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エセ日本文学

表面に茶の湯が出ている方が、日本文化という意味では伝わりやすい(海外の人に)。と、三島由紀夫が言っている。
だから、川端康成は日本文学の代表なのである。
海外の持つ日本的幻想を如何に文章に落とし込み文学として成立させるかが大事、ということらしい。

茶道人口は25歳以上では140万人、日本にはいるらしい。
その中でも、表千家と裏千家、武者小路千家やその他流派などがあるが、伝統を重んじる表千家は侘び寂びが他よりもさらに深いので、華やかな裏千家(教室も裏千家が圧倒的に多いし、体験教室もほぼ裏)に人は流れている。寧ろ、裏千家が頑張って武人の嗜みから婦女子の嗜みへと広めたお陰で生き残っている。

140万人というと、日本人の90人の1人くらいが嗜んでいるわけで、ほぼ1%程の割合である。然し、これが外国人には日本という概念を掴みやすい。日本人ですらその内実を識らないのに。

三島が言うのは、例えばスペインでは闘牛やフラメンコなど、わかりやすいアイコニックなものを置くことが、海外で評価されるための必定だということだ。

日本人は、芸術の分野では海外の評価を非常に気にする。海外で評価されるという軸は、売上とは違う重要なファクターである。特に、海外コンプレックスが心底染み付いている世代には、抗えない魅力がある。映画監督においては国内でのヒットメーカーよりも価値がある。
若い世代の人には、もうそのようなくだらない価値観は減りつつあるだろうが。

それから、政治も大事である。政治、というよりも、ロビー活動、或いは、交友を深めて、自分を売るという、処世術。
川端康成は日本ペンクラブの会長を15年以上務めていた。これも重要な点だろう。ペンクラブは世界中にあり、国際大会などもある。自分の文章を外国人に売るためには、その価値を理解できる外国人がまた必要なのである。川端の場合はサイデンステッカーだとかがいる。そういう、自分の文章を自分の作品を翻訳し、売り込んでくれる仲間というのもまた、重要な存在である。
三島、川端、谷崎、今だと村上春樹とかもそうだろうか。翻訳されて、俎上に上がる。いくら天才でも、翻訳されていないと、海外では認められない。

忍者、芸者、侘び寂び、寺社仏閣、侍、というものは、外国人を籠絡するのには、未だに有効だろう。その国の風土や文化を見たいのであって、人間関係などはどこの国も大枠は変わらないからである。
そもそもが、余程外国語に精通していないと、どのように翻訳されているのか、それが、どこまで本人の文体として訳されているのかわからないだろうし、そもそも、そこは土俵ではないのである。
基本的には文体勝負は母国語のみの場合であって、それ以外は、テーマ、風土、文化、物語が重要であり、その中でも、文化が重要視されるし、それが濃厚に出ているほど、勝ち目が出てくる。

まぁ、今は時代も変わっているので、この限りではないと思うけれども、世界で戦うためには、思想は必要だと思われる。

でも、結局は自分の好きなものを書き続けるのが一番だろう。
小手先で糊塗して作り上げたものは、どの国の人の心にも届かないだろうから。




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