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ふたなりひらについて

私は両性具有を創作のテーマとして掲げている。

私が幾つか持つ内のテーマの一つであって、両性具有に興味が多分にある。

それを発露して書いたのが『ふたのなりひら』という小説で、これは『ふたなり』と在原業平からきている。
もともと、ふたなりひらという言葉があり、それをタイトルに拝借している。お暇があったら読んでいただきたい。

在原業平といえば、ウルトラにイケメンで名高く、彼のように美しい青年と歌舞伎役者の美貌をかけ合わせて、ふたなりひらという言葉になっている。
ふたなりとは、エロジャンルでもよく見られるが、半月はにわりと呼ばれる、半陰陽の存在、どちらの性も含有した両性具有である。

自分で作品を書いたとき、そこにモチーフに蝶々などの昆虫に見られる雌雄モザイクを使った。雌雄モザイクとは、先天性の両性混合の姿であり、雄と雌とが左右でくっきりと分かれている。
これを見た時に、まさに半月はにわりであり、月を連想した。

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そこからの連想で、ガウディの月のスケッチも思い出した。これもまた、月が両性具有のテーマになる所以である。

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人間は、生来両性具有である。つまりは、幼い少年少女の頃に、両性具有としての感覚を誰しもが持つ。然し、大人に成るにつれて、男と女の隔てが如実に顕れる。そのため、男が女を求め、女が男を求め、そしてセックスの果てに子供が生まれ、その子供が再び両性具有としてわずかの期間を生きていく。その繰り返しである。これは、月の満ち欠けにも非常に似ている。

エクスタシーに達した際の、日本では「いく」外国などでは「COME(くる)」だが、このいくにせよくるにせよ、裏表に同義であり、それは、結合の果てに離れていた性に再び連結することへの、天上への感覚ではなかろうか。
男性の感じる射精後の恐ろしい喪失感は、再び引き剥がされたことへの恐れではないだろうか。自分を持っていかれた感覚……。

文学作品にも、様々な両性具有者が登場し、幻想小説にはわりかし登場する。谷崎潤一郎も『魔術師』という作品で両性具有者を登場させているし、平野啓一郎の『日蝕』もそうである。また、津原泰水の『ペニス』や『妖都』などもある。
アウトサイダー・アートの天才ヘンリー・ダーガーは両性具有の少女たちヴィヴィアン・ガールズの王国を描き続けて死んでいったが、両性具有には何か、藝術家を魅了する力があるのかもしれない。

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また、舞台芸術においても、歌舞伎役者の女形や、宝塚歌劇団の男役があるように、それぞれにおいて、異性が異性を表現する時に、美しさの本質が発露される。そして、それはある種の目眩ましでもある。つまりは、女形を美しいと思う男性の心、男役が凛々しいと思う女性の心、いずれにせよ、同性に向けての感情である。これもまた、自身の両性具有の襞に触れられている。

『リボンの騎士』におけるサファイアが女の子の姿になったところで、それはただ可愛らしいだけで、騎士の頃の危うい魅力とは比べようもない。或いは、『ベルサイユのばら』におけるオスカルも、男装の麗人ゆえの美しさがあり、本人の本心とは関係なく恐縮ではあるが、後半のアンドレ!ああ、アンドレ!的になった恋に落ちたオスカルは、あの微妙な感覚で成り立つ凛々しい美が、ただの女性の愛らしさに転じてしまい、その魅力は激減する。

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美しい人を形容する時に、花が使われることが多い。牡丹のような人。薔薇のような人。椿のような人。桜のような人。百合のような人。
花は雌雄同体であり、両性具有である。美しい人は、どこか男性的な女性であり、女性的な男性である。
美しい人に花を贈るのは、その人が神聖を帯びた両性具有の美を持っている人だと称えるためではないだろうか。



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