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歴史文化講座に参加した話。


賀来飛霞かくひかをもっと知りたい

NHK朝ドラ『らんまん』では、牧野富太郎をモデルにした主人公・槙野万太郎が、今、植物学者として最大のピンチを迎えている。「感謝」は言葉や形で示さないと相手に伝わらない。彼が示したかった感謝の証は、より質の高い論文を書くこと。はじめからボタンの掛け違いである。よみがえるのは、野宮の放った「槙野さんは無邪気で無知」という言葉。田邊教授の「嫉妬」「羨望」「期待」の入り交じった複雑な気持ちは(Mr.キャナーメの熱演、じわじわ涙……)、おそらく万太郎には理解できないだろう。波瀾万丈な植物学者の生涯をなぞりながら構成されたこのドラマ。あとふた月で終わってしまうのかと、そろそろ寂しくなり始めている。

現在、ドラマの舞台は東京大学だ。大学附属の小石川植物園に、私の好きな本草学者・賀来飛霞が同じ頃勤めていた話は以前書いた。その生涯をもっと身近に知る術はないものか。飛霞のふるさとにある県立歴史博物館の歴史文化講座で、数年ごとに飛霞を取り上げているのを知ったのは5、6年前のことだ。今年こそは参加しようと帰省の予定を立てたのに、なんと講座開催日は大雪に。山越えは当然アウト、高速も通行止めになる可能性が高い。大きすぎる帰省のリスク。遠方から参加予定の私は、断念せざるを得なかった。

いや待てよ、荒天なら延期になるかも。一縷の望みをかけたけれど、講座は予定通り開催された。この時点で、翌年度(2023年度)に賀来飛霞関連の講座が組み込まれることはないと思った。ああ、また数年待つのか。これまで飛霞には不思議な縁を感じていたが、このときばかりは「なんて縁遠いのだろう」と肩を落としたのだった。

ところが、春になって今年度の講座を確認すると、どういうわけか飛霞に関する講座が1日あるではないか。この日だけは仕事もバイトも入れず帰省した。念願かなって初参加である。

本草学者同士の交流

講座のテーマは「山本読書室と賀来飛霞」。山本読書室とは、天明4年(1784)から明治36年(1903)まで続いた京都の本草漢学塾で、もともとは医者の山本封山が開いたもの。封山の子である山本亡羊ぼうようの時代に発展し、賀来飛霞は兄の佐之すけゆきとともに、亡羊のもとで本格的に本草学を学んでいる。

多くの動植物の写生図を残している飛霞。しかし関連資料(個人所蔵)でもっとも多いのは手紙だそうで、約2,600通のうち現在目録が完成しているのは1,500通ほどだとか。まだ1,000通以上残っている。この日の講師であり学芸員のHさんは、「これらを読み解くのが私の使命だ」と語った。

講座では、山本読書室と飛霞との交流がうかがえる書簡をいくつかピックアップ。興味深かったのは、学者たちの情報交換の様子だ。電話やカメラ、インターネットなどのない時代のやり取り。互いに植物の写生図を手紙で送り合い、鑑定し合っていたのだという。この話を聞いて、手元にある「賀来飛霞 資料集 図譜篇」の中で、飛霞の描いた植物の写生図に「伊藤先生鑑定曰ハカリノメニ非ラズ」「亡羊先生鑑定」などの文字が入っているものがあることを思い出した。「伊藤先生」とは、『らんまん』にも名前が出てきた伊藤圭介のことだろうか。そういえばドラマ内でも、万太郎や田邊教授とマキシモヴィッチ博士の手紙のやり取りが描かれている。

「誰かの描いた植物画に、飛霞の名前が入っていることもある」とHさん。その例えとして、「ときどきオークションなどで賀来飛霞の植物画として出ているものがあるが、多くは偽物。名前と押印は本物でも、植物画は別人が描いたものだから」と話す。騙されないように、と諭された。

これまで私は、ただ本草学者の目線で描かれた緻密で生き生きとした植物画に魅せられていた。もちろん、描いた本人の植物を見つめる熱を感じている。ここへさらに、学問を究めようとする他の学者たちの熱も込められていることに、今さらながら気づかされる。

賀来飛霞宛の山本読書室書簡は38通。そのうち山本亡羊からのものは5通だが、亡羊の次男・榕室ようしつからのものは21通と、半分以上を占めている。Hさんは「書簡からは、亡羊と榕室親子の性格の違いなどが見てとれる」とも。解説には本草学者同士ゆえのおもしろいエピソードが含まれており、講座に参加したからこそ知り得ることが多かった。

明治時代の飛霞に驚く新説

賀来飛霞が全国を歩き植物を採集し、写生したのは30歳頃までといわれている。以降は医業を開いた佐田にいて、地域医療に携わりながら自然と向き合い暮らした。その間、島原藩医だった兄・佐之が亡くなったことをきっかけに、島原藩医に任命されている。そんな彼が、60歳を過ぎてから東京帝国大学小石川植物園の取調係になった。

「伊藤圭介から乞われて東京に出てきた」

私のような一般人が調べた範囲では、これが飛霞の小石川植物園勤務の理由だとされている。講座でも、明治3年(1870)以降、伊藤圭介や田中芳男(朝ドラではいとうせいこうさん演じる里中先生!)らから、上京要請を受けていたと聞いた。

だが当時の書簡・来簡を解読したところ、飛霞が次男の東京大学入学にあわせて上京したこと、小石川植物園勤務は、飛霞を東京に留めたかった伊藤圭介らの尽力によるものだったことが分かってきたというのだ。「研究したいという思いで上京したわけではないんですよ(笑)」と、Hさんが楽しそうに(!)話す。賀来飛霞関連の資料を調査・研究している学芸員にとっても、そんな飛霞の人となりは魅力的なようだ。それにしても、上京が先で、勤務することになったのが後だったとは。

その頃の飛霞は、すでに妻も兄も亡くしており、子どもの成長を楽しみに暮らしていたようだ。彼は植物園を退職後、息子の医術開業試験合格と東京大学卒業を見届けてから佐田へ帰郷している。「植物園勤務は子どもの学費を稼ぐためでもあった」という説には、驚きと同時に、飛霞のどこか飄々とした眼差しを想像してしまった。「幕末の三大本草学者」と称される彼の、親としての一面。学びは大事だが、家族も大事なのだ。

『らんまん』視聴中の身としては、小石川植物園勤務は「老齢ながら、植物研究に余念のない賀来飛霞」を期待しないこともなかったが、最後にこんな人間味のあふれる一面を知ることができて、ますます彼の生涯に興味を持った。

誰か、誰かドラマをつくってくれ。

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