【映画】「チャイコフスキーの妻」感想・レビュー・解説

天才作曲家チャイコフスキーの妻は、「世紀の悪妻」と評されているそうだ。本作の予告を観るまで、そもそもその事実を知らなかった。そして本作は、そんな妻アントニーナの視点で結婚生活を描く物語である。

ただ、先に書いておくと、本作は「実話」というわけではなさそうだ。映画の最後に、「実際にはアントニーナは、夫と別居して以来、40年間夫と会うことはなく、1917年に精神病院で亡くなった」と字幕で表記されるからだ。ただ、公式HPによると「史実に従ってはいる」そうだ。つまり、アントニーナ以外の描写は可能な限り事実を描きつつ、アントニーナだけは大胆に改変した形で描き出したということだろう。

まあそんな作品なので、どの程度本作で描かれるアントニーナを「実像」として捉えればいいか分からない。ただ、「アントニーナは本当に悪妻だったのか?」という観点から描き出す本作の描写には、個人的には結構納得できた。チャイコフスキーには以前から「同性愛だった」という噂があったそうで、ただ、ロシアではその事実はタブー視されていたのだという。本作では、その事実をはっきりと描きながら、アントニーナの狂乱の人生を追おうとする。そして、「チャイコフスキーが同性愛者だった」というのが事実であるとすれば、アントニーナの葛藤や狂気も分からないではないという感じがする。

さて、そもそも、物語の舞台である19世紀末のロシアの「結婚」に関する知識をまとめておこう。当時「教会婚」はかなり厳しいものだったようで、皇室か裁判所の決定がなければ離婚が許されなかったという。また、「妻は夫の所有物」という感覚が明確にあったそうで、妻には選挙権は無く、また、夫の旅券には妻の名が記載されたそうだ。

このような時代に結婚したチャイコフスキーとアントニーナは、「離婚」で苦労する。「絶対に離婚したいチャイコフスキー」と「絶対に離婚したくないアントニーナ」の闘いである。しかしこの闘い、完全にチャイコフスキーが弱い立場である。離婚のハードルがもの凄く高いのだから、「離婚したい!」と思ってもそう簡単にはいかないからだ。

作中には、離婚に向けた協議のシーンも映し出される。アントニーナは出席しているが、チャイコフスキーはその場にいず、弟や関係者が代理で出ている。さて、そこに至るまでにお互いの弁護士が色んな調整をし、あとはアントニーナが署名をすれば離婚成立という状況になっていた。しかし、ここでアントニーナは署名しない。何故か。

それは、「夫が不貞を働いた」と記されていたからである。

当時のロシアでは、「離婚に至る理由」が必要とされた。つまり、「婚姻を継続できない理由」である。しかし、アントニーナにはそんなものはない。チャイコフスキーも、同性愛者だと明らかにするわけにはいかず、そしてだとすれば、「妻とは暮らせない理由」など表向きには存在しないことになる。

だから、離婚するためには「どちらかが不貞を働いた」ということにするしかないのだ。そしてチャイコフスキーは、自分が不貞を働いたということになってもいいから離婚したいと考えているのである。

しかし、自分が署名を求められている文書に「チャイコフスキーが不貞を働いた」と記されているのを見て、アントニーナは「夫を悪く言うようなことはしません」と署名を拒絶する。こうして、離婚が成立することはなかったのである。

さて、本作を観る限り、アントニーナが「悪妻」と言われる理由はないように感じられた。いや、「断じて離婚をしなかった」という点を以って「悪妻」だと言っているなら話は別だが、そうではないなら、アントニーナは単に「チャイコフスキーを愛しすぎただけ」である。ネットで調べてみると、どうやらチャイコフスキーは、結婚からたった20日間で結婚生活に限界を感じ逃げ出したのだそうだ(映画を観ている感じ、そんな早いとは思わなかった)。

確かにチャイコフスキーは、「自分は女性に愛情を感じたことはない」「兄と妹のような関係になれるのなら結婚を申し込もう」みたいなことを言っている。「同性愛者」だとは打ち明けていないが、チャイコフスキーとしてもかなりギリギリのことを伝えようとしたようだ。そんなチャイコフスキーが結婚しようと考えたのは、まあやはり世間体とかそういうことだろう。ロシアに限らないが、一昔前は「同性愛者」など認められていなかったのだから、「同性愛者ではない」という証明のためにアントニーナを利用しようと考えたのだと思う。

しかし、そんな思惑は上手くいかなかった。アントニーナはチャイコフスキーを深く愛していたため、色々と世話を焼きたいし、もちろんセックスもしたい。そしてチャイコフスキーとしては、そんな風に「求められること」に限界を感じたということなのだろう。

そしてそうだとしたら、アントニーナはちょっと可哀想すぎるなと思う。少なくとも「悪妻」と呼ばれる謂れはないだろう。

ただチャイコフスキーとしても、「全面的に自分が悪かった」とは言っている。いつ誰がアントニーナを「悪妻」と呼ぶようになったのか知らないが、少なくともチャイコフスキー自身は、自らに非があるとちゃんと理解していたようだ。

ただ、そんな風に言われてもアントニーナとしては困る。別に謝ってほしいわけではないのだ。アントニーナはある場面で、「あなたが私のことを愛していないのは知っている。でも私はあなたのことを愛している。一緒に暮らしてくれるなら軽蔑してくれてもいい」とチャイコフスキーに言っています。もちろん、冒頭で書いた通り、アントニーナは実際、別居してからチャイコフスキーには一度も会っていないわけで、「このセリフを直接チャイコフスキーに伝えた」というのは事実ではない。ただ分からないけど、自伝(アントニーナは自伝を出版しているようだ)や手紙には書いていたんじゃないかと思う。

さて、そんなわけで、アントニーナが唯一望んでいたことは、「チャイコフスキーと一緒に暮らすこと」だった。けれどもチャイコフスキーとしては、それこそ最も避けたいことだったのである。だから、2人の想いが交わることはない。関われば関わるほど双方が傷つくという、最悪な状況になっていくのだ。

ただ、「どちらが悪いのか」という話はなかなか難しい。チャイコフスキーは、「自分の都合のためにアントニーナを利用して結婚した」という点が圧倒的に良くないわけだが、しかし、「同性愛者」であるという事実を抱えながら生きていく辛さももちろんあっただろう。またアントニーナの方は、しばらくの間まったく非は無いように思えるが、「徹底して離婚しなかった」という点はやはり頑固過ぎた気もする。ただし、当時は女性の立場が圧倒的に低かったことを考えると、「仮に望むような結婚生活を送れないとしても、『誰かの妻でいる』ことの方がプラスだった」という可能性もあるだろう。そんな風に考えると、善悪を考えるのが難しくなる。

ただし、ある場面である人物が、「天才は何をしても許される」と口にするように、最終的には「国の宝」のように評価されているチャイコフスキーが”勝つ”ことになるのも、まあ避けられないだろうなとも思う。どれだけアントニーナの言動に「理」があろうと、それは通らない。ある人物は、「太陽と結婚した後で火傷について文句を言うのはバカ」みたいに言うのだが、それはきっと、当時のアントニーナに対する大方の反応でもあったのだろうと思う。

ただ、やはり難しいなと感じたのは、当時の女性たちの反応である。まあ本作では「アントニーナの母親」の反応ぐらいしかまともに描かれないが、母親は「女はどうせバカにされるんだから、さっさと離婚しろ」みたいなことを言う。とにかく、アントニーナに寄り添う気はなさそうだ。「女性全体」が厳しい状況に置かれている中で、「女性同士が共闘出来ない」というのはなかなか辛いことに思えるし、そんな中でよくアントニーナは孤軍奮闘したなと思う(まあ、映画で描かれていることは事実ではないわけだが)。

しかしホントに感じたのは、この2人は出会わない方が良かったんだろうなということ。アントニーナとしては「チャイコフスキーと共に生きていくこと」こそが「幸せ」だったわけだけど、そもそも出会いさえしなければそんな風に思うこともなかったわけだ。ホントに、出会ってしまったことが何よりも不幸なのだと、強くそう感じさせられた。

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