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川端康成の虹いくたび

私は以前、谷崎潤一郎が好きだった。

それを川端康成に鞍替えしたのは、『虹いくたび』を読んでからだった。
谷崎潤一郎は、カッチリとした堅牢の構成の、非常に明晰な文章を書く。
そこに綺羅星の如く様々な言葉を散りばめて、美しい文章にしている。
が、クドいのである。三島由紀夫程くどくないが、結構重たい文章である。

下記は『細雪』の文章の引用であるが、今作がつらつら系とは言え、一文が長い。

幸子は万事上方式に気が長い方なので、仮にも女の一生の大事をそう事務的に運ぼうと云うのは乱暴な思いがしたけれども、井谷に臀を叩かれた形になって、行動の遅い彼女にしては珍しく、明くる日上本町へ出かけて行って姉にあらましの話をし、返事を急かされている事情などを打ち明けて云ってみたが、姉は又幸子に輪をかけた気の長さなので、そう云うことにはひとしお慎重で、悪くない話とは思うけれども一住夫にも相談してみて、よければ興信所に頼んで調べて貰い、その上でその人の郷里へも人を遣って、などと、なかなか暇が懸りそうなことを云うのであった。

反対に、『虹いくたび』は、

麻子は父の机の上をちょっとながめて、部屋を出た。人のいないさびしさだが、なんとなく安心した。
茶の間にもどると、女中が食事の後をかたづけていた。姉一人の夕飯だったらしい。

的な簡素な文章が続く。

『虹いくたび』は川端の長編小説で、三姉妹が主役の作品である。よく、川端の『細雪』と書かれるが、実際には全然違う。この三姉妹は腹違いの姉妹で、全員が異なる母を持つ。
今作で目を引くのが三姉妹のうちの長女である百子であり、彼女は戦禍で失った恋人の代わりに、少年を愛する。少年は高校生くらいの美少年である。少年は百子をお姉さまと呼ぶ。
この関係性の倒錯、百子の魂の行方は後年の川端の書く『魔界』の要素が濃いように思う。狂気はこの部分が孕んでいるが、三姉妹の親父が一番イカれている。こいつは自分本意の糞野郎なのだが…。いい親父風に書かれていた…。作中の印象的な文章に、下記のようなものがある。

父は娘の裸体の美しさにおどろいたのだった。とっさに、宿の庭の秋田犬を思い出した。自分の娘と犬をいっしょにするのは悪いが、生きもののからだは美しい。無論、娘の美しさは秋田犬の比ではなかった。

美しい文章ではあるが、然し、気持ち悪い親父で、気持ち悪い文章である。川端は完璧に気持ち悪い親父である。

百子も大概変態で、死んだ恋人の啓太の提案で、おっぱいの型を取って椀を作ろうとするシーンが出てくる(つまり、啓太が変態である)。

で、この小説は何なんだろうと考えると、何でもないような気がする。
内容は他愛のない話で、戦後のあれこれが書かれているが、特に深淵なテーマがあるわけでもない(私が読み取れていないのかもしれない)。

この作品を読んでいて、私は川端康成の文体というものに遅まきながら驚かされた。
まずは、言葉の選び方が非常に易しい。谷崎を読んでいると、いちいち小難しい言葉を使ってくるのだが、(それも、なるべく絢爛なもの)、これが本当に簡素なものばかりである。
また、その簡素なものの一つ一つが、丁寧に置かれていて、一つ一つの言葉が、きれいである。
そして、漢字が異様に少ない。ひらがなの美しさが際立っている。
ひらがなは優しい。私は、漢字は男性的な感覚を覚えるが、ひらがなには女性的な感覚を覚える。ひらがなは円い。どこまでも広く大きいのである。

「男をもてあそんだ女なんて、この世に一人もいないわよ。私はよく知ってるわ。よく知ってるわよ。」

上記は百子が少年といちゃいちゃしている時に放つ言葉だが、百子の哀しみが表れている。
このような、はっとする言葉も出てきて、谷崎はどこまでも嘘言臭い、芝居じみた世界なのだが、それよりも深く作品の中に入っていけるようで、私は今作から川端の虜になった。

今作では、川端作品によくある、物語の途中で終わる話である。まぁ、終わっていると言えば終わっているのかもしれないが、カタルシスを求める読者には向かないだろう。

今は、谷崎潤一郎も、川端康成も、好きな小説はあるが、もう一番の小説家ではない。
彼らは基本的には「女性」を追い求めて、日本的幻想を書いてきたが、
私がそれらに、惹かれなくなってしまったからである。私は、小説という媒体にもあまり惹かれていない。文章であれば、随筆でも、エッセイでも、なんでも構わない。一つの宇宙を形成していれば…。

ただ、文章の大切なことを、いくつも教えて頂いた。

そして、今日コロナのワクチンを打ってきて、腕が痛い……。

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