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枯れ は後に顕れる芽吹のため / 美しい、前向きな 枯れ には全てが詰まっている

紅葉を経る。黄葉を経る。そして紅葉しきれない冬枯れも。
木々を見上げる心持ちは昨年とは異なる。

冬枯れは春を待つ芽吹きに押し出された幸せな時間経過だ。
なにも寂しがることはない。

枯れずに全てが居残られた世の中なんてきっと味気ないものであろう。
生まれられないのだ。


だから生けるものは全てに その価値がある。

貢献とか成果とかくだらない言葉遊びではない。
不自由や疾患、困難や行き違いがあろうが 消費や他者との関わりは社会の一部だ。
そこに従事することで生活が成り立つ者、生き甲斐、次代へ向かうための必要な事象や ここまでの軌跡に欠くことができないのである。


そのまま でよいのだろう。
時間経過で変わっていくことも そのまま と呼ぶのだろう。

そのまま は変遷を、変化を受け容れる。

時間軸に逆行し 前のままの形に固執して戻ろうとするエネルギーは不要だ。


秋冬は法事が多い認識がある
外気の温度が低いからであろうか
大切な人 近しい人 を失くしたのがこの季節という方も多くいらっしゃる
自分も例外ではない

歳暮の住所録、30数軒あったものが一桁に
年賀状も家族4人100枚超が十数枚に

母と故郷福岡の地名をなぞる
50年近く部屋に残っている汽車ぽっぽの陶器おもちゃの思い出を聞く
泊まりの出かけに持って行くのだ と自分が毎回駄々をこねたのだと笑う
お祝いを用意してくれた叔母さんが舞い戻って訪れる
7回忌を済ませたのは昨年だ

こうして話題に出る、記憶に残っている人がいる期間は、生と死の間の特別な
時間だと自分は考えている

どこかで話題に、記憶にある期間は生と死の間の特別な時間だ

存命で遠方に暮らし、交わう機会のない知り合いと何ら変わることはない
きっと会うことのないであろう知人は何十人にのぼるのだろうか


寿命とは程遠く、病や事故、色々な事象があろう。

近しい人を亡くしたことへの思考に他者は介在できない。


万人の願う方々、人々が全員亡くならなかったら?
寿命などなく、病も事故もなく死 がなかったら?


我々は 1人として存在していない

存在できない

誕生することができない


人生の醍醐味は たられば である

野球や競馬と一緒で たられば は人生の醍醐味だ


枯れ は生きている証 である
生きていないと枯れることは出来ない


生きて時間軸を経て変遷し 次の芽吹きの準備が出来たとき、それが枯れである

喜ばしいではないか

美しいではないか

ときには有難いなんて比喩する経緯さえあって構わないと自分は思う


枯れて 芽吹いて 枯れて 芽吹く

そして枯れて 芽吹いて 枯れて 芽吹く


だから人々は花鳥風月、草花樹木に惹かれる

花を付けない季節にも春の芽吹きを楽しみに

神奈川県厚木市 ガーデン工房ふりーふ

ふりーふ_園芸_5


雑草とよばれていても表情の可愛らしさが脇役になる自然のお庭

なにもないところからは 緑は顕れない

それは繋がりであり 過程だ


虫や昆虫、一部の生物を苦手に思う方もいるだろう
そこが気に入っているなら いっとき住まわせてあげよう
そんな余白があるとステキだと思う

喜寿を迎えた母は室内に蜘蛛、ベランダには蟷螂と飛蝗を飼っている(と宣う)
自分も虫は好きなクチなので 微笑ましく誇らしい
20年前は追っ払っていたような記憶もあるのだが


災害を何度も経て 横の絆に気付かされる機会が増えた昨今
やさしさや願い、エールは照れずに露出すべきだ と再認識した

過去や未来 、移り変わり 時間軸
縦には深さや厚み、繋がりがある

そうして出逢えたことを 人は仕合わせと呼ぶのかもしれない


生けるものは死ぬ
これでは当たり前すぎる

死 によって生 がある

自分はこんなふうにも考える


枯れ は次の芽吹きが押し出してくる必然だ

前向きな 潔い 美しい冬枯れには瑞々しささえ透けて見えてくるのだ




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