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虐待文学『にんじん』 を食べて強くなるということ 

虐待文学、という類の小説群が存在する。

或いは、絵画、漫画、映画、アニメーション、汎ゆる文化に、虐待を主とした作品が存在する。

少し前に、『親ガチャ』という言葉が流行していたが、まぁ、人間は不公平に産まれてくるため、最初の環境の時点で幸運な人、不運な人というのはいる。
幸運な人の言い分は、「その人には、その人なりの苦労がある」、というものがあり、幸不幸は主観だといえばそれまでだが、然し、幼い頃に虐待を受けている、乃至は毒親に支配されている人の辛さは、幸運な人の生き辛さなど遥かに凌駕する労苦だろうし、そのような人を前に、「その人にはその人なりの苦労がある」、という言葉は、口が裂けても言えない。
最近は、私は3巻までしか読んでいないので、続きをいつ読もうか思案している『血の轍』なども、その系譜に入るのであろうか?

『にんじん』はフランス文学者のジュール・ルナールの小説で、というか、ショートショート的かつダイアリー的に、にんじん=ルナールの幼少時代からの家族の思い出を客観的に綴る物語である。

主人公はにんじんと呼ばれていて、5人家族とそれに67歳の老齢の家政婦(この家政婦は後半、母親にハメられて馘首にされる)や庭師やわんちゃんと暮らしている少年で、赤毛にそばかすだらけなので、にんじんと呼ばれている。
家はそれなりに裕福のようだ。


とてもかわいい挿絵がいっぱいで、まるで『タンタンの冒険』みたいだね。
でも、中身は暗黒なんだね。

兄のフェリックスと、姉のエルエスティーヌいて、彼らは、それぞれにんじんと楽しく接することもあるが、基本的にはバカにしている。自分よりも下の立場だと思っている。
お母さんはにんじんに対して、明らかに上の二人とは異なる態度を示してみせて、彼の人格の尊厳を損なうような言動を周囲に聞こえるように言ったり、時には体罰めいたこともする。家族の夕餉のテーブルは冷え込んでいて、お父さんは絶対的な家長として君臨しているようで、家族は芯の部分では繋がってはいない。

物語は数ページごとの話が何十章にも綴られていて、そこでは、日常で起きる様々なこと、それは基本的には、にんじんという少年の性質、彼が受けている不当な扱い、にんじん以外の人々の出来事(然し、それは全てにんじんという人間の性質に関わっている)が描かれる。

『にんじん』は前半は延々と、にんじんが、家族から軽い存在として扱われている描写が続く。
そうして、読み進めていくうちに、徐々に破綻した家族像が浮かんでくる。
それは過剰に文章で説明されるわけではなく、家族の会話、行動で示される。極めて小説的である。

兄のフェリックスはにんじんを半人前と見なしていて、ひどい扱いを受けても文句も言わない弟を駄目な奴だと見做している。
姉のエルエスティーヌは、兄や母、父の態度に追随する形で、積極的ではないが、無関心に近い接し方をしている。彼女は、積極的ににんじんに関わろうとしないが、それが、無言の肯定となっている。
父はにんじんを愛しているだろうが、仕事で家にいないことが多い上に、あまりにも彼の感情に無頓着である。

物語は、こういった家族の行いに対して、にんじんのある種達観した態度から、本心では抱いている怒りの感情への気付き、そうしてその感情の吐露へと繋がり、最終的にはある言葉を父に告げる。それは、本当には子供としては持ちたくない思いだ。

にんじんは家族から常に不当に低評価されている。かと思えば、意外に高く評価されている点もあり、それは文中でも屡々言及されている。彼は勉強が出来るし、詩なども理解が有り、創造性がある。通知簿でも、先生からはやれば他者よりも秀でることが出来ると評価されている(まぁ、こういう人はやらないわけだが……)。
然し、それは家族の中では取るに足らないことである。こういった経験は、創作を志す人間は誰しもが覚えがあるだろう。
詩を書いたって?そんなことよりも勉強しなさい。」
詩を理解出来ない人間を家族に持つ不幸、これは全ての詩人にあまねく不幸である。
作中も、にんじんと父との往復書簡のチャプターが登場するが、最後ににんじんが送った詩の意味を、父は理解出来ずに怒りだす。
詩を送るのはこの上のない愛の形だというのに!

家族と藝術、その狭間でお前は引き裂かれるだろう、とはスティーブン・スピルバーグの最新作『フェイブルマンズ』における大伯父の言葉ではあるが、藝術家一家にでも生まれない限り(いや、例え生まれようとも)、これはついて回る問題である。そして、ルナールはスピルバーグと同様に、自分の過酷な体験を藝術へと昇華した。それには、家族、というものをときには生贄に捧げる犠牲が伴う。

家族と藝術はどちらも大切だが、どちらかはどちらかを滅ぼす。

そして、難しい言葉をにんじんに使われると、父は怒り出す。つまり、生意気であるということ、自分にはわからない言葉を使うのは、父親を馬鹿にしているという劣等感。
父は、にんじんが1人の人格であることへの尊厳がない。

然し、それ以上に母はにんじんへの憎悪を隠そうともしない。彼女は、作中で他の子供達からも恐れられているため、どう考えてもやべえ奴の部類に入る方だと思われる。彼女は老家政婦を追い出して、その孫娘のアガトを雇うが、そのアガトにもすぐに意地悪の兆候を見せる(アガトに対して、にんじんが喋り続けるチャプターが面白い。雇い主の息子であるにんじんの方が、アガトよりも辛い仕事をしているのに、主人風を吹かせている)。

母の仕打ちに、にんじんはストレスを抱える。作中で、にんじんがモグラを嬲り殺しにするチャプターが登場する。
私は、動物が殺される作品は心が辛くなるのでなるべくなら観たくないし、読みたくない。『ジョン・ウィック』はキアヌ・リーブスの大人気シリーズで、4作目は先月に既にアメリカで1億ドル超えて超ヒットしている最中であるが、1作目では犬を殺されたことでキアヌがキレて敵をぶち殺しまくると聞いて、その悲しみを味わう勇気が持てずに、未だにこのシリーズは観られていないし、未来永劫観ることはない。キアヌ・リーヴスは大好きではある。

虐待を受けた子供は、自分よりも弱い魂を虐めることがあるわけで、にんじんは泣きながらモグラを殺し、ザリガニ釣りの餌にするためだけに、老猫を銃で撃つ。この猫のシーンは猫好きならば精神的にダメージが半端ないだろう……。
この老猫は、毛もなく、汚らしく、弱々しく、皆から嫌われている。それを、にんじんが殺すのである。にんじんの撃つ猟銃で、猫は目玉が一つだけになるが、なかなか死なない。それを、何度も何度も、にんじんは殺すために暴力を加える。直前、にんじんから与えられた皿のミルクをぺちゃぺちゃと、美味しそうに舐めていた姿が、胸をえぐる。

今作では、LGBTにも触れられている。今作は19世紀の話なので、今とは無論価値観が違う。中学の寮で、先生が皆が眠る部屋を回りながら、1人の美しい男子生徒のキスをしているところをにんじんは目撃する。

彼はほっぺがすぐに赤くなる少年で、美少年である。この美少年を愛した先生の行動を、にんじんは寮長に告げ口して、先生は学校を解雇される。
先生は美しい文字を書く人で、生徒たちの名前を即興のサインに仕立ててくれるのだが、この描写は本作でも美しいシーンの一つである。
彼は生徒たちからも慕われていて、最後に去る際に皆から見送られる際、にんじんの姿を見て、「これで満足か?」と尋ねる。にんじんは「ああ、満足だよ」と答える。にんじんは、なぜ先生に、自分にはキスをしてくれなかったのだと怒る。にんじんは美少年ではない。むしろ、容姿は悪く描かれている。彼は件の美少年を憎んでおり、それは、愛情を注がれないことによる嫉妬である。

先生と美少年は同性愛的な関係性であるが、にんじんは、もっと大きな意味での愛情を求めていた。愛情がないものは、愛情を育む関係性が許せない。羨望は、嫉妬から憎悪に変わり、それは破滅へと至る。
人は、誰しもが美しい少年、乃至は美少女であることを望み、それは少年期少女期に関しては主観のみだから達成されるわけだが、大きくなるに連れて幻想でしかなかったことが判明する。にんじんもまた、物語の前半は不当な仕打ちを受けながらも、パパやママに愛されているのだと思うが、然し、中盤頃から、彼の自尊心は自分を騙すことを許せなくなる。
生徒とのキスは、美しい清い愛だという先生の言葉は、にんじんにとっては不潔かつ神聖なものとして、許せないものとして映る。

今作における母とにんじんの関係性というものは、世の中にはいくつも、それ以上に辛い例もたくさんあるのだろう。然し、にんじんは、最後には自分の言ってはいけない抱えたままの秘密を父へと打ち明ける。
ここで、父もまた1人の人間であり、作中で何度も明示されていた家族間、夫婦間の不和が如何に恐るべき連鎖となって子供の心を蝕んでいったかが明かされる。

今作では、にんじんが名付け親のおじさんと数日を過ごす話が後半に登場するが、彼は人嫌いではあり、にんじんの家族からも邪険にされている。然し、誰よりもにんじんに優しい。
そして、にんじんが家族から傷つけられていることを心配する。他にも、にんじんを心配する人は登場し、それは、いつも客観視できる第三者だけである。
当事者は、辛い境遇がわからなくなる。自分がどのような状況下に置かれているのか、わからない。第三者だけが、手を差し伸べることが出来る場合も、往々にしてあるわけだが、本人には、それは認めたくないことなのだ。
自分は愛されているはずだ、その思いを肯定できるのも、否定出来るのも、本人だけなのだ。

作中では、名付け親につけられた名前は終ぞ一度も書かれないが、戯曲では、名前があるのだという。

にんじん、フランソワ。
名付け親がつけてくれた、美しいフランスの名前が。

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