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意味の世界を生きる

本稿は筆者のこれまでのカレー概念に関する議論を見つめ直すものである。

彼はこう叫んだ。
「麻婆カレーだ!!」
その中華屋では楕円形で深めの皿にご飯を盛り付け、米の半分にかかるような形で麻婆豆腐をかけて提供していた。的場はその麻婆丼を見てどうしても麻婆カレーと呼びたくなり、実際叫んでしまったのである。
(中略)
その話を的場から聞かされた僕は
「は? 麻婆丼がカレーなわけあるかよ」
と的場の主張を一刀のもと切り捨て、そこから三日三晩の激論を交わすことになった。

菅沼九民著『誰が為にカレーは煮える』カクヨム

⚪︎概念の横領問題

ホワイトカラーの精神性を内面化することで社会との摩擦係数を減らすべく、私は仕事ができるようになるための精神論を教えてくれる動画の視聴や研修への参加に余念がない。研修の講師らは
「それは課題ではなく問題である」
「営業ではなく、コンサルだ」
といったメタ言語否定を多用している。先日、参加した研修の講師は次のようにも言っていた。

「課題と問題の違いについて話し始めたら午後の時間が全部潰れちゃうんですよ。とても深いので。ただ皆さんもう中堅なので、大丈夫ですよね。」
どうやら課題と問題の異同は当初私が思っていたよりも深遠な問題のようであった。

講師はさらに
「あ、ちなみに中堅職員って中核職員なんですよ!」と続け、やはりまた言葉を言い換える。

社会人歴五年になるが、問題と課題の違いが一向にピンと来ない。半ば諦めているが厄介なことに、後輩に問題と課題の違いを教える役割を拝命しそうになる機会も出てき始めており、これについては大変閉口している。自分が分からないことを人に教えることはできない。自分が教えたところ、私の理解が間違っており、あいつが教えたから新人が課題と問題の違いを理解できていないぞ!といった噂が立ってしまうのは嫌である。

まだ入社したての頃「問題と課題が違い分かる?」と先輩に徐に問われので「問いとして立てたことがなかったです」と答えた。すると、それぞれの規定を詳しく教えてくれたのだが、私の日常的な「課題」の使用の感覚と折り合いがうまくつかず、結局、今も上手く使えないままである。その後「今あなたが言っているのは課題ではなく問題」という趣旨の指摘を何度か受けたがピンと来ず、今は開き直って「これは概念の横領ではないか?!」と独り憤っている。

先日、以上の悩みをとある先生に相談してみたところ、その先生は「やっぱり人間は意味の世界を生きているんですよねえ」と言った。

⚪︎カレーライスかライスカレーか問題等を再訪する

さて、日本人がカレーについて何かしら述べる時、カレーライスとライスカレーの相違を勝手に規定しがちである。例えば筑摩書房の『アンソロジー カレーライス!!大盛り』は、著名な文筆家が思い思いのライスカレー規定を提案しており、一読して混乱すること請け合いである。そして、そこでライスカレーと離散的に規定されるカレーライスの範囲は、私が普段使うそれよりも遥かに狭く、私を大いに苛立たせがちである。カレー概念は多義的であればあるほどありがたいと私は考えているからだ。
なおライスカレーとカレーライスの規定をめぐる問題の一端は一度論じたことがある。

「カレー概念は多義的であればあるほどありがたい」と考える私はカレーライスの範囲を広く取りすぎるきらいがあるとも言われる。カレー皿に半々によそわれた麻婆丼をカレーライスだと主張したことで、静岡在住のカレー小説家・菅沼九民氏の逆鱗に触れ、カレーの存在論争が勃発したことは記憶に新しい。この論争は未だ決着に至っていない。
カレーの存在論争の端緒となった論考は以下である。


その菅沼九民氏は大陸の移動、即ちプレートテクトニクスの観点から伊豆にインド性を見出した最初の人物である。この発見は様々な議論や創作の呼び水となった。彼はついには伊豆はインドの一種だと述べるようになるが、これに関しては静岡県民から「勝手にインドにするな」という猛反発を受けているようであり、九民氏は密かに静岡から愛知への逃亡を企てているようである。
以下は「伊豆、ちっちゃいインド説」の嚆矢となった菅沼九民氏の伊豆半島論「出ずる」である。


人々は言葉の意味を勝手に規定しては楽しくなったり、規定されては憤ったりして、大変である。このように我々はやっぱり意味の世界を生きているのである。

参考文献

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