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ルキーノ・ヴィスコンティの遺香

篠山紀信が亡くなり、久方ぶりに『ヴィスコンティの遺香』を引っ張り出して読む。

ルキーノ、乃至はルキノ・ビスコンティの邸宅や別荘を遺族の許可を得て撮り下ろした写真集である。私の持っているのは愛蔵版。

この本は10,000円近くするのだ。然し、大判でとても美しいカラー写真に溢れている。美意識の極地、それがここに収められているのだ。
まぁ、2007年の本なので、既に15年前の本だが。

ヴィスコンティといえば『ヴェニスに死す』(最近では『ヴェネチアに死す』になっているけど、語呂悪いよなー)、『山猫』、そして『地獄に堕ちた勇者ども』や『家族の肖像』、『ルートヴィヒ』など有名所がたくさんある。

カミュの『異邦人』を監督した際、カミュの親族からめちゃくちゃ注文があったらしく、原作通りに映画化を徹底させられたため、面白みのない作品になって失敗作になったそうだ(私は『異邦人』は未見で、なんとも言えないが)。

未亡人のフランシーヌ・カミュは、①時代に合わせた手直しは一切認めない、②原作のセリフから一字一句変えてはいけない、という無理難題(宮崎駿ならば完全にお手上げだ)を申し渡してきて、ヴォスコンティは、「いや、変えるつもりはないんですけどね、でもね、映像にすると色々変更しないとたちいかないシーンが出てくるんですわ……。」と伝えたが、聞き入れてもらえなかったそうだ。
また、使いたかったアラン・ドロンがスケジュールの都合で降りてマルチェロ・マストロヤンニになったりと、他に色々不都合があり、能動的に仕事をこなす座組ではなくなり、辛い辛い仕事だったようだ。それはこの本に詳しい。

結句、映画は原作があろうがまた別の軸の藝術なので、それは拵える者のイマジネーションが正しい(それが裏目に出る場合があるのも藝術の怖いところだ)。然し、映画というのは小説とは異なり(小説でも様々な人は絡むが)、尋常ではない人数が絡む台風のようなものであり、上手くいかないときがあるものである。

さて、ヴィスコンティは貴族であり、この本にはヴィスコンティ一族の年代記と家系図まで収められている。貴族だけあって、美意識は徹底に徹底されており、画面は全て本物で作り込まれている。

ヴィスコンティは幼い頃から愛読し、渇望していた作品がある。それはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』、そしてトーマス・マンの『魔の山』である。

どちらもクソ長い小説であり、私は前者は無論通して読んだことはない。然し、ヴィスコンティは少年期から愛読者であり、プルーストっていう人は凄いなぁ、と思いながら(この頃のプルーストは今ほどの名声はなかった)、また、おっさんになっても読み続けて、うーん、この人の言ってること、今ならよりわかるぜ、と更に没頭していた。

それからトーマス・マン。トーマス・マンの原作では『ヴェニスに死す』を映画化している。

映画の『ヴェニスに死す』も大変な傑作であるが、企画プランを観たイタリアのプロデューサーは一人を除いて「あまりにも危険な企画」であるとして、また残りの一人も、「ああ、この映画は撮るのであれば、ナボコフの『ロリータ』のように、美少年を14歳の美少女に変えるのであれば構わないよ。」という作品の根幹を理解していない、そんな体たらくだった。まぁ、時代は1960年後半から1970年代前半のことである。当然といえば当然の反応だった。然し、なんとか理解のあるプロデューサーを得て、彼は『ヴェニスに死す』をものしたわけだ。

ヴィスコンティはトーマス・マンと初めて会う時、めちゃくちゃに緊張して、ただ彼の映画化プランを話して、それに対してマンが、私も同感だね、的なことを言ったら死ぬほど喜んだようだ。ヴィスコンティ自体が神様のようなものだが、ノーベル文学賞作家はその上をいくのである(まぁ大分年上なんで……)。

トーマス・マンの『魔の山』とえいば、その要素は宮崎駿の『風立ちぬ』にも登場する。

『魔の山』もまたドチャクソ長い小説で、これは私もなんとか読んだが、外界と隔絶されたサナトリウムで語られる時の止まったかのような世界は、確かにヴィスコンティの長い長い映画にはぴったりかもしれない。

「ココハ魔ノ山デース」的なおっさんカストルプ。『魔の山』の主人公の名前もカストルプである。まんまである。演じるのはジブリの海外事業部長のスティーブン・アルパート。

さて、そのヴィスコンティといえば、『世界で一番美しい少年』において、ビョルン・アンドレセンに対しての仕打ち、性的搾取とも取れることを告発されている。

ヴィスコンティは同性愛者であり、恋人だったヘルムート・バーガーもまた、ビョルンには悪感情を抱いていた話がある(ちなみに下記のヘルムート・バーガー写真集は2500部限定、全てに直筆サインが入っているそうだ)。ちなみに、ヴィスコンティは枕元に母親の写真とヘルムート・バーガーの写真を飾っていた。

映画を撮る、傑作をものするためなら、何をしてもいいのだろうか。

こういう問題は難しい話にはなるが、まぁ駄目に決まっている。人間が藝術よりも尊いのは当然だからだ。

然し、芸術家は異常者が多く、文学関係であるのならば谷崎潤一郎も大概頭のおかしいことをしているし、太宰にせよ、川端にせよ、小林秀雄にせよ、今の倫理観であれば猛牛のごとくイカれている。

映画で言えば、同じイタリア人監督であるベルナルド・ベルトルッチも『ラストタンゴ・イン・パリ』において主演のマリア・シュナイダーに対して騙し討ちのような形での性交シーンを撮影し、その顛末はマリア・シュナイダーの従姉妹であるヴァネッサ・シュナイダーの本に詳しいが、読んでいて非常に辛く度し難いものがある。

ベルトリッチは天才監督で、『ラストタンゴ・イン・パリ』はもちろん、『暗殺の森』や『1900年』など素晴らしく美しいシーンが多い作品が多いが、それが誰かの犠牲に上で成り立っているのであれば複雑なものがある。

搾取、というものは昔からあって、例えば現在では最早児童ポルノとしてDVDは所持不可である『思春の森』なども同作の出演女優が後年クレームを出している。ちなみに、さっき調べてみたら、パンフレットが40,000円もした。40,000円あれば、TOHOシネマズで新作が20本も観られる……。

この主演女優のエヴァ・イヨネスコ母親と娘が揉めていて、往々にして、芸能界、特に海外ではそういう、まだ右も左も何もわからない子供に対しての虐待事件が起きている。後年、主演女優のエヴァ・イヨネスコは恨みの対象である母親との関係を映画化している。

藝術とは、一種の犯罪行為なのである。

無論、そうではないものが大半を占めている。が、後ろ暗さを抱えるものも少なくはない。
芥川龍之介が描いた『地獄変』の如くに、藝術家は藝術のために尊いものすらを破壊する宿痾を生来からかこっている。
からして、それをどうしても全うするのであれば、『地獄変』の如くに死をもってそれを完遂することもまた必要なのではないか。そうでなければ、あまりにも度し難い。






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