カレーライスにとってカレーは不可欠な要素か
カレーライスにとってカレーは不可欠であるか。
馬鹿げた問いかと思われるかもしれないが、結論を先取りすると、本稿はカレーはもしかすると不可欠な要素ではないのかもしれないということを、述べようとしている。
この標準的なカレーライス観からは、あまりにもかけ離れた主張を導くことに、実のところ、私自身がいささか臆しているところではあるのだが、そのような考えに至った思考の過程をここに記しておきたい。
半カレーライスにカレーは不可欠であるか
半カレーライスは定食屋等で見られるハーフサイズのカレーのことである。普通の定食とカレーライスの両方を食べたいが、胃袋のキャパシティに一抹の不安があるという場面においても、我々にカレーライスを食べる可能性を拓いてくれる。半カレーライスはそういったオルタナティブな存在である。
では、カレーにとってのカレーの必要性を確認すべく、半カレーライスという概念について簡単に検討しておきたい。
まず、ここでの「半」とはいったいどのような意味であろうか。言うまでもなく、「半」とは「半分」という意味であり、先述の通り半カレーはハーフサイズのカレーである。半カレーライスはカレールーもライスも通常のカレーライスのおおよそ半分になっているという理解は極めて自然であろうと思われる。
しかし、これ以外の方法での半分の在り方も原理的には可能である。それは、カレーライスのカレールーをまるまる差し引くことでカレーライスを半分にするというやり方である。カレーライスは基本的には皿の上にカレールーとご飯が半々に盛り付けられているものであるから、そのうちライスだけになったもの(カレーだけが取り除かれたもの)をカレーライスの半分、即ち半カレーライスと呼ぶことは理屈としては可能なのではないだろうか。
しかし、例えば食堂で半カレーライスを注文し、もしそれがカレー皿に載った単なるライスであったら、注文した者がそれに納得することは極めて困難だと思われる。「確かに半分だな」とはならず、「嘘をつけ」と言いたくなるのが普通なのでは無いだろうか。
この時、問題の半カレーライスを提供した側が「でも、半分ですよね?」と説明したとしても、受け取り手は「なら余計なことを書くな」と応答することができるだろう。つまり、カレー要素が無いのなら初めからカレーという言葉を使うなという反論である。この反論は社会的には極めて的を射たものだと思われる。
このように、理屈としてはカレーが排されても良さそうな場面を見ても、カレーライスにとってカレーは不可欠な存在である。
カレーライスにとってカレーは不可欠であるか
しかし、実際的にはカレー要素の無い食べ物がカレーと呼ばれる余地を残すような場合があるように思われる。下記のような例がそれである。
確認しておきたいのは、これはカレーの要素はいっさい入っていない純粋な麻婆丼であるということである。(麻婆カレーというカレールーを混ぜた麻婆丼が存在するが、この例はそれでは無い)。
しかし、この麻婆丼を見たとき、私はそれを麻婆カレーと呼びたい、そう呼んでも良いのでは無いかと思わずにはいられなかった。この時、カレーならざるものをカレーたらしめているものはいったい何なのだろうか。
そこで、導入したいのはカレーライススキーマという概念である。
スキーマとはある物事に関する知識について似たような例が集まってくると、それらに共通したものを抽出して一般的知識として捉えるという人間の認知過程を説明する概念であり、認知心理学等で用いられるタームである。スキーマ化能力とは、簡単に言えば、具体例から一般則を抽象する人間の頭の仕組みと言って良いであろう。私たちが初めて出会った人であってもそれを人だと判断できるのは人スキーマと呼んで良いような人の一般的知識を有しているからだと言える。
従って、我々はカレーライスに関する一般的知識、即ちカレーライススキーマをこれまでの経験から形成していると言えるだろう。
このスキーマという概念から、先程の麻婆丼をカレーライスの一種として位置付けたくなった動機を説明することができる。
我々がこれまでに接してきたカレーライスの殆どは一般に皿の左右にライスとカレーがそれぞれ盛り付けられているというものであったはずである。
一方、カレーライスの片方を担うカレーに関しては共通する特徴を掬うことが極めて困難な程に、ある意味、融通無碍であると言って良い。
例えば、上記の指摘の通り、タイカレーと日本のレトルトカレーは相当に異質なものである一方、ご飯と半々に盛り付けられたとしたらそれらはいずれも「カレーライス」以外の何物でもないと私たちは感じることであろう。
何故我々がそう感じるかというと、それは即ちカレーライススキーマという高度に抽象化されたカレーライス像を持っているからに他ならない。「煮込まれたどろどろしたものとご飯が半々にお皿に盛り付けられているもの」といった相当に抽象的なレベルで我々はカレーライスをカレーライスと認識していると言って良いのではないだろうか。
その証左として、我々は下記の麻婆丼を麻婆カレーと呼びたくなる動機を持ったのである。下記の麻婆丼を見た時に他ならぬカレーライススキーマが活性化されたのである。
本稿の見解に立てば、カレーライススキーマはカレーの有無に関わらず、活性化され得ることになる。
カレーを巡るパラドックス
ここまでの議論で、カレーライスにカレーは不可欠でないかもしれないとい主張を裏付けてきた。しかし、それは麻婆豆腐がカレーではないという前提に立っての議論であった。ここには一つ大きなパラドックスが存在している。それは、本当に上記の麻婆カレーにカレーは入っていないのかという問題である。
先述したようにカレーライスのカレー側とはある意味融通無碍なのであった。実際、レトルトカレー(ライス)のそれと、タイカレー(ライス)のそれ、スパイスカレー(ライス)のそれを束ねる共通点を見つけることは相当に困難である。また、仮に共通点を見つけたとしても「スパイスを入れて煮込んだもの」といった程度の共通点しか出てきそうにない。しかし、こうなると我々はハヤシライスとカレーライスを区別することが困難になるだろうし、先ほどの麻婆丼においての麻婆豆腐すらカレーでないと断言することは困難である。
こうして、我々は「カレーライスにカレーは不可欠でない」と主張するか、「麻婆豆腐もカレーでありカレーライスにカレーは不可欠である」と主張するか、といういずれも一般的カレー観からは大きく逸脱した選択を迫られることになる。
本稿はこの大問題を提起し、「カレーとは何か」という重い問いを残したまま、ここで閉じられる。
付記
カレーとは何かという重い問いに関して、筆者は下記の論考でも取り上げて論じた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?