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しんきろうという同人誌

先日、友人のゴタンダさんに送って頂いた歌集と、ゴタンダさんが所属されている文芸グループの同人誌、『しんきろう』を賜ったので読む。

どうやら、10周年記念号とのことで、非常に豪華な造本である。
巻頭の言葉に、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を持ってきて、この同人誌に書かれた同人の言葉はそれぞれに、美しい言葉で「私はこう生きづらい」を書いている、とあった。

生きづらさ。これは人間の宿痾であり、万物創生の頃からの太古からの宿題である。然し、そんなことは普通に生きている上では知ったこっちゃない。私も兎角生きづらい。誰しもが生きづらさを抱えている。誰しもが孤独を抱えている。孤独だから、愛が美しいわけで、二律背反なわけである。

まずはホリユキコさんの、『オアシスの落書き』を読んでみる。これは小品で、女子中学生の心情を一人称で描いている。内容としては、美術の授業中に机の上に発見した『oasis』という曲の歌詞を書いた人が誰か、ということを考える彼女の心情、それが誰か察しがついた時の感情、そして、その感情がシーソーのように揺れ動く、そのような感情を書いた話である。
思春の頃は、学校という園しか識らない。そして、そこにはカーストがあり、憧れがあり、侮蔑があり、そして共感と孤独がある。それを掬い取ったかのような作品である。
私は、バーナード・マラマッドの『レンブラントの帽子』を思い出す。大学の教授が同僚に言った一言で諍いになり、なぜ彼が怒っているのかを延々と考えて感情が揺れ動いていく、感情を描いた話である。

結句、人間は感情で動いているし、社会も感情で動いている。いつだって感情が全てを決めるのだ。この感情の原点、いや、それを学んでいく場所で起こるこの感情の動きを書いたこの作品は、ある種小説の原点である。

そして、素潜り旬の『諦めるな、クソ鴉よ。俺たちの登場に慌てふためく強盗集団に愛の裁きを』を、という異様に長いタイトルの詩を読む。「俺の前立腺はニトロだ!」、この一文だけで元は取れたようなものだ。
素潜り旬の詩には映画が頻繁に顔を出す。今作でも、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』、『野獣死すべし』、『ウォーターボーイズ』(ドラマ版か?)、『ワイルド・スピード・メガマックス』、ルチオ・フルチなど、様々な固有名詞が登場するわけだが、これは詩的タランティーノだろうか。
「血と便で真っ黒になった人差し指を舐める」、「死が近いのか、時間が向かってくる感じがする」、など、気の利いたセンテンスが巧みに散りばめられている。
詩は感覚だ。だからこれも感覚だろうか。クソ鴉、大鴉。エドガー・アラン・ポオ、日夏耿之介。
マッドなラストポエジーボーイである素潜り旬のマッド詩である。狂詩かな。

それから、ゴタンダさんの『里帰り』を読む。やはり文章が巧みであり、読みやすい。里帰りに海の近くの田舎町に戻ってきた青年の話であるが、お盆という季節、夏の海、そして、文学や芸術への理解のない街での孤独、という、日本的郷愁を巧みに綴り、彼が会社での生きづらさを抱えていることが仄めかされる。最後にこれはジュブナイルものだよね、と締めくくる。青年だけど。近しい肌感覚としては『学校の怪談2』における主人公一派の中の実はメインキャラの祖父の……的な話で、ああいう郷愁がある。
作中、野生の無花果の木が甘ったるいにおいを放つ夏空の下、というセンテンスを読み、私は気づいた。これはおそらく短歌だろうな、と31字だし。
短歌を嗜むゴタンダさんらしい演出である(違うかもしれない)。然し、川端康成も『雪国』の作中に、唐突に、「ラッセルを三台備えて雪を待つ」という俳句をしれっと本文に入れてきたので、それを思い出した次第。

朱に交われば赤くなる、という言葉があるが、この同人誌の頗る文章が巧い方が集っている。文才のある人は文才のある人同士で集うものなのだろう。

今年は辰年、しんの年だ。美しい空中庭園は幻ではあるけれども、こうして本になると、それを描こうとする人の気概を感じられる。
その他にもまだ読めていない作品があるので、残りも読んでいくつもり。

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