【映画】「笑いのカイブツ」感想・レビュー・解説

ツチヤタカユキを観ていて感じたのは、バッハとかレオナルド・ダ・ヴィンチとかミケランジェロとかソクラテスなんかもみんな、ツチヤタカユキみたいな奴だったんじゃないのかなぁ、ということだ。今も名前が残っている人たちは、何か有利な条件、例えば「家が裕福だった」「たまたま身近に理解者になってくれる権力者がいた」みたいなことがあっただけで、本質的にはツチヤタカユキと変わらないんじゃないかという気がする。

そしてそうだとすれば、ツチヤタカユキの人生はまた、「結果として名前が残らなかった天才」の物語も想起させるだろう。

少し前に、『犬王』というアニメ映画を観た。後に観阿弥・世阿弥と呼ばれるようになる能楽師と同時代に生きた人物で、室町時代にはむしろ犬王の方が能楽師として人気を博していたそうだ。しかし今では、その当時犬王がやっていた能楽は一切残っておらず、「犬王」という名前だけが残っているそうだ。

以前読んだ、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の中には、こんな文章がある。

【我々は今日なお、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスを読みますし、彼らをギリシャ三大悲劇詩人と見なしています。しかしアリストテレスは、悲劇について論じた「詩学」のなかで、当時の代表的な悲劇詩人たちの名前を列挙しながら、我らが三大悲劇詩人の誰についてもまったく触れていません。我々がうしなったものは、今日まで残ったものに比べて、より優れた、ギリシャ演劇を代表するものとしてよりふさわしいものだったのでしょうか。この先誰がこの疑念を晴らしてくれるのでしょう。】

我々が知っている「ギリシャ三大悲劇詩人」は、「何らかの理由でたまたま名前が残った人物」に過ぎず、「本当に評価されるべき悲劇詩人は他にいたかもしれない」のである。映画『笑いのカイブツ』を観ながら、まさにツチヤタカユキこそ、「名前が残らなかった悲劇詩人」なのかもしれないと考えたりもした。

いや、もちろんツチヤタカユキはまだ生きているし、未来に名前が残るのかどうか同時代の僕らには分からない。ただ、ツチヤタカユキほど社会性が無いと、「正当に認められる」という段階に辿り着くのはかなり大変だし、才能のあるなしに関係なく、その名が忘れ去られる可能性もあるだろうと思う。

ある場面でツチヤタカユキが、魂から振り絞るようにして、こんなことを言う。

『やるだけやって燃え尽きたら、それまでじゃ。その先に何があんねん。
誰かが作った常識に、何で潰されなあかんねん。』

この言葉はかなり僕の心を撃ったが、同じ場面で繰り出されたもう次のセリフの方がグッときた。

『正しい世界で生きたいねん!
そして、そこで勝ちたいねん!』

これは分かるなぁ、と思う。

少し前に、ツイッターのまとめでこんな話を見かけた。ツイートしているのはたぶん料理人とか飲食店経営に何か関わる人で、自分の身近にいる「自分の店を出したい」と言っている若者についての言及で、ざっくり次のような文章だった。

<「自分の店を持ちたい」とか言ってる若い人の何割かは、ただ「オシャレな店のオーナーになりたい」だけだったりするんですよね。だから、料理そのものには別に全然興味がなかったりする。なんなら、出来合いの料理を出せばいいぐらいに考えてるんだろうなぁ>

私はそのまとめのかなり冒頭までしか読んでいないので、このツイートがどういう意図を持ってなされ、それがツイッター上でどう受け取られたのかまでは把握していないが、僕は「なんかすごく分かるなぁ」と感じた。

何でもかんでもSNSのせいにするのはよくないと思うが、でもやはり、InstagramとかTikTokとかが大きな力を持っている今、「ガワ(見栄え)だけ整えたい」みたいな人が多くなるのも仕方ないよなぁ、と思う。SNSの世界で人気を得るのも大変だともちろん理解した上で言うが、やはり僕のイメージでは、「ガワ(見栄え)を整えた者勝ち」みたいな世界に見えるからだ。そこに「中身」がなくても、「ガワ(見栄え)」さえ整ってれば、かなり勝てる確率が上がるはずだ。逆に言えば、どれだけ「中身」があったところで、「ガワ(見栄え)」がダメなら見向きもされないというわけだ。

そんな世界では生きたくないよなぁ、ツチヤ。俺も。

ツチヤタカユキにとっての「正しい世界」がどんなものなのか、ちゃんと説明される場面はないが、映画を観てれば分かる。要するに、「テレビや劇場の放送作家として偉ぶってる奴」が評価されるようなところが「間違った世界」というわけだ。

正直僕は今まで、「放送作家」という職業の人たちが一体何をしているのかよく知らなかったのだが、「なるほど、芸人のネタを書いたりしているのか」とこの映画を観てちゃんと理解したように思う。僕がそれまで知っていた知識は、「『エンタの神様』では放送作家が芸人のネタを書いていた」みたいな話で、そして僕はなんとなく、それを「特殊なケース」として捉えていたのだ。僕が知っている「芸人」は、まあ大体テレビに出てくるような人たちぐらいだが、「出役の誰かがネタも書いている」という風に認識していたし、まあたぶんM-1に出るようなコンビはみんなそうなんだと思うけど、そうじゃないお笑い芸人もいるというわけだ。

要するに、「シンガーソングライターみたいな芸人もいるし、誰かが作った曲を歌うアイドルみたいな芸人もいる」ということなのだろう。そもそもその辺りの認識が乏しいぐらいお笑いの世界のことはよく分かっていなかったのだが、要するにツチヤタカユキは「お笑い芸人にネタを提供するような放送作家」に憧れて「修行」を続けていたというわけだ。

しかし、いざ放送作家の世界に足を踏み入れてみると、ツチヤタカユキの目からは「『お笑いをやっている』とは思えない放送作家」ばかりが目につくようになる。そういう描かれ方をする放送作家を観て僕は、先程の「オシャレな店を持ちたいだけの若者」の話を思い出した。すべての放送作家がそうではないことは理解しているが、恐らく中には、「放送作家という職で生きていたい」みたいな人もいるのだろう。

僕は別に、「オシャレな店を持ちたいだけの若者」のことも、「放送作家という職で生きていたいだけの放送作家」のことも、別に悪いとは思わない。実際、ツチヤタカユキのセンスに惚れ込み放送作家見習いとして引っ張ったベーコンズというお笑い芸人の西寺は、元芸人(本人は芸人を辞めたつもりはないと言っているが)の放送作家・氏家について、「あいつがいると、場が上手く回るんだよ」と評価している。これはこれで、とても大事な役割だろう。少なくとも、ツチヤタカユキには絶対に出来ない芸当だ。社会はそんな風にして回っているし、みんなで何かを作るというのはそういうことなのだ。

ただ、ツチヤタカユキにはそのことが許容できない。とてつもなく許容できないのだ。その気持ちは、とても理解できる。ホント嫌だよなぁ、そんなクソみたいな世界で生きていくのは。

ツチヤタカユキの難しさの本質は結局のところ、「自分では演れなかった」という点にあるだろう。これは例えば、「作詞作曲は出来るが、歌は下手」みたいな状況だろう。音楽の場合、ボカロというものが登場したことで、「歌が下手」みたいな制約が取り払われ、「作詞作曲」の能力だけで評価される可能性が拓けた。しかしお笑いはそうではない。「自分で演れない」のであれば、誰かにやってもらうしかない。しかしそのためには、結局のところ「コミュ力」が必要になってくるのである。

ただツチヤタカユキは、ちょっと早すぎたのかもしれない。というのも、以前何かで読んだことがあるのだが、「最近のお笑い芸人は、ガチでネタをやりたい人間ばかり」だからだ。

どういうことか。

一昔前であれば、人気者になりたい奴やクラスのお調子者なんかがお笑い芸人を目指していた。しかし、YouTubeが登場したことで、そういう「目立ちたい奴」が総じてYouTuberを目指すようになったというのだ。だから、今お笑い芸人になろうとしている奴らは、人気者になりたい、チヤホヤされたいみたいなことではなく、純粋にネタで勝負したいみたいな人ばかりだという。

そういう世界にツチヤタカユキが現れていたら、また状況は少し違っていたんじゃないかと思う。まさに今こそ、彼の力は活かされるんじゃないだろうか。いやでも、「ガチでネタをやりたい芸人」は、自分たちでネタを作りたいって思うか。そうなると逆に、今の方が需要が無いのかもしれない。うーむ、難しいものだ。

ツチヤタカユキには「圧倒的な才能」があったが、しかし「正しい世界」が無かった。皮肉なものだ。皮肉と言えば、菅田将暉演じる男が「世間に対する違和感」を口にするツチヤタカユキに、こんなことを言う場面がある。

『でも、お前が笑かそうと思ってるのは、その世間なんだろ。
地獄やなぁ。
でも俺は、お前にそこにおってほしいと思ってるわ。
地獄で生きろや。』

皮肉なものだ。そんな人物の「絶望」に塗れた半生が、岡山天音の壮絶な演技によって映し出されていく。

内容に入ろうと思います。
ツチヤタカユキは、狂っていた。5秒に設定したタイマーを片手に持ち、「5秒に1本ネタを考える」という狂気のような”修行”を日々行っているのだ。何故か。テレビの大喜利番組で「レジェンド」の称号を得るためだ。彼は仕事中もネタを考えるために手が止まるためすぐにクビになり、どんな仕事もまったく長続きしなかった。
念願叶って「レジェンド」になったツチヤタカユキは、お笑いの劇場に自らネタを持ち込み、構成作家見習いとして働くことになった。しかし、人間関係力が極度に希薄しているツチヤタカユキは、その世界に馴染めずにいる。唯一彼の才能を見込んでネタを書いてくれと頼んできたピン芸人がいるのだが、色々あってツチヤタカユキは構成作家見習いを辞めてしまう。
それから彼は、ラジオに投稿するハガキ職人となった。圧倒的な採用回数を誇り”伝説”とまで言われるようになった彼に、ラジオの電波で声を掛けてきた者がいた。彼が投稿しているラジオ番組のパーソナリティを務めるお笑い芸人・ベーコンズの西寺である。彼はその誘いに乗り、大阪から東京に出て再び構成作家見習いとして働くことになったのだが……。

というような話です。

とにかく、岡山天音の演技が凄い。実際のツチヤタカユキがどんな人物なのか知らないが、岡山天音が演じた通りの人物だとすれば、マジでヤバい。社会性が無いにも程があるし、「このまま野垂れ死ぬんじゃないか」みたいに思わせるシーンは何度もあった。「お笑い以外はどうでもいい」と実際に口にもするし、まさにそれを体現するような生き方をする狂気的な人物を、岡山天音がとにかく全身全霊で演じている。「演技だ」と分かっていても、そこに狂気が滲み出ているような感じがあって、役者の凄さを改めて実感させられた。

僕は、ツチヤタカユキと比べられるような人間ではないが、同じベクトル上にはいるというか、ツチヤタカユキを100倍ぐらいに希釈したら僕になるというか、なんかそんな感じがあって、結構共感させられてしまった。ツチヤタカユキも言っていたが、世間では「3年は我慢しろ」のような、「好きなことをやるためには、嫌なことを我慢する時期が必要だ」みたいな言説があるが、僕もそれには納得できない。正直、「嫌なことをしなければならないなら、好きなことを諦める」ぐらいの感覚がある。ツチヤタカユキの場合は、「笑いのカイブツ」なので、「そうだとしても諦めきれないんだ!」という感覚が強いと思うのだが、それでも、「嫌なことは嫌なんだ!」という感覚もまたとても強いことが伝わってくる。

ホント、やりたくないことなんかやりたくないよ。

僕は、「やりたくないことをやらない自分が評価されなくても仕方ない」と思っているが、ツチヤタカユキの場合は、そんな障壁をぶち破れるんじゃないかと感じさせるほどの圧倒的な才能を持っている。ただそれでも、結局その障壁はぶち破れなかったわけだ。世の中、難しいものだ。

あと、今僕は「ツチヤタカユキが圧倒的な才能を持っている」と書いたが、正直、映画ではそのことを伝えるのがとても難しかっただろうな、と感じた。「ツチヤタカユキが書くネタが面白い」ということを、画面で伝えるのは結構困難だろう。大喜利に関しては、テレビやラジオでツチヤタカユキのネタが採用されるシーンが何度か描かれるし、あるいは映画の随所に、「大喜利のお題」と「ツチヤタカユキがしたのだろう回答」が表示されたりもする。そういう演出をしなければ、「ツチヤタカユキの凄さ」を伝えられないと判断したのだろう。正解だと思う。ただ、「ツチヤタカユキが書くネタ」が面白いのかどうかについては、なかなか判断が難しい。作中では1本、彼が作ったネタをベーコンズが披露する場面があるが、彼がどんなネタを作っているのかがはっきり描かれるのはそこだけだ。まあ、これは映像作品としては仕方ないだろう。ちなみに、本作の漫才監修を行っているのは、去年M-1で優勝した令和ロマンである。話題という意味では、絶妙なタイミングと言えるだろう。

演技で言えば、やはり菅田将暉も凄かった。菅田将暉に関しては、作品を観る度に凄いと感じるのだが、本作でもやはり存在感は抜群だった。ほぼ出ずっぱりの岡山天音と比べれば、菅田将暉はほんの僅かしか出演シーンがない。それでも、「こういう人っているよなぁ」という圧倒的なリアリティを持ってその存在感を打ち出しているところが見事だった。

あと、ベーコンズの片割れとして仲野太賀が出ているのだけど、漫才のネタを一本丸々やるシーンがある。ホント、芸人かっていうぐらい上手いなぁ、と思う。本物の芸人が見たら色々粗はあるんだと思うけど、僕のような素人からすれば、ホントに芸人かと思うような感じだった。マジでツチヤタカユキにネタを書いてもらってM-1とかに挑戦したら面白いのに。ってか、去年のM-1でそれやってたら、結果はどうあれメチャクチャ話題になっただろうなぁ。

とかなんとか思ったりした。いやホント、ツチヤタカユキの物語にも驚かされたし、役者の演技にも圧倒される作品だった。

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