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【概説】カレーライス成立論序説

●カレーライス成立論

カレーとは何か。我々の心をつかんで離さない「これ」はいったいなんなのか。

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カレーライス。それを作る時、それを食す時、我々にとってどのような形でそれが立ち現れているのか。

料理、あるいは食事という場面においても、カレーライスはカレー(ルー)とライス(ご飯)という異なる二項を持つ。
しかし、我々がカレーライスという食べ物を対象化する際は、ふたつを統合し全体なるひとつを見る。

カレーライスについて根本的に考える者は、この二項結合の内実について考えることから始めなければならない。

では、この二項の結束性を担保するものは何か。

この疑問は次のように問うこともできる。
鍋の中でカレーが煮詰まり、炊飯器の中でご飯が炊き上がった時、その時、カレーライスは完成しているのだろうか、と。
たとえば材料から筑前煮を作る時、鍋の中で十分に煮詰まった段階で筑前煮は完成するだろう。
では、それと同じようにカレーライスもまた出来上がるのだろうか。

もし他の食べ物と同じようなやり方でカレーライスが成立するのであれば、カレーライスを取り上げて論じることは我々にとっての興味ではない。

一般に、煮詰まった後の筑前煮はその中の筍や椎茸を筑前煮以外の方法で食べることを許さない。つまり、筑前煮はあくまで作り手側の意図によって鍋の中で完成するものである。

それに対して、カレーライスを食べるために炊かれたご飯は、カレーライスとして食べられない余地を残す。
同様にカレーライスを食べるために作られたカレーは、その目的を拒否してカレーうどんになることができる。
さらには、作り手の意図によってカレーとご飯が一皿に盛り付けられた後だとしても、受け取り手はそれを拒否して一方のご飯のみを、あるいは、一方のカレーのみを別の炭水化物(パン、うどん)とあわせて食べることが可能である。

これらの事実が示唆するように、作り手側の意図からではカレーライスの成立を保証することができない。

この点でカレーライスの成立は特殊であると言える。

実際、カレーライスとして食べられることを意図せずに炊かれた任意のご飯を目の前にし、その場で冷凍しているカレーを思い出して、即座にカレーライスにして食べるというのは、ありふれた日常的な実践である。

このとき、紛れもないカレーライスが、まさにその時、受け取り手の実践の中で「出来上がっている」ということを我々は驚きをもって認めなければならないだろう。


つまり、我々はカレーライスを一皿ずつ(極言すれば一口ずつ)成立させているだろう。

カレーとライスを共に食べたいと考える我々受け取り手の志向性(嗜好性)がカレーとライスの結束を保証するからである。

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●付記
本稿は阪大カレー愛好会会誌『基礎・カレー探究』に掲載したものです。(Twitter @handaicurry)

会誌発行の際に会員より頂いた講評を付して記します。

【講評】
「カレーライス成立論序説」はそもそもカレーライスとはなんなのか、という問題に真っ向から挑もうとした論説である。
カレーライスは二項が結合するものであるということから出発し、カレーライスはその成立に作り手だけでなく、食べる者も関与するという特異性を示すことに成功したと言えるのではないか。
初めてこの論考を読んだとき、まず「我が意を得たり」と感じた。カレーライスを食べるという行為には、カレー、ライス、食べる側という三者の対話がある。カレーライスは極めて高度な食べ物だ。
(講評はカレー小説家・菅沼九民氏によるもの Twitter @cumin51)

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