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【詳説】カレーライス成立論:カレー哲学の基礎

 本稿は、カレーライス成立論をより詳細に解説するものである。

はじめに

我々はしばしば異質な二項を出会わせることで、一つの世界を表現する。

例えば、
 古池や 蛙飛び込む水の音
という俳句では「古池」 という視覚的なイメージと、静寂をやぶる音との衝突によって一つの世界が描かれている。俳句という文芸は異なる二つを出会わせつつ、一つの事態を描くことにその特徴があるわけだが、ここにカレーとの類似性を見ることができるだろう。というのも、カレーもまたライス、ナン、パン、うどんといった何らかの異質な他者と結合して一つの世界―《カレーコスモロジー》と私は呼ぶ―を作るからである。

日本における《カレーコスモロジー》の最も基本的な形態としての《カレーライス》について、本稿はその成立の在り方を根本から考えたいと思う。


詳説 カレーライス成立論

回想 
休日の夕方、家の二階で寝ていると、母親が一階から「夕ご飯できたよ」と私を呼ぶ。急いで一階に降りると夕飯はカレーライスであった。私は炊飯器の中にあるご飯をしゃもじで掬いカレー皿の右側によそい、次に、鍋の中のカレーをおたまで掬ってカレー皿の左側によそった。
〜〜〜

これは非常にありふれた風景ではないだろうか。今思えばカレーライス成立論の問いを私が初めて意識したのは、このような何の変哲もない日常の中であったと思う。

そこで私は
・カレーライスはいつ出来上がったのだろうか?
・カレーライスを作ったのは誰なのか?
とふと不思議に思ったのだった。

おそらく中学生か高校生だった当時、その問いに対する答え方を私は持っていなかった。従って、その問いはしばらくのあいだ棚上げされ、棚に上げられた問いはついには下ろされることはなかった。本稿では、この疑問に対して、阪大カレー愛好会会員として思索を重ねてきた現在の私からできる限りの回答を試みたい。

まず、カレーライスを作る時、食す時、我々にとってどのような在り方それが立ち現れているだろうか。
料理という作り手側の、あるいは食事という受け取り手側の場面においても,カレーライスはカレーとライスという異なる二項を持って我々の前に立ち現れているだろう。

しかし、我々はそれぞれを統合しカレーライスとしての全体なるひとつを見ている。カレーライスとは、カレーとライスの二項によってできた一つなる対象である。

カレーライスについて根本的に考える者は,この三者の関係(カレー、ライス、カレーライス)、あるいはカレーとライスの二項の「結合」の内実について考えることから始めなければならない。

では、カレーとライスの結束性を保障するものは何だろうか。これこそが、カレーライス成立論の問いに他ならない。カレーとライスが結合した時にカレーライスが成立するからである。この素朴な問いを出発点にカレーライスについて原理的に省察することが重要であると私は考える。

上記の問いに対して、本稿はカレーとライスはいつカレーライスとなるのかについて探りながら迫っていきたい。

前提として、カレーライスとは、料理によって一つの料理として成立するものである。
いささか同語反復的だが、料理とは一般に材料に手を加えて食べ物をこしらえることであり、また、その結果としてできた食べ物のことだ。この規定は我々の生活上の実感をある程度正確に反映したものであると言える。

例えば、林檎は食べ物ではあるが料理によって成るものではない。何故なら、それの料理としての成立の過程を追うことはできないからである。林檎としてある時、いわば既に林檎は食べ物として出来上がっているのである。(勿論、植物の成長の過程を描くことはできるだろうが。)

要するに、ここで私が確認したいのは、料理とは作り手の作用によって動的に進捗するものだということである。
例えば、筑前煮は材料と調味料を合わせて煮込み、その上で完成する。そして、その成立の過程は作り手を主語としたレシピで表現することができる。
そうした成立の過程をカレーライスにおいて描くことも、勿論可能だ。

ただ、カレーライスの成立の過程を他の料理と同じようなやり方で描けるのであれば、カレーライスを取り上げて論じることは、私にとっての興味ではない。カレーライスの成立は特殊である、と私は考えている。

カレーライスの成立が特殊だというこの問題意識を共有するためには、カレーライスの成立に関して、次のように問うてみることが重要ではないだろうか。

鍋の中でカレーが煮詰まり,炊飯器の中でご飯が炊き上がった時,その時,カレーライスは既に完成していると言って良いのか、と。

これが冒頭のカレーライス成立論の根本的な問題である。
この時「カレーライスは未だ出来上がっているとは言えない」と、そう言いたくなる直感が私にはあるからだ。
この直感を支える根拠らしきものとして、この時の鍋の中にあるカレーはカレーパンやカレーうどんになる可能性を十分に残しているという事実を指摘したい。また、仮にそのカレーがカレーライスのために作られていたものであったとしても、そのカレーはその意図を拒否してカレーうどんとなることができるのである。

そのため、鍋の中でカレーが煮詰まり,炊飯器の中でご飯が炊き上がったその時のそれを私はカレーライスとなった状態だと言いたくなかったのである。従って、この時、成立の決め手となるカレーとライスの結束性は未だ担保されていないということになる。

ここに、カレーライスのために作られたカレーと、カレーライスのために炊かれたライスがそれぞれ完成したとて、カレーライスは成立しないというある種の矛盾めいた事態を見ることができる。

繰り返しになるが、二項のそれぞれの完成は、カレーライスの成立の決め手ではない。カレーとライスの総和がカレーライスであると定式化できないことは是非とも押さえておきたいポイントである。

二項の結束。
それがカレーライスの成立の決め手であり、「カレーとライスを関係づけるもの」が無ければ、カレーとライスはカレーライスになることができないのである。

この点、筑前煮といった他の食べ物と比べるとカレーライスの成立の特徴が際立つのではないだろうか。たとえば材料をもとに筑前煮を作る時、鍋の中で十分に煮詰まった段階で筑前煮はその鍋の中で完成する。カレーと作る工程や見た目の近しいシチューも鍋で煮詰まった時には完成しているといって差し支えないだろう。
というのも、一般に,煮詰まった後の筑前煮はその中の筍や椎茸を筑前煮以外の方法で食べることを許さない。つまり,筑前煮はあくまで作り手側の意図によって鍋の中で完成するものであり、これは、シチューも同様であると直感できる。

一方、カレーライスはそうでないのであった。カレーライスを食べるために炊かれたご飯は、カレーライスとして食べられない余地を残し、同様にカレーライス を食べるために作られたカレーは、その作り手の意図を拒否して容易にカレーうどんになることができる。

この事実が示唆するように、やはり作り手側の意図からではカレーとライスの結合、即ちカレーライスの成立を完全に保証することができない。この点でカレーライスの成立はある意味で特殊だ、という訳である。

この見解に対して、作り手がご飯とカレーを一皿に盛りつけた時にカレーライスが成立するのであって、であれば、カレーとライスの結束はあくまで作り手の意図によって担保されているのではないかという批判があり得る。
即ち、カレーライスの成立は他の料理における在り方と等しいはずだという見解である。
この意見はある意味で正しい。

実際にカレーとライスが一皿に盛りつけられたものを多くの場合、受け取り手はカレーライスとして享受するからである。日常的な実感として、それがカレーライスの完成形だと主張することは極めて自然だ。

ただ、作り手の意図によって カレーとご飯が一皿に盛り付けられた後だとしても,原理的には受け取り手はそれを拒否して一方のご飯のみをお茶漬けにして食べたり、あるいは、一方のカレーのみをうどんと結合させて食べたりすることができる。
私はカレーとライスの、この「潜在的な可能性」を重視する立場に立ちたい。

さらに、カレーとライスの結束性を作り手の意図からは十分に保障できないことの確かな事例として次の実践がある。

それは、カレーライスとして食べられることを意図せずに炊かれた任意のご飯を目の前にし、その場で冷蔵しているカレーを思い出して、即座にカレーライスにして食べるという実践である。仮にその時のカレーはカレーうどんを意図して煮込まれたカレーであったとしても、今食べるそれが「カレーライス」であることには何の疑いもないだろう。驚くべきことである。

作り手の意図からのみカレーライスの成立を描くなら、以上の実践の全体像を正確に捉えることができない。

では、カレーとライスの結束性を担保するものが作り手の意図でないならば、いったい何がそれらを結びつけるのか。

先程の事例を思い出すなら、紛れもないカレーライスが、受け取り手の実践の中で「出来上がっている」ということを我々は認めなければならないだろう。カレーとライスを共に食べたいと考える我々受け取り手の志向性、あるいは嗜好性がカレーとライスの結束を保証しているからである。カレーライスは、その成立に受け取り的が積極的に参与していくことができる。これは驚くべきことだ。

そして、上記のような周辺例だけでなく、作り手によって既にカレーとライスが一皿に盛り付けられている場合でさえ、原理的にはカレーとライスを結びつけて食べることを受け取り手が選択しているということを思い返す必要がある。先述の通り、そのカレーをパンやうどんと一緒に食べる余地の中で受け取り手はカレーライスを食べることになるからだ。
よって、我々はカレーライスを一皿ずつ成立させていると言える。これもまた驚くべきことだ。

つまり、皿に盛り付けられたいわゆるカレーライスは、原理的には未だカレーライスに対する萌芽的なそれでしかない。
そして、そう考える者は、小さなカレーライスの萌芽を都度スプーンの上にも見ることができる。

さらに、スプーンの上でカレーとご飯をあわせ、それを一口ずつ食べる状況を考えたい。
「カレーライスは一口ずつ成立している」と主張する道が、そこに開かれてくるであろう。これは真に驚くべきことである。

付記
本稿は哲学における命題の結束性に関する議論から着想を得た。
上記の議論にはいくつかの瑕疵があるので、その点は別稿に譲りたい。
ただ、とにかくカレーとは驚くべきものである。


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