へい!ナポレオン一丁上がり!-完成しない傑作よりも、やっぱり完成させた駄作が何倍もいいわな。
もうすぐ、リドリー・スコット監督の新作である『ナポレオン』が公開する。
12月1日なので、もうあと3週間くらいだが、とても楽しみだ。
私はリドリー・スコット監督の映画は無論大好きで、もちろん、『ブレードランナー』は特別枠として、『グラディエーター』、『ブラックホーク・ダウン』、『キングダム・オブ・ヘブン』あたりが好きで、『プロメテウス』も結構好きで、まぁ、基本全部好きで、最近の『最後の決闘裁判』も良かったが、ただ、まだ『GUCCI』は観られていない。『ゲティ家の身代金』とか『悪の法則』や『エクソダス』など、あまり好きでもない作品もあるが、それも絵はすごい凝っていてなんだかんだ作りは巧い。
とくに、『ロビン・フッド』とかは当時、『キングダム・オブ・ヘブン』とかあのくらいの史劇を期待していたら可愛いファンタジーでショックだった。まぁ、今ならありかなと思える。
なぜ、このクオリティで、このペースで、延々作品を撮り続けることができるのか、恐ろしいほどだが、然し、『グラディエーター2』なども公開されるし、とにかく、この、異常なほどの創作欲。
然し、『ナポレオン』である。ナポレオン・ボナパルトである。この英雄を映画化したい男として、まぁ、最高級の天才であるスタンリー・キューブリックが資料をシコシコ集めて準備に余念がなかったわけだが、結局は色々なことで映画化は果たされず、然し、それを思うときに、同じ題材でも完成するとき、しないとき、というものがあって、それは資金面や、それぞれのスケジュール、社会情勢、会社の状況、など、様々だとは思うが、やはり執念、というか、意気込み、というかが強すぎると、それは座礁してしまうものではないかと思えてくる。
お流れになってしまった映画、というのはたくさんあって、まぁ、そういう本も発売されているが、そういう幻の企画というものは幻想を掻き立てられる。
昔、といってもまぁ2005年くらいに公開されたオリバー・ストーンの『アレキサンダー』ではコリン・ファレルがアレキサンダー大王を演じていて、ジャレッド・レトとイチャイチャしていたが、2000年代初頭にはバズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演での『アレキサンダー』も企画されて、それは流れた。
どう考えても後者の方が良さそうではある。なんといっても『ロミオアンドジュリエット』、『華麗なるギャツビー』のバズ・ラーマン&ディカプリオコンビであるから。然し、色々な事情があるだろう。ネタ被り、というか、ハリウッドではそういう感じで『アルマゲドン』と『ディープ・インパクト』的な、題材が同じものが同時多発的に企画されて生まれるが、前述の『アレキサンダー』もその数年前からの空前のファンタジーブームからくる歴史大作映画の乱発など(CGやSFXの発展による)で、オリバー版は色々な条件を満たして制作にGOが出たのだろう。
リドリー・スコットは韋駄天だ。とにかく仕事が早く、企画を何本も回せる。それでいてビジュアリストだ。『ブレードランナー』撮影時に、ブラッドベリビルディングを、他の映画でも使われていますという意見を無視して、「私ならもっと上手く出来る」と豪語して見事魔法をかけたわけだから、完成絵図のようなものが頭には仔細に描きこまれているのかもしれない。元々40くらいまでコマーシャルを死ぬほど撮っていたので、制作物のレイアウトは頭の中に組み込まれているわけだ。
映画の監督にはいくつかの系統がいて、然し、基本的にはスタッフを数名から数百名と指揮するわけだから、それはもう軍隊の将軍なみの統率力に、芸術家の独創性、さらにはメンタル面、肉体面でも相当なタフさを要求される。
それが映画の都ならば尚更で、まぁ、リドリー・スコットくらいならば、誰もが言うことを聞くと思うが、然し、そんな天才であってもやはり40代〜50代くらいの作品がエネルギッシュで素晴らしい。
けれども、キューブリックくらい今度は凝り始めると、完成するものも完成しなくなるし、どこかで妥協が必要だろう。思うにリドリー・スコットは粘るが、どこかで諦める、そして次へ進む、のテンポが非常に優れているのだろう。
スティーブン・スピルバーグなども早撮りで、日本だと北野武とかもガンガン撮影を進めていくという。その極みがクリント・イーストウッドであり、カットで粘ることなどしない。そこに意味を見出していないからだ。
それは小説にも言えるかもしれない。作劇に自分の世界観を持っていたり、完成の絵が頭に描ける人は、小説家に向いているかもしれない。この一文に命をーってなもんで、延々と推敲を続けると、そこで停滞が始まる。そこに重きを置く芸術家なら問題はないが、やはりうーんうーん唸って数年に1作、よりも、半年に1作、ガンガン打ち続ける方が、ヒットが出る確率も高い。
よく言う、完成しない傑作よりも完成した駄作(駄作ではだめか)である。書き終える、というのが一番大変なことは、小説を書き終えた経験のある人間ならば誰でもが知っている。巧拙はその先にあるのである。
そもそも、その一行にどれだけの人が気付くか、である。その奇跡の一行の素晴らしさに気付くのは、精々が1000人とか2000人に一人の賢しい人だけである。私はその作劇の方をこそ贔屓したいが、然し、ガンガン行こうぜ、の方が世のため人のためにもなっている、ような気もする。
筆の速さは一つの武器である。その中でさらに芸術性があれば最早鬼にカネボウ、いや、鬼に金棒である。
三池崇史は自著において、断ると仕事が来なくなるかもしれない、として、とにかく仕事はすべて受ける、と大量の作品を撮ってきたが、その中で作風は磨かれて、傑作が生まれ落ちる時もあった。
作りまくること、書きまくること、その行為自体が小説家としての推敲であり、その血肉は少なくともマイナスになることはほとんどないだろう。
小説家は、それで食べていく人間はプロであり、そうではないアマチュアでも、書いた時点で小説家になる。完成まで持っていけるかどうか、それが素養があるかどうかの重要な分岐点である。
けれども、完成しない傑作でもそこに幻想の喜びを与えるのであれば、それはやはりその作家が優れた書き手ということなのだろう。
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