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美少女と美少年

宮崎駿の作品には毎回美少女が登場する。

美少女とは、美しい少女であり、女性である。と、いうか基本的にはアニメーション映画に登場する女性、それも中心に据え置かれる人は、美しい人が多い。
作品に登場する女性というのは、基本的にはその男性の持つ憧れの萌しから生まれているため、それぞれのクリエイターにおいて、色が違う。
小説もでもそうだろう。谷崎潤一郎ならば、S性のある悪魔的女性、川端康成ならば、聖処女と野生の娘。

宮崎駿の場合は聖少女であり、そこに性的なものは持ち込まれることはない。性的なことを素通りした女性たちである。『千と千尋の神隠し』は題材が題材ではあるが、然し清廉としている。そこにある種の驚きがある。つまりは、あからさまに性的なものを主軸においても、その肉体からはそういったものが初めから存在しないかのように、何処までも聖少女だからである。
苦海にあっても、天使として存在しているわけで、それは山犬に育てられたサンもまた、同様である。彼女はその出自までは定かではないが、明らかにやんごとなき身分の貴族的な稟質を持っているかのように、素地には品がある。ほかの作品のキャラクターも、男との付き合いがあっても、或いはその体験をこなしていても、そういったことはこの世に存在しないかのように描かれる。
そして、主人公たちは皆童貞である。童貞ではないキャラクターもいるが、童貞のメンタリティであり、キスだけで世界に平和が訪れるほどに、心が清らかである。少年少女のための漫画映画、その世界が作り出されているのは、宮崎駿の持つ、健全な少年少女たちが並んで未来・理想へと向かうその姿に、厭世的な世の中を打破する希望を仮託する幻想が根底にあるからであろう。

反対に、新海誠の映画の女性たちは性的である。新海誠監督の作品に横溢するのはマスターベーションの臭いである。部屋に籠もった臭いである。写実的な背景は恐ろしいほどに瑞々しく、そこには、一人の童貞の少年が視ている現実を加工した美しい町並みが広がっている。これは、思春期の光景である。思春期の現実は、大抵には暗雲が立ち込めた、暗渠のごとく閉じてじめじめとしたものだ。本当にはなかった、憧れの町並みが、彼の作品には描かれている。これは、日本人の青春大好きという、手に入れられなかった幸福への憧憬を描いて、大いに共感を得ている。
その、つまりは暗い青年時代を過ごした男たちが焦がれる女性像が、彼の作品には棲息している。美しく、ユーモアもあり、理想化された主人公(つまりは自分)を見つめ、そして、性的な幻想すらも抱かせる。
とはいえ、そこを瓦解させることに新海監督の凄みがあるわけだが。

細田守監督の少女は、少年である。彼の場合は、少女には興味がない。少女の姿をした少年を描く。そして、その少年たちは少女よりも瑞々しいのである。
少女たちはすべからく無個性であり、少年たちは愛らしく描かれている。彼のフィティッシュが込められているのだろうが、細田監督の作品のモチーフの1つである入道雲こそは、本来的には日本人の原風景ではあるが、然し、何よりも少年の日の思い出である。入道雲は、終わってしまう少年時代を象徴している。
『おおかみこどもの雨と雪』における雨にこそ、細田守は愛情を注いでいる。そして、雨は雪よりも幻想を生きていて、雪の現実的な側面は、まさに現実の女性的な感覚であって、彼女は現実を生きている。
男女の隔てが如実にあるわけだが、物語を生きているのは男の子である雨であり、ちょっと男子、ちゃんと掃除しなさいよ〜!から逃げ続けた究極が彼の父親であるわけだから、それを受け継いでいる。
彼の描く少女は、どこまでも平面であり、魅力がない。色気はまったくない。それは、彼が少女に興味がないからではないだろうか。『時をかける少女』の主人公はまさに恋心に鈍感な少年であり(男二人に交じるあたりが、彼女の少年性を象徴している。)、『サマーウォーズ』はヒロインは置いてけぼりで、真のヒロインは侘助おじさんであり、『バケモノの子』では主人公をヒロインに据えて、『未来のミライ』ではついに自身の息子をヒロインに据えた。

万人に受けるために、必要なのは美少女である。
美少女と、美少年。このボーイミーツガールこそが、一番需要があり、その点で宮崎駿の作品は、どちらの要望も満たしている。

私は、ジブリに関しては、一番目に『風立ちぬ』、二番目に『かぐや姫のものがたり』、三番目に『思い出のマーニー』が好きで、奇しくも2013年〜2014年の一年間にこの3本は公開された。

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『思い出のマーニー』は、百合だとか言われているが、まぁおばあちゃんと孫娘の話なので、性格には違うのだが、然し、これもまた少女たちの秘密の友情の話ではあって、ガール・ミーツ・ガールであるが、ここには少女の感情の秘密がもう少しで開かれようとしていて、興味深いものがある。

これは、細田守監督の作品にもいえることで、同性と同性をぶつけることが重要である。
女性には女性、男性には男性。
これこそが、それぞれの本質を描くことに大きな可能性を持っている。だから、私は宮崎駿には美少年を掘り下げて描いてほしかったのだが…。

それから、文芸作品に挑戦してほしい。特に、『春琴抄』をアニメ化してほしい。
春琴のようなSっ気のある女性(谷崎潤一郎は本当には本人がSなので、Mの振りをして女性にSを演じさせて快感を感じる変態だが)、つまりは宮崎アニメにおいてはヒロインにはなり得ないタイプをヒロインとして描いてほしい。
きっと美しい映画になると想うのだが、どうだろうか?


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