで開かれたんだ。コンバーチブルの後部座席のヘッドレストに腰を降ろした兄達は、ハニカミながら手を振ったり、敬礼をしたりしていた。儀礼的なパレードではあったが、兄が日の目を見た最初で最後の日だった。ゆっくりと走るコンバーチブルの横を、私はどこまでもどこまでも追い掛けた。世界中で一番兄が格好良かった。テレビの再放送の〝ローンレンジャー〟なんて目じゃなかった。パレードも終わりの時、長髪の若者がコンバーチブルに向かって石を投げたんだ。石は兄達には当たらなかったが、衝撃的な出来事だった。何故英雄に向かって石を投げるのかってね。

 戦争から帰ってきた兄は、前とは別人になっていた。喜怒哀楽がなくなり、自らジョークを発することはなく、とにかく生気が感じられなかったんだ。学校に通うどころか、家から出ることもなかった。

 毎日毎日、兄は家の台所に置いてある古いテレビ画面を眺めていたよ。きまっていつもニュース番組がかけられていて、画面の中で反戦運動を繰り広げている若者達を、兄はただ黙って見ていたんだ。

 兄が帰ってきて以来、私は帰る場所を完全に失ったと感じていた。とにかく家に帰りたくなかったんだ。昼は学校にいき、そのあとは家に帰らず、適当に朝まで時間を潰して過ごした。朝、家に帰っても私を怒る者など誰もいなかった。父も兄もテレビをつけたまま、スプリングがイカれたソファーの上で死んだように眠っていたからね。そして父達が起き出す頃には、私はもう家を出て学校か友達のとこにいっていたんだ。

 兄が帰ってきてから半年が経ち、私がいつも通り朝家に帰ると、台所で人が泣いている声が聞こえてきた。私はそういうモノに一切関わりたくなかった。一度家を出て、辺りをブラブラしてから、また家に戻った。さっきよりも激しい、嗚咽混じりの鳴き声が私の耳には聞こえてきて、私は覚悟を決め台所へと入っていった。そこには床で泣き崩れているボロボロの父がいて、父の腕の中には眠っている兄がいた。

 酒に酔い、泣き崩れる父など、今まで一度も見たことがなかった私は、自分との約束を破り、父に自ら話しかけた。私が父に『何があったの?』と問いかけると、父は意外なほどしっかりした声で『おまえの兄は死んだ―』とだけこたえた。私には父が言っていることの意味がしばらく分からなかった。やはり父は泥酔しているのだと思った。しかし、父の腕に抱かれた兄の顔は酷く薄い青色で、私はまさかと思い、兄の胸に耳を当てた。心臓の鼓動は聞こえてこなかった。私は時間を少しおき、それを3回は繰り返した。が、やはり鼓動が聞こえることはなかった。

 その日の昼に、中年の口髭を生やした警官が家にやってきて、父に『気の毒に』とだけ言って帰っていった。

 兄の葬式の日、父はまだ泣いていた。棺にしがみつきながら声を上げて泣いていたんだ。父を棺から離すため私は彼に近づいた。酒の匂いがしなかった。近所の人が数人しかいない式ではあったが、ちゃんと神父もいる、立派な葬式だった。

『坊やごめんよ! 私の可愛い坊やごめんよ!』父の叫び声が響いていた。式の数日後、兄が亡くなった日に家にきた警官から、兄の死因を私は聞いた。自殺だった。大量の精神安定剤と睡眠薬を、父が隠していた安物の酒で一気に飲んだとのことだった。この時まで私は、兄が精神科に通っていたことをしらなかった。かなりまいっていたらしいよ、兄貴のヤツ。

 兄の死以来、父は酒を断った。ことある事に父は『私が酒を隠しておかなければこんなことにはならなかった』とわけの分からない戯言を言っていた。

 しばらく時間が経ち、酒を断った父のことを立派だという人間がちらほらでてきた。彼等は私達が父から受けた苦しみをしらない。身体で、心で、感じていない。どうしたらあんなクダラナイことを口に出して言えるのかが、私にはまったく理解ができなかった。

 私の大好きだった兄さん、いつもやさしかった兄さん、毎日がサンタクロースだった兄さん、世界中で一番勇敢だった兄さんは、あの日テレビのクダラナイニュース番組に叩きのめされてしまったんだ」

 ダンディズムは黙り、ぼくも黙ったままだったよ。何をどう切り出そうかすらぼくは考えなかったんだ。この時はただ、何も言えなかったんだ。できればこんな話は聞きたくなかったよ。とにかく楽しい事を考えたよ。今から起こる最高の瞬間だけを想像したんだ。シカゴにいけば何かが始まる。それもトビキリ素敵な何かが始まる。

 〝ぼくはワクワクしていたいだけなのに、ぼくはドキドキしていたいだけなのに〟、何度もそう心の中で唱えたんだ。

「与えれるアメリカ人と、掻き集めるアメリカ人。日本人も同じかい?」運転席のダンディズムはそう言うと、ニカっと笑いぼくの方を向いたんだ。

「さあ、どうだろう。とりあえずぼくは、歩いているだけの日本人だけどね―」ぼくが言うと、ダンディズムは少し声をだして笑ってくれたよ。

「兄が死んでからすぐ―」ダンディズムが静かに話を再会したんだ。「兄が死んでからすぐのことだった。パトカーのサイレンが鳴り止まない日があったんだ。私は、街でまた何かあったんだろうと、そんなには気にしていなかった。この時の時代は、年がら年中街では何かが起きていたからね。今よりもずっと激しく時代が動いていた。

 そのうちパトカーが私の住む路地裏に入ってきて、家の前で停まった。口髭を生やした例の警官が私に父の行方を聞いてきたんだ。私は正直に知らないとこたえた。嘘をつくと君のためにならないと、彼は言い、何度か同じ質問をしてきたが、最終的には私が本当に何も知らないことを信じてくれた。その日の夜もやはり私は自宅に帰らず、友達の家で過ごした。

 不安が怖かった私は、友達の兄に頼みビールを何本か買ってきてもらい飲んだ。私は11歳だったが、さすがは元アル中の息子だけあって、2本や3本のビールで酔うことはなかった。真夜中になり、近所の悪ガキの溜まり場になっていた友達の家に、ぞくぞくと人がやってきた。

 私の友達の兄の友達は、どいつもこいつも札付きの悪だった。しかし彼等は私にだけは特別優しく接してくれた。彼等は私の兄のことを心から尊敬していたからね。死んでもなお兄は私を守っていてくれたんだ。

 悪ガキの中の1人から、マリファナをもらった。生まれて初めてのドラッグだった。どうってことはなかったよ。全然ハッピーにはなれなかったんだ、私は。

 朝になり学校に行くために自宅に戻った。私は台所の小さなテーブルの上に、銃が置いてあるのにすぐに気づいた。その横のソファーで背を丸め、不気味に笑う父が私を呼んだ。私はドラッグをやったことがバレたと思った。

 私は覚悟を決め、父の傍らに立った。『いいかい、〝直感はいつも正しい、判断がそれを鈍らせる〟この先オマエが岐路に立った時、この言葉を何百と噛みしめなさい。いいね。父さんは―』父が何かを話そうとした時、玄関のドアが開き、口髭の警官がカツカツ革靴の踵を鳴らしこっちにやってきた。ドラッグをやったことがバレ、警官が補導しにきたと思った私は、咄嗟にテーブルの上の銃を手に取った。

 警官は『君は銃を向ける相手を間違えている』とだけ言い、ソファに座っている父の肩を抱いた。2人は短く無言で抱き合ったあと、家から出て行った。

 その日の午後、昨日街で、反戦運動家の学生が殺されたことを知った。この事件を教えてくれた学校の担任の教師は、『私は人殺しが大嫌いだ。しかし社会に対する責務を放棄し、自らの理想論ばかりを叫き散らしているだけのヒッピーはもっと嫌いだ』と言っていた。この日は学校が終わると真っ直ぐ家に帰った。家の前にパトカーが停まっていて、私は逃げようか迷ったが、何も怖がっていない自分に気づき、家に入った。口髭の警官が、どこかの住所の書かれたメモを私に手渡した。彼は去り際に『海兵隊が海兵隊の仇を討って何が悪い?』とだけ言い、家から出ていった。

 私は元アル中の息子から、人殺しの息子になったことに気づいたんだ。次の日から学校にはいかなかった。というよりいけなかった。怖かった。周りの目が。何も食べず私はソファにくるまり、このまま死んでいけたらどんなに幸せだろうかと本気で考えた。

 意識が朦朧としてきて、いよいよ自由になれると思った時、大好きなあの茶色い紙袋の匂いがした。兄が毎日私の枕元に持ってきてくれたのと同じアノ匂いがしたんだ。

 私は目を開けた。とても優しい顔をした男性が私を覗き込んでいた。担任の教師だった。彼は紙袋から食料を取り出すと、私に食べろと言った。無我夢中で食べた。なんども喉に詰まらせ、むせ返りながら食べた。教師は私の横に座り、私の肩を抱き何度も何度も頭を撫でてくれた。

 私の胃袋が満たされたのを確認した教師は、よれよれのワイシャツの胸ポケットから小さなメモ用紙を取り出した。それは、警官が私にくれたものと同じヤツだった。

 彼は私に、メモを渡すと『ここにいこう。連絡は私からもしてある』と言い、私の頭を撫でた。その週末、私は教師に付き添われ夜行バスに乗った。行き先はメモに書かれた住所。バスの中ではお互い何も話さなかった。

 バスは次の日も休むことなく走り続け、私がテレビの中でだけで見たことがある大都会を通り過ぎ、車で溢れかえったハイウェイを走り、自由気ままなバイカーの集団に追い越され、ようやく目的地に着いたのは出発してから2日目の朝だった。バスから降りた私は教師の後に続いて歩いた。

 1軒の古い喫茶店の前で教師は立ち止まった。メニューが10もなさそうな、本当に小さな店だった。教師は店の扉を開け中に入った。私もそのあとに続いた。カウンター越しに、強面の中年の女性が1人いて、私達を見ると『いらっしゃい!』と優しく微笑んだ。教師は私の肩をグイと力強く掴むと、カウンター越しの彼女に私を差し出すように前に押し出した。彼女は顔を曇らせていた。

 教師は『アーネスト・スペンサーの息子です』と声を震わせ言った。彼女は下唇を軽く噛む仕草をしたあと、『ハァ~イ! ヨロシクやってるかしら?』と目一杯の作り笑いをして見せた。私はまだ何も飲めこめずにいた。横に立つ教師の顔を見上げると、『君の叔母さんだよ。君は今日から彼女と生活していくんだ』と言った。

 カウンターの向こうの女性は目に涙をためているのが分かった。『私がアンタを幸せにしてあげる!』叔母さんは私にそう言うと、カウンターに座りなさいと言った。しばらくすると蜂蜜がたっぷりかかったホットケーキの山が私の前にどかりと置かれ、『さあ、早く食べちまいな! この悪ガキ!』と、叔母さんは笑顔で言った。

 叔母さんとの貧しくとも楽しい生活は、私が働きだし家を出ると同時に終了した。私の最初の仕事は、兄と同じく自動車の修理工だった。別に他の職にも就けたけれど、私は兄と同じ職を選んだ。そこで2年間働いた後、私は自分の会社を持った。小さな小さな、本当に小さな中古車屋を1人で始めたんだ。商品である車を置くスペースは一台が限界だった。私は選びに選び抜いた車だけを店頭に置いた。

 最初は資金もなかったため、ボロボロのトラックをただ同然で譲り受けてきて、それをサーファー仕様に改造し売った。泥沼化していたベトナム戦争の終結から2、3年後のことだ。時代はまた大きく動こうとしていた。白昼夢の中の思想に敗れた若者達の怠慢な空気が街を席巻していた70年代とは打って変わり、自らだけの人生を楽しむ時代が到来していた。

 私の予想は見事的中した。サーファー仕様のトラックは、店頭に並べる前に売れていった。仕上げても仕上げても間に合わないほど売れた。しかしそれも長続きはしなかった。すぐに他店も真似をしてきたんだ。資本力のない私は、大きく稼ぐチャンスを奪われた。待てど暮らせどチャンスは巡ってこなかった。従業員も、1人雇うのがやっとだった。

 ある意味で、80年代のアメリカ経済はボロボロだった。自動車産業もエレクトロ産業も、日本の高品質で安価な商品の前に敗れ去っていた。今思うとこの時ほど私を燃え上がらせたモノはない。私は本能的に知っていた。与えられた者達の時代の終焉は、掻き集める者達の最大のチャンスだと。私は精力的に走り回った。どんな些細な変化も見逃さないよう、細心の注意を払いながら。

 私がLAのダウンタウンを車で走っている時だった。誰が見てもその人物には不釣り合いな、立派なアタッシュケースを持った東洋人が、路上に停められていた古くさいコルベットを、それはもういい女を舐め回すように見ていた。私はチャンスを感じた。その男の横に車をつけ、何をしているのかと尋ねた。

 片言の英語すら話せない東洋人は、オドオドしながらコルベットを指さし、『コレ、コレ』と言った。私がコルベットが欲しいのかと聞き返すと、彼はなんとなく意味が分かったらしく、『イエス、イエス、イエス』と何度も言った。だったらディーラーに行けばいいと私が丁寧に教えてやると、彼は『コレ、コノカタチガホシインデス』と言った。

 私は車から降り、こんな古くてボロくてもいいのか? と何度も繰り返し聞いた。彼はうなづいた。言葉は通じなくても、車の事ならだいたい何を言ってるか分かった。私はその場でその古くさいコルベットの持ち主をさがし、その当時ではあり得ないほどの高額で買い取り、その東洋人に売りつけた。彼は迷いもせずキャッシュで払ってきやがった。掻き集める者の時代の始まりだった。

 東洋人の連絡先を聞いた私は、アメリカ中の中古のコルベットを集める勢いで働いた。寝る間も惜しみ、全米中を飛び回った。コンディションの良い物は、中古とはいえ高かったため、なるべくクタビレタやつを探した。それで十分だったんだ。私は修理工時代の同僚にそれを格安で直させた。次から次に修理工場に運ばれてくるボロボロのコルベットを見た周りの車屋は、私の事を陰で馬鹿にしていたよ。

 彼等の陰口に構わず、私はスクラップ同然のダイヤモンドを掻き集めた。船で日本に送るため、港のそばの空き地を安く借り駐車場も作った。商売が軌道に乗りはじめると、私は連日銀行に通った。あらゆるモノを担保にし、銀行から100万ドルの融資を受けるためだ。銀行は私に金を貸そうとはしなかった。私のビジネスを担保にすると言っても、ソレを鼻で笑った。とにかくこの時の私は、金が必要だった。現金で決済しなければ、ビジネスのスピードが酷く低下していくからね。何十という銀行を回っても、私のビジネスに賛同してくれる銀行の融資担当者は現れなかった。

 過去に不渡りも、債務不履行にも陥ったことがない私に、何故銀行は金を貸してくれないのかが分からなかった。私の角が擦り切れクタビレタ二つ折りの財布の中には、『アメリカンエキスプレス』のゴールドカードだって入っていたんだ。もちろんカードの支払いに遅れたことなど一度だってなかった。私は希望融資額を、当初の半分の50万ドルに下げた。が、どこの銀行も相手にはしてくれなかった。次は25万ドルに下げた。が、結果は同じだった。

 ある銀行の融資担当者が私に言った。『君に貸せる額は、せいぜい5万ドルがいいところだろう』と。私はすぐに反論した。『私にではなく、〝私のビジネス〟に融資をしてください』と。融資担当者は、私の目を真っ直ぐ見据え、『実績もあり名も売れた会社ならばそれも出来る。しかし君のビジネスは、大金の融資を受けるには、まだあまりにヨチヨチ歩きすぎる』と言った。これは真実だった。認めざるおえなかった。もし私が彼の立場であれば、やはり同じことを言っただろう。

 融資を受けれず銀行をあとにする私の姿が、ピカピカに磨かれた銀行のガラス戸に映った。ガラス戸に映った私は、ヨレヨレのシャツを着て、街を彷徨い歩いている求職者にしか見えなかった。誰がこんな小汚いヤツに、大事な大事な金を貸してくれるのだろうか、と私はガラス戸に映った自分を見て思った。

 私は眼が覚めた。銀行へのアプローチの仕方が直感的に分かったのだ。私はその足で街に出て、上下で3000ドルのスーツを購入した。ジャケットの下に着る白いシャツは、それだけで300ドルもするイタリア製のハンドメイドを購入した。靴にいたっても、ピカピカに黒光りした片足1000ドルのオーダーメード品を購入した。これらは、この時の私が出せる最大の金額のモノだった。

 髪も美容院でセットし、無精髭も綺麗に剃った。連日連夜の激務と煙草でボロボロになっていた顔の肌には、一本300ドルもする高級化粧水をおごった。これにより、私は見違えるように若返った。同じ事を言うにも、断然こちらの自分の方が、説得力があるように私は思えた。

 再び私は銀行巡りを始めた。やはり話しは上手くいかなかった。が、前のようにショボクレタ気分になることはなかった。銀行のガラス戸に映る清楚でビシッとした恰好の自分を見る度に、自信が沸き上がってきていた。

 アレは何行目の銀行だったろうか。ついに〝私に〟融資をしてくれるという担当者が現れたのだ。融資額は25万ドルだった。当初希望していた100万ドルには届かなかったが、しかし、これはこれで大変な成果だった。

 私はこの金を頭金にし、港のそばに借りていた駐車場の横に修理工場を作った。そして人を雇った。腕のいいのから、昼間からブラブラしているヤツ、誰彼かまわず車に興味があるヤツを掻き集めてきて、そこで働かせた。特にそこでは、街で厄介者だったヤツほど素晴らしい働きをみせた。どんなレアな車のパーツでさえ、彼等のネットワークを使えば、いとも簡単に手に入ってしまったのだ。

 次に口先を商売道具としている男達を引き抜いた。車屋、不動産屋、スーパーで実演販売をしている者、売れないコメディアン、売れない役者、売れない歌手。彼等の働きは見事としかいいようがなかった。田舎の農家の納屋の藁に埋まっていたコルベットやコブラをタダ同然で引き取ったあげく、レッカー代だと捲し立て、1000ドル以上もぶんどってくるヤツもいた。車を買い叩きついでに、プールと芝生の庭付き御殿を買い叩いてきたヤツもいた。とにかく金になりそうなモノなら、片っ端から掻き集めてきた。あの時の私達は、本当の錬金術師だった。

 いつかは日本人向けの商売にも陰りがくることは当初から予想していた。どんなに上手くいっている時でも、私は浮かれはしなかった。逆に不安で深い眠りにつけたことがなかったよ。そこで私は国内向けの販売を始めた。つまり今度はアメリカ人がターゲットってことさ。比較的広告料の安い地方のケーブルテレビ、FMラジオ、雑誌に広告をだした。毎週必ず一台は目玉商品をだしたんだ。たとえば、新車で買えば6万ドルはするシボレーのSUVを、1ドルで売り出したりした。貪欲さの中にも、必ずユーモアはいれないといけないからね。おかげで西部の鼻水垂らした小僧から、年金を握りしめた老夫婦まで、私の店にはひっきりなしに客が訪れたよ。

 90年代に入ると、予想通り日本人の客は減った。それなりに好調だった国内向けの商売にも陰りが出てくると私は予想した。アメリカの自動車産業は、本当に怠慢だったんだ。時代の流れに逆らい、大きな車ばかり作っていたしね。

 次に私はシリコンバレーへと向かった。盛り返してきたアメリカのエレクトロ産業や、バイオテクノロジーとやらに取り憑かれた若者に、そう! ベンチャー企業を興そうとしている若者達に、私は多額の出資をした。失敗しても返さなくてもいい金を、彼等に投資したんだ。

 そのうちの何人かは事業を成功させ、私に莫大な富を与えてくれた。わずか10万ドルから100万ドルの投資が、数年後には2000万ドル以上になって戻ってきたんだ。悪い話じゃないだろ?

 私は事業に失敗した人間にもすすんで出資をした。この中でも人の話に耳を貸す柔軟性を身につけたヤツには、特にすすんで投資をしたよ。失敗から学んだ者は、流されない強さがあるヤツが多いからね。こうして私は、ベンチャーキャピタリストとしても大成功した。アイディアだけを武器に、西海岸に押しかけて来る若者達は、私のことを〝エンジェル〟と言ってもてはやしているよ。

 金銭的に成功した私は、パームビーチに家を持ち、家族を持った。たいていの欲しいモノがいつでも手に入る生活は、冗談抜きで最高だった。将来にたいしての不安なんてモノは微塵もなかった。まさに人生の絶頂期ってヤツだ。始めての子が生まれ、妻とも最高に上手くいっていた夏の日の午前中だった。自宅のプールサイドで寝そべっていた私に妻が、『あなた、叔母さんから電話よ』と言いにきた。嫌な予感がした。私の胸は凍り付いた。叔母が私に電話をかけてきたのは、この日が始めてだったからだ。

 受話器の向こうの叔母は、私が電話にでると『坊や、元気かい? 突然電話してごめんよ』と謝った。叔母の声を聞いた途端、何故だか分からないが、私の胸は張り裂けそうになった。

 私は叔母に『なにか問題でも?』と聞いた。叔母は優しい口調で『昨日、あなたの父親が亡くなった―』と言った。強引にねじ伏せていた記憶がハッキリと甦ってきた。今にも叫び散らしそうだった。

『私は葬儀に出席するわ。たった1人の兄弟ですもの―』叔母が言った。きっと叔母は、話の最後に『アナタは?』と付け加えたかったに違いない。長い間、私は受話器をもったまま固まったままだった。心配した妻が、私の額の汗を柔らかいタオルで拭いてくれた。

『ママ、ぼくが迎えに行くから、一緒にいこう』避けては通れないと思ったのだろう。私はこんなことを口に出していた。

 私と叔母は、父が死亡した刑務所に連絡をし、父の遺体が保管されている場所へと向かった。私と叔母以外には、誰も来ないと思っていた父の葬儀には、予想以上の数の人間が訪れた。

 胸に仰々しい勲章をぶら下げた、海兵隊の制服に身を包んだ老人が、何人もいた。その中には、あの時の口髭の警官もいた。彼等はすすり泣くというにはあまりに大袈裟に泣いていた。私はちっとも悲しくなかったが、あの飲んだくれでクソッタレな男に、こんな大勢の友人達がいたことを、この日始めて知った。

 葬儀が終わり、参列してくれた父の友人達と短い話しをした。彼等はみな、第二次世界大戦に従軍した者達だった。もちろん、私の父もその1人だった。詳しい戦歴などは一切聞かなかった。重要なのは、彼等がアノ大戦の英雄だということよりも、彼等自身が選ぶことのできなかった青春時代に対し、最大限の敬意を表すことだと、私は思ったからね。

 私は叔母の肩を抱き、自分の車へと向かった。その時だった。『君は私の誇りだ! アメリカ(海兵隊)の先頭に立って勇猛果敢にタラワに上陸したアナタの父親と同じくらいにだ!』という言葉が、私の背中にぶつけられた。とても力強い口調で、どこかで聞いたことがある声だった。

 私は、声の主の方を振り返るかを迷った。一刻でも早く、この場から立ち去りたい気持ちでいっぱいだったからね。私より先に、叔母が振り返った。叔母は、肩の上にのせられた私の腕を振りほどき、声の方へと駆け寄っていった。しょうがなく私も振り返った。

 ・・・・・・、そこには、アノ人が立っていた。歳をとり、顔中がシワくちゃだったけれど、間違いなくアノ人だった。今にも崩れ落ちそうだった小さな私を、叔母の家まで連れて行ってくれたアノ小学校の時の担任の教師がそこには立っていたんだ。私は自分の眼から、自然と涙がこぼれ落ちていることに気がついた。ワケが分からなかった。私は教師に駆け寄り、無言で彼を抱きしめた。

『私は海兵隊時代、アナタの父親の部下だった』教師が私の耳元で言った。今も昔も小柄で細い彼が、軍隊にいたなんて、これが本当のことでも信じることができなかった。『アナタの父親にずっと言いたいことがあった。生きているうちに言わなければならなかったことは承知している。だがそれは叶わなかった。全ては私が弱い人間だからだ。せめて君に』私は教師の口を遮り首を振った。父のことなど、何も聞きたくなかったのだ。横にいた叔母が、私と教師の間に割り込み、『私に話していただけませんか?』と言った。教師はうなづいた。

 教師が叔母に話す声が、私にも聞こえてきた。

『アナタの弟さんはそれは立派な軍人でした。まさにアメリカの誇りです。小隊長として、いつも部下のことを一番に思い、ギリギリのとこで判断を下していました。彼の磨き抜かれた直感と判断は、何時も正しく、なんども我ら小隊を救いました。が、アノ時、彼は一度に大勢の部下を失った。しかし彼の直感は正しかったのです。彼はあの時の事を悔やみ、その後の人生を酒に頼り台無しにした。しかし、アノ時の彼の判断は正しかったのです。誰があれ以上のことを出来たでしょうか。一度だって私達は、小隊長のことを恨んだことはない。私はこのことを60年以上も胸にしまっていました。ああ、なんでもっと早く言えなかったのか―』教師は話を終えるとその場で項垂(うなだ)れた。

 私は教師の言葉に胸を締め付けられた。強く、強く、締め付けられた。しまいには頭がフラフラしてきて、立っているのがやっとだった。私は叔母より先に、自分の車へと戻った。ハンドルに頭を預け、目をつむった。呼吸が荒くなり、涙と鼻水が一気に噴き出してきた。荒い呼吸はいつの間にか言葉にならない声に変わっていた。私があれほど憎み恨んだ人間を、なんで、なんで。

 私にはこの葬儀に来ていた全ての父の知り合いの気持ちが分からなかった。私は彼の軍隊時代の部下でも同僚でもない。ただの息子だ。私が望んだのは、家族団らんの日々。大きなキャデラックも、夏の休暇を過ごすための湖面に面した別荘だっていらなかった。家族と過ごすありふれた日常と、ほんの少しだけ気持ちが高ぶる休日があれば、他には何もいらなかった。

 叔母が戻ってきて、泣き叫んでいる私を抱きしめた。この時私は気づいた。本当に強いということは、あらゆる現実を受け入れ、それを許すことだと。これは本当に難しい。今だって全てを許せたわけじゃない。とても時間がかかる。少しづつ、少しづつ、許していくしかないんだ」

 本当のことなのかどうか分かんないけど、とにかくダンディズムのヤツ、こんな話を出会ったばかりのぼくに真剣に話してくれたんだ。

 ダンディズムの話しが終わってからっていうもの、車内は暗い雰囲気に包まれていたよ。そのまま車内はスッキリすることなく、気づいたら超弩級の大都会の真ん中にぼくらはいたんだ。さっきまであんなに開放感にまみれていたダンディズムのオープンカーが、ここでは無言の圧力のせいで肩身がせまく感じたよ。

 三

 シカゴに到着したのはその日の夕方で、ダンディズムはぼくに「食事をしたら見せたいモノがある」と言ったんだ。

 オープンカーの帆を閉めた後、ぼくらはそこらのカフェに入り、2人ともチーズバーガーを食べたの。店を出た時はすっかり辺りは真っ暗になっていて、ダンディズムは「さあ、いこう!」って元気に言ってきたんだ。

 向かった先は『シアーズ・タワー』っていう超高僧ビルの103階で、そこから見下ろす夜景の美しさは言葉で言い表すのが難しいくらいだったよ。あえて言うなら、ネオンに照らされた真っ直ぐな道が地平線の彼方に消えていく感じ。ぼくが表現出来る限界だね、これがさ。

 この展望台から下界を見下ろしてると、この世は希望で満ち溢れてるような気になってきたんだ。さっきまでモクモクと沸き上がってきそうだったぼくの頭ん中のイヤなイメージは、この夜景の前に完全に沈黙したんだよね。

 この日の夜、ぼくはとんでもない体験をしたよ。ダンディズムと禁断の恋に落ちたとかの類ではなくて、生まれて初めて高級ホテルに宿泊したんだ。なんたって、一昨日まで砂漠の中に穴を掘り、テントを張って寝てた男だかんね、ぼくは。

 ぼくの想像でモノを言うのはなんだけど、ベルサイユ宮殿の中って、ホントこんな感じだったんだろうね。足のある家具っていう家具が猫足のスンゲェ可愛いヤツで、椅子やソファの生地はことごとく品のある花柄でさ、桃色吐息が出ちゃったよ。

 テレビとか雑誌でここを見たならば、こんなホテルに誰が泊まんだよって突っ込んだだろうね、ぼくは。ああ、世の中知らないモノが多すぎるよ、マジで。

 この世紀の豪華ホテルにぼくが宿泊するにいたっては、少し小さなアクシデントがあったの。なんたってぼくは、つい先日まではフルタイムのバックパッカーだったわけで、しかも何日もシャワーを浴びてなかったし、服もかえてなかったから、当然野生動物の匂いが体中から発せられてたわけでさ、ダンディズムのヤツもよくこんなぼくを車に乗せたよなって思うくらい酷い有様だったんだ。

「その恰好じゃあ、ホテルの半径1キロ以内に入ったら宿泊を断られるだろうな」ダンディズムがぼくに言ってきて、彼は1軒の小さな店の前に車を停めたんだ。ダンディズムは、もうすでに店のシャッターが降りていたのにもかかわらず、小さな声で「ケシカラン」と言ったあと、足でガンガンシャッターを蹴りだしたの。

 ウワッ、やっぱりコイツ危ないヤツかってぼくが見てるとさ、店の中から声が聞こえてきて、次にガラガラとシャッターが開いたんだ。ダンディズムのヤツは何事もなかったように店内に入っていったよ。ぼくもその後に隠れるようについていったんだ。

 ダンディズムが蹴り倒して中に入ったお店は、どうやら服の仕立屋さんみたいだったね。吊るしの服はあるにはあったけど、そのどれもが〝生地の見本〟てな感じで、それそのものが売り物ではなかったよ。

「今から服を仕立てたら何日かかる?」ダンディズムは、老眼鏡をかけた初老の男性に聞いたんだ。

「あなたのような方には、服をお作りしておりません。出直しなさい―」初老の主人は上目でダンディズムを睨み付けながら言ったんだ。

「シャッターを叩いたことは詫びる。しかしこいつはあと一週間の命なんだ。最後にこの街で贅沢をさせてやりたいんだが―」ダンディズムは言ったんだ。初老の男性はぼくの目をジッと見て黙っていたよ。

「お互い生まれ育った国は違うが、私達は本当の兄弟以上の絆で結ばれている。最後に綺麗な服で・・・・・・ウ、ウ、ウ―」ダンディズムのヤツ、声を出して泣きだしたの。なんかよく分かんないけど、ぼくも、ダンディズムの横で精一杯頑張って涙を出してみたよ。

「何故、私に?」初老の主人がダンディズムに尋ねたんだ。

「ここがアメリカでナンバーワンって聞いたからね。ニューヨークからも客が頻繁にくるんだろ?」嘘か本当かダンディズムはそう言ったんだ。

 初老の主人は自信満々の顔でゆっくりうなづき、「納期はいつまででございますか?」って、とっても丁寧な口調で聞いてきたよ。

「明日の朝一番。それと冬物のコートを1着貸してくれ、こいつに合うヤツが欲しい」ダンディズムは堂々とした声を張り上げ言ったよ。

「コート? はい、分かりました。それはいつまでに?」初老の主人は、一瞬不思議そうな顔をしたけど、すぐに真摯な態度で聞き返してきたんだ。

「今すぐだ!」ダンディズムのヤツ相手を威圧する声で言ったよ。

「かしこまりました!」初老の主人は、サッと自分のズボンのポケットに手を入れメジャーを取り出すと、ぼくの身体の寸法を測りだしたんだ。

「書かなくていいのか?」ダンディズムが初老の主人に聞いたんだ。

「必要ございません。全て頭に入っております」初老の主人はこたえたよ。

 初老の主人は店の奥に走っていき、1着のベージュ色のコートを持ってきたんだ。それをぼくに着せ、その場で回るように指示してきたよ。

 ぼくは少し照れながら言われるがままにその場で回ってみせたんだ。裾も丈もピッタシなソレは、ホントぼくのために作られたモノのようだったね。

「とりあえず今日はこれで―」初老の主人がそう言うとダンディズムは無言でうなづいていたよ。

 次にぼくらはスーツの生地を決めることになったんだ。何がなにやら分かんないぼくは、ダンディズムにお任せすることにしたんだ。

 生地が決まって、初老の主人が「デザインはどういたしますか?」みたいな事をダンディズムに聞いてきたらしく、ぼくはダンディズムに「ブラピみたいの」って言ったの。そしたら2人共一斉に声を上げて笑ったよ。 初老の主人がぼくの前にきて「あなたは細身よりもゆったりめの方がいいでしょう」と言ったんだ。それにはダンディズムもうなづいていたね。

 仕立てる服についての打ち合わせが終り、初老の主人がコーヒーを淹れてくれたんだ。ムチャクチャ美味しいコーヒーだったよ、それは。

 声に出して「美味しいコーヒーですね」って言おうと前を向いたら、初老の主人がもの凄く悲しそうな目でぼくを見ていたんだ。とにかくあんなに印象的な悲しい目を見たのは始めてだったね。

 コーヒーを飲み終わって店を出る時、初老の主人がぼくに駆け寄ってきて、ゆっくり丁寧に「最後の日が訪れる前に、私の作った服を着て、もう一度コーヒーを飲みにきてくださいませんか? 貴重な時間なことは分かっておりますが、妻と子供達にアナタのことを・・・・・・、ウ、ウ、ウ」なんかよく分かんないけど、泣きながら言ってきたよ。 

 変な映画の見過ぎなのか、アメリカ人てヤツはみんながみんなこんなに感傷的になるモンなのかねってぼくは思ったね。

 店を後にしたぼくらは、ダンディズムの運転で例の高級ホテルに向かったんだ。ホテルに入っていくぼくの姿は異様としかいえなかっただろうね。憲兵みたいな硬い表情のドアマンの顔が、一瞬ギョッとして、ハッキリとそれを表していたよ。

 ぼく以外の客は、ほとんどがまだ半袖で、そりゃあ女性の中には秋物の長袖を羽織っている人もいたけど、〝冬将軍よ、どこからでもかかってこい!〟てなコートを着ていたのは、さすがにぼくだけだったよ。

「君は絶対にゲイと思われている」ダンディズムのヤツが耳元で囁いて笑ったよ。

 ホテルマンにさり気なく見られながらも、無事チェックインを果たしたぼくらは、ゼンマイ仕掛けで動いているようなベルボーイに部屋へと案内されたの。

 さっきも話したけど、ベルサイユ宮殿の中っていうのはきっとこういうもんだったんだろうね、マジでさ。あまりのきらびやかさに目がチカチカしてきそうだったんだ。ああ、貴族になった気分だったよ、こん時は。

 学校の体育の授業で走り高跳びってしたことあるでしょ? そん時になんかスッゲェでかいマットを使うじゃない。あのサイズのベッドが2つもあったのよ、この部屋には。

 一体一泊あたりいくらぐらいするのか、ぼくにはまったく見当がつかなかったよ。ま、でもダンディズムからの前払いの3000ドルの小切手を持ってたから、そんなに焦ってなかったけどね。

 ああ、今思い出してもあの至福の時間たらなかったね、マジで。電話一本でのルームサービス。ああ、ぼくはケチなビールを7回もボーイに運ばせてやったんだ。ああ、ホント最高だったよ。

 そうそう、夜寝る前にはね、ぼくの肩まであった長髪も綺麗に切ってもらったんだ。わざわざ部屋に美容師を呼んだんだぜ、まあこんな贅沢はもう二度と訪れないだろうね、まったく。

 翌朝、フカフカのベッドでムニャムニャまどろいでいたぼくの耳元でダンディズムのヤツが「グッモ~ニン」てモーニングコールをしてきたんだ。あ、オレマジで抱かれるかもってお尻に力をいれたけど、そんなことはなくて、ただ単に昨日注文した服を、早く仕立屋に取りに行くぞってことだったの。

 優雅なブレックファーストには後ろ髪を引かれたけど、ダンディズムのヤツが急かすもんだから、この日は朝食抜きでの出発となったんだ。

 朝6時を少し回ったばかりの街は、まだ完全に目覚めていなくて、ヒンヤリとした空気はホテルの空調の何倍も心地よかったよ。

 ホテルから車で15分足らずのテーラーに着くと、店のシャッターはもう開いていて、店の前には昨日の初老の主人がビシッと立っていたんだ。

 ダンディズムは店の真ん前に車を停め、初老の主人が「どうぞ」と重々しい態度で店のドアを開け、ぼくは少し気後れし、店内へと入ったんだ。

 ぼくがオドオドしている傍らで、初老の主人はテキパキと無駄のない動きで店内を動き回っていたよ。

「こちらへどうぞ」初老の主人がぼくを大きな鏡の前へ呼んだんだ。ぼくはスタスタと歩いていき、そこからはもうナスガママだったね、マジで。

 ぼくは着ている上着を全部脱がされ、テカテカ光ってる生地の肌着を着せられて、どんな酷い猫背だってたちまちに直ってしまうほどのビシッとした白いシャツを着せられたんだ。

 次に少しダボダボした感じのズボンをはかせられ、最後にゆとりのあるジャケットを着せられて終り。

 ダンディズムのヤツが横から「そこで一周回ってみろよ」って言ったから、ぼくはロボットダンスを踊るようにカタカタ回って見せたんだ。それを横で見ていた初老の主人はなんだかしんないけど、突然涙ぐみだして、ぼくの肩に手を置くと無言で何回もウンウンとうなづいていたね。

 ぼくは気持ちを落ち着かせ、鏡で自分の事を見て思ったんだ。「なんて素敵な好青年なんだろう」って。どっからどう見ても極東から訪れた青年実業家って感じだったよ、マジで。

 ぼくの頭の中ではずっと、映画『プリティーウーマン』の曲が流れていて、鏡に映っているダンディズムのヤツも、リチャード・ギアに見えなくはなかったよ。しかしこんなに品のある黒色の生地をぼくは見たことがなかったね。

 なんて言えばいいんだろう、葬式に着て行っちゃあマズイ黒だとぼくは思ったんだ。なんかとにかく品があって肌触りは最高で、頬摺りが趣味になりそうなくらいだったよ。

 ぼくが自分のスーツ姿に見惚れていると、後でダンディズムのヤツが笑いだしたんだ。ぼくが鏡の中に映っているダンディズムに怪訝な顔をすると、彼は笑いながらぼくの足下を指したの。

 ぼくの両足には、高級スーツとは月とスッポンな『パタゴニア』のトレッキングシューズが鎮座していたよ。初老の主人も、さすがにそれはマズイといった感じで、そそくさと店の奥に行ったと思ったら、手にメモをもって戻ってきたんだ。メモにはどこかの住所と店の名前らしきものが書かれていたよ。

「私が全て説明をしておきますから、ここへ向かってください」初老の主人は両手で丁寧にぼくにメモを手渡しながら言ったんだ。メモを手渡した初老の主人は、ぼくの足下にしゃがみ込むと、靴を脱がせ、ノギスの親玉のような専用工具でぼくの両足のサイズを測りだしたんだ。

 全てが終り、初老の主人にぼくは「小切手しか持ってないんだけど」と言ったの。そしたらダンディズムのヤツが横からチタン色のクレジットカードを出してきて、全ての支払いをしてくれたんだ。車に乗り込んだぼくはダンディズムに「どこか小切手を現金に換えれる場所に行ってほしい」と告げたの。

 ダンディズムのヤツ「ヤレヤレ」って感じでぼくを見て「その小切手は君にとってどういうお金か分かるかい?」って言ってきたんだ。ぼくはなに言ってんだコイツって感じで「仕事の前払いの金だよ」ってこたえたの。

「いや違うね!」ダンディズムのヤツが強い口調で言ってきたんだ。ダンディズムのヤツが言いたいことが分からないぼくは、それ以上反論せずに黙って助手席に座っていたよ。

「それは君が、始めて稼いだ金だ。〝写真家〟としてね」ダンディズムのヤツが話しを始めたんだ。

「自分で始めたことで一番最初に稼いだ金は、〝そのこと〟に使わないといけない。つまり再投資だ。いいかい、自分が一番手に入れたいオモチャを買う時は、どんなことがあろうとも、必ず身銭をきりなさい。逆に言えば、それ以外は上手くやればいいってことだよ」話し終えた彼は、ぼくの方を向いてニカリと笑ったんだ。

 次にぼくらが向かったのは、テーラーの初老の主人がくれたメモの場所だったんだ。着いたそこはこじんまりとした靴屋で、やっぱり店先には白髪の初老の主人が立っていたんだ。まるで双子かってくらいテーラーの主人とよく似ている靴屋の初老の主人は、テーラーの主人とまったく同じ重々しい態度でぼくらの接客を始めたの。

 狭い店内に入るとそこは心安らぐ革の香りで溢れていて、思わずぼくは日本語で「ああ~いいな~」って言っちゃたんだよね。

 初老の主人はぼくを茶色く焼けた革の椅子に座らせると、生まれたての赤ちゃんを抱きかかえるように、ぼくの両足のパタゴニアを脱がせたの。そして、新しい靴下を履かせてくれて、思わず溜息が出るような光沢のある革靴を履かせてくれたんだ。

「キツクはないですか?」初老の主人がぼくを見上げ聞いてきたんだ。

「はい―」本当は少しきつかったんだけど、こうこたえるのが精一杯だったよ、ぼくは。

「少し歩いてみてはくれませんか?」続いて初老の主人が言ってきて、ぼくは言われるがままに狭い店内を歩いてみせたんだ。

「結構です。じきにあなたの靴になるでしょう」彼はそう言うと、「貴重な時間を私の靴で過ごしていただけるなんて本当に光栄です」と言ったんだ。

 ダンディズムが靴の代金を払おうとカードを出した時、靴屋の主人は無言で首を振り「仕立屋からの贈りものです。どうぞ、そのまま、そのまま」と言い、店のドアを開けたよ。 

 靴屋を出た時にはもう街は完全に機能しはじめていて、ダンディズムは銀行近くの有料パーキングに車を停めると、ぼくに小切手を換金してこいよと言ったんだ。それに付け加え「相手の目を見て話せないなら、せめて相手の上唇を見て話せ! いいな!」って強い口調でぼくを車から送り出したの。

 ぼくは自分には場違いだなって緊張しながら、銀行に入ったんだけど、ぼくの予想とは裏腹に銀行員の態度はすこぶる紳士的で、ぼくは感動すら覚えたよ。なんでこんなに丁寧に接してくれるんだろうってしばらく考えたよ。

 ぼくが手渡した小切手の額面の数字が特別大きいわけでもないし、ぼくが流暢な英語をしゃべれてるわけでもないし、誰に対しても銀行員達が紳士的でもなさそうだったし、なんだか狐につつまれたような感じだったよ。

 でもね、答えは案外早くみつかったんだ。ぼくが現金を受け取り銀行から出ようとした時、綺麗に磨き上げられた銀行のガラスにぼくの全身が薄く映ったの。そこに映ったぼくは、自分で言うのはなんだけど、やっぱり素敵な好青年で、全身から実直さがほとばしる青年実業家って感じだったんだよね。彼等はぼくの外見を見て、つまり上等な衣服や靴を身につけてるのを見て、ああいう丁寧な接客をしたんだなってことが分かったよ。

 いよいよ次はぼくの仕事道具を買いにシカゴ郊外にある大型家電量販店まで車を飛ばしたんだ。なんとか昼前についたそこは、日本の郊外型の大型店舗が商店街の八百屋に見えるくらい大きくて、とても1日で回れるような規模じゃなかったね。

 何から何までが大きくて、朝昼兼用で食べたピザも、ジャイアント馬場ようのフリスビーてなくらいフザケタ大きさだったんだ。

 食事を終えたぼくらはイソイソとカメラ売り場に向かったんだけど、あまりに店が広いもんだから、なかなか売り場が見つからず苦労したよ。

 ようやく見つけたカメラ売り場には、ニコン、キャノン、ペンタックス、オリンパス、ソニー、パナソニックと最新の日本製のカメラがズラッと並べられていて、なんだかスンゴク間抜けな気分だったね。こんなとこにまで来てビックカメラとかと同じ光景を目にするなんて思ってもなかったからさ、まったく。

 とにかくカメラを買わないと商売にならないわけで、白けた気分をたてなおし、ぼくは商品の物色を始めたんだ。

 いざカメラを手に持って触りだしたら、さっきまでの間抜けな気分なんてどっかにいっちゃったよ、マジで。

 ああ、とにかくニコン製の高級デジタル一眼レフのシャッター音の美しさったらなかったね。硬派で甘いんだよアレは。カメラのことを全然わかんない女の子でも、このカメラで撮られたなら、ホントその気になっちゃうだろうね、マジで。

 しかし、甘い音と値段は比例する。余裕で予算オーバーだったんだな、そのカメラはさ。ぼくの後で、公園の砂場で夢中で遊ぶ子供を見るような目でぼくを見ていたダンディズムが、

「融資が必要かい?」って言ってきたけど、ぼくは強い口調で「NO!」って言ったんだ。ようはね、腕だよ腕! 道具の値段じゃないってことが言いたかったんだ、ぼくはさ。

 ああ、それにしてもあのシャッター音の甘さったらなかったね・・・・・・

 高級なスーツを着たぼくが高級デジタル一眼レフばかりを物色してたからかな、しばらくすると1人の若い店員が近寄ってきたんだ。

「ご趣味ですか?」店員は聞いてきたんだ。

「いやビジネスだ!」ぼくは相手の上唇を見てこたえたよ。

「でしたらこちらのキャノン製の一眼レフがよろしいかと?」彼はキャノンの最上級機に手を添え言ったんだ。

 ぼくは首を横に振ったよ。予算も足らなかったし、それに、なんか違うんだな、ぼくがモハベ砂漠を歩きながら思ったモノとは。

 そう、ぼくはブローニー判が使える中判フィルムカメラが欲しかったんだ。こんなデジタルなんてちっとも欲しくなかったんだ。骨董品のような、だけれどスゴイ実力をもったアイツが欲しかったんだ。

 ぼくは店員に「中判のフィルムカメラはある?」って聞いたの。そしたら店員のヤツ、スゲエビックリした顔をして、「ゥワッ?」って言いやがったの。

 ぼくはもう一度「中判のフィルムカメラだよ!」って言ったよ。

「デジタルの中判じゃなくてですか?」店員は尋ねてきたね。

 ぼくは「そうだよ」とうなづきながらこたえたんだ。

「ハッセルブラッドやマミヤならお取り寄せできますが? デジタルバックのご使用はお考えでしょうか?」店員のヤツは意地でもぼくにデジタルを売りつけたいみたいだったね。

「ペンタックスの6×7は?」ぼくは聞いたんだ。

「はあ、6×7ですか? 645じゃなく? 67の方でもなく?」彼は目を真ん丸くして聞いてきたね。

「うん、6×7が欲しいんだ。もちろん中古で」ぼくは一歩も引く気はなかったよ。

「ペンタックスの『67Ⅱ』でしたら現在でも販売しているらしいですが。6×7はちょっと・・・・・・」ぼくより若そうなヤツだったけど、なかなかどうしてカメラのことを知ってるヤツだったよ。

「しかし、フィルムカメラは、しかもブローニーフィルムだと、かなりコストがかさむのでは? やはり仕事で使われるのなら、デジタルが現実的かと・・・・・・」

 親身になってくれるヤツだったね。でもぼくはデジタルカメラなんて買う気はなかったから、結局そこではカメラを買わなかったんだ。

 でかすぎやりすぎ大袈裟量販店を出たぼくらは、急ぎシカゴの街中に戻ったんだ。メインストリート沿いに立ち並ぶ店の中にカメラ屋らしきものはなくて、車を停めて通行人に聞いてみても、みな口を揃えて「知らないなぁ―」と言うだけだったよ。

「こんな時日本だったら『タウンページ』だよな」ってぼくが1人呟いてみたら、ダンディズムのヤツが「アメリカにもタウンページはある」と言ったんだ。けど、それよりもっと確実な方法があるとも彼は言ったよ。

 ダンディズムは赤信号で停まっているタクシーに車を横付けすると、自分の車の窓を開けて怒鳴りだしたの。

「ちょっと聞きたいんだがいいかい?」とダンディズムのヤツが言うとさ、タクシーの運転手は怪訝な表情とは裏腹に「アイヨ!」てな感じで軽快に質問に答えてくれたんだ。

 だけどどの運転手もフィルムカメラが売っているカメラ屋なんて知らなかったね。やっぱりタウンページで探そうとぼくが言おうとした時、ダンディズムのヤツ、なんか閃いちゃったみたいでさ、突然車のアクセルを吹かして、メインストリートからの脱出を開始したんだ。

 ダンディズムのフェラーリが、何本かの大通りを突っ切ると、目の前に摩天楼に囲まれたシカゴ川が現れたんだ。この日は気分がいい綺麗な青空が広がっていたんだけど、シカゴ川の水は汚く淀んでいて、ぼくがアメリカに旅立つ前に住んでいた名古屋市内を流れる堀川とそんなに変りはないなと思ったよ。

 シカゴ川の岸壁の両側には、所狭しと観光船らしき船がプカプカ浮いていて、こんなとこにカメラ屋なんてモンがあるわけがないとぼくは思ったね。

 狭い路地裏に車を無理矢理停めたダンディズムのヤツはさ、ぼくに降りろといい、早歩きで川沿いをスタスタ歩きだしたんだ。ぼくは彼の後に続いて歩き出したけど、なにがなんだかまったく分かんなくて、半ば呆れていたよ、まったく。

 川沿いを歩き出して5分くらい経った頃かな、だんだんぼくは歩くのが楽しくなってきて、ああ大都会の中をなんのあてもなく歩くのも悪くないなって思い出してきたんだ。

 前を歩くダンディズムのヤツは相変わらず早歩きでさ、なんでこの素晴らしき時間を楽しまないんだろうってぼくは思ったね。たまに彼がぼくの方を振り向いた時の目なんて、殺し屋もびっくりするくらいなギョロ目でさ、何をそんな怖い顔をする必要があるんだろうと思ったね。

 ぼくは歩きながら、2、3回大きく深呼吸をしたんだ。そしたらさらに気分は良くなって、辺りの様子もさっきよりはっきり分かるようになったんだ。平日の昼なのに、いい大人達がけっこうブラブラしてたんだな。

 ぼくの前を歩くダンディズムのヤツは、さっきからその大人達に何かを話しかけていたけど、一体何を話してんだかぼくのいる位置から聞き取ることはできなかったよ。

「ヘイ! こっちにこいよ!」ぼくが青空に溶け込んでいきそうな摩天楼を見上げていると、ダンディズムのヤツが呼んだの。ぼくは急いで彼の元へと駆け寄ったよ。

 ダンディズムの前には、くたびれきったオッさんが立っていたんだ。何を職業としているのか、見た目ではまったく判断できないタイプのオッさんだったね、それは。

「こいつがカメラ屋を知ってるってよ!」ダンディズムがニカッと笑って言ったんだ。ぼくは呆気にとられながらも、ダンディズムの前に立つ野良犬みたいなオッさんから、カメラ屋の場所を聞き出すことに成功したんだ。

 ぼくはオッさんから聞いた場所を手帳に手早くまとめると、「サンキュ」と言ってその場を立ち去ろうとしたの。そしたらダンディズムのヤツ、ぼくの肩をギュッと強く掴んで、自分の横に押し戻したんだ。

「忘れてることがある」彼は言ったよ。ぼくは急いでポケットからチップを出してオッさんに払ったんだ。

「形のないモノでも、必要なことなら金を出すのを惜しむな! いいな!」ダンディズムのヤツ、怖い顔をしてぼくに言ったよ。

 ぼくは「どうしたらいいか分かんなかっただけだ―」と小声で言ったけど、彼はまったくもって聞く耳もたずってとこだったね。

 ダンディズムの態度に腹が立ったぼくはさ、「タウンページで探せば余分なチップも払わなくてよかったのに―」って日本語で悪態をついたんだ。 さすがは昔、日本人と中古車ビジネスをやってただけあるよ。ダンディズムのヤツ、ぼくの言ってることが分かったみたいで、眉間に皺を寄せて、だけど頬は笑ってる感じで「ナルベクゲンチノヒトトハナスコト」って片言の日本語で言ったんだ。

 オッさんに教えられた場所は、シカゴのダウンタウンの裏通りにある店だったんだ。ダンディズムのヤツ「こういう通りには雰囲気のいい店が必ずあるもんだ」とハンドルを握りながら嬉しそうに言ってたよ。

 ようやく辿り着いたカメラ屋は、ぼくが服を仕立ててもらったテーラーよりも小さな店だったよ。店正面のガラスのショーケースの中には、古びたカメラが並べてあるにはあったけど、その全てに埃がかぶりたい放題で、お金をもらったっていらないモノになり果てていたね。

 店もやってるのか分かんなかったけど、とりあえず扉を引いてみたんだ。扉にカギはかかってなくて、案外すんなり開いたのには正直びっくりしたよ。店内は、外から見えるショーケースとは違って、意外と小綺麗にしてあって、陳列棚にはしっかりと綺麗な中古カメラが等間隔で並べられていたんだ。

 ぼくはまるで骨董市に来たみたいだなって思ったよ。陳列棚に並べられたカメラのどれもが、ホント古い品物ばかりだったんだ。ここならぼくのジイちゃんが使ってた6×7もあるかもしれないって本気で思えてきたの。

 狭い店の奥のカウンターの後には、茶色く焼けた木の板の壁に同化した、店の主人らしき老人が座っていたんだ。ぼくはその老人に「アサヒペンタックスの6×7はありますか?」と尋ねたの。無反応だったよ。あんなに人の目を見つめたままの無視なんて、ぼくは今まで経験したことがなかったね、マジで。

 ぼくは繰り返し同じことを聞いたんだ。無反応。目を開けたまま寝てんのか、死んでんのか分かんなかったね、マジで。

 もう一度ぼくが同じことをしようとしたとき、横からダンディズムのヤツが、「もっと耳元で話せ」と言ってきたの。ぼくは言われた通り老店主の耳が囓れるくらいのとこまで口を近づけて、カメラのことを聞いたんだ。

「ああ在るよ―」ぶっきらぼうな言い方だったけど、確かに老人はそう言ったの。呆けてるといけないと思ったぼくは、確かめる意味で「6×7だよ? アサヒペンタックス、日本製のカメラ!」って耳元で大きな声で言ったんだ。

「ああ在るよ。ブローニーフィルムのヤツだろ? 35ミリをそのまま大きくしたカメラさ、あれは」今まで靄を食って生きてる感じだった老人が、シャキッとした英語で言い返してきたから、ぼくは少しびっくりしたけど、それよりも6×7があることの方がもっとビックリだったね。

「現品を見たいんだけど! どこにあるの?」ぼくは老人の耳元で怒鳴ったよ。

「今ここにはない。自宅の防湿庫にある」老人はそう言ったんだ。

「売ってもらえるのかい? それは」ぼくは聞いたよ。

「ああいいよ、君が使いたいならね―」老人はこたえたんだ。

「現物が見たい!」ぼくは耳元で叫んだの。

「ああいいよ、今日の夕方までには用意しておこう。夕方また来ておくれ―」老人はそう言うと、ゆっくり席を立ち「良い状態のライカもある。しかもM3だ」とガラスで覆われた陳列棚を指さしたんだ。

「いや、ロクナナがいいんだ!」ぼくが大声で応えると、老人は始めて表情を変え、ゆっくりニカッと笑ったんだ。

「何時にくればいいですか?」ぼくは急かすように聞いたよ。

「・・・・・・」

 ぼくの声が聞こえてないようだったから、急いで老人の耳元で同じことを叫んだんだ。

「夕方にきなさい」老人はゆっくり口を開いたの。

「今日のですか?」ぼくは老人の目を見て言ったんだ。綺麗な碧い瞳が、皺の間から覗いていたよ。

「・・・・・・」

 何も聞こえてないようだったね。横からダンディズムが、「もっと耳元で叫べ!」って茶々を入れてきて、ぼくは老人の耳元で「今日の夕方くればいいんですか?」って聞いたんだ。

「ああ、そうだよ」カメラ店の老人は、当然てな感じでこたえたよ。

「何時に?」ぼくは老人の耳元で叫んだの。

「夕方さ」老人は言ったよ。

「18時くらい?」ぼくはだいたいの目安となる時刻が知りたかったんだ。

「影が大きく伸びる時刻においで」老人がなんか嬉しそうに言ったの。

「と、いうと?」ぼくはもう少し具体的に知りたかったんだ。

「影が大きく伸びる時刻さ」老人のヤツ、シレって言いやがったよ。ぼくと老人のやり取りにイラッとしてたのかね、横からダンディズムのヤツが「もういいだろ。夕方また来よう」と言ってぼくの肩を軽く叩いたんだ。

 ぼくの前を歩くダンディズムが、店の扉の前で立ち止まり、振り返って店の中をグルリと見回し「良い店だ―」と言ったの。ぼくもそれにつられて店の中を見渡してから、ウンとうなづいたんだ。

 四

 その日の午後、ぼくとダンディズムは、影が大きく伸びる時刻にカメラ店で落ち合おうっていう約束を交わしたあと、別行動を開始したの。ぼくは1人シカゴの街中をブラつき、楽しむことにしたんだ。

 街の中心部には興味のなかったぼくは、カメラ店の周り、つまりダウンタウンの路地裏をうろついてみることにしたんだ。けど、ぼくが頭の中で勝手に描いていたシカゴは、ソコには全然なかったよ。

 ダンディズムのヤツに笑われた通り、どこにもギャングスターなんていなかったね。そんなことは当たり前のことなんだけどさ、何て言うの、先入観や第一印象ってヤツは、厄介なモンだなぁってぼくは思ったのよ、マジで。

 ぼくの行く手には、近代的なビルが建ち並んでいたね。ぼくの中で下町っていったら、長屋が建ち並んでいるイメージしかなかったからビックリしたよ。失礼な話かもしれないけど、ホントにそう思ってたんだ、ぼくは。

 ここで始めて気がついたんだ。シカゴの〝ダウンタウン〟っていうのは、〝下町〟って意味じゃなくて、中心街だってことにさ。

 青い空に向かって伸びる近未来型のビルを目指して歩いていたら、突然開けたとこにでたの。ベビーカーを押す体格のいい白人女性がぼくの横を追い越していき、その先に目をやると、結構沢山の人がウロチョロしている広場があったんだ。

 ぼくはここが何をするとこだか分かんなかったけど、ようするに大きな公園てとこだろうね。それにしてもここは白人の観光客らしい人が多かったよ。平日の昼間なのにカメラ片手にベビーカーを押している白人のお父さんを、ぼくは何人見たことか。

 そうそう、日本人の姿も何人か見かけたんだけど、ぼくと目が合うと会釈すらせずに、下を向いたり上を向いて逃げるようにどこかにいってしまったんだ。逃げる相手を追い掛けてまで日本語を喋りたかったぼくは、くたびれたウエストポーチを腰にしていた1人の中年男性めがけて歩み寄ったの。

「こんにちは!」ぼくは久びさに発する自分の日本語に感動すら覚えたね。だけどウエストポーチの中年は、ぼくの声が聞こえないフリをして、公園の出口の方に早足で行ってしまったんだ。もしかして中国の方かなってぼくは思ったけど、いやいやあのウエストポーチの巻き具合は日本の中年だろうと、再度追い掛けて「こんにちは! 日本のどこから来られたんですか?」と聞いたんだ。

「あ、とうきょ、とうきょ―」ウエストは、スンゴクめんどくさそうに言うとさ、そのまま足も止めずに園の外に出ていっちゃったの。それからも何回か日本人に話しかけたけど、全て一言か二言で終わっちゃってさ、会話に発展することはなかったね。 

 なんとなく辿り着いた公園ではあったけど、居座ってから時間が経てば経つほど素晴らしく思えてきたね。日本のどこかにもきっとここに匹敵するくらい素敵に時間が流れる公園はあるんだろうけど、今んとこはここが世界最強だったね、ぼくにとってはさ。

 ぼくは木の下のベンチに座りながら、園内を行き交う人々を見てるだけで幸せだったんだ。別に誰もぼくのことを変な目で見ることもないし、意識して無視を決め込むなんてこともなくて、ああ観光地らしいとこだなぁって場所だったんだ。

 公園を囲む近代的なビル、ビル、ビル。日本のとは明らかに違ってて、溜め息が出るくらい流線が美しい建物だったよ。あれは芸術ってヤツだったね。カメラが手に入ったのなら、ぼくはもう一度ここにきて、ありふれてはいるけれど、ホノボノと悠々と過ぎていく時間を切り取ってみようかなって、時間が経つのを惜しみながら思ったんだ。このまま人生の陽が暮れるまでここで過ごすのも悪くないなって考えながらも、実のところはカメラのことが気になってしょうがなかったんだよね。

 ぼくは今何時かなって腕時計を見たの。「えっ! もう電池切れなの?」アジアン使用のパチモン時計の液晶が消えかかっていたんだ。ぼくは重い腰をあげ、時計の電池を替えてくれそうな店を探しに公園を出たの。

 公園の外の道沿いには、相変わらず新旧様々な素晴らしい建物が建ち並んでいたよ。歩いてるだけでぼくは文化人になった気分だったね。

 なんだか時計の電池なんてもうどうでもいいやって思えてきた時、1軒のこじんまりとした宝石屋が目に飛び込んできたんだ。

 店の前まで近づいていって恐る恐るガラス越しに店内を覗き見たらさ、髪型をトサカにした熟女の店員らしき人と目が合って、ぼくは反射的にその店から遠ざかっていたね。ああ、あんなのとちょっとでも同じ時間を過ごしたならば、きっと七代先まで祟られただろうね。人を見た目で判断するのは絶対にいけないことなんだろうけどさ、不完全なぼくはそれをしちゃったの。やっぱ人は、見た目も大事だよ、ホント。

 結局ぼくは時計の電池を替えないままカメラ店に向かったんだ。まだ日は高くて影はそんなに伸びてはなかったけど、カメラ屋までは結構な距離があったし、ぶらぶら時間を潰しながら歩くのも楽しそうだったからね。

 ぼくは歩きながら思ったよ。たった1人と出会っただけで、人生ってこんなに大きく動いていくのかってさ。他人から見ればシカゴに仕事で訪れるなんて、そんなにたいしたことじゃないかもしれないけど、ぼくにとってみれば天文学的数字に匹敵するくらいの奇跡なんだな、これは。

 だってこん時のぼくって、2、3日前まで砂漠ん中のアスファルトの上でブツブツ独り言いながら歩いてたんだぜ。そんでもって、もうちょっと前にはフロリダ辺りを自転車でウロウロしていて、それより前には、日本の名古屋市のクソッタレな会社で雑用係をしてたんだぜ。ソレが今や誰もが羽織ってみたくなるスーツと、思わず息を飲むほど素晴らしい光沢の革靴なんて履いちゃってさ。なんていうの、今までのぼくの人生には眼が入ってなかったって感じがするんだよね。眼が入ってないっていうのはさ、よく絵で一番難しいのは『眼』だっていうでしょ? あの眼がぼくっていう絵には入ってなかったような気がするんだ。

 突然ぼくの前に現れたダンディズムが、ぼくの眼を突然勝手にいれやがったんだ。そしたら突然人生が回りだしたって感じ。なんかね、不思議というよりは当たり前の感覚があるんだな、今のこの状況が。その感じがホント不思議なんだよ。だってこんな状況を誰が想像できたよ? ホント分かんねぇモンだよね人間てさ。

 頭がこんがらがりそうだけど、大丈夫。デタラメだけど本当。本当だけどデタラメ。不安定な空間にいることに変りはないけど、すんごく心地良い時間の流れ方。完璧にリラックスもできてるし、ルート66をひたすら独りで歩いていた時のように、〝イヤなイメージ〟がぼくの頭の中に進軍してくる気配もない。ああ、ホント上々だ、ホント、上々だ。

 五

 ぼくがカメラ屋に到着した時、ダンディズムのフェラーリはすでに店の前の街路樹の木陰の下に停めてあって、ぼくはソっとボンネットを撫でたんだ。金属のヒンヤリとした感触が指先に伝わってきて、だいぶ前にダンディズムのヤツが店に戻ってきていたことが分かったね。

 ぼくが店の中に入ると、小さな店内の奥から、暖かみ溢れる裸電球の光のような談笑が聞こえてきたんだ。店があまりにも小さいから、その暖かみの正体が、ダンディズムと老店主だということはすぐに分かったよ。

 2人は、焦げ茶色に焼けた、でも洒落た木製の椅子に座り、お互い向き合って話していたんだ。親子ぐらい歳が離れた2人だったけど、そこには遠慮なんてクソみたいなモンはなくて、まるで10年来の友人みたいな雰囲気があったよ。

 ぼくに気づいた2人はいったん話を止め、ぼくの方に目をやると、ニカッてしてから、また話を始めたんだ。しばらくぼくは2人の会話に耳を傾けていたけど、なかなかどうして会話が途切れることはなくて、ぼくが横から入るのは無理だったよ。

 ぼくはダンディズムから煙草を箱ごともらうと、それを吸いに店の外に出たんだ。陽のヤツは少しは傾いてきてたけど、カメラ屋の老店主が言う〝影が大きく伸びる時刻〟ではなかったね。

 ぼくは自分の口から吐き出される煙草の煙を見ながら〝影が長く伸びる〟ではなくて〝大きく伸びる〟ってどういう意味だろうって考えたんだ。もしかしたら同じ意味なのかもしれなかったけど、もしかしたら違うかもしれないから、一応悩んでおいたの。

 ぼくは立て続けに3本煙草を吸って、店内に入ったの。2人はまだ楽しげに話していたよ。

 ぼくに気づいたダンディズムのヤツが「陰の具合はどうだい?」って聞いてきて、ぼくが「もう少し大きく伸びると思う」と告げると、2人はまた話しの中に戻っていったんだ。

 相変わらずぼくは2人の会話に入っていくことができなくて、それに横で立ち聞きしてるのもなんだったから、店内の陳列棚に並べられた古いカメラ達を眺めて時間を潰すことにしたんだ。

 ローライフレックス、ニコンF、ライカM2にM3、スパイカメラのミノックスTLX、イコン、ズノー、キャノン、アサヒペンタックス、ミノルタ、トプコン、マミヤのスケッチ、コンタックス。

 よくもまあこんなに集めたよ、まったく。どれもぼくが生まれる前のカメラばっかしだったよ。

 どいつもこいつも、カクカクと金属的なのに円みと個性があって、手に持ってみると小ぶりなヤツでもズッシリと満足するだけの重量があってさ、なんか今の世に出回ってるデジカメ達とは、次元が違う感じだったね。無駄が剥ぎ取られてんのか、無駄だらけなのか分かんない、現代のデジタル一眼レフカメラもぼくは嫌いじゃないけど、やっぱりフィルムカメラだよ。しかも古いヤツらは特別格好いいと思ったね。

 ぼくが古いカメラ達との無言の対話を楽しんでいたら、店に若い男の子が入ってきたんだ。さっきからずっと喋くってたダンディズムのヤツが「やっときたか―」とかなんとか言って、席を立つと、店に入ってすぐの場所で立ちすくんでいる男の子にお金を渡したんだ。

 ダンディズムは陳列棚の前に立っているぼくに「さあ、食べよう!」と声を弾ませ言ってきたよ。

 ダンディズムのヤツがデリバリー用の箱を開けると、そこにはデーンとした巨大なイチゴタルトのホールらしきモンが鎮座してたんだ。

 ダンディズムのヤツ、なんでケーキなんか頼んだんだ、とぼくは思ったよ。ケーキからは湯気が立ち上がっていて、お腹が空いていたぼくはその湯気を鼻で吸い込んでやったの。チーズの焼けた香ばしい香りがぼくの鼻に入ってきて、ケーキじゃないことに気づいたんだ。どうもこれが噂の〝シカゴピザ〟というヤツらしかったんだな。

 ここに来る前に立ち寄った巨大ショッピングモールで食べたピザは、直径はやりすぎだったけど、生地の厚さは普段ぼくが日本で食べてるヤツくらいだったのに対して、コイツの生地の厚さは違法級でさ、たぶん10センチはあったと思うよ。

 表面一面を埋め尽くしていた赤いモンはよく見たらトマトで、その赤が食欲を誘うったらなかったね、まったく。味の方はっていうと、まあ、マアマアってとこだったよ。

 何も運動をしてない時だったら、一切れ半食べたら胃もたれが怖くなりそうな味付けだったけど、そこら辺を歩き回ったあとだったからだろうね、ぼくはあっと言う間に三切れも平らげたんだ。

 結局のとこ、何を食べてもそれなりに美味しく感じる状態だったんだな、こん時のぼくはさ。

 ダンディズムと老店主はスゴク小食で、2人とも一切れ食べたらもうごちそうさまだったんだ。そこでぼくが最後の一切れをやっつけたんだけど、なんでかしんないけど、完全に食べ終わってから、老店主が店の奥からビールを持ってきやがってさ、もう何も喰えないし飲めないくらい腹がいっぱいなのに「さあ飲め! さあ飲め!」ってウルサイのよ。

 ぼくもキライじゃないからさ、プシュッとフタを開けてグビグビそいつを一気にやっつけたの。そしたらオッさんとジイサンの2人がヤンヤヤンヤ喜んじゃって、「さあ次もいけ!」ってなことになっちゃったんだ。

 ぼくは調子に乗って、2本目のフタもプシュッと開けてグビグビ一気にやっつけてやったんだ。

 ああ、この世にこんな美味いモンがあるのかとぼくは思ったね、マジで。カメラ屋の老店主が3本目を奥に取りに行っている時に、ダンディズムのヤツがぼくに「どこまで行ってきたんだい?」ってうれしそうに聞いてきたんだ。

 ぼくは「エロい形のビルに囲まれた公園」みたいなことを言ったと思うんだけど、正直なんてこたえたかはあまり記憶にないんだな。アルコールの前では、そんな話は野暮以外の何ものでもなかったからね、まったく。でもね、ぼくがこたえたあとのダンディズムのヤツの反応はハッキリと覚えてんだ。

 ダンディズムのヤツ、ぼくの言葉を理解すると急に難しい表情になってさ、両手をブンブンさせて「ホントにか? ホントにか? 君はここからアソコまで歩いていったのか?」ってビックリしてたんだ。

 ぼくは日本語でシレっと言ってやったね「こちとらバックパックを担いでない丸腰のバックパッカーなもんですから、地の果てまででも歩いていけまっせ!」てね。

 きっとこん時のぼくは、誰もが目を背けたくなるくらいのドヤ顔をしていたと思うよ。ダンディズムのヤツ、ただただ溜息なんか吐いちゃってさ、「人間ていうもんは結構歩けるもんなんだな―」だってさ。

 ダンディズムの驚くさまは、ビールの最高のオツマミで、ぼくが早く3本目のフタを開けたくてウズウズしてるとこに、カメラ屋の老店主が銀ピカに光る大きなケースを手に持ってノソノソ戻ってきたんだ。

 老店主は担いできたモンを、椅子に座ってたぼくの膝の上にドカンと置きやがったの。その長方形のジュラルミンのアタッシュケースは、スンゴク重くてさ、中学とかの歴史の教科書に載ってた江戸時代の拷問の挿絵ってあるじゃん? その中に正座させられてる罪人の足に、切り出してきた大きな石をのせてあるのって見たことあるでしょ? あんな感じよ、こん時のぼくは。

 さんざん今まで重いバックパックを担いで歩いてきたぼくでさえ、このアタッシュケースの重量感にはビビッたんだ。もしかしてこの中に6×7って入ってないよね? ぼくは心を怯ませそう思ったんだ。

 ぼくの前に立っていた老店主が、ニヤニヤした顔で「早く開けてみなさい」って急かしてきたんだ。ぼくは一度軽くうなづき、アタッシュケースの左右の跳ね上げ式ロックを開けて、慎重にケースを開けたの。

 まさかまさかと思ってたけど、やっぱりだったね。中には大きなカメラのボディ1台と、交換レンズ3本、それに細かいカメラのアクセサリーが入っていたんだ。

 ぼくの横でケースの中を覗いていたダンディズムが「ワオッ!」って声をあげたよ。

 ぼくはアタッシュケースをゆっくり床に置き、先ずレンズの状態からチェックしたんだ。店内の蛍光灯にレンズの筒の先を向け、レンズに曇りやカビが無いかをチェックし、次に絞りリングとピントリングの作動具合をチェックしたんだ。

 3本とも溜息が出るくらい最高の状態だったよ。これだったら新品て言っても、誰もが信じるくらいのコンディションだったんだ。レンズのチェックが終わったら、さあお待ちかねのボディのチェックを始めたよ。

 金属の塊の暗室箱って感じの6×7に、老店主の許可をとってからさっきチェックし終わった3本のレンズのうち105ミリ、つまり標準レンズを装着してファインダーを覗いてみたんだ。塵1つ無いファインダーの画像に、ぼくはデジタルカメラなんて買わなくてよかったって心底思ったよ。

 そりゃあね、本気でフォトグラファーをやってくつもりなら、そのうち絶対いやでもデジタルを買わないといけないだろうけど、ああ、でも、フォトグラファーとして稼いだ金で買う最初の一台は、これで間違ってなかったって、ぼくは100年後でも断言できたんだ。

 ファインダーの下部にあるアナログなTTL露出計の針の動きも、精度も、たぶん上々。ま、本当に高い精度を求めるなら、単体の露出計を買えばいいんだから、これは動くだけでぼくは満足だったんだ。

 ぼくは6×7に木製グリップを取り付けて、再度ファインダーを覗いたんだ。今からコイツで離婚秒読み夫婦の、最後の集合写真を撮りにいくってことを考えただけでもゾックゾクしたね、まったく。

 ぼくはカメラを丁寧にアタッシュケースに戻したあと、老店主に軽く会釈をし、そしてこのカメラとレンズ3本を譲って欲しいと言ったんだ。

 老店主は「もちろんいいよ」とだけこたえたの。

 ぼくは「おいくらになりますか?」と尋ねたんだ。

「80ドル(2007年当時約12000円)」老店主のヤツ、ぼくをからかってるんじゃないかと思ったね。それじゃなかったら、やっぱり呆けてるのかってね。

「80?」ぼくは聞き返したよ。あまりに安すぎたからね。こんだけ状態がいいなら、軽く1000ドル以上はするくらいぼくは知っていたから。

「ああ、80ドルでいいよ」ぼくの視線の先の老店主の目は、皺の中に埋もれていたけど、真摯そのものだったよ。

「全部で?」ぼくは聞いたんだ。

「ケースもレンズもカメラも全部含めてだ」老店主は力強くこたえたんだ。

「ぼくの有り金全部置いていきます!」納得のいかないぼくは、こんなことを口走っていたよ。

 横でやりとりを聞いていたダンディズムが、ぼくの肩を抱き、耳元で「こういうことはままあることだ。無いヤツにはまったく無いけどな―」って言ったの。ようするに80ドルだけ払えばいいってことを言ってるらしかったね。

 ぼくがマゴマゴしているうちに、老店主は店の奥に行ってしまったんだ。やっぱり気が変わったのかなって思っていたら、老店主はぶっとい足の三脚を担いで現れたんだ。そこらじゅう黒い塗装が剥がれ、地の金属の色が見えていて、ヘコミもあり、けど丈夫一式てな感じのカメラ三脚を、老店主はぼくに無言で手渡したんだ。

 ぼくはダンディズムの顔を見たんだ。彼はゆっくりうなづいていたよ。ぼくはポケットから3000ドルの札束のうちの一部を取り出し、その中から20ドル札を4枚だけ抜き取り、老店主に渡したんだ。老店主は、ぼくから受け取ったお金を数えることはなかったよ。ただ手に持っただけで、それはただの社交辞令だったんだな。

「君にとってこのカメラが思い出のカメラなのか、今から思い出を作るためのカメラなのかぐらい私には分かる。ダテに80年以上も人間をやっているわけじゃないからね。

 いいかい、コイツはブローニーフィルムを使うフルマニュアルのカメラだ。全ては君の感性に委ねられている。君の直感だけがモノをいう世界だ。ヘンテコなハイテクの判断なんて混じるスキすら与えない優れものさ。さあ、持っていきなさい。君はいい。迷いがない。写真は光と陰と直感の芸術だ。それをくれぐれも忘れないように。テーマを決め、撮影地で主題をファインダーにいれたなら、あとはもう理屈じゃない。小難しいことは出来上がったプリントなりを見て後から考えなさい。いいね? 分かったね? くれぐれも今言ったことを忘れないようにしなさい。あと、最後に、君の選択はとても正しいと思うよ、私は―」老店主がいきなりこんなこと言い出したモンだから、ぼくも何か言い残していこうと思ってさ、このカメラで撮った写真、つまり一番最初にこのカメラで仕事をした写真を、店に持ってくると約束したんだ。

 老店主は「楽しみに待ってるよ」って言ってくれたよ。

 カメラにアタッシュケース、レンズに三脚と、軽く10キロ以上はあったけど、欲しかったオモチャが手に入った悦びに比べれば、重い荷物を持つ事なんてちっとも酷に感じなかったね。

 ホテルに戻り、さっそくぼくはカメラをいじくりまわしたんだ。6×7を触るのは全くの始めてじゃなかったから、操作に不自由を感じることはなかったね。

 それにしても〝バケペン〟て呼ばれるだけはあって、重いんだ、このカメラはさ。ちなみにバケペンていうのはね、〝化け物のようなペンタッタクス〟の略なんだ。

 老店主から譲り受けた55ミリ、F3.5のレンズをつけたバケペンは、ホントもう化け物カメラ以外の何ものでもなくてさ、幼児の顔くらいだったら軽々と隠れるくらいでっかいんだ。たいていの人は、シャッターを切ると同時に大砲の弾でも出るんじゃねぇかって思うだろうね、まったく。 ぼくはホテルの部屋で1人黙々とカメラをいじってて、心底幸せな気分になったんだ。ぼくは相当な量の、幸せの前借りをしてんだよなって思ったけどさ、それにしても幸せ過ぎて、ダンディズムのヤツが何か話かけてきても、適当な言葉すら返すことをしなかったんだ。

 時計が夜の11時を回った時、ようやくぼくはダンディズムの言葉に耳を貸したんだ。彼はぼくに「明日の午後一番で撮影を頼むよ」って、少し緊張した感じで言ってきたの。

 急にぼくの興奮は冷めてきて、なんだかビビリ始めてきちゃったんだ。冷静になったぼくはスゴク重要なことを忘れてたことに気づいたの。中判カメラ用のブローニーフィルムが、ぼくの手元にはまだ一本もなかったんだよね。

「カメラ、レンズ、三脚があってもフィルムがなけりゃ意味がないじゃん!」ぼくはこんなことを叫んでいたよ。

 ぼくからフィルムのことを聞いたダンディズムのヤツが、「明日の朝もう一度あのカメラ屋に立ち寄ってから現場に向かえば全てOKさ」って言ってくれたけど、内心もうビクビクでさ、「なにがフォトグラファーだ。フィルムも持ってないくせに―」って自分を責めちゃって、結局この日は朝までほとんど寝れなかったんだ。

 おまけに、ぼくの宿泊してるホテルの部屋から見える景色は最高で、夜景も綺麗なんだけど、朝日が昇ってくる時刻の景色も最高だったのね。

 朝陽が顔を出し始めてから数分間だけ、シカゴの街全てが金ピカに染まる時があるんだ。いつもそれが見えるのかどうか、ぼくはこの街に住んでるわけじゃないから知らないけど、この日は特にぼくの目に見える全てが金ピカに輝いて見えたんだ。これを6×7で撮らずしてどうするとぼくは自分を責めたよ。フィルムがあったなら、カメラの巻き取りが擦切れるまで撮ってやるのにってね。

 朝の7時過ぎにダンディズムが目を覚まし、ぼくらは共にルームサービスで優雅な朝食をとったんだ。つい先日まで〝スニッカーズもどき〟をチビリチビリ食べてたのが、なんだか嘘のようだったよ。 

 ゆったりとした朝食を済ませたあと、ぼくらは2時間くらい部屋の中でリラックスして過ごしたんだ。

 10時を少し過ぎた頃、ダンディズムの「そろそろ出ようか」っていう声で、ぼくらはホテルをチャックアウトしたの。

 ホテルを出るときのダンディズムのヤツ、なんだかスンゴクおめかししててさ、高級感丸出しのテカテカのスーツなんか着ちゃって、すこし気取って歩いてやがったんだけど、それがまたスンゴク恰好よく思えたんだ。 この時の彼と、彼のフェラーリほど相性の良いモンなんてなかなかこの世にはないだろうなぁって、思いながらぼくは助手席に座ったよ。

 カメラ屋には昼前に到着して、老店主は相変わらず店の奥で固まっていたけど、ぼくらの顔を見るとうれしそうにヨロヨロ近づいてきたんだ。

 ぼくが老店主にフィルムのことを告げると、彼は「しまった!」てな感じで、ぼくに「ついてこい!」と言ったんだ。老店主に案内された場所は、狭い店内からつながる店の奥で、そこには小さなガスコンロと、小さな冷蔵庫が置かれてたんだ。

 老店主が冷蔵庫を開けると、その中にはズラっとフィルムが保管されていて、彼は「どれでも好きなヤツを好きなだけ持っていきなさい。どうせ私にはもう縁がないもんだから―」と言ったの。

 ぼくが冷蔵庫の前でどのフィルムにするか迷っていると、彼は「あのカメラだったらモノクロを多く持っていたほうがいい。リバーサルも素晴らしいが、あのカメラで撮るモノクロの密度の濃さには勝てない―」と呟いたんだ。

「ところで君は何を撮る?」老店主がぼくの方を向いて聞いてきたんだ。ぼくは彼の耳元で「今回は家族の集合写真です。でも景色も撮りたい!」と大きな声でこたえたよ。

「だったらこれだ」老店主は冷蔵庫の中から、富士フイルムの『PRO400』3本と、『プロビア100F』3本、それに『ベルビア50』を5本取り出してぼくに渡してきたんだ。

「とりあえずこれだけは持っていきなさい。さあ、他に欲しいのがあったら持っていきなさい。どうせこのまま使用期限が切れてしまうのだから―」老店主はぼくを急かしたんだ。

「これもいいですか?」ぼくはコダックの『トライX400』と『TーMAX100』をそれぞれ5本づつ手に持って聞いたんだ。老店主は無言でコクリとうなづいたよ。

 結局ぼくはスーツの全てのポケットがパンパンになるまでフィルムを物色したんだ。

 全部で軽く100本以上のフィルムをぼくは譲り受けたんだけど、それでもまだ冷蔵庫の中にはフィルムがたんまり残っていたよ。

 ぼくとダンディズムが深く礼を言い店を出ようとすると、「フィルムの装填の仕方は分かるかね?」と、老店主は聞いてきたんだ。

「ハイ! モチロン!」ぼくは大きな声でこたえたよ。

「そうか―」ぼくの声を聞いた老店主は、なんだか寂しそうだったよ。

「曇りの日、ましてや雨の日なんてもんは絶好の撮影日和だから、嫌がらずカメラを持ち出しておくれよ」老店主はぼくの肩に手を置き言ったんだ。

「ハイ! じゃあいきます!」正直サッサと、ぼくは撮影に向かいたかったの。老店主とはまたいつでも会える気がしたからね。

 ぼくは丁寧に老店主の忠告を振り払うと、ダンディズムの待つ車に乗り込んだんだ。

 車の運転をしているダンディズムの横顔をふと見て気づいたんだけど、ダンディズムのヤツ、髭を剃ってやがったんだ。なんか朝からやたらと若く見えると思ってたらさ、あのスーパーマリオ髭がなくなってたんだよね、まったく。結構どころか、相当本気なんだなぁって、ぼくは思ったね。

 六

「今更こんなことを聞くのはなんだが、なんだって写真家だったんだい?」ダンディズムは言ったよ。

 ぼくはちょっとドキっとしたよ。まさか本物の写真家だって信じていないことは分かっていたけど、こうもどスレートで聞かれてしまうとね。

「高校の時に写真部だったんだ。後半は幽霊部員だったけど」ぼくはこたえたよ。

「なるほど」ダンディズムは深く一度うなづいたよ。

「それと、ぼくのジイチャンが、写真が好きで、小さな頃から身近にあったんだ、カメラが。昨日手に入れた6×7も、ジイチャンの愛機だった」

 ダンディズムはもう一度深くうなづき、煙草に火をつけたよ。

 ぼくは彼の機嫌を損ねてしまったのかなと思ったんだ。だってあまりにリアクションが薄かったから。

「ところでどこで撮影をするの?」ぼくは聞いたよ。

「芝生があるところさ」彼はこたえたよ。

「芝生のあるとこって?」ぼくは現場のことをもっと詳しく知りたかったんだ。

「芝生の後に真っ白なチャペルがあるとこさ」

 ぼくはコイツ頭大丈夫かって思ったよ。離婚するくせに結婚式場みたいな場所で写真なんて撮ってどうすんだよってね。なにか深い意味でもあるのかと思い、一応「2人の思い出の場所なの?」って聞いてみたんだ。

「いや、今日始めていくとこさ」

 成功者ってヤツは、全ての物事にこだわりそうで、こだわらないんだな。

「奥さんが決めたの?」

 気づいたらぼくは、彼を質問攻めにしていたね。

「いや、私が決めた」彼はニヤつきながら言ったよ。

「それは情報誌かなにかを見てですか?」すっかりぼくは記者気取りだったんだ。

「いいえ。前に離婚調停の話合いでシカゴに訪れた際に、そこの前を通ったんです」彼は丁寧な受けこたえをしてくれたよ。

「そうですか。では、そこで撮影することについて、奥さんはなんと?」

「『まったく馬鹿げてる! やっぱりあなたは馬鹿げてる!』と、2回も私を罵倒しました。はい―」ニヤニヤ顔のダンディズムは嬉しそうに言ったんだ。

「それはそれは燃えますな!」ぼくは言ったよ。

「頼みますよ! 一応向こうには日本から来た著名な写真家と言ってあるのですからね」彼はぼくの方を向いてウィンクをしたんだ。

「著名?」ぼくは声を裏返し聞き返したんだ。

「ええ、著名です。トウキョウの奇跡。光と陰の媒介者。若手ナンバーワン。ニューヨークも注目って言っておきましたよ」彼はますますニヤついてぼくに言ったんだ。

「ホントに?」ぼくは聞いたよ。

「女は〝ニューヨーク〟だとか〝奇跡〟って言葉に弱いんだ。こうでも言わなきゃ私となんて写真を撮ってくれるわけがないだろ?」彼は、してやったりてな感じで、ぼくを見ながら言ったんだ。

「嘘がバレたら?」ぼくは聞いたよ。

「アメリカにはゴマンと詐欺師がいる。日本にもいるだろ? 詐欺師?」彼は目尻をしわくちゃにしながら言ったんだ。

「でもぼくは詐欺師じゃない。本当の事を言うべきだ!」ぼくは結構真剣に反論したつもりだったけど、相手にされなかったね。

「自分で何かを始めることっていうのは、こういう事なんだぜ? 本当に」彼は微笑みながら目を細め言ったんだ。

「嘘つきになれってこと?」ぼくは聞いたよ。

「ギリッギリッのとこをいくんだ! すり抜ける感じで! こんな感じさ!」彼はフェラーリのシフトを一段落とし、車を急加速させると「Hi-yo Silver!」だとかホザキながら、片側三車線の道の一番右から一番左の追い越し車線へと急ハンドルを切り、何台もの車をゴボウ抜きにしたんだ。

 ダンディズムのヤツ、急加速のせいでシートに押さえつけられているぼくを見て、機嫌よさげに「ハッハッハッハッハッハ!」って大声上げて笑ってやがったよ、まったく。

 ダンディズムが運転する車は、どんどん郊外を目指していたんだ。てっきりぼくはシカゴの街中で撮影すると思ってたから、なんだか意外な感じがしたよ。だんだんと高層ビルの群れは遠くに離れていって、海かと見間違えるほど広大なミシガン湖沿いの道を飛ばし、ぼくらは目的の場所へと向かったんだ。

 2時間ほど車を走らせたとこで、巨大なショッピングモールが現れて、ダンディズムが「なんかいるものはあるかな?」って聞いてきたんだ。

 ぼくは「1つだけ買っておきたい物があるんだけど―」って言ったの。ダンディズムのヤツ「OK」って言ってハンドルをショッピングモールの駐車場へと切ってくれたんだ。

 ぼくは婦人服売り場や下着売り場を回って、護身用にと女性用のパンストを買ってきたんだ。しかも黒色をね。何を買ってきたんだとぼくに尋ねてきたダンディズムのヤツに、袋の中のパンストを取り出して見せたらさ、彼、無言で首を左右に振って呆れていたね。

 七

 ぼくらが撮影現場に着いたのは、午後2時半を少し回った頃だったんだ。空は綺麗に晴れわたっていたけど、車から降りると少し肌寒かったね。

 ぼくは車に戻り、皺がつかないようにダッシュボードの上にノベッと広げておいたスーツの上着を羽織ったの。

 ダンディズムのヤツが言ってたように、撮影現場には綺麗な芝生があったよ。でもね、どこを見ても白いチャペルなんてモンはなかったんだ。そのかわりに、古ぼけた赤煉瓦の塀に囲まれた、雰囲気のあるトンガリ屋根の家が、芝生の後に鎮座してたんだ。

「チャペルじゃなかったの?」ぼくは聞いたよ。

「チャペルに見えたんだよ、あの時は―」ダンディズムは眉間に皺をよせこたえたよ。

「街中の方がよっぽど良い感じの場所があったんじゃない?」こんな寂しいとこで最後の家族写真を撮ることに、ぼくは少し反対だったんだ。

「いや、ここでいい。ここがいいんだ!」彼は強い口調で言ったよ。

「もう少し背景が華やかな方が・・・・・・」ぼくは〝写真家〟として提案したよ。

「撮影場所について君は口出しをするな! 私が依頼者だ! 君は君の仕事をすればそれでいいだろ?」スッカシタ顔で言いやがったんだ、ダンディズムのヤツ。

「撮影する場所の提案も写真家の仕事の1つだと思うんですけどね。センスを証明する1つでしょ? それも?」ぼくは食い下がったんだ。

「前金は誰が出した? 残りの報酬は誰が出す? それを君は分かっていない! 親の金で大学に通うボンクラ息子のクソッタレなレポートや論文を、大学教授はなぜ読まないといけない? 答えは簡単だ! 親から学校、学校から教授へと報酬が支払われるからだ。例外はあるにせよ、そういうことだ。君はあくまでも私に雇われていることを忘れてはいけない。最後の一枚を撮り終えるまでは、君は私の意見を尊重しなければいけない。全ての義務を履行し終わって始めて、君は君の個性を発揮すればいい。ここで撮りたくないのなら、今すぐ仕事をキャンセルするか、ここでの撮影が終わったあとで、君が私を説得すればいい! とにかく、まずはここで撮るんだ。いいね」ダンディズムのヤツが、呆れるくらい真剣な顔で言ってきたもんだからさ、ぼくは無言でうなづくしかなかったよ。

 あ~あ、険悪な時間が流れたね。2人とも一言も口をきかずに芝生の上を行ったり来たりしてたんだ。

 結構な時間が経って、ダンディズムの携帯電話が鳴ったの。ダンディズムのヤツ、ぼくと話す時とはまるで別人のような早口で話していたよ。当たり前のことなんだけどさ、こいつ英語が上手いなって感心しちゃったね。

 彼が電話を切ってから、さらにしばらく経ち、いよいよホントにダンディズムの別居妻達はやってくるのか? ってぼくが疑い出した頃、車のエンジン音というよりは、野生動物の低い唸り声に近い音を立てた車が、芝生の横の道に停まったんだ。

 真っ白なメルセデスの後部座席のドアがスンゴイ勢いで開いたと思ったら、中から2人の細かいのが「ダディ!」って叫びながら飛び出してきたんだ。その後からは、髪がない、いや、後頭部の方に〝辛うじて〟残ってるって感じの鋭い目つきのスーツ姿の男性と、ジーンズに白いシャツというラフな恰好をした、サングラス姿の女性が歩いてきたんだ。彼女は着飾ってない身なりだったけど、スラリとした長身だったからかな、見とれるくらい格好良かったよ。

 スーツの男性の方は芝生に2、3歩足を踏み入れると、そこで立ち止まり、ジッとぼくの方を見ていたんだ。サングラスをかけた女性の方だけが、ぼくの目の前まで歩いてきて、ぼくは自己紹介をしようと、右手を差し出したんだ。

 彼女にはぼくの差し出した手が見えないらしく、両腰に手を当てた姿勢で、「ねぇ、どういうつもりなの、彼?」って、すんごくウザそうに聞いてきたの。

 ぼくは、なんてこたえていいか分からず、子供2人とキャッキャッキャッキャッ戯れているダンディズムの方に視線をやってから、彼女に視線を戻したんだ。

「OK―」彼女は吐き捨てるようにそう言うと、ダンディズムの方に、ホント心の底からカッタルそうな感じで歩いていったんだ。

 ぼくは、アソコまで人の事をキライっていう態度を表面に出している大人を、この時まで見たことがなかったよ。この国の人間には、最低限の礼儀だとかはないのかって思ったね。

 ダンディズムに近づいていった長身の女性はさ、腰に手をあて、片足だけ膝かっくんされたような姿勢で、彼に話しかけていたね。ダンディズムのヤツ、2人の子供と手をつないだまま、浮かない顔をしてたよ。

 ぼくが彼の事を可哀想だなって眺めていたらさ、芝生広場の端っこの方に立っていたはずの後頭部の方に〝辛うじて〟の男性が、ぼくの横にやって来て、いきなり早口な英語で何かを問い詰めてきたの。

 ぼくはどうしたらいいか分かんなくて、相手の口元を見て黙ってたらさ、ダンディズムのヤツが駆け寄って来てくれて、ゆっくり分かりやすい英語と、的確なジェスチャー、それに片言の日本語を交えて通訳をしてくれたんだ。

 ダンディズムの通訳によると、ぼくの前にえっらそうに立ってる辛うじてのヤツは「『君は日本で有名な写真家なんだろ? その若さで? 本当か? 到底ぼくにはそんな風には見えないなぁ。どんな賞を受賞してるんだい? 最低でも木村伊兵衛賞(日本で権威のある写真の賞)くらいはとってるんだろうね? ところで彼女から聞いたんだが、君が撮った報道写真がピューリッツァー賞(世界的な写真の賞)にノミネートされたことがあるらしいじゃないか? どんなタイトルの作品かな。教えてもらえるとありがたいんだが。あとでパソコンで検索して調べてみるためにも、ぜひ教えてもらえないかな? この話が事実ならね』」ってぼくに言ったらしいのね。世界には、こんなに人のことをこき下ろしてしゃべれるヤツがいるんだなってぼくは思ったよ。

 ダンディズムに通訳してもらったぼくは、なんだかスゴクむしゃくしゃしてさ、日本語で、「禿散らかしてんじゃねぇぞ!」って言ってやったんだ。そしたら辛うじてのヤツ「何?」って感じでダンディズムの方を向いて聞いたんだ。

 ご丁寧にもダンディズムのヤツ、通訳を買ってでてくれてさ、「彼は、アナタが〝知的すぎる〟とビックリしております」って通訳したの。

「フム―」だってよ、人を見下して喋るだけしか能のない辛うじてのくせに。

 いっそう本当のことを通訳してくれればよかったのに、ぼくはマジでそう思ったんだ。

「『ところでどんな機材を使うのかな』だそうだ」ダンディズムを仲介に入れての辛うじてとの会話はなかなか途切れなかったんだ。

「ブローニー判のカメラ」ぼくは適当な感じでダンディズムに告げたんだ。これをダンディズムが辛うじてに伝えると、ホオジロザメのように冷めた目つきの辛うじてが、待ってましたとばかり食いついてきたんだ。

「『ブローニー? それはもしかしてフィルムカメラかい? この時代に? またなんで? それで撮影することによって得られるメリットはなんなのかを説明してくれないか?』だそうだ」ダンディズムがぼくの耳のそばで静かに言ったんだ。

「中判カメラで撮った写真は引き伸ばしに強いから」ぼくはダンディズムに言ったよ。すかさずダンディズムは辛うじてにそのことを言ったらさ、辛うじてのヤツ右手の掌にアゴを乗せて「フム」と1回だけ言い、続けて「そんな理由では弱い。デジタルとフィルムの差はもうほとんど無いと知り合いの会計士に聞いたんだがな。そうそう、ちなみに彼は〝本当の写真家〟なんだ。頻繁にネイチャー誌に掲載されているよ、彼の作品はね」と、ぼくにも聞き取れるゆっくりした話し方で言ったの。

「『今日という日はとても貴重ではないのですかな? あなた方にとっては?』」辛うじてはダンディズムの方を向いて言って、それをダンディズムがぼくに通訳してくれたんだ。

 辛うじてのこの問いに、ぼくが「まあね」とこたえるべきか、ダンディズムが「まあね」とこたえるべきかは迷ったけど、結局ぼくが「まあね」とこたえたんだ。 

「『〝この家族〟が揃うことはもう二度とないのですから、失敗はできないですよね? でしたらフィルムカメラのような骨董品ではちょっと』」だとさ」ダンディズムがぼくの耳元で吐き捨てるように通訳してくれたよ。

 ああだこうだウルサイ男だったね、この辛うじてのハゲ野郎はさ。ぼくはダンディズムに「撮影が終わったらヅラ買ってやるから黙っとけよって言ってくれ」って日本語で言ったんだ。なんとなく意味が分かったらしいダンディズムは、手を叩いて笑ってたよ。

「そうそう、メイドインジャパンのヤツを買ってやるって付け加えといてよ!」ぼくが言うと、ダンディズムのヤツ「それは彼、もの凄く喜ぶと思う!」と言ったんだ。

「何? 何?」辛うじてのヤツは、自分の事を言われてることに気づいたらしく、眉間に皺を寄せ、ぼくら2人の間に入ってきたんだけど、ぼくらは何も言わず、ただただニヤニヤしていただけだったんだ。

 辛うじてのヤツ、よっぽど自分の悪口を言われるのが嫌だったんだろうね。しつこくぼくやダンディズムに、「何を話してた? ぼくのことだろ?」って聞いてきたんだ。もうホント必死だったよ、それは。

 ヤツがぼくの方を向いて何か言う度に、ぼくはニヤリとしてやるだけで、なにも話さずにいたの。ダンディズムも同じ態度をとっていたよ。

 眉間に皺を寄せて落ち着きなく芝生の上を歩く辛うじての横顔はさ、どことなくブルース・ウィルスに似てたんだな。髪の量が似てただけかもしんないけどね。ガリガリの体型で、なんかよく走れそうな感じだったんだな、辛うじてってヤツは。言うなれば、〝ガリガリマラソン・ウィルス〟てな感じだったね、コイツはさ。

 ぼくらの態度がよっぽど気に入らなかったんだろうね。ガリガリウィルスのヤツ。突然ぼくの前に立ちはだかるとさ「本気でフィルムだけで撮るんですか? 予備のカメラでデジタルもお持ちなんでしょ? 〝アナタほどの著名の方〟は―」って目をヒンむいて言ってきたんだ。

 ぼくの胃はチクチクしてきて、何十倍にもして言い返してやろうかって思ったんだけど、ぼくらを照らしていた太陽には、薄い雲が断続的にかかってきてて、良い感じの光が芝生広場一体を包んでいたもんだからさ、ぼくは丁寧な口調で、「そんなこと言われても、ぼくは6×7しか持ってないわけで。それで撮影するしか他に方法がないんです」と、直接彼に言ったら、スンゴク上から「好きにしたまえ―」って吐き捨てるように言ってきたんだ、この野郎。

「早くしてもらえないかしら、〝著名〟な写真家さん」サングラスがぼくらの方に向かって白けきった声で言ってきたんだ。

 ぼくはダンディズムから車のカギを借り、カメラ機材の入ったジュラルミンケースをトランクから持ち上げると、それを片手で持って小走りで芝生に戻ってきたんだ。

 ぼくがケースを開けて、カメラに105ミリの標準レンズを装着していると、ダンディズムの子供が2人とも寄ってきて、男の子の方がぼくの背中に乗っかって、ケースの中を覗き込み「ワァオ」って小さな歓声をあげていたよ。やっぱり分かるヤツには分かるんだなってぼくは思いながら撮影の準備をしたんだ。

 6×7の裏蓋を開け、いよいよフィルムを装填する時、今まで自分でも驚くくらいスムーズだったぼくの手は止まったんだ。フィルムの種類がありすぎて、どれで撮ったらいいか迷っちゃったの。この場合、プリントすることを前提にしている撮影なわけだから、ネガフィルムを使えばいいとは思うんだけど、カメラ屋の老店主からもらったポートレート用のポジも使ってみたいし。でもね、ポジフィルムは露出が本当にシビアなんだな。つまり、絞りとシャッター速度が適正でないといけないんだ。雲はあるけど明るい天気の日の、野外撮影でこのポジフィルムを使うのは本当に難しいことなんだな。

 ぼくの6×7はフルマニュアルカメラで、当然シャッターを半押ししてもピピッって自動で露出やピントを合わせてくれるわけじゃないからね。その点ネガは多少露出があってなくても結構補正がきくからさ、ここは無難にやっぱりカラーのネガで撮ろうかなって決心を固めたんだ。そしたらぼくの背中にしがみついてケースを覗いていたダンディズムの子がさ、モノクロのネガフィルムを指さして、「ヒーローみたいで格好いいね、それ!」って言ったんだ。確かに他のフィルムが入ってる箱に比べると、黄色が華やかなパッケージだったけど、とりわけ格好いいとまではぼくは思ったことはなかったよ。

「ねえ! 何してんの?」子供が聞いてきたんだ。

「撮影に使うフィルムを選んでるんだ」ぼくはこたえたよ。

「フィルムって?」ホントに何も知らない感じだったね、彼。

「写真を写すための道具」ぼくはこたえたんだ。

「違うよ! 液晶でしょ? 写真がでるのは?」彼は本気でそう言っているようだったよ。

「これは違うんだ。このフィルムに残るんだ。記憶と時間が」ぼくはフィルムを手に持ち、背中にのっかってる彼に言ったんだ。

「ふ~ん。全部違うの? 箱の色によって?」彼は色々な種類のフィルムがあることに気づいたらしく、そのことを箱の色の違いで表現してきたよ。

「うん、そうだよ」ぼくは嬉しかったね、マジで。

「だったらこれにしようよ!」彼はぼくの背中から飛び下りて、ケースの前に屈み込むと、さっき格好いいと言っていたモノクロフィルムの箱を手にして言ったんだ。

 いくらなんでもモノクロで撮るのはダンディズムのヤツが許さないだろうなと思ったぼくはさ、奥さんとバトッてる最中のダンディズムの横にいって「彼がモノクロフィルムを使えって言ってるんだけど、どうする?」って聞いたんだ。

 ダンディズムのヤツ、少しも悩むことなく「アートっぽくていいじゃないか! それ!」って言ったんだ。隣で話を聞いていた奥さんは、納得できない馬鹿馬鹿しいてな感じで、首を横に何度も振ってたよ。

 クライアントからの了解を得たぼくは、急ぎアタッシュケースの前に戻り、フィルムをカメラに装填したんだ。フィルムの装填が終わったら、3、4回空撃ちをして、やっと一枚目が撮れるとこまでいくわけ。フィルムを巻き取る右手の親指に、ギュンて重みが伝わってきたらOK。準備は整ったわけ。そうそう忘れてた。フィルムの感度の設定も自分でしないといけないんだな、この老兵は。

 ぼくはシャッター速度を決めるダイヤルをチョイと少し持ち上げ、回し、フィルム感度を100の位置に合わせたんだ。今度こそ全てOK。あとは三脚をおったてて、軽く三分割法に頼って構図を決めればよし。

「一番大事なのは光と陰と直感。頭デッカチンにならないように構図を決めよう」ぼくは三脚を立てながら小さく声にだしてそう言ったの。

 三脚にカメラを載せ固定し、何度もファインダーを覗きながら慎重に水平をだす。シャッターにレリーズを繋げる。OK。順調に事は進んでる。さっきまでは強すぎると思ってた陽射しも、心無しが良い感じの柔らかい陽射しになってきてたよ。

「カメラの前に並んで!」ぼくは大きな声で言ったよ。子供達はぼくの横まで走ってきて、「そのカメラかっこいい!」って言ってから、カメラの前に立ったんだ。ダンディズムの奥さんは「大丈夫? それで?」ってブツブツ言ったあとカメラの前に立ったの。

「もう少し後に下がってください!」4人全員がファインダーに入るように、ぼくは指示をだしたんだ。あと、芝生広場の後に建っているトンガリ屋根の古い家を、どこまで入れるかは悩むとこだったね。赤煉瓦だけが背景だと、なんだか公開処刑される人達みたいに見えたから、ぼくは思い切ってトンガリ屋根の家を入れることにしたんだ。

 ぼくはファインダーの左から三分の一の辺に、緑の葉が美しい木をいれて、その木が作り出している木陰の横の光の中に、ダンディズムを立たせたんだ。次に、ダンディズムと奥さんに肩を組んで欲しいと、ぼくは言ったんだけど、それは奥さんに強く拒否され、かなわなかったよ。

 子供2人には、「自由に思うままに」って言ったの。2人ともニカッてしてさ、上の男の子は木の下に駆け寄ったと思ったら、そこから細い枝を一本持ってきて、それを人差し指と中指ではさむと、苦み走った顔を作り、大人が煙草を吸う仕草の真似をしたんだ。

 下の女の子もお兄ちゃんの真似をして、やっぱり小枝で煙草を吸う仕草をしたんだ。それを見たダンディズムは愉快に笑っていたけど、奥さんは少し離れたとこにいるぼくにも聞こえる大きな溜息を吐いてから「あなたが子供達の前で煙草を吸ってたから―」って言ったんだ。

「マミーの吸い方の真似!」下の女の子が左肩に頭を乗っけながら、悩ましい表情を作り言ったよ。思わずぼくは吹き出したね、まったく。

 ぼくの横でムスッと黙って見ていた辛うじても「オォ~」とかなんとか言っちゃって、顔をクシャリとさせていたよ。 

 ファインダーの中の右上には、赤煉瓦の壁と古いトンガリ屋根の家。真ん中からやや下には、ダンディズム家族。うん、右下がほんの少しだけ寂しいね、このままじゃあさ。

 ぼくがファインダーの中の右端から少し中心よりを指さして「なんか置くものとかってないかな?」ってダンディズム家族に問いかけたの。途端に上の男の子が車に走っていって、後部座席から野球のグローブと、白い任天堂DSを持って戻ってきて、ぼくが指をさした辺りに適当に放り投げたんだ。すこしボリュームに欠けるその小物は、手入れが行き届いていない芝生に埋まってしまって、あまり用をなしていなかったよ。ぼくは「サッカーボールかラグビーボールはないの?」って聞いたんだ。

「野球が全てさ!」なんか分かんないけど、彼は自信満々でそうこたえたんだ。

「なんだったらぼくが立っていようか? あそこに」辛うじてが、スンゲェつまんないジョークをぼくに言ってきたよ。ぼくは全身全霊で無視しようかと思ったけどさ、ふと彼の方を見たら、満面のしたり顔だったから、ぼくは愛想笑いを作り、強く「NO!」とだけ言っておいたんだ。

 OK構図は整った。あとはシャッターを切るだけ。

「ワン! ツー! スリー!」掛声と共にぼくは1枚目を撮ったの。

 バタン! 

 と、バケペンの大きなシャッター音が辺りに響いたんだ。

 奥さん以外全員が弾けんばかりの笑顔だったよ。ダンディズムの奥さんのヤツ、ぼくの掛声なんて聞こえてないフリをしてさ、ダラッとしたまま表情はかたいままで、おまけにサングラスもとらないし。

 2枚目を撮る前にぼくは奥さんに「サングラスをとってもらえますか?」と言ったのよ。まったくもっての無視だったね。

 下の女の子がぼくに変わって、「マミー! 今は外した方がいいと思う―」ってオシャマな言い方で説得してくれたんだけど、娘の声に少し頬を緩めただけで、サングラスをとろうとはしなかったんだ。

 ぼくはダンディズムの方を見て、目で「どうする?」とコンタクトをとったの。ダンディズムのヤツ軽く目をつぶって、2、3首を縦に振ってさ、「しょうがない続けて―」てな感じでぼくに返してきたんだ。

 2枚目を撮る前に、カメラの露出を少しだけ変更して、1枚目より少しだけ明るく撮れるように設定したんだ。

「ワン! ツー! スリー!」2枚目もやっぱり奥さん以外全員はシャッターを切る前から笑っていたよ。

 1枚目、2枚目もプリントの出来上がりを予想すると、明らかに失敗だったんだ。奥さんが1人で、彼女以外3人の笑顔をぶち壊していたからね。ムスッとしてるのが、子供の方だったらさ、まだ写真としては面白いんだけど、いい歳した大人が家族写真でああもムスっとしてたら。ホントみんなヒくぜ、まったく。

 ぼくはどうにかして奥さんをクスリとさせたくて、3枚目を撮る前に、ショッピングモールで買っておいた、パンストを車から持ってきたの。

 辛うじてのヤツは、ぼくの右手に持たれているモノが黒のパンストってことに気づくと、ぼくの顔とパンストを、往復させて見ていたよ。

 ぼくは迷うことなくパンストを頭から被ったんだ。途端に子供達のキャッキャッ笑う声が聞こえてきたよ。よし上手くいきそうだ! ぼくはファインダーに目を押し当てたんだ。

 クソ! パンストの圧力のせいで目が上手く開けれなかったよ。ぼくは右目のとこだけパンストを破り、視界を確保すると、再びファインダーを覗いたの。ファインダーに見える家族は、奥さん以外笑ってたよ。特に子供達2人には大好評だったらしくて、2人とも芝生の上に跳ね上がって笑っていたんだ。

 ぼくはカメラの絞りを一段開け、シャッター速度を変更し、シャッターが早く切れるように再設定したんだ。これで子供達が多少動いていても、ぶれることなく撮れるからね。早いとこ3枚目を撮ってしまおうと、ファインダーを覗き、ピントの微調整をしてる時だったね。さっきから明らかに不機嫌だった奥さんが、本当にもう我慢できないって感じで、スタスタ歩いていっちゃったの。

 ぼくは奥さんを呼び止めようと、声を出そうとしたんだけど、パンストが邪魔で上手くしゃべれなかったんだ。ぼくは急ぎパンストの口元を破り、「戻って!」って叫んだんだ。

 パンストを被った〝著名な写真家〟が、あまりに必死なもんで、滑稽に見えたんだろうね。ぼくの横で辛うじてが手を叩いて笑っていたよ。奥さんの方はっていうとさ、マジで怒り心頭って感じで、ぼくの声に振り返ることなんてなかったんだ。

「これが本当に最後なんだ! なあ! だから!」ダンディズムが大きな声を出したんだ。奥さんはゆっくり、彼の方を振り返ったよ。1回だけカッタルソウにうなづいた奥さんは、ぼくの方をキッて睨み付けると、再びぼくのファインダーの中へと戻ってきたの。

「警察が来る前に!」ぼくがピントの微調整をしながら言ったこの言葉に、意外にも奥さんは好反応でさ、サングラス越しでも分かるくらい、頬がゆるんだんだ。

 バタン!

 ぼくのバケペンのシャッターは、ぼくの思った通りに切れて、この日の撮影は終了したんだ。

 ぼくとダンディズムは、撮影が終わるとすぐに、このあとの予定を相談したんだ。まずは、今撮った写真を現像する。どうせだったら出来上がったプリントは、直接彼女達に手渡したい。予定は決ったんだ。

「今晩空いてるかい?」ダンディズムは奥さんに聞いたんだ。

「もう付き合ったでしょ? 今度は一体なんなの?」奥さんはこたえたよ。

「今日撮った写真を渡したいんだ。家族で食事でもしながらね」ダンディズムのヤツの余裕に満ちた爽やかな口調が、冷めてる奥さんとは対照的で面白かったよ。

「送ってちょうだい―」可愛いくなかっね、この人。

「直接がいいんだがな―」まだまだ余裕って感じだったよ、ダンディズムのヤツ。

「そうやってだんだんと自分のペースに巻き込んでいくア・ナ・タが! 私は嫌だって言ってるでしょ? 分かんないの? 相手の意見を尊重する前に話を進めるアナタに私はもうウンザリなの!」今までのダラっとした感じから一転、奥さんの顔がキッと引き締まってさ、けっこうマジで思い詰めてんだなぁって思ったよ。

 ダンディズムはほんの少し間を置き、「OK! チャンスをくれないかい? 出来上がった写真が君の満足できないモノだったら、今後一切君にも、子供達にも、私は連絡をとらない。これでも足りないかい?」まさに百戦錬磨のビジネスマンてな感じの落ち着いた語り口だったよ、うん。

「なんでいつも条件を提示するの? それがイヤなのよ。なんで交渉なの? それがイヤなの、私は―」奥さんは言ったよ。泣きそうな声で。

「ぼくもご一緒してかまいませんか?」辛うじてのヤツが、横から話に割って入っていったんだ。ぼくは余計ややこしくなると思ったんだけど、それがけっこうスムーズに話しは進んで、今の今まで怒っていた奥さんは、掌を返し、「アナタが言うのなら―」だとか言っちゃってさ。結局ぼくらは写真を渡すために、全員で食事をすることになったの。そうと決ればこんなとこでノンビリやってる場合じゃなくて、ぼくとダンディズムは車に飛び乗り、街のラボへと向かったんだ。

 八

 最初に行ったラボで、ぼくが店員にブローニーフィルムを差し出すと、店員は本当に申し訳なさそうに「当店では取り扱いできません」て言ったの。

 その次に言ったラボでも、同じことを言われて、三軒目のラボでようやく現像してくれるっていう返事が返ってきたんだけど、「外注に出すため一週間ほどお時間をいただきますがよろしいですか?」って言われたんだ。

 ダンディズムの奥さん達との食事会は、この日の夜だったから、これじゃあ駄目だったんだよね。ぼくとダンディズムは車中で相談したんだ。ダンディズムのヤツが、例のぼくが6×7を譲ってもらったカメラ屋の老店主に相談してみようって言ったの。藁にもすがる思いで、ぼくらはダウンタウンのカメラ屋へと向かったんだ。

 店内に入ると、相変わらず老店主は、内装の壁と同化しそうになりながら、レジの前の椅子に座っていたんだ。

 ぼくがブローニーフィルムの現象とプリントのことを、老店主の耳元で叫ぶと、彼は少し間を置いてうなづいたあと、レジ横の電話機の前においてあったメモ用紙に、なにやら書き込んだんだ。メモを書き終えた彼は、それをぼくに渡し「追って連絡はしとくから、ここへ行きなさい。さあ、早く―」と、ゆったりした口調で言ったの。

 どうやら誰かの家の住所が書かれているらしいメモ用紙を、ぼくは車の中でダンディズムに見せたんだ。ダンディズムのヤツ、一目それを見るなり「OK」って言って、アクセルを吹かしたんだ。

 ダンディズムは1時間くらい車を走らせ、無事メモに書かれている場所に到着したよ。それにしても、道路の標識だけを見て辿り着くなんて、ホントスゴイと思ったね、ぼくは。そのことをダンディズムに告げるとさ「アメリカの道はよく出来てるんだ」と、さも辿り着いて当たり前って感じで言われたよ。 

 メモ用紙に書かれていた場所は、シカゴ郊外にある閑静な住宅街でさ、道に面したどの家にも、玄関まで続く芝生の庭があったんだ。その中の1軒の家の前に車を停めたぼくらは、玄関横のチャイムを鳴らす前に、もう一度メモを確認してから、チャイムを鳴らしたの。

「どなた?」インターホンから甲高い女性の声が聞こえてきて、「カメラ店の店主からの紹介で。おそらく連絡があったと思うんですけれど」ダンディズムが言ったんだ。

 インターホンの女性は「はいはい」ってだいぶ昔の事を思い出すように言ったの。

「どうぞ中へ―」白く塗られたカントリー調の玄関のドアが開くと同時に、インターホンで話した女性がぼくらを家の中へと招き入れたんだ。お互いに自己紹介もしないまま、女性はぼくらを「こちらへどうぞ―」と、家に入ってすぐ目に入ってきた、2階へと続く階段の横に案内したんだよね。

 そこには大人が屈んでやっとくぐれるほどの地下室へと続く入り口があって、ぼくらは女性のあとに続き、階段を下りていったの。階段を下りたトコには、三畳ほどの間があって、その中央にはドアがあったよ。

「アナタ! ピーターが電話で言ってた人達がみえたわよ!」ドアの前で女性が叫んだんだ。しばらくしてからドアの向こうから「そこで待たせとけ!」っていう声が返ってきたの。

「ですって―」女性はぼく達の方を振り返り、首をすくめながらそう言うと、階段を上がり、ぼくらの前から立ち去っていったんだ。

 優に1時間は待たされて、ようやく地下室のドアは開いたの。

 ドアの向こうの部屋から1人の初老の男性がヨロヨロ出てきたよ。髪の量はフサフサだけど、しばらく風呂に入っていないようで、生まれつきの寝癖ってな感じの乱れようだったね、彼の髪型は。黒縁の眼鏡越しにぼくらを睨み付ける目は、一重瞼で妙にギラギラ生気に満ちていて、何かに取り憑かれているようだったよ。

「君達か、ピーターの紹介でやってきたっていうのは?」ギラ蔵がぼくらに聞いてきたんだ。

「あ、はい!」ぼくは思わず日本語で応対しちゃったの。

「ブローニーの現象とプリントだろ? 枚数、それにプリントサイズは?」ギラ蔵が聞いてきたんだ。

 ぼくはダンディズムの顔をチラッと見て、応援を頼もうとしたんだけど、ダンディズムのヤツ、今にも口笛を吹きそうなくらい、しらばっくれてやがってさ、結局ぼくは自分で「L判と、半切サイズで各6枚づつお願いします」と言ったんだ。

「L?」ギラ蔵にはどうも、日本でいうL判のサイズが分からないらしくて、ぼくは手で、だいだい90×130の長方形を描き、L判サイズの説明をしたんだ。ついでに350×430の半切サイズの説明も、ジェスチャーを交え説明すると、彼はぼくの知らない単語を捲し立てたあと「各6枚づつだな? 全部で200枚以上になるがいいのか? それとも現象だけ仕上げて、ネガで確認したのち、プリントするカットを決めるか?」って確認してきたんだ。

「いや、あの、6×7で撮ったから、10枚しか撮れないから、それに、10枚中3カットしか撮影していないし、その、それに、3カット目だけでいんです、プリントするのは。だから、全部で12枚焼いてもらえれば」ぼくは慌てて説明したよ。

「君のカメラは645じゃなくて6×7? ふ~ん。まあいい。話は変わるが3カット目がベストショットなのか?」ギラ蔵はギョロリとぼくを睨みつけながら聞いてきたんだ。

「逆です。どう写ってるか分からないんです―」ぼくは小声でこたえたんだ。

「リバーサルで?」彼の質問は続いたよ。

「いえ、モノクロです」ぼくはスーツのポケットからフィルムを取り出し、彼に渡したんだ。

「ネガのモノクロか。しかも中判で。ヒュゥ~! どうにでもなるぜ! これは!」ぼくからフィルムを受け取ったギラ蔵の表情が急に緩んで、「よし! 待っとけ!」って言ったの。

「時間はどれくらいかかりそうですか?」ダンディズムのヤツが、急に横から口を出してきたんだ。

「いつまでに仕上げればいい?」ギラ蔵は言ったよ。

「できれば今日中に―」ダンディズムは極めて真摯な態度で言ったんだ。

「今何時だ?」ギラ蔵がギョロッとぼくに聞いてきたんだ。ぼくはスーツの裾をめくり、腕時計を見たの。薄くなった液晶に、時刻が浮かんでいたよ。

「7時です!」ぼくは言ったんだ。

「それは朝か、夜か、どっちだ?」ギラ蔵が不機嫌そうに聞いてきたの。

「夜ですけど」ぼくはこたえたよ。

「そうか―」

「無理ですか?」ぼくが遠慮気味に聞くと、横からダンディズムのヤツが口を出してきて、「今日中ならいいんです。とにかく0時までに仕上げてもらえればそれでいいんです。できますよね?」って真摯な態度なんだけど、相手に迫りながら言ったよ。

 ギラ蔵さん、ダンディズムのことをギョロって睨み付けたあと、視線を下に落とし、黙って1回うなづいたんだ。

「あんた達は上の居間で待ってるといい。さてと、作業にとりかかるか!」ギラ蔵は声を上げると、暗室の中へと消えて行こうとしたんだ。

 暗室の中へと消えていくギラ蔵に向かってぼくは、「できればぼくも一緒に暗室で作業をしたいのですが」てな意味合いのことを投げかけたんだけど、ギラ蔵のヤツ「悪いな、オレの暗室には誰もいれねぇって決めてんだよ!」って強い口調で言ってきたよ。

 ぼくらはギラ蔵が暗室に消えていくのを見守った後、地下から1階にあがり、ギラ蔵に言われた通り居間に行ったの。居間には誰もいなくて、ぼくは遠慮してソファーに座るに座れなかったんだ。

 ぼくは立ったまま、居間の壁という壁に、本当に隙間無く貼ってあった写真を眺めて時間を潰したの。凄まじいほど色々な写真があったよ、そこにはさ。

 戦場の瓦礫の山の前での兵士達の集合写真、サファリの動物達、深すぎる青の水中写真、老若男女を問わないポートレート、腰の後で手を組んで難しそうな話をしている紳士の真後ろでまったく同じポーズで立っている幼児のユーモア写真、花、木、空、雲、大地、田んぼ、畑、雪、雨、快晴、畦道、獣道、道無き道、遺体、恋人達、別れ、出会い、夢、風、赤、青、黄、緑、水色、バラ色、フレッシュグリーン、ブルーモーメント、サンシャインモーメント、新しい事が始る予感がするアフターグロウ、ナイトレインボー、空想家、人生、週末、平日、バカンス、恐怖、勇気、傍観者、卑怯者、クソッタレ、女、女、女、男、女、飢え、片足、片腕、上半身だけ、目を見開いたままの子供を抱えて泣きじゃくる女性、黒人、白人、アジア人、白い歯を剥き出して笑う子供の集団、鳥、猫、犬、おそらく世界各国の路地裏、洗濯物、カフェの男女、カフェでの午後、光、陰、直感、追憶、大統領、首相、天皇陛下、敗れし者、本物らしき拳銃を振り回しハシャギ回っている子供達、AK自動小銃を構えた子供、白目をヒンむいて死んでいる子供、ハゲワシに狙われている子供、飢え、飢え、飢え、暴力、また飢え、真実か嘘っぱちか、音、涙、氷、キャパ、日本、イタリア、フランス、ドイツ、ベトナム、朝鮮、タイ、砂浜の上の死体の山山山、機関銃、モノクロームで表現された血、自尊心、嘘っぱちのクソッタレ、売名行為、演出、リアル、嘘っぱち、綺麗な病室で生まれた赤ちゃん、虚ろな目をした女性に抱かれた赤ん坊、政治家、馬鹿、アホ、間抜け、性器、滑稽意外なにものでもない難しい顔、学者、間抜け顔、クタバレ! 活気に満ちた労働者、汗まみれの労働者、口先だけで汗をかいて金を稼いだことがないような評論家、泥だらけの物書き、生気に満ちた小説家、崖の上の寂しい家、海の横の掘っ立て小屋、ジャズ、ロック、クラッシック、パンク、ホームレス、絵画、バイオリン、食器、支配者、労働者、経営者、トンネルの向こう側、暴動、逆転、薔薇を抱えた男性、花に埋もれている女性、この世の果て、最後の2人、空のバスタブに入っている男女、情、岐路、決意、船、優しい顔をした海賊達、自分だけが格好いいと思いこんでいる哀れなホワイトカラー、痩せっぽっちでチビなホワイトカラー、巨漢の肉体労働者、コンピューターの前に精気の無い表情で座っている青年、仲買人、サナダムシ、孤独な音楽家、必要とされていないと決めつけられた人々、ストームブルーの海、時雨色の草木、オーロラ、ダイヤモンドダスト、キラキラ光る息、サーフグリーンの波の中へと突撃するサーファー、渓谷、観光客、ゴミ、墜落した飛行機、脱線した列車、綺麗な服を着た怪我人達、バイク、車、砂漠、草原、街中、田舎道、ルート66、放浪者、娼婦、酒場、雨の中で煙草をくわえている男、金色の小麦畑、ビートルズ、長髪姿の若者達、キノコ雲、広島の焼け野原、リヤカー、長崎の焼け野原、グランドゼロ、グランドゼロ、グランドゼロ、グランドゼロ、悲劇にも流行廃りがある、舞踏会に向かう農民、学校の中でのイジメ、崖の上にそびえたつ神秘的な教会の写真。

 ありとあらゆるジャンルの写真が、そこには貼られていたんだ。

 ぼくはこの家に来た目的を忘れるくらい、壁に貼られた写真達に魅了されていたよ。ぼくは壁の写真を一通り見終わってもまだ、見足りなくて、もう一度最初から見直そうと居間の入り口付近に戻ったんだ。その時に天井にも写真が貼ってあることに気づいてさ、もうここまでくると、狂気以外のなにものでもなかったね、まったく。

 天井に貼られていた写真は、主に宇宙に関するモノで構成されていて、光の帯としか言いようのない銀河の写真なんて、どうやって撮ったんだろうかって考えるだけで楽しかったよ。

「やっと説得し終わった」ダンディズムの声が聞こえてきたんだ。ぼくはあまりに写真に夢中になっていて、ダンディズムが部屋から出て行っていたことに、その時始めて気づいたんだ。

「何が?」ぼくは天井を見上げながら聞いたんだ。

「今日の夕食のことだよ―」本当に疲れた感じだったよ、ダンディズムのヤツ。

「で、どうなったの?」ぼくは興味なく聞いたんだ。

「当初の予定通り、今日集まることになった」ダンディズムの声に、いつもの精気が感じられなかったよ。

「やっぱり奥さんに反対された?」ぼくは天井を見上げながら聞いたんだ。

「最初は怒ってはなかったんだ。でも、私が0時に店を予約しようと思うと告げた途端、アノ女怒り狂いだした―」ダンディズムは言ったよ。

「普通の生活してりゃあ、誰でも怒ると思うよ。そんな時間のディナーは特に―」ぼくは天井からダンディズムの顔へと視線を移し言ったよ。

「別にいいじゃないか? 食事なんて何時でも。肝心なのは約束を果たすことだろ? 君も聞いていただろ? 今日の夜は全員で食事をするってことを?」ダンディズムは言ったよ。

「時間が悪いよ。子供達も眠いだろうし、それに待ってるまでにお腹が空いちゃうよ」ぼくは言ったんだ。

「だから言ってるだろ! 食べることが目的じゃないんだ! 写真を渡すことが目的なんだ。だから食事に来る前に食事は済ませてきてもいいんだ! 形だけなんだよ食事をするっていうのは。あっちだってそのことは十分わかってるはずさ。なのにワザと反論してきやがる。いつも一言多いんだ、アノ女は!」ダンディズムは声を張り上げ言ったよ。

 これ以上ぼくが反論すると、長引きそうだったから、ぼくは何も言わず、天井の写真を眺めたんだ。

「煙草を吸いにいってくる―」ダンディズムはそう言うと、外へと出て行ったよ。ぼくはまた1人静かに写真鑑賞が出来ると思ったら、なんだか嬉しくなっちゃってさ、トイレにいったあとじっくり2周目を楽しもうと思ったんだ。

 ぼくは何部屋か間違えたのち、無事トイレに辿り着き、用を済まし居間に戻ったの。居間の真ん中には、首がヨレヨレになったTシャツに、お洒落じゃない破れ方をしたジーパンをはいた寝癖お化けが、壁の方を向いてドヨ~ンって立っていて、その手には半切サイズの写真が持たれていたよ。

 寝癖お化けの、異様な空気に包まれた後ろ姿に怖じ気づいたぼくは、居間の入り口付近で固まっちゃってさ、どうしようか迷ってたとこに、ダンディズムが外から戻ってきて、ぼくの肩に手をおき「どうした?」って聞いてきたんだよね。

 ぼくは無言でダンディズムの目から居間の中へと視線を移し、ダンディズムの視線を、居間の中央でドヨ~ンと立ちつくしている、寝癖お化けへと誘導したんだ。

「やあ! 終わったのかい!」ダンディズムは、寝癖お化けを見た途端、大声で声をかけたんだ。寝癖お化けのヤツ、ぼくらとは逆方向の壁を向いたまま、微動だしなかったね。

 ダンディズムのヤツ、寝癖の横まで歩いていくとさ、彼の肩に手をおき「素晴らしい写真だね! 全部!」って、見え透いたお世辞を言ったの。それでも寝癖は微動だにせず、壁の一方向を見て固まっていたよ。

「結局13枚焼いた。一枚はそこに飾ろうと思ってね―」ギラ蔵さんは、壁の方を向いたまま言ったの。

 ぼくは彼の横まで歩いていき、彼の視線に合わせて壁を見たんだ。彼の視線の先には、綺麗な白人女性のポートレートや、犬を抱いた可愛いティーンエイジャーの写真が貼ってあって、まさかぼくの写真をあの上に貼るの? って思ったね。

 肩を怒らせ壁の前に歩いていったギラ蔵さんは、すでに壁に貼られていた写真の上に、迷うことなくぼくの撮った写真を貼ったんだ。哀れ、綺麗な白人女性は口元だけが、犬を抱いた可愛いティーンエイジャーは、犬を抱いている手だけが残っていたよ。

「題名は?」ギラ蔵さんが壁に貼られた写真を見ながら、後に立つぼくに聞いてきたんだ。

「『幸せな家族』ってとこです―」ぼくは、なんとなく思いついた題名を、なんとなく言ったんだ。

「フム―」ギラ蔵さんは、壁の方に視線をやったまま言ったんだ。「ここで待ってろ! 今すぐ残りの写真を持ってくる」

「やっと夕食だね」ぼくがダンディズムに言うと、彼はぼくの写真が貼られた壁を見てから「ああ」と言い、スーツの内ポケットから小切手帳を取り出し、それに何やらサインをすると、慣れた手つきで一枚破ったんだ。

「残りの報酬だ」ダンディズムは、小切手をぼくに手渡したんだ。小切手の券面には〝7000〟と書かれていて、流石にこれはもらいすぎだと思ったね。

 たった一枚の写真で、計1万ドル(2007年当時約115万円)だなんて、そんなの正気の沙汰じゃないよ、まったく。

 ぼくは受け取った小切手を返そうと思ったんだ。前にもらった3000ドルでも十分大きい額だったしね。

「いいかい坊や? 自分で何かを始める事っていうのはこういうことなんだぜ? 返そうだなんて思っちゃいけないよ。態度にだしてもいけないし、ましてや言葉に出すなんて絶対にいけない! それをやれば次がくる可能性がグッと減るんだぜ? 自分でやってくって決めたんだろ、君は? だったらそんな額で満足してはいけない。逆に、『あのクソッタレな女をクスリと笑わせたんだ! もう一万ドルよこせ!』って言うくらい図々しくないといけないぜ。これは全部本当のことなんだ。全部ね―」

 ぼくが小切手を返そうとしていることを悟ったんだろうね。ぼくがアクションを起こす前に、ダンディズムのヤツ、優しく、優しく、ホント優しく言ってくれたんだ。

 スーツの内ポケットに小切手を入れる時、ぼくの目からは涙が出てきて、それは止めることができなかったんだ。そりゃあね、自分の撮った写真をこんな破格な値段で買い取ってくれたこともうれしかったけどさ、そんなことより、こんなクソッタレなぼくに親身になって接してくれたことが、なにより心の底から嬉しかったんだな。人口2人の町のカフェで出会ったぼくらが、いつの間にか一緒に仕事をしている。こんな奇跡がぼくの身に起こってる。世間知らず×100乗のぼくに親身になってアドバイスをしてくれてる。ぼくの涙は止まらなくなっちゃたんだ。

「〝ぼく〟の撮った写真は涙が出るくらいいいってね! フン!」いつのまにか戻ってきていたギラ蔵さんが言ったんだ。「ほらよ、仕上がりを確認しな―」プリントに指紋がつかないように白い手袋をはめたギラ蔵さんが、ぼくに写真を手渡したの。

「アンタが撮った写真、完全に光をつかまえていたよ。完璧だ。ファインダーに入れたかったモノ全てが写ってるはずだぜ、そこには」ギラ蔵さんは、右手を腰にあて、左肩は壁に預けた姿勢で言ったんだ。

 ぼくは手渡されたプリントに目をやったの。タブーを犯す時のように緊張したね。写真の中で静かな木陰を作っている木の葉の先が、ほんの少しぶれ、午後のそよ風をつかまえていたよ。ダンディズムの笑顔は打算的ではなく、上のお兄ちゃんはカメラに向かってハシャギながら指をさしている。その指はたぶん、ストッキングを被ったぼくに向けられたもんだろう。

 下の女の子はダンディズムの左手を両手で掴んでいるのだけれど、それでもダンディズムの手の方がはるかに大きかったよ。あの子の手がこんなに小さかったなんて、ぼくは写真を見て始めて気づいたよ。

 問題の奥さんはというと、「ヤレヤレ」ってな感じの呆れ笑い。子供が連続してドジをした時によく母親がするアレ。そう、ホントに親しい間柄でしか見ることができない素晴らしい表情。

 背景の赤煉瓦の壁も、トンガリ屋根の古い家も、グローブも、任天堂も、全てが6×7サイズのプリントの中で調和しあっていてさ、自分で言うのもなんだけど、よく撮れた家族の写真だったんだ、それは。

 ぼくの横でマジマジと写真を見ていたダンディズムも、「完璧だ。モノクロにして大正解だった」とか言っちゃってたよ。確かにモノクロにしたのは正解だったかもしれないね。余計な色が混じらないぶん、家族の表情が引き立っていたからさ。

「お幾らになりますか?」ダンディズムがギラ蔵さんに代金を尋ねたんだ。

「いいよ、今回は。ピーターの紹介だしな」ギラ蔵さんは、ハニカミながら言ったんだ。

 ぼくらが「それは困る。受け取ってくれ!」とどんなに言っても、ギラ蔵さんはお金を受け取ってくれなかったよ。

 ぼくらがギラ蔵さんの家を出て行こうとすると、「おい! コレ―」って後から彼が声をかけてきたんだ。ぼくが彼の方を振り向くと、彼は名刺のようなモノをぼくに差し出してきたんだ。

 ぼくは改めて礼を言いながらソレを受け取ると、名残惜しさを感じながら、ダンディズムの車へと乗り込んだの。急発進した車の中で、ぼくは手渡されたモノを見たんだ。

 〝ラボラトリー〟と書いてある下には、住所が書かれていて、その下には〝世界中どこからでも受付可〟と書いてあったよ。ただそれだけ。他には会社名も電話番号も、ましてや電子メールアドレスさえも書いてなかったんだ、そこにはさ。

「何をもらったんだ?」ダンディズムが聞いてきたんだ。

「会社名も、オーナーの名前も入ってない名刺」ぼくはこたえたよ。

「それって名刺っていうのかい?」ダンディズムは言ったよ。

「あの人らしくない。出会ってまもないけど、なんかそう感じる―」ぼくは助手席の窓から、猛烈な速度で流れる夜景を見ながらこたえたんだ。

「フッ、ありゃ本物の変人だ―」ダンディズムは嬉しそうに言ったよ。ぼくは言葉ではなく、大きく何度も縦に首を振り、ダンディズムの言葉にこたえたんだ。

 九

 ぼくらがギラ蔵さんの家を出た時の時刻は、午後10時を回っていて、ぼくらは大急ぎで約束のレストランへと向かったんだ。店に着く途中ダンディズムの携帯には3回も催促の電話がかかってきて、「まだ0時前だろ!」っていう言葉がこん時の彼の口癖になっていたよ。

 ぼくらが店に到着したのは、午前0時5分前の、午後11時55分だったの。約束の時間前には到着できたんだけど、それにしても奥さんの機嫌は悪かったね。

「あなたたちは私達を飢え死にさせるき?」奥さんは車から降りるなりぼくらに言ったの。

「先に始めてくれてればよかったのに―」ダンディズムはサラッと受け流したね。

「お子さんは?」ぼくは聞いちゃったの。

「ハァ? どこの世にこんな時間に子供を連れ出したい親がいるの? しかも今日は平日よ―」どうやらぼくの一言で、奥さんに火がついちゃったらしいんだな。

「彼等がいなけりゃ今夜の食事会は意味がないじゃないか」ダンディズムは奥さんに言ったの。

「あなたは忘れたの? 正式に離婚が成立したらアナタに親権はないのよ。アノ子達は私と彼の方針で教育していくの」奥さん、ダンディズムを睨み付けながら言ったよ。

「しかしまだ、私と君は離婚をしていない」ダンディズムは言ったんだ。

「事実上離婚しているのと同じよ!」奥さんは、目をヒンむいて言ったよ。

「法的には違う!」ダンディズムは大きな声を出したんだ。

「自分の思い通りにならない時は、あらゆる手段を使う。大きな声を出すのもその一つ。小切手に書き込む額を、焦らし焦らし吊り上げていくのもその一つ。作り笑顔で近づいて、気づいたら手懐けている。自分で仕事を興すということは、人を使って仕事をするということは、人を上手に騙すこと。だったわよね? 褒めて、褒めて、騙すこと。だったわよね、確か? 自慢げに言っていたものね。成功者さん―」奥さんはぼくの方をジッと見て淡々と言ったよ。

「まあまあ、さあ早く中に入ろう! ぼくはもうお腹がペコペコだ!」髪の毛が辛うじてのオッさんが、横から仲裁役を買って出てくれたおかげで、ダンディズムと奥さんの言い争いは、本格的になる寸前で止められたんだ。

 ぼくらは、耳にトグロを巻いた蛇のピアスをし、髪を緑と赤と金色に染めたウェートレスに案内され、つや消しの黒地にオレンジの花柄が浮き立ったクロス張りの店内の席に着いたんだ。

 夜中だというのに、店内は満席だったよ。どこの席でもボリューム満点のシカゴピザを頼んでいて、だからアメリカ人は太るんだなってぼくは妙に納得したね。

「冬になると、ここは美味い牡蠣もだすんだ!」辛うじてのヤツは、みんなが席に着くなり言ったんだ。

「この人が予約をいれてくれなきゃ、今頃ワタシ達がここに座っているなんてあり得ないわ」ダンディズムの奥さんが言ったよ。

 てっきりぼくは、ダンディズムが店の予約をしてたと思ってたから、ダンディズムの方を向いて眉間に皺を寄せたんだ。

「自分で誘ったくせに、この人が彼に頼んだのよ。わざわざ私に電話をしてきてね。彼が病院でどんなに忙しいかアナタは分かっていないのよ!」奥さんの表情が曇ってきたの。

「ぼくは何も気にしていないさ! さあ、食事にしよう! 何を頼む? ビール? それともワイン? さあ、好きなモノを頼んで!」辛うじてのヤツが、弾けるような作り笑いでぼくに向かって言ったよ。とりあえずぼくはビールを注文し、それに続きダンディズムもビールを注文したんだ。辛うじて達は、なんか洒落たワインを注文したよ。

 みんなの前にグラスが運ばれてきて、儀礼的な乾杯をしたあと、辛うじてのヤツがぼくに、「どこに宿泊を?」って聞いてきたんだ。ぼくはまってましたとばかりに胸を張り、「リッツにちょっと―」って言ってやったの。そしたらヤブ医者の野郎、「ああ、アソコは駄目だ、料理がよくない」って抜かしやがったんだ。

 ぼくはフザケンナって思って「スイートですけど」って上から言ってやったの。ヤブ医者キングの野郎、本当にご愁傷様ってな感じでぼくの顔を鼻で笑って見ていたよ。一刻も早く誤診で告訴されちまえって、強く強く願ったね、ぼくは。

「ねぇ、写真家さん。あなたに1つ大事な忠告があるわ」奥さんが言ったの。

 ぼくは奥さんの方を向いたよ。

「早くこの人とは縁を切りなさい。じゃないと人生をメチャクチャにされてしまうわよ。今ならまだ間に合う。〝直感はいつも正しい、判断がそれを鈍らせる〟とかいうこの人の〝フザケタ格言〟はもう聞かされた? あんなのは少しもロマンチックじゃない。あんな言葉に振り回されては駄目! 人間は直感だけで生きるものじゃないの。特に人生は悩んで悩んで考え抜いて生きていくモノなの。直感だけでどうにかなる代物じゃないわ。

 アナタが使っていた古いカメラ、本当に素晴らしと思う。でも、アレだけで生活していくなんて考えてはいけないの。この人になんて言われたか知らないけれど、そういうモノは寝る前に考える類のモノであって、現実と混ぜてはいけないの。あなたにとって写真はきっと、素敵な趣味になるから―」奥さんは言ったんだ。

「はあ―」とだけぼくはこたえ、ダンディズムの方を見たんだ。ダンディズムのヤツ、苦笑いをしながら首を横に振っていたね。

「ところで昼間の写真はどうなった? ここに来たってことは出来あがったんだろ?」辛うじてが、ぼくに聞いてきたんだ。

 肝心の写真を車の中に忘れてきたことに気づいたぼくは、ダンディズムから車のカギを借り、急いで写真を撮りにいったんだ。

 ぼくが車から戻り席につくやいなや、嫌な空気がテーブルを支配していることに気付いたね。ぼくが席を空けた数分の間に、修羅場が何回やってきたのか想像するのが怖いくらいだったよ。

 4人全員が下を向いたままムッツリ黙っちゃってさ、周囲のテーブルから聞こえてくるワイワイガチャガチャっていう音は、まるで別次元のモノに聞こえたんだ。

 クラッシュ加工のジーパンに、白地の綿のジャケットを羽織った若いウェイトレスが、大皿を運んできて、ぼくたちのテーブルの上に何も言わず置いていったの。てっきりピザが来ると思ってたぼくは、呆気にとられ白い湯気をあげている大皿を覗き込んだんだ。

「牡蠣のシャンパン蒸しだ! さあ食べよう!」辛うじてが景気の良い声で言ったよ。

「ここは全部自分達でやるのよ! さあ好きなだけ自分の取り皿に―」ダンディズムの奥さんがぼくに小皿を渡してくれたんだ。

「冬だけじゃないのかい? 牡蠣は? 本当にシカゴの名物なのかい、牡蠣は?」ダンディズムは、嫌味じゃなく本当に気になる様子で辛うじてに尋ねたんだけど、辛うじても奥さんも、まったくもっての無視をキメコンデ、2人とも牡蠣にがっついていたよ。

「こういう美味しいものを食べると、明日もまた頑張ろうって気になるね!」辛うじてが、ダンディズムの奥さんを気色悪く見つめながら言ったんだ。

「本当ね! さあ、あなたも食べてみて!」奥さんがぼくを急かしたんだ。

 この旅中、マジでぼくは貝類だけは避けてたんだ。

「赤い血が出ない生き物ほど、アタルと怖いから気を付けろ!」って、フロリダの海鮮レストランで忠告されていたからね。でもせっかくだし、食べないわけにはいかないなってことで、ぼくも試しに1つ食べてみたんだ。

 口に入れた瞬間の、シャンパンの爽やかな香りにはうれしくなったけど、いざ牡蠣を噛んでみるとさ、中からフレッシュな海のミルクが飛び出てくるどころか、生臭くて塩辛いオツユが出てきて、それが優等生のシャンパン君と混ざり合っちゃってさ、思わずオエッてやりそうなくらい不味かったんだ。2人の味覚がどうかしてるのか、ぼくがどうかしてるのか。ま、美味しいモンじゃないことは確かだったね。

 一応1つは食べておかないといけなかったから、ぼくは鼻で息を吸うのをやめて、牡蠣をしつこく咀嚼せずに、強引に素早く飲み込んだんだ。奥さんは、ぼくが飲み込んだことに気づくや否や、ぼくの小皿にまた牡蠣を乗せてきたんだ。

 もう拷問はこりごりだったぼくは、膝の上に置いておいた写真をテーブルの上に取り出し、「アナタとお子さんの分です」と言って、L判と半切り合わせて計6枚を、彼女に渡したの。

 奥さんは、ぼくから受け取った半切りの方の、大きく引き伸ばされた写真を見て、もうこれ以上目が開かないってとこまで目を見開き、頭を左右に小さく振ったの。

「うん。なかなか―」辛うじてのヤツが、奥さんの肩に右腕を回しながら言ったよ。仲睦まじく頬を寄せ合いぼくが撮った写真を見ている2人は、恋人同士というよりは、いくつかの倦怠期を乗り越えてきた中堅の夫婦ってとこだったね。テーブル越しに2人の姿を見ていたぼくの表情が、自然と緩んでいったのが分かったよ。

「あとでゆっくり見ればいいじゃないか? 2人には時間があるんだから。さあ、食事の続きをしよう!」ダンディズムが言ったんだ。けど、ぼくの写真に見入っていた2人に、声は届いていなかったね。

「どうですか?」ぼくは聞いたんだ。

 奥さんは無言で素早く何度かうなづいて、それを真似るように辛うじてのヤツも奥さんと同じ仕草をしたの。奥さんより一足先に写真からキッと顔を上げた辛うじてのヤツが、奥さんの肩を抱いていた腕をほどくと、彼にとってはきっと、世界で一番大事な人を今の今まで抱いていた腕をぼくに差し出し、握手を求めてきたんだ。

 目を見開き、口をギュッと締めながら手を差し出す彼は、さっきまでぼくのことを軽視していた人物とは、まったくの別人に見えたよ。彼のぼくに対してのその真剣な態度は、クラッシュジーンズをはいたウェイトレスがウロチョロする店内では、スゴク浮いてはいたけれど、かえってそれが、ぼくにとってどんなにうれしかったことか。

 ぼくは彼と握手を交わし、気づいたんだな。たった一枚の写真で、人を振り向かせることのできる事実にさ。

 ぼくらのテーブルの上には、相変わらずクソ不味い牡蠣が鎮座してたけど、髪の毛が辛うじてのオッさんと握手を交わした後の時間は、ホントに楽しく過ぎていったんだ。

 何度か大きな笑いが、ぼくらのテーブルで起こり、気づいたら辛うじての顔からは作り笑いは消えていたよ。ぼくが5本目のビールに口をつける頃になると、辛うじてやダンディズムのヤツが、何かを言う度に、ぼくらの席では笑いが巻き起こったんだ。ダンディズムが話してる時は、あんなにムスッとしてた奥さんも、この時になると手を叩いて笑っていたね。

「なんていうか。私達は結婚するつもりなんだ」辛うじてのヤツは言ったんだ。テーブルに両肘をついた彼の手は、神様に祈る時のように組まれていたよ。

 ダンディズムは目尻をしわくちゃにして、「心から祝福するよ―」って呟いたんだ。

 他のテーブル席から聞こえてくるフォークやナイフで皿を叩く音、男女の笑い声、ハイヒールの足音、これら全てが辛うじてには心地よいBGMになっていたんだと思うんだ。彼、気分良さそうに目を細め、軽く頭をユラユラさせていたから。

「結婚式の写真のことなんだけど、君に頼みたいんだが、スケジュールは空きそうかな?」辛うじてがぼくに聞いてきたんだ。

 ぼくは突然の仕事の依頼を受け、横に座っていたダンディズムに視線を向けたんだ。彼はテーブルの上のどこか1カ所だけを微笑みながら見つめ、軽く二度、うなづいたの。

「本気にしてしまいますよ―」ぼくは辛うじての言葉は本当であって欲しかったんだけど、酒の席での会話を本気にするほど、間抜けじゃなかったんだな。

「本気にしてもらって構わないわ!」奥さんが言ったの。彼女の声に続き辛うじても大きくうなづいたんだ。

「本当に?」ぼくは彼等2人の目を交互に見て聞いたの。2人とも大きくうなづいたよ。

「それでスケジュールはどうなの?」奥さんが首を斜めに傾け、ぼくに聞いてきたんだ。ぼくはダンディズムの方をチラッと見てから、「今すぐは無理です」ってこたえたよ。

「それはそうよね。で、いつだったら空いてるわけ?」奥さんはさっきと同じ姿勢を保ったまま、聞いてきたよ。

「ハッキリとは言えないけど。とにかく今ぼくは歩いてるんです。だから、歩くのを終えてからでないと・・・・・・」ぼくは奥さんの上唇を見て言ったんだ。

「歩いてる? どこを?」辛うじてのヤツが、眉間に皺を寄せ、尋ねてきたんだ。

 ぼくは彼等に、バックパッカーとしてルート66を歩いている時に、偶然ダンディズムと出会い、突如〝写真家〟となった経緯を説明したんだ。この説明にはダンディズムも加わってくれて、極めてスムーズに彼等に伝わったよ。

 ぼくらの話を聞いた奥さんはさ、やっぱり最初から、つまりダンディズムから電話があった時から、彼が連れてくる〝著名な写真家〟が嘘っぱちってことは分かっていたわって言って笑ったんだ。

 辛うじてのヤツも、今更そんなことを言わなくてもよかったのにってな感じで、気色悪く笑ってたよ。

「今回の旅の終点はどこなんだい?」辛うじてが聞いてきたんだ。

「ルート66の完全制覇だから、シカゴです―」ぼくはこたえたよ。

「シカゴ? だったらここじゃないか!」辛うじてが言ったんだ。

「ええ、そうですけど―」

「シカゴにはどれくらい滞在できそうなんだい。ぼくたちの式は君の予定に合わせる」辛うじては奥さんの方を見て言ったんだ。

 奥さんも「あなたに合わせるわ!」ってぼくに言ったんだ。ぼくは横で微笑み黙っているダンディズムに、「いつでる?」って小さな声で聞いたの。

「明日の昼には―」ダンディズムはテーブルの上のどこか1点を見つめ、こたえたんだ。

「アナタだけここに残ればいいわ!」奥さんはぼくに言ったよ。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 しばらく場が沈黙したあと、ぼくの口から出た言葉は「シカゴに歩き着くまで待ってはもらえないでしょうか? それか今回はなかったことにするか」っていう言葉だったんだ。途端に辛うじての表情は曇ったよ。奥さんの顔からも笑顔が消えたんだ。

「ソコにこだわる理由は?」辛うじては難しい顔で、聞いてきたよ。

「・・・・・・」ぼくは質問にこたえられず、彼の上唇を見て黙ってたんだ。

「馬鹿げてるとは思わないのかね? せっかくのチャンスをフイにすることを―」辛うじて達の問い詰めが始まったんだ。

「現実逃避? それでなければ意地?」奥さんは目をヒンむき、ぼくの顔をローアングルから覗き込む感じで言ったんだ。

「君は今、すでに目的地にいるんだろ? だったらなにもまた戻って歩くことはないと思う―」辛うじてが言ったの。

「そうよ、その通りよ―」奥さんも同調していたね。

「これからも君が写真で生計を立てていこうと思うのなら、選択の余地はないはずだが。それに早く、ちゃんとした機材を揃えた方がいいと私は思うがね。やはり写真をビジネスにするのならば、機材をデジタルにすべきだよ! 初期投資を間違えると浮き上がるのに時間がかかる。その点はおわかりかな? 君は?」辛うじてのヤツが、変化に乏しいイントネーションの実務家口調で、ぼくにジリジリ迫ってきたんだ。

「彼の言う通りよ! 彼は病院経営を成功させているの。だからお願い、彼の言う通りにして。とにかくこの人の犠牲者にはなってもらいたくないの!」奥さんは目に涙を溜め、ダンディズムを見てからぼくを見て言ったんだ。

「犠牲者?」とだけダンディズムは言い、薄笑いを浮かべ黙ったよ。

「式はなるべく冬前に上げたいんだ。シカゴの冬は寒いからね。冬が来てしまったら、いちいち南の島の教会まで挙げにいかないといけないから」辛うじてが言ったよ。

「そっちの方が素敵じゃないですか―」ぼくは言ったんだ。

「私の両親は、長時間の飛行機移動に耐えれるだけの体力がもうないんだ。両親にあまり無理をさせたくない―」辛うじては、実務家から〝人間の子〟に戻り、言ったよ。

 ぼくはダンディズムが何か助言をしてくれることを祈り、彼の横顔を見たんだ。ダンディズムのヤツ、ぼくが助けを求めてることにたぶん気づいてたくせに、テーブルの上を見つめたまま、ダンマリを決め込んでいたんだな。

「どうしたらいいと思う?」ぼくは声に出して、ダンディズムに尋ねたの。

「君の思うとおりにすればいい・・・・・・」テーブルの上に視線を落としたまま彼は言ったんだ。

「だから、えっと、君の思うとおりってなに?」ぼくはとにかくテコ入れをしてほしかったんだ。ぼくの揺らぐ気持ちに。

「大事な話になると逃げるのよ、その人は。いつも絶対に。決まって最後は『君の好きなとおり』だとか『思うとおりに』だとか言って逃げるの。自分が人を巻き込んだくせに!」奥さんがぼくに向かって言ったよ。

 ぼくは黙ってダンディズムの横顔に視線を移したんだ。

「21世紀とは」、ダンディズムのヤツ、ゆっくりとした口調で話を始めたよ。奥さんはまだまだ文句を言いたりないって感じだったけど、ダンディズムの迫力ある低い声に圧倒される感じで黙ったんだ。

「21世紀とは、個性の時代であり、協調しあう時代であり、共感しあう時代でもある。全てにおいて平均的を求める産業時代はとうに終わった。少なくとも彼の母国である日本と、アメリカにおいてはね。

 平均的で優秀な事務屋は、どんな時代でも経済活動を維持してゆくためには必要ではある。けれど、全員が全員、そんな者達でも困る。いつの時代でもそうなんだが、特に21世紀はね。

 個性のある人物が固定観念を打ち破ってゆく必要がある。言うならば彼等は〝クラッシャー〟だ。そう、〝壊し屋〟だよ。事務屋は、壊し屋達が破壊していった既成概念という古ぼけた堅固な建物の瓦礫を片付け、その建物が建っていた場所に、この時代に合った建物を再構築していかなければならない。壊し屋と事務屋は決して馴れ合わないし、下手をすれば敵対する関係でもある。けれど一定の距離を保ちながら協調しあい、社会のメリットのために共感しあう。これが今、アメリカに必要な事だ。私が大好きで大好きで愛して止まないアメリカにおいて、一番必要なことなんだ。 

 私がまだ小さかった頃、今から40年も50年にも前には、オールドムービーの中の古き良きアメリカというものは、そこら中に転がっていたものだ。全ての者が弁護士になりたがり、MBAの取得を望み、医者すらが金儲けを考え出し、学士様こそが現代人であることの最低条件という風潮が舞いだした頃から、この国は変わっていったように思う。ようするに平均が個性を排斥してしまった。もう少し分かりやすく言えば、事務屋達が波風を立てる壊し屋達を駆逐しだしたんだ。

 風の吹かない湖面は鏡のように穏やかで、一見そこで暮らす魚達はとても居心地が良さそうに見える。だが実際は違う。湖面を吹き付ける風は波を立て、湖の水を攪拌し、水中には大量の酸素が供給される。つまり湖の水質は、まったく風の吹かない時に比べ向上してゆく。こっちの方が、湖で暮らす魚達にとっては居心地がいいものだ。あらゆるモノに例外はあるにせよ、これが道理だ。

 会社組織や社会組織もこれと同じようなものだ。組織には、ヘンテコなヤツの1人や2人が混じっていなければならないものなのだ。そういうヘンテコなヤツを軸として、仕事以外のコミュニケーションが生まれるからね。波風を立てる者を排斥してゆき、合理性が増せば増すほど、その組織の将来は不透明になってゆく。人と人の関係に幅がなくなり、薄くなってゆくほどにね」ダンディズムは話を終えると、まっすぐ奥さんの顔を見つめたんだ。

「でっ?」ダンディズムの奥さん、〝突然ナニを言い出したのこの人〟てな感じの冷たい口調で言葉を吐き出したよ。

「今の世の中は、誰もが順序を飛ばして金儲けに走りすぎなんだ。確かに金はいい。欲しい物はたいがい手に入るしね。しかし儲け方を間違えると、金はタダの化け物でしかない。その行為に見合った報酬というものがある。行為に見合っていない報酬により大金を得た者は、苦しみ続けるものだ。

 私は成功した。誰もが認める大金持ちになった。どうやって成功したと思う?」ダンディズムはいったん話をやめ、辛うじてと奥さんの顔を無言で見つめたんだ。辛うじても奥さんも、黙って首を横に振るだけだったね。

「受け取る対価に見合うだけの知恵を絞り、そして汗をかいたんだ。もちろん今だってそうだ。私は一度だって汗のかき方を忘れたことはない。平日の昼間から、会員制の高級スポーツクラブでかく汗とはまったく違う種類の汗だ。明日には全てのモノを失うかもしれないという不安と恐怖からくる類の汗を、今でもかくことがある。

 365日、空調の効いた部屋に、私は1時間として留まることはない。私は生まれついての〝壊し屋〟であり、私自身が雇っている大勢の優秀な事務屋達に、背中を見せ続けなければならないからね。ここでまた質問だ。人とは、仕事とは、なんだと思う?」ダンディズムは話しをとめ、辛うじてと奥さんに聞いたんだ。

「〝どんな時でも誠実であれ〟、だと思う。私は―」辛うじてのヤツが、ダンディズムの目を真っ直ぐ見みながら、静かだけど、しっかりとした口調で言ったんだ。

「アナタは、〝人〟や〝仕事〟について語れるほどの人格を持った人間ではないわ。早くそれに気づいてちょうだい!」奥さんは言ったよ。

「私は仕事について質問しただけなんだけどな」ダンディズムは余裕の笑みを浮かべ、奥さんに言ったんだ。

「人や仕事について語っていい人っていうのは、彼のような人格者をいうのよ。彼は地域社会に貢献し、人々から尊敬されているわ」奥さんは、自分の隣に座っている辛うじての横顔を見ながら言ったよ。

「20万ドル以上もするメルセデスを乗り回している〝整形屋〟が、尊敬されているだと? そんな馬鹿な!」ダンディズムは、まさに言葉を吐き捨てたんだ。

「謝って頂戴!」奥さんのヤツ、ダンディズムの顔を睨みつけながら言ったよ。

「なぜ私が謝る必要がある? 私は仕事についての質問をしただけだ。君はいつもなぜ突然怒り出す?」ダンディズムは顔に笑みを浮かべ言ったんだ。

「この人に失礼な事を言ったからよ」奥さんは、目に涙を溜めながら言ったよ。

 ダンディズムの奥さんの横で目をつむって話を聞いていた辛うじてのヤツが、しばしの沈黙を破って、「アナタと同じ〝経営者〟という立場で話をしたいんだが、いいかい?」って言ったの。

「同じ?」ダンディズムは眉間に皺を寄せ、怪訝な表情を作り言ったよ。

「ああ、そうだ。〝同じ〟経営者としてだ」辛うじては、少しもどうじることなく落ち着いた口調で言ったんだ。

「君は何人の人間を食わせている?」ダンディズムは、両肘をテーブルにつき、両手を組んで聞いたよ。

「何人?」辛うじてのヤツは少し考えてから、「法律上はまだ正式な家族ではないけれど、世界で一番大事な3人を養っている」、と隣に座るダンディズムの奥さんを見ながら言ったよ。

「7000だ。私は7000人を養っている!」ダンディズムは言ったんだ。

「フン―」辛うじては、ダンディズムの言葉を鼻で笑ったよ。その横でダンディズムの奥さんは力なくうつむいちゃったんだ。

「私は自分で起ち上げたビジネスで7000人以上の雇用を創出した。私が今まで投資をした企業も合わせれば、この倍以上の人間達の雇用を創出したきっかけも作っている。君は町の小さな整形屋で、一体何人の人間を雇用しているんだい? こう聞かないと理解できなかったかな?」ダンディズムのヤツ、なんだか興奮気味に話していたよ。

 辛うじてのヤツ、黙ったまま言い返さなかったね。

「同情するよ。君のシリコンまみれな毎日にね―」ダンディズムは、心底人を哀れむ悲しい表情を作り、辛うじてのヤツを見つめながら言ったんだ。

「こんな非常識な人間に本気になっちゃ駄目よ」奥さんは、辛うじての方を向いて言ったよ。辛うじてのヤツ、顔に余裕の微笑みを浮かべていたね。

 むしろ面白くないのはダンディズムだったんだな。ダンディズムのヤツ、奥さんの顔を見ながら、「私は一度たりとも子供達の前で大声を出し、君を罵倒をしたことはない。君は自宅だろうと、車中だろうと、ショッピングモールだろうと、ヒステリーを起こしてはそれを押さえこむことができていなかった。子供達の前で、実の父親である私を罵倒し続けた君が常識ある大人と言えるのかい? 君は自分の幼さを認め、受けいれないといけない段階にきている」って言ったんだ。

「全てはアナタが悪いのよ。私を〝そうなる〟まで怒らせたのだから―」奥さん、小さな声で反論したんだ。ぼくは、どっちもどっちてな感じで、2人の言い合いを観戦していたね。朝までやりあったとしても、勝敗がつくことのない口喧嘩の類だったんだな、これはさ。

「この店には美味い緑茶があるんだが、飲むかい?」辛うじてのヤツが、ダンディズムと奥さんの言い合いに絶妙なタイミングで割って入り、聞いたの。奥さんはうなづき、辛うじてのヤツは鼻と耳がピアスで埋まったウェイトレスを呼び止め、緑茶を注文したんだ。

「私は思うんだ。本当に、君の好きなとおり、思った通りにすればいいと。あと、これだけは言わせてくれ。今、君がやっていることには100万ドル以上の価値があると私は思う。他人からは非生産的な行為と思われているかもしれないけれど。けれどだよ! 自分の意志で重い荷物担ぎ、誰を養うでもなく、誰に応援されるでもなく、淡々とした毎日に向き合うことは勇気だと私は思う。他人はいつも外観だけでしか見てくれない。髪を切り、髭を剃り、高いスーツに革靴、丁寧な口調。本心がどんなにやましいものであっても、大半の人はこういう人間を信用するし、支持する。けれど私は違う! 私は〝向こう側〟の人間ではなく、〝こちら側〟の人間だ。だから君の今していることを心から支持する。最終的に決めるのは君ではあるけれどね」力強い口調でダンディズムがぼくに言ったよ。

「その人の得意技よ。なんとなく抽象的な事を言って人の歓心を得ようとするのよ、毎回―」奥さんは目を半分閉じ、冷め切った表情で言ったんだ。奥さんは一通りダンディズムに冷めた態度を示すと、今度はぼくの方に身体を向け、顔には笑みを浮かべ話を始めたよ。

「結婚式には必ず来てちょうだい。あなたが来ないと結婚できないんだから、私たち」彼女は首を右に傾け、笑みを浮かべ言ったんだ。清楚で綺麗な優しい表情だったよ、この時の彼女は。こんなに素晴らしい表情をもっている彼女を、アソコまで怒らせ嫌らしい顔つきと口調にさせてしまっているダンディズムは、今まできっと彼女に悪いことばかりしてきたのではないだろうか、とぼくは感じずにはいられなかったね、マジで。でもぼくは、言い返さずにはいられなかったんだ、彼女に。

「でもさっき、あなたはぼくに写真家をやめろと―」正直、調子良いこと言いやがってこの野郎! ってぼくは思ったのね。

「職業としての写真家よ。趣味として続けていくには申し分ないと思う―」ワタシは何でも知っている、てな感じの自信のある口調で彼女は言ったよ。

「やっぱり才能ないですかね?」ぼくは聞いたんだ。

「いいえ! 才能に満ち溢れていると思う。21世紀が始まって最初の天才よ。少なくとも私にとっては!」幼稚園児でも分かる嘘をつきやがったよ、この人。

「だったら職業としての写真家でもやっていけるのでは?」ぼくは聞いたんだ。

「・・・・・・ごめんなさい。分からないの私、そういうの。やはり組織で働いた方が何かといいんじゃないかと思うの。フリーランスという生き方は、10代の時の幻想なんだと思うのね、私は。ほら、心がまだ成長しきっていない時って、自由の意味とかが曖昧じゃない? 限りなく0%に近い干渉こそが自由って思い込みやすいじゃない? でも実際はある程度の規制も必要だってことが分かってくるでしょ? 私が言いたいのはそういうことなの。ああ、ようするに、人間は、やはり、人と、そう! 多数の人と同じ目的を持つべきなのよ。その目的に向かってみんなで力を合わせて生きていくべきなの。そうすれば疲労も最小限に抑えれるし、余暇を楽しむ時間もできる。それに孤独も生まれにくいでしょ?

 フリーランスだとこうはいかないと思うの。結局いつかは行き詰まる時が来ると思うの。一番の問題ね、それが。困難が身に降りかかった時、組織であればみんなで協力しあって打開できるじゃない? でもフリーランスの人間にはそれは難しいと思うのよ、正直。好き勝手に生きたツケが一気にくるんじゃないかって私は思うの。ごめんなさい、あまり具体的な事が言えなくて」彼女は聞き取りやすい英語でゆっくりぼくに言ったよ。 彼女が言ったことも、さっき辛うじてが言ったことも、ぼくは正しいと思ったんだ。そう、いうなれば一番綺麗な解答だったんだな、彼等の言葉はさ。

「もし、望んでもいないのに、ある日突然自分の目の前に道が広がった時、アナタはその道を歩こうとしないタイプの人間ですか?」ぼくは聞いたんだ。

「ええ、行かないわね。そんな得体の知れない道は―」彼女は考える素振りもなく、即答したよ。ぼくは黙ってうなづいたね。

「さあ、お茶が冷めないうちに―」辛うじてのヤツが馴れた手つきで、急須から湯飲みにお茶を注いでくれたんだ。でも、湯飲みには誰も手をつけなかったよ。

 他のテーブルから聞こえる雑音のおかげで、なんとかぼくは沈黙に耐えていたのだけれど、湯飲みに注がれた緑茶から湯気がたたなくなった時、「やっぱりぼく、バックパッカーに戻ります。まだやりかけのことがあるんです。旅の途中なんです」って辛うじて達に言ったんだ。これがこん時のぼくの本音で、本音が本音のまま言葉になって口から出てきたって感じだったね。

「君の言っていることが私には理解できない。色々な意味でね。とにかく君の選択は間違っている」辛うじてが猛禽類の様な目でぼくを睨み付け言ったよ。

「君の選択は正しい! 整形屋には好きなことを言わせておけばいい!」ダンディズムが強い口調でぼくの背中を押したんだ。

「もう我慢できない! 取り消しなさい! 彼に言った無礼な言葉を取り消しなさい!」奥さんは席から飛び上がり、ダンディズムを睨み付け怒鳴ったんだ。

「整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋整形屋! 喉が擦切れるまでだって言える!」ダンディズムは席にドスンと座ったまま、下から奥さんを睨み付け言ったよ。

「彼は内科医よ!」奥さんはテーブルを叩き叫んだんだ。勢いお皿がテーブルから落ち、床の上で当たり前の音を立てて割れたよ。

 店内の時間は一瞬ではあったけれど止まり、店の中にいた全ての人々が彼女に注目していたね。

 辛うじてのヤツが、口を震わせ怒りくるっている奥さんの肩を優しく抱き「いこう―」とだけ言うと、2人は店から出て行ったよ。

 ぼくとダンディズムはというと、彼等が出て行ったあとも、何事もなかったようにピザを注文し、ハフハフしながらそれを食べたんだ。

「ビールは?」ダンディズムが聞いてきて、すっかり酔いが醒めていたぼくは、もう飲む気にはなれなかったから断ったんだ。彼もビールを頼むことはなかったね。

 ピザを食べ終わり店を出たぼくらは、真っ直ぐホテルへと向かったんだ。そりゃそうだ、こん時にはもう午前2時を回っていたんだからね。さすがに同じ車線を走る車も対向車も少なくて、遠くに街の中心部の明るいネオンは見えたけど、アメリカ全体がひっそりしてる印象だったね、この夜は。 

「オバさんと2人で生活を始めて間もなく、」いつもより明らかにスピードを落として運転していたダンディズムが話を始めたんだ。「そう、本当にすぐのことだったんだ、私が小学校で〝人殺しのせがれ〟って言われるようになるまでは。突然拭い切れない真実が私に襲いかかり、私は毎日叩きのめされていた・・・・・・。何故だと思う? 私が刑務所に乗り込んでいって刑に服している父親を殺さなかったのは?」ダンディズムは聞いてきたよ。

「・・・・・・さあ―」ぼくはやっとのおもいで、この言葉を吐き出したんだ。

「あの女が馬鹿にした言葉。アノ言葉を彼が私に与えてくれたからだよ。幼いながらに、私の胸に響いたんだ、アノ言葉は―」ダンディズムは運転席の窓を丁度指がかけれるくらい開け、そこに指をかけて言ったよ。ヒンヤリした空気が車内に流れ込んできて、なんとなくムッとした雰囲気は車外に流されていったんだ。

 十

 次の日は2人とも昼近くまで寝てたんだ。ぼくは起きてすぐに顔を洗い、髭を剃り、髪を整えたよ。鏡に映ってるぼくは、すっかり〝普通の人〟になっていたね、たった一週間のあいだにさ。

 ぼくらは朝昼兼用の食事をさっと済ませ「さあ、いこうか」ってダンディズムが言い、ホテルをチェックアウトしたんだ。

 車に乗り込み一路アンボイへ。と思っていたらさ、ダンディズムのヤツ、ダウンタウンの方に向かって車を走らせたの。しばらく車を走らせ着いた先は、ぼくが6×7を譲ってもらったカメラ屋の前だったんだ。ダンディズムは覚えていたんだな、ぼくが最初にこのカメラで撮った写真を老店主に届ける約束をしていたことを。

「写真を―」ダンディズムはぼくに言ったよ。ぼくは黙ったままうなづき、車から降りたんだ。店のシャッターは開いていたけど、入り口のドアにはカギがかかっていて、中には入れなかったんだ。ガラス越しに中をのぞいて見ても、店内の電気は点いてるのに、誰もいない感じで、「外出してるらしい」と車で待っていたダンディズムにぼくは告げたよ。

 ダンディズムは「じゃあ、しばらくここで待つか」と言ってくれて、ぼくらは店の前で老店主の帰りを待ったんだ。

 一時間くらい待っても老店主は帰ってこなくてさ、ぼくはダンディズムに「ドアの間に写真をはさんで、もう出発しよう」と言ったんだけど、ダンディズムのヤツがどうしても〝手渡し〟で写真を渡した方がいいって言うもんだからさ、結局ぼくらはその日の夕方までカメラ屋の前で老店主の帰りを待っていたんだ。

 影が大きく伸びる時刻になっても、老店主が店に戻ることはなくてさ、ダンディズムのヤツが「もう1日滞在を延ばすか?」ってマジな顔でぼくに聞いてきたんだ。もちろんホテル代はダンディズム持ちでね。 

 正直ぼくは、たかが写真一枚渡すだけのために高いホテル代を払うなんてバカバカしいと思ったのね。だから「やっぱりドアの隙間にはさんでいこう」ってダンディズムに言ったんだ。

「いや、それはマズイ。やはり〝手渡し〟の方がいい」真剣に言ってたよ、ダンディズムのヤツ。

 ダンディズムの熱意に押されたぼくは、結局この夜もシカゴで過ごすことになったんだ。宿泊したホテルはヒルトンで、リッツと比べても見劣りしない素晴らしいホテルだったよ。

 次の日は2人とも朝の7時前に起き、身支度を調え、8時半前にはチェックアウトをし、カメラ屋に向かったんだ。カメラ屋の前に着いたのは午前10時前で、まだ店は開いてないと思っていたけど、シャッターは上がってて、意外に早くからやってんだなって感心したよ、ぼくは。

 ぼくはL判と半切の2枚の写真を持ち、急ぎ足で店の入り口までいったんだ。ガラス越しに見える店内は、なんだか昨日と同じ雰囲気で、店内の電気は点いてんだけど、誰もいない感じだったんだ。ぼくは入り口のドアノブを掴んでグイって自分の方にたぐり寄せたの。予想通りドアにはカギがかかっていて、ガラス戸を叩く音に反応して、中から人が出てくる気配もなかったよ。

 ぼくは車に戻りダンディズムに「やっぱりいないみたいだから、ドアの隙間にはさんでくるよ!」と告げたの。ダンディズムのヤツ「それはまずい、〝手渡し〟しないといけない―」って神妙な顔つきで言ったんだ。

 ぼくたちは、昨日の夕方から夜にかけて、この店の前にいたんだけど、結構次から次へと若い女性が1人で歩道を歩いていたもんだから、思うにこの辺りの治安が特別悪いってことはなかったのね。ダンディズムのヤツは何をそんなに〝手渡し〟にこだわってんのか、ぼくには分かんなかったんだな。

 ぼくから老店主が店にいないことを聞いたダンディズムは、車から降り、車道に飛び出し一台のタクシーを停めたの。こいつ何すんだろうって、ぼくが後からダンディズムの行動を見てたらさ、ダンディズムのヤツ、タクシーの運ちゃんからカメラ屋の住所を聞き出そうとしていたんだ。 

 タクシーの運ちゃんは、カメラ屋の前の通りの名前は教えてくれたけど、さすがにカメラ屋の住所までは分かんなかったみたいで、「じゃあ」てな感じで手をあげて、タクシーを発進させたよ。

 ダンディズムは、タクシーが駄目ならってことで、今度は歩行者をつかまえて住所を聞き出そうとしたんだけど、声をかけられた人達は、一度は立ち止まってダンディズムの話を聞いてはくれたんだけど、カメラ屋の住所を知ってる人はいなかったよ。

 ダンディズムのヤツが7人目だか、8人目だかの歩行者に声をかけようとした時だったね。街をパトロールしていたパトカーがゆっくりな速度で近寄ってきて、ぼくらの前に車を停めたんだ。

 助手席に乗っていた頬がシュッとした白人警官が降りてきて、ダンディズムに近づいていったの。

 警官がダンディズムに話しかけるかかけないかっていうくらいの絶妙のタイミングで、ダンディズムのヤツは警官に「大変困っているんだ!」って、通りに響く大きな声で叫んだの。

 ダンディズムを職質しようとしていた警官は、突然の先制パンチのせいで聞き役に回るしかなかったんだ。ダンディズムのヤツはすんごい早口で警官を捲し立てたよ。ぼくには聞き取れないスピードで喋ってたんだ。

 頬がシュッとした白人警官は、ダンディズムの勢いにすっかりタジタジになっちゃってさ、パトカーの方をチラチラ振り返りだしたの。相棒を助けるためにパトカーを運転していた警官がようやくここで降りてきたよ。

 運転手の方の警官は、防弾チョッキを二枚重ねしてるくらい胸板が厚い白人だったんだ。

 胸板マッチョがダンディズムの側面に回りこみ、乳首がダンディズムの右肩にふれるくらいまで近づき、自分より背の低いダンディズムを見下ろして、無言の圧力をかけだしたの。

 1人の中年紳士風の男を、若い警官2人が囲んでいる。しかし、若い警官達は一言も喋らせてもらえない。授業中に騒いでいる悪ガキ達が、先生に注意されてふて腐れている感じ。ホント滑稽に見えたんだな、この光景は。ぼくは車の中からカメラを取り出そうと思い、フェラーリの運転席側のドアを開けたの。

「ヘイ!」背後から人を威嚇する声が聞こえたよ。ぼくはゆっくり振り返ったんだ。ダンディズムの側面に立っていた胸板マッチョのヤツが、腰のホルスターから銃を抜いて、銃口をぼくに向けていたよ。

「両腕をあげたまま、ゆっくり身体をこっちに向けろ!」銃を構えた胸板マッチョが言ったよ。ぼくは言われた通り、両腕をあげたままゆっくり身体を警官の方に向けたの。胸板マッチョのヤツは銃口をぼくに向けたまま寄ってきて、ぼくの身体を撫で回して検査したあと「何をしようとしていた?」って強い口調で聞いてきたんだ。

「車のトランクに入っているカメラを取り出すために、トランクを開けようと―」ぼくはこたえたよ。

「カメラ? 何に使うためだ?」警官の質問は続いたよ。

「写真を撮ろうと・・・・・・」ぼくは言ったんだ。

「何の?」強い口調で警官が問い詰めてきたよ。

「この〝通り〟のさ! この通りの写真を撮ろうと思っただけなんだ!」ぼくは警官の目をギッと睨みつけ言ったんだ。警官はぼくの目から視線を外そうとせず睨み付けたまま、「車のトランクを開けろ!」って命令してきたんだ。

 ぼくは言われたとおりトランクを開けたよ。

 警官は、トランクの中のぼくのカメラが入ったアタッシュケースをアゴで指して、「開けろ―」って冷めた口調で命令してきたよ。

「ご自分でどうぞ―」ぼくも冷めた口調で警官に言ったんだ。

「いいからオマエが開・け・ろ!」警官が命令してきたよ。

「言われたとおりに!」背後からダンディズムの声が飛んできたんだ。しょうがなくぼくはアタッシュケースを開けたんだ。

「これはなんだ?」警官がぼくの6×7をアゴで指して言ったよ。

「ぼくのカメラさ―」言ってやったよ。

「高いのか?」警官が少し口調を弱めて聞いてきたの。

「いいや、そんなに高くない―」ぼくは高飛車な感じでエラそうに言ったんだ。

「こんなスゴイ車に乗っているんだから高いんだろ? このカメラ? いくらした?」警官の質問は、完全に職務から脱線し始めていたね。

「さあ―」ぼくは上目で警官の上アゴをチラッと見てこたえたんだ。しかしなんでかね、コイツぼくに「日本人か?」だとか「身分証明書を見せろ!」ってことを一切言ってこなかったんだよね。

「1000ドルはしたか?」近所の悪ガキの兄ちゃんが、年下の新しいオモチャを見つけた時のようだったよ、コイツ。

「さあ―」ぼくはさっきと同じ態度でこたえたよ。

「・・・・・・。まあいい。この車はいくらした?」警官は言ったよ。

「さぁ~」ぼくは心底相手を馬鹿にする感じで言ったんだ。

「いいからこたえろよ! スピードはどれくらいでるんだい?」警官は、フェラーリのボディを舐めるように見ながら聞いてきたよ。それは、玩具屋で高価なオモチャを眺める子供とかわんなかったね、マジで。

「さぁ~」完全に立場は逆転していたんだ。

「アナタは一体何者なんですか? こんなすごい車に乗れるなんて―」警官は聞いてきたんだ。よっぽどぼくは〝バックパッカー〟って言ってやろうかと思ったけど、オチャラケタ対応をするには、胸板マッチョがあまりに目をキラキラさせてるもんだからさ、ここはあっさりと無視してやったんだ。

「あ~、なんていうか。申し訳ないんだけれど、念のため車の中も調べていいですか? 規則なんです、これは。すぐに終わるので」ぼくのシラケ顔を察知した警官が聞いてきたよ。

「ねぇ! 車の中を見たいってさ!」ぼくはダンディズムに言ったの。ダンディズムはもう一人の警官を前にしたまま、「言われた通りに!」と謙虚な姿勢を崩さなかったんだ。

 胸板マッチョの車内検査は儀礼的なもんで、運的席側のドアを開けてオソルオソル首だけを車内に入れると、チラリとダッシュボードの辺りを見て終ったんだ。

「異常はないようですね―」胸板マッチョは、車内から首を出すと、マジマジとぼくを見ながら言い、運転席側のドアを閉めたの。

 胸板マッチョのヤツ、職務が済んだくせに、名残惜しそうにフェラーリの前に立っていたよ。彼がなにか言いたげなのは分かってたけど、ぼくはあえて無視し続けたんだ。

 ダンディズムの方はなにやらまだやっていて、頬のシュッとした白人警官がパトカーに戻って、車内の無線で何かを喋ってメモをとっていたんだ。無線を終えた警官は、メモが書かれた紙をダンディズムに渡していたよ。

 メモを受け取ったダンディズムは「どうもすまないね!」って極めて紳士的な態度で、だけど極めて上から言ったんだ。礼を言われた方の警官は、ホテルマン並みの礼儀正しさでダンディズムの礼にこたえていたよ。

 ダンディズムが車に戻ってきて、ぼくはカメラの入ったアタッシュケースと共に助手席へと乗りこんだの。何故か胸板マッチョは、まだフェラーリの横にチョコンと立っていたんだ。運転席に乗り込むついでにダンディズムのヤツが「何か問題でも?」って胸板マッチョに聞いたらさ、胸板のヤツ「いや、あの、この車のエンジン音が聞きたくて―」ってスンゴク遠慮気味にダンディズムに言ったんだ。

 運転席に乗り込んだダンディズムは、真っ直ぐ前を見て、スターターボタンを押してエンジンをかけたの。ぼくにとってはもうなんてことはないブォーン! ブブブブブブ! っていう重低音の効いた大袈裟なエンジン音が辺りを支配したよ。

「オォ!」車の傍らに立つ胸板マッチョのヤツが吠えてたね。ダンディズムが電動式のルーフを開けて車をオープン仕様にしたんだ。

「ハードトップだったんですか?」胸板マッチョのヤツ、めちゃ興奮してダンディズムに話しかけていたよ。

「特別仕様ってやつさ―」ダンディズムのヤツの言い方、キマッテたね、まったく。

 胸板マッチョ警官の興奮が冷める前に、ぼくらはアンボイに向けて出発したんだ。車が大通りにでて、交通の流れに乗ると、ダンディズムはぼくに、さっき警官から受け取ったメモを渡してきたの。

 メモには住所らしきモンが書かれていて、ぼくは「これは?」って聞いたんだ。ダンディズムが言うには、このメモの内容は、ぼくが6×7を買ったカメラ屋の住所ってことだったの。

 それでこれをどう使えばいいのかってことを、ぼくが質問するとさ、ダンディズムのヤツ、「写真をそこに送ればいいだけさ。しかし、必ず配達人の〝手から渡す〟サービスを利用してね。そうすれば間接的にだが、君があの店主に〝手渡した〟ことになるだろ? せっかく自分が苦労して手に入れたモノは、雑に扱っては駄目なんだ。特に自分で何かを始めた人間ほどね―」って言ったんだ。ぼくは黙ってうなづくしかなかったよ。

 アンボイに向かう車内の空気は、一週間前にダンディズムと始めて会った時とは見違えるほど違っていて、ぼくらはすっかり10年来の友人て感じでさ、途切れ途切れの下らない会話が完全になくなって沈黙がきても、お互いまったくビビってないっていうか、気まずさっていうやつがとにかくなかったんだよね。

 イリノイ州とミズーリ州の境目を流れているミシシッピ川を渡った時には、すっかり太陽は沈んでいて、ぼくらは早い段階で安モーテルに入って睡眠をとったの。次の日の朝は6時にモーテルを出発して、一路アンボイを目指したんだ。

 睡眠をたっぷりとったダンディズムの運転はいつにも増してダイナミックでさ、まあとにかく飛ばしに飛ばしまくってたね。

 日本の東名高速道路の車線の幅を大袈裟に広げた感じのアメリカのハイウェイは、飛ばしやすいといえば飛ばしやすかったんだろうけど、とにかく平坦でつまんない道が続いたの。これにはさすがにぼくもダンディズムも飽きてきてさ、思い切って途中でハイウェイを降りて、田舎道のワインディングを探したんだ。そしたらあるわあるわグニャングニャン曲がってアップダウンが激しい田舎道が。

 いわゆる日本の峠道よかはアールは激しくないもんだから、ダンディズムの操るフェラーリのタイヤがキュルキュル鳴くことはなかったけど、カーブを曲がったら突然古い大きな橋が目に飛び込んできたり、天国行きのジェットコースターのようなアップダウンは、早く移動するためだけに作られたハイウェイに比べて最高だったよ。

 ぼくらは2、3時間下道を堪能し、昼前にはまたハイウェイに戻り、アンボイ目がけて車をぶっ飛ばしたんだ。そして西日が色づき始めた頃、ダンディズムのヤツの調子は絶好調でさ、もうホント、カーアクションさながらのキチガイジグザグ運転なわけ。

 大型トレーラーなんてもんは一瞬にして置き去りにしてさ、マジであれは牛車だったね、まったく。

 ダンディズムが、ボイドレッド風の鮮やかな赤にオールペンされたムスタングGTをあっさりブチ抜き速度を上げていくと、古めかしい911カレラターボが、ダンディズムのフェラーリを、後ろから抜き去っていったんだ。

 このポルシェのオーナーは、頭がおかしくて、車をピンクにオールペンしてたんだぜ。しかもボディの側面とデカ尻には金色のピンストまでうってあって、マジで走るアメリカの恥ってな感じだったよ。

 ダンディズムは、あっさりポルシェを抜き返したんだ。そしたらさ、すぐに新たなる挑戦者がぼくらの前に現れたの。触れただけでスパッと切れてしまいそうな、鋭いシルバーボディの日産GT-Rは、極限まで無駄を剥ぎ取った美しいボディをしていたんだ。

 シルバーボディのGT-Rの野郎はさ、わざとダンディズムの車の真後にベタヅケしてきやがったのよ。ダンディズムが振り切ろうとアクセルを踏み込んでも、そりゃもう優々とついてきやがったんだ。しまいにはパッシングしながらローリングしだしてさ、挑発的な野郎だったんだな、こいつはさ。

 きっとエンジンや足回りはノーマルのままだったダンディズムの車に比べ、ベタヅケしてきやがったGT-Rの野郎は、チャッキチャキに改造してる感じでさ、なんかもう走りに貫禄があるって感じで、地を這うようにフェラーリを追い回してきたんだ。

 ダンディズムのヤツ、この挑発に乗るか乗らないか、迷うところだったんだろうけど、最終的には望むところだってな感じで、アクセルを踏み込んだの。

 ぼくは身体を運転席側によせ、助手席側のほとんど飾り付けのような小さなサイドミラーで後を確認したんだ。ダンディズムの運転する車に追随していたGT-Rのシルバーボディが、妖しく光って遠ざかっていくのが見えたんだ。

「キャッホ~イ!」ダンディズムは、バックミラーでGT-Rが完全に視界から消えたことを確認し、年甲斐もなく甲高く吠えたよ。

 ぼくもサイドミラーで後を確認してから吠えてやろうと思ってさ、身体を運転席側によせたんだ。そん時に右側の車線を走る車のドライバーと目があったの。そのドライバーは、薄気味悪く笑いながら、左手を窓から出して指を天に向けて立ててたんだ。

 最初ぼくは、「なんでコイツ中指たててきやがるんだ」って不快に思ったんだけど、そのドライバーが運転する車を抜き去ったあと、小さなサイドミラーで確認したら、ミラーの右上ギリッギリに空飛ぶ点が浮かんでいるのが見えたのね。

 ぼくは点の正体を確かめるべく、サイドミラーから視点を後の窓に移したんだ。ハイウェイを走り出してからはオープンカーのトップを閉じて走っていたから、後の窓から見える視界は狭かったんだけど、この車のリアガラスはノベ~っと上の方まであって、ぼくは後頭部をセンターコンソールに擦りつけながら、リアガラスから車上空を見上げたの。

「やっぱり!」ぼくは思わず声をあげたよ。サイドミラーに映っていた空飛ぶ点の正体はヘリコプターで、死角を飛んでこの車を付け狙ってやがったんだよね。

 そのあとはお決まりというかさ、数台のパトカーが突然どこからともなくサイレンを鳴らしてすっ飛んできて、無念我らが暴れ馬は広い広い路肩に停まるように命令されたんだよね。

 ダンディズムが路肩に車を駐車し終えると、ぼくらの車を挟むように前と後にパトカーが停まったんだ。この3台の上空には、しつこくヘリコプターがホバリングして待機していてさ、絶対に逃げれない感じなのよ。これにはさすがのダンディズムも参ったらしくて、ハンドルに顔を埋めたまま「ァ~、ォ~」って低い唸り声をあげてたんだよね。

 ダンディズムの車を挟み撃ちにした前後のパトカーからは、それぞれ2人の警官が出てきて、前に停まった方のパトカーの警官が、運転席側の窓を丁寧に叩いたんだ。相変わらずウンウン呻っていたダンディズムは、ホント苦しそうに警官の呼びかけを無視してハンドルに顔を埋めていたよ。

 ダンディズムの反応に呆れ気味に首を振った警官が、もう一度、今度はさっきより強く窓を拳で叩いたの。ダンディズムのヤツ、ハンドルに顔を埋めたままゆっくりとドアを開けたよ。ダンディズムが少しドアを開けると同時に、窓を叩いた警官がドアを一気に開けて、その後では、ドアを開けた警官を補佐する感じで、もう一人の警官が睨みをきかし立っていたんだ。

「何㎞オーバーだと思う?」ドアを開けた警官が言った途端「もう駄目だ~漏れる、漏れる、チビル!」ダンディズムがわめきだしたんだ。

「この車のシートがいくらか知ってるか! 君達の月給なんて簡単に吹き飛ぶくらいの値段だぞ! おたくらが停めなきゃ今頃オレは用を足せていたものを。あ~なんて事だ! なんて事だ! アァ~アァ~漏れる―」ダンディズムのヤツ絶好調だったね、マジで。

 助手席のぼくも演技に付き合い、急いで革靴を脱ぐと、「ここに! ここにいれてアナタ!」って叫んだんだ。ぼくがアナタってゲイっぽく叫んだからだろうね。外に立っていた2人の警官が一瞬顔を見合わせたんだな。

「なんか文句あるのか? 自由恋愛の国だろ! ここは!」ダンディズムのヤツ、マジでズボンを脱ぎながら叫んでたよ。それを見ていた警官が、「〝事情〟はわかりました。しかし、違反は違反ですので―」ってスンゴイ丁寧な口調で言ってきたよ。

 ダンディズムがボソって言った「どっちの〝事情〟だよ?」っていう台詞には笑えたね、マジで。

「靴! 靴! 靴!」ダンディズムの叫び声に合わせてぼくは彼の股ぐらに靴をあてたんだ。〝やらかす瞬間〟を見たくなかったんだろうね。車の横に突っ立っていた警官2人ともが車から視線を外したんだ。

「出すぞ! いいか? 出すぞ!」ダンディズムがぼくに向かって大声で叫んだんだ。

「アナタここよ! 少しずれてる! もう少し左へ!」ぼくも叫んでこたえたよ。

「これ以上身体を動かしたらシートにブチマケそうなんだ!」ダンディズムのヤツ迫真の演技だったよ。

「あの、よろしいですか?」さっき車のドアを開けた警官が、ぼくに話しかけてきたんだ。「先導いたしましょうか?」ってね。

 警官がどこに先導するのかよく分からなかったぼくは、「アラ、そうなの―」と悩ましい声でこたえたんだ。

「事情はよく分かりましたので」警官は丁寧な口調でそう言うと、連れの警官に「緊急扱いだ!」って叫びパトカーに乗り込んだんだ。

 ダンディズムの車の前に停められたパトカーの運転席からは、さっきぼくに話かけてきた警官の左腕がヌッと出てきて、手で「ついてこい!」とジェスチャーをしてきたよ。とりあえずズボンをはき直したダンディズムは、サイレンを鳴らしたパトカーの後に続き、合法的なスピード違反でハイウェイをブっちぎったんだ。

 しばらく走ったところに、なんかパッとしないサービスエリアがあってさ、ダンディズムはそこのトイレにアタフタと内股で駆け込み用を足すフリをしにいったんだ。命からがらトイレから帰還したって感じのダンディズムは、先導してくれた警官に満面の笑みで「助かったよ、何て言えばいいか」って白々しく言ったの。

「ご無事で何よりです」先導してくれた警官は、自分が生まれ持った使命を果たしたって感じで目を細め、こたえてたよ。自分のしたことに惚れ惚れしていたのか、結局警官は、スピード違反の切符を切らなかったんだ。別れ際にダンディズムは「君らが年金をもらえることを心から願っている!」って言い、爆音を引き連れて車を発進させたんだ。

 十一

 2日とちょっと。ま、そんなとこだったかな、シカゴからアンボイまではさ。ダンディズムのヤツが、あんまりにもブッとばすもんだから、途中から時間の感覚がなくなっちゃって、アンボイに着くまで何日の夜を通過したのかさえ定かじゃないんだよね。でも、たぶんやっぱり2日とちょっとくらいのモンだったと思うよ、アンボイまではさ。

 アンボイの街に到着したのは、午後3時をまわったとこで、相変わらず外はクソ暑いというわけじゃなくてさ、ぼくがモハベ砂漠をあけてた約一週間の間に、急激な異常気象でもおこったのかね? マジで肌寒かったんだよね、この日のアンボイは。

 ぼくら2人はカフェに入り、お互いホットコーヒーを注文して飲んだんだ。香ばしい薫りなんて皆無の、ただドロって黒い液体を、鼻で息すんのを我慢しながら胃にかっ込んだよ。そうそう、カフェのカウンター越しにいたのは、ぼくがこの町を出発した時に荷物を預かってくれたオバチャンじゃなくて、金髪のポニーテールがよく似合う若くて可愛い女の子だったんだ。ぼくはその子に「荷物を預けてあるんだけど」って話かけたの。

 すぐに彼女も「聞いてるわ。あなたでしょ日本人の写真家って?」と言ってきたよ。彼女からぼくに向けられた「フォトグラファー」っていう単語は、なんか妙に照れくさかったけど、悪くはなかったね、マジで。

 ぼくらは一時間くらいカフェの中でグダグダしたあと、外に出たんだ。ぼくはダンディズムの車から写真器材の入ったアタッシュケースと三脚を降ろし、その横でダンディズムのヤツは煙草を吸ってたよ。

 全ての荷物を降ろし終り、ぼくはダンディズムの方を向いて、深くお辞儀をし、「なにからなにまで、本当にありがとうございました」って、なんか堅苦しい日本式のお礼を言ったんだ。

 ぼくがお礼を言い終え顔を上げると、遠慮気味に煙草をくわえ直したダンディズムは、「シカゴに着いたら教えてくれよ。今度はコートニーを連れて迎えにいくから」って言ったの。

 ぼくは軽くうなづき「OK」とだけこたえ、アタッシュケースから6×7を取り出したの。ぼくはカメラの裏蓋を開け、カラーリバーサルフィルムを装填し、手持ちで素早く構図を決め、カフェの写真を撮り、カメラを持ったままカフェの中に入っていったんだ。

 カウンター越しのポニーテールの彼女にぼくは、「写真を撮るってオバチャンと約束したんです。今撮った写真を送りたいからこの店の住所を教えてくれませんか」って言ったんだ。彼女はすぐに書いてくれたよ。

 ぼくは彼女からメモを受け取りながら「必ず配達人から〝手渡し〟で受け取れるように送りますから」てな意味の言葉を言ったんだ。

 彼女、「どうして?」って言いたげな表情で微笑みながら、低く優しい声で「OK」って言ってくれたよ。

 カフェを出たぼくは、「今日まで本当にありがとうございました。じゃあ、また」ってダンディズムに言ったの。気の利いた名台詞の一つや二つでも言ってやりたかったけどさ、これ以上の言葉は思いつかなかったし、これでいいとも思ったんだ。

 ダンディズムのヤツ、両手を広げてぼくに近づいてきて、ぼくのことを、背中に担いでいるバックパックごとギュッと力強く抱きしめたんだ。マジで相撲の〝鯖折り〟をやられてる感じでさ、ぼくはその場に崩れ落ちそうになったんだけど、ダンディズムの力強い腕が、ぼくのことを支えていてくれて、なんとか持ちこたえることができたんだ。

 最後にダンディズムと握手を交わし、ぼくは再びルート66の路上へ向かって歩き出したの。

「ヘイ! ちょっと最後にいいかい? あとほんの少しだけ、年寄りの戯言を聞いてくれないかい?」バックパックを背負い、アンボイを立ち去ろうとするぼくを、ダンディズムが呼び止めたんだ。ぼくは黙ってダンディズムの方を振り返り、ゆっくりうなづいたよ。

 そして、それで、ダンディズムの最後の講義が始まったんだ。

「あ~、まぁ、こんなシケタ道端でなんだけど、君が今背中に担いでいる全財産を地面において、楽な姿勢で聞いてくれればいい」ダンディズムのヤツ、なんだか照れくさそうに言ったんだ。ぼくは彼に言われたとおり、背中に担いでいたバックパックを地面に降ろし、右手に持っていたカメラの入ったケースも、地面に置いたんだ。

 ぼくが荷物を置いて楽な姿勢になったのを確認したダンディズムは、ゆったりとした口調で話を始めたよ。

「・・・・・・、人生においてはだ、何かを始めるのに、遅いということはあまりない。そりゃ目くじらたてて探せば、もうすでに間に合わないモノはゴロゴロとしている。例えば年齢制限のある採用試験とかがそうだ。けれど世の中は、人々が思っている以上に自由で、個人に委ねられている部分が多々ある。シカゴのレストランで私が話した〝壊し屋〟と〝事務屋〟の話は覚えているかい?」ダンディズムは、初孫を見るような目を細めた優しい表情で、ぼくに聞いたんだ。ぼくはうなづいたよ。

「君は、そこから私の車のナンバーを見ることができるかい?」ダンディズムは、ぼくたちが立っているところから20メートル程離れたところに停めてある自分の車を指さして言ったんだ。

「はい、見えます。くっきりと」ぼくは視線をダンディズムの目から、彼の車のナンバーに向け、こたえたよ。

「じゃあ、コレは見えるかい?」とダンディズムは言うと、突然ズボンのポケットの中からライターを取り出し、それをぼくの足下に投げたんだ。ぼくはダンディズムの行為に呆気にとられたけど、「はい、見えます。ライターです、ソレは」と言ったんだ。

「じゃあ、今度は目をつむってごらん」ダンディズムが優しい口調で言ったんだ。いきなり口づけでもされたらマジでまいっちゃうなって思いながらも、ぼくは言われた通りにしたよ。

「なんでもいいから、今、君が一番欲しいモノを頭に浮かべてごらん」と言ったダンディズムに、ぼくは「物じゃなくてもいい?」と聞いたんだ。ダンディズムは「もちろん!」と声を弾ませ言ったよ。

 ぼくは頭の中に、〝平安な日々〟を思い浮かべたんだ。

「できたかい?」というダンディズムの声に合わせ、ぼくはうなづいたよ。

「OK、目を開けて」

 ぼくは目を開けたよ。

「まずは君の目についてだ。君の目は素晴らしい。遠くのモノも近くのモノも、瞬時に見分ける事ができる大変優れた性能を持っているからね。次に、君の想像力はもっと素晴らしい。目に見えないモノまでをも脳裏に浮かべることができるのだから。しかし、その素晴らしい目も、想像力も、アルことを知らなければ、宝の持ち腐れとなってしまう。君の足下を見てごらん。そこには何がある?」ダンディズムは目尻をクチャクチャにし、うれしそうな表情でぼくに聞いたんだ。

「・・・・・・、地面、ですかね」ぼくは少し考えてからこたえたよ。

「もっと手前だ。もっと手前を見てみて!」ダンディズムは声を弾ませ言ったんだ。

「・・・・・・、ぼくの足と、地面、ですかね」ぼくは小さな声でこたえたよ。

「そのとおり! そしてそれが、今の君が前に向かって一歩を踏み出せる唯一の場所だ。どんなに遠くを見ることができても、どんなに素晴らしいアイディアを思いつこうとも、その一歩が踏み出せる場所はかわらない。全てはソコから始まるってことさ。まずは自分の身の回りをよく観察してごらん。君が今、やるべきことがよく分かるから」ダンディズムのヤツ、ホントうれしそうに言っていたね。

「・・・・・・、ぼくが今やるべきことってなんだろう」ぼくは独り言を呟いたんだ。

「その位置のまま身体を右に向けてみて」ダンディズムが言ったんだ。ぼくは言われたとおり右に身体を向けたよ。

「今度は左、そしてそれが終わったら、最初に真後ろだった場所に、身体の正面をもってきてごらん」ダンディズムは言ったんだ。ぼくは言われたこと全てをこなしたよ。

「分かったかい?」ダンディズムがぼくの顔を覗き込んで聞いてきたんだ。

「何が?」ぼくは聞き返したんだ。ぼくは本当に意味が分からなかったの。

 ダンディズムのヤツ、ニカリって悪ガキのように笑うと、「〝一歩〟ってモノは、どの方向に踏みだそうと、自由ってことさ」って、言ったんだ。

「いいかい、最初にその方向に足を踏み出したからって、ずっと同じ方向に進み続ける必要はないんだ。むしろそれは無理な話だ。どう頑張っても前後左右にクネクネと曲がってゆくモノだからね、人生は。ようするにだ、意識の問題なんだ。難しく考えず、悩んでもくよくよせず、逆にソノ悩みや不安から何かを学んでやろうと心がけるくらいじゃないといけない。君のソノ素晴らしい目も、アイディアも、現実的な一歩一歩の積み重ねが伴い、始めて形作られてゆくんだ。本当に回りくどくて悪いが、私がシカゴのレストランで話した〝壊し屋〟と〝事務屋〟の話は覚えているね?」ダンディズムがぼくの左肩に手を置いて言ったよ。ぼくはうなづいたんだ。

「シカゴのレストランで私は、今の世の中には壊し屋と、優秀な事務屋が必要だと言っただろ。優秀な事務屋の作り方はある程度は確立されているんだ。まぁつまり、学校に通い、ソコで真面目に勉学に励み、次は企業に就職し、ソコでスキルを磨き続ければいいってわけさ。

 問題は壊し屋だ。こればかりはアノ学校では作れない。稀に良い素質を持った者も現れるが、結局は多数に染められるか潰されてしまう。壊し屋は常に孤独じゃないといけないんだ。絶対に群れてはならない。そういう宿命なのだ、壊し屋は。チームで働くことと、馴れ合いは違う。壊し屋はソノ本当の意味を知っていなければならない。誰もがおののく困難や、非難の中へでも勇んで飛び込んでゆくガッツがなければならない。自分の部下が犯した全ての失態の尻ぬぐいですら、待ってましたとばかりに解決しなければならない。

 ではどうすれば壊し屋になれるのか」ダンディズムはいったん話を止め、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出したの。ぼくはその場にサッと屈んで、さっきダンディズムがぼくの足下に投げたライターを拾い上げると、ダンディズムが口にくわえていた煙草に火を点けたんだ。ダンディズムはぼくにも煙草を勧めてきて、今度はダンディズムがぼくに火を点けてくれたよ。

「この世の中で成功している壊し屋のほとんどが、先ずは沢山の不良債権を掻き集めることから始めたんだ。他人から見たソレは、純粋無垢な負債にしか見えないようなモノだ。ちょうど今君が、ソノ重い荷物を担ぎ、ココを歩いているだろ。それこそが世間がいう負債であり、私が言う不良債権だ。今の時点では、ほとんどの者が価値を認めないか、過小評価していて、本来の価値の回収が困難な、言ってみれば精神的な債権のことを言うのさ、私が言う不良債権とはね。

 私がシカゴのレストランで、『君が今している行為は100万ドル以上の価値がある』と言ったことは覚えているね?」ダンディズムはぼくに微笑みかけながら言ったんだ。

 ぼくは「はい」とだけこたえたよ。「OK」とダンディズムは言うと、再び話を始めたんだ。

「私は今まで、いくつものビジネスを成功させてきた。起業したときには想像すらできなかった高値で売却できたビジネスは、両手の指の数だけでは足りないくらいだ。今でもいくつかのビジネスを所有し、経営を手がけている。まぁよくありがちな話だが、最初から全てが順風満帆だったわけではない。

 私自身の判断ミスで経営を悪化させたこともあったし、時代の波による不景気をモロに浴びたことも何度となくあった。その度に私は、事業を立て直すため経営者としての判断を迫られた。一番辛い判断は、従業員のクビを切ることと、従業員の給金を減らすことだ。アメリカという国は、実にサッパリとしたところがあってね、従業員に給金の減額を申し入れただけで、ソイツは他所の企業に移っていってしまうことが多々あるんだよ。昨日までは本当の家族のように接していた従業員でさえね。特に優秀なヤツほど、その傾向は強い。彼等は普段から上を目指しているのだから、ソレは当然のことではあるのだけれどね。もちろん私のもとを去っていった優秀なヤツもいた。しかし、去らなかった者の方が多い。なぜだと思う?」ダンディズムはぼくの顔を覗き込み聞いてきたんだ。

 ぼくはしばらく考え「アナタの得意なマシンガントークでつなぎ止めた」って言ったの。ダンディズムのヤツ、苦笑いしながらクビを左右に振っていたね。

「いいかい、人というのは〝生き様〟についてくるものなんだ。数字だけで結ばれた関係は実に脆い。本当に少しのことで挫折してしまうものなんだ、数字だけの関係はね。一方で生き様に憧れ尊敬し結ばれた関係は強い。ちょっとやそっとのことでは壊れない。逆境になればなるほど協力しあい、燃え上がるものなのだよ。私はソノ生き様を持っている。だから従業員は離れていかない。そしてその生き様こそが、私を成功した壊し屋たることに位置づけているモノなんだ。人を魅了する生き様には、〝大量の不良債権〟がかかせない。その不良債権を何倍もの価値に高め、自分にソッポを向いている運命に突きつけてやるほどのガッツが必要だ。人々の胸に響くのはいつだって、逆境から這い上がってくる者の強さだ。ようするに、アメリカンドリームってやつだよ。

 君が今やっていることは、生き様造りの始まりだ。だから100万ドル以上の価値があるんだと私は言っているんだ。誰もすすんでやりたがらない行為に、1人で立ち向かっている君には個性があり、ユーモアがある。世間には、『そんなこと時間があれば自分にだってできる』だとか、『ぼくの知り合いの知り合いは徒歩で世界を一周したよ』だとかの発言をするヤツが、掃いて捨てるほどいることだろう。しかし、彼等は決して自分自身が行動していないことに気づいていない。だから平気でクダラナイ事も口に出して言える。君はどうだ。実際にやっているじゃないか! 遠く日本を離れたアメリカの地で、必至に何かを掻き集めているじゃないか! 君のように旅をしている青年は、世界中に沢山いるのかもしれない。けれど私は君に響いた。ありとあらゆるタイミングが作用してね。これこそが自分で何かを始める醍醐味でもあるんだ。君は掻き集めた不良債権を何倍もの価値にし、それを運命に突きつけ、運命に支払いをさせればいいだけさ。まあ、あとは自分で続けていくうちに段々と分かってくるものさ」話を終えたダンディズムは、ルート66上に浮かんでいるガサガサに乾いた岩山を見ながら大きく煙を吐き出したよ。ホント優雅に見えたね、それはさ。

 ぼくはダンディズムに、もう少し不良債権の処理の仕方を具体的に教えてくれないかと聞いたんだ。彼の話の内容が、あまりに抽象的だったからね。

 ダンディズムは緩やかに目を閉じ、考える素振りをしたあと、ぼくの方を真っ直ぐ見据え、話を始めたよ。

「君にも話した通り、かつて私は日本人とビジネスをしていたことがある。だから知っているのだが、日本人というものはまず最初に〝方法〟を求める人種だと思う。まぁ、例外もあるのだろうけれどね。

 最初に〝型〟を身につけるのはとても有効で大事なことだとも思う。しかし、やり方より考え方を先に身につけた方が、しっくりくることもあるし、近道であることもある。特に自分で何かを始める場合には柔軟さが必要だから、身につけた型が邪魔になることもあるんだ。折れそうで折れない強さと、柔軟さがモノを言うんだ、自分で何かを始める場合はね」ぼくは納得がいかず、顔をしかめたんだ。ダンディズムのヤツは相変わらず素敵な微笑みを浮かべ、ぼくを見ていたよ。

「よし! 一つヒントというか、私が君に感じたことを話そう。これが何かのきっかけになるかもしれないからね。いいかい、君にはユーモアがある。しかも飛びきり上質なヤツだ。これこそ君が今日まで、無意識のうちに磨き続けてきたセンスだ。君自身は気づいていないかもしれないけれど、ここ数日間、君のことを客観的に見ていて私はそう感じた。これから君はソノことを意識して生きてゆくといいと思うよ。いつの時代に生きる人々にも、ユーモアは欠かせないからね。君が毎日怠ることなくユーモアのセンスを磨き続ければ、次から次に出会いが生まれ、その出会いがまた新しい出会いを生み、君固有の時計の針が動き出す。そうなったらしめたものだ! 運命が君に支払いを始めるよ、きっとね。そしてセンスの磨き方だが、これは実に単純なものだ。まずは〝色々なことを知っていること〟。まあ、知識や知恵といった類のものだ。次にそれを〝行動に移すこと〟。まあ、まずはとにかくやってみろってことだな。最後に〝成功したかしなかったか〟の結果がでるだけだ。これを繰り返すだけだよ、センスを磨き成功を手に入れるのはね。

 何百何千という成功者達が私と同じことを言うだろう。『たくさん失敗しろ、そして学べ』とね。ようするにだ、何度転んでも、何度打ちのめされても、何度踏みつけられてペシャンコになっても、立ちあがれってことさ!」ダンディズムのヤツ、目を輝かせ言ったんだ。

 ぼくは複雑な気分だったよ。かつてのぼくには、大金持ちになりたいっていう野心はあったんだけど、今はそんなことを考えることすらなかったからね。

「ぼくは大金なんていらないんです。ビジネスで成功したいだなんて思ってもいません。むしろ逆です。仕事は、なんとかぼくが食えていける程度の給金がもらえればいいんです。そのうちぼくにも大切な人ができて、ソノ人との間に子供ができて、家族を養ってゆく段階になった時、もっとお金が欲しいと思うかもしれませんが、それでもぼくは、地べたに近いところで生活したいんです。都会の豪華な高層マンションでの暮らしも、電動式の門と警備員で守られた高級住宅地内での邸宅暮らしにだって、ぼくは興味はありません。独り歩きながらぼくは確信したんです。人が生きてゆくためには最低限度のお金があれば足りるってことに」ぼくはダンディズムにハッキリした口調で言ったんだ。ダンディズムのヤツ残念そうにするかな、と思ったんだけど、全くの逆で、嬉しそうにぼくの話を聞いていたよ。

「私が言ったとおりだろ!」ダンディズムは声を弾ませたよ。

「何が?」ぼくは聞いたんだ。

「どこのどいつが、今君が言ったようなことを心の底から思うことができる? まさにソレは君の言葉だ! 世の中には、誰かの受け売りをあたかも自分の言葉のごとく振りかざす者がゴマンといるが、今君が言った言葉の源泉は、間違いなく君が今やっている行為から湧き出たものだ! 君は知らず知らずのうちに掻き集めているんだ! 壊し屋に必要な感性というものはそうやって磨かれてゆくものなんだ!」ダンディズムのヤツ、今日一番の弾んだ声と表情で言ったよ。ぼくはダンディズムの態度にイラっとせずにはいられなかったんだ。

「ぼくの話を聞いてた? ぼくは金儲けには興味がないんです!」ぼくはダンディズムの横顔を睨み付け言ったの。

「ああ、確かに聞いてたよ」ダンディズムのヤツ、シレッと言ったよ。

「だったら何故アナタは、どうやってでも金儲けの話しにもっていくんですか? 矛盾しています!」ぼくは言ったんだ。だから奥さんに逃げられるんだ、とも付け加えてやろうかとさえ思ったけど、そのカードはまだとっておいたんだ。

「もっと矛盾を楽しめ!」ダンディズムのヤツ、いけしゃあしゃあと言いやがったね。

「もうぼくいきます。ではシカゴで―」ぼくは地べたに置いていたバックパックを背負い言ったんだ。もうこれ以上、ダンディズムのアリガタイお言葉を聞きたくなかったからね。

「そういえばまだ聞いていなかった。歳はいくつなんだい?」ダンディズムは去りゆくぼくの背中に聞いたんだ。

「27です」ぼくはバックパック越しに振り返りこたえたよ。実はこの質問に答えるのは2度目だったんだ。シカゴに向かう車中で聞かれたからね。

「いい歳だ。可能性に溢れてる」 

「中途半端にね。迷える子羊としては見てもらえない」

「やっぱりそこまで送っていこうか?」ダンディズムは車のキーを宙に放り、左手でキャッチし言ったんだ。

 お互いに名残惜しいのは同じだったんだ。もっと話したいことは、たぶん、本当に、沢山あったんだ。

「いいよ、1人で行くから」ぼくは言ったよ。

「君とはこの先も、良い友人でいられそうだ」

「ええ」

「水分はちゃんと補給しろよ」

「分かってる」

「食事も規則正しくとるように」

「はいはい」

 ぼくはルート66を、東に歩き出したんだ。3000キロ先のシカゴを目指してね。

 後ろからは、ダンディズムの声がしきりに聞こえてきたけど、一度だって振り返らなかったんだ。そのうち聞こえなくなるだろうって思っていたけど、随分と長い間、彼は叫んでいたよ。

「進める時は進め! 迷った時は人に聞け! 駄目だと思ったら迷うことなくさっさと退け! そしてまた、別の信じた道を行け!」ってね。

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