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私の嫌いなもの

私が嫌いなものに、①数を誇ること、②速読、が挙げられる。

まずは①であるが、よく、今年は100本映画を観たとか、中には500本映画館で観た、とか、そういう話をする人がいるが、500本観るよりも、1本を丹念に観たほうがよっぽどいいと思われる。

500本観るのは仕事でも無い限りは、基本的には観ることが目的になっているため、本来的な鑑賞目的が霧散していく。ノルマとして観に行く映画よりも、ふと目に入った深夜のテレビで遭遇した作品のほうが心に残るものだ。

極端な話、私にとって映画は『ブレードランナー2049』という作品でもって完結してしまったため、『ブレードランナー』と合わせて二本を永久に観つづけるだけで構わない(要は、「二つで充分ですよ」というやつである)。

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そういう数を誇った上で改めて語られる評論に面白いもの、特異なものは一つもない。

500本映画を観る暇があれば、識らない街を幾つか散歩したほうが、よほど豊かだろう。

私もまた、昔はそういう人間だったから自戒の意味を込めて言うのだが、100本映画館で観ても、10本くらいしか覚えていないものである。
殆どは金の無駄であり、人生の浪費だった。

500人の人間を愛する人と、1人の人間を愛している人、どちらの言葉が信用に足るのか、ということである。無論、1人だけを愛し尽くしてもなお、1人をわかることはできない。ならば、500人なら尚更ではないだろうか。

数を誇る、というのは、虎の威を借る狐のようなものである。数そのものは力だが、それは見せなくともすごい人はすごいのである。

②の速読も嫌いである。速読も、目的それ自体が早く読むこと、早く意味を取り入れること、すなわち効率化に特化していて、何よりも嘘っぽい。本というのは、呼吸があるのである。その作者特有の文体の呼吸、間、何を書きたかったのか、何を伝えたかったのか……。
要するに、速読もまた、対象を愛し切れていないのである。速読も、数を誇るのも、要は自分が大好きなオナニスト、それも人に見せびらかすことに興奮を覚える露出狂のそれである。

世の中には、数億冊どころか、数百億、数千億という本が存在しているわけで、それを全て読むことは無論不可能であるし、読んだところで意味のあるものなどいくらあるのか。
まずは、目の前に『ハリー・ポッター』を置いてみて、考えてほしい。貴方は、どれほどまでに『ハリー・ポッター』という作品を理解しているのか。粗筋だけ識ったところで、それは知識であり、教養とは異なる。

私は、『ハリー・ポッター』を楽しみながら読んだが、然し、ある程度の内容しか覚えていないし、全ては掴みきれていない。速読ならば、おそらくはキャラクターの名前となんとなくの枠組みしか覚えられないだろう。それでは読む意味がない。読むのであれば、1冊、死ぬまで、手垢でヨレヨレになるまで、1冊の本を読み尽くすことだ。それが本を読む、ということであり、コレクションとは異なる、教養になる。物質としての本は、燃えればなくなる。手元にあろうが、それは所有しているだけに過ぎない。然し、心に染み込んだ本は、たとえ手元になくともいつでも開けるものだ。

『ハンターハンター』におけるメルエムも産まれてから数日間、本を読みまくり、様々な盤上遊戯を極めたが、然し、それも後に本物と出会ったことで、本人の心までも変えてしまった。

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それからは軍議まっしぐらである。
死ぬまで永遠に軍議をし続けて、たった1人と何度でも打つわけだが、本も同様である。
幾らたくさん読もうが、真に価値のあるものと出会い、それに耽溺している時間、それは、速読であるだとか、数を誇るであるだとか、そのような感情とは無縁の、ただ喜びだけの時間であって、それこそが、その人の人格を形作るのである。

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